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堤保有つれづれ日記

つれづれに感じること

纏向遺跡発掘

2011年01月26日 | 日記

 1月ももう末、なにやかや忙しく、ブログも書けなかった。物理的に忙しい事もあるが、精神的な余裕がなくなっているのであろう。

 そんなこともあって、NHKの「邪馬台国を掘る」という番組の録画を見て、古代史のロマンに浸ろうと思った。

 番組のテーマは、奈良県桜井市にある纏向(マキムク)遺跡の発掘調査である。

 古代史の最大の謎の一つである、邪馬台国はどこにあったのか。この問いに対する回答が得られるのかという興味である。
 九州説と畿内説が激しく論争されている。
 以前にもこのブログで、吉野ケ里遺跡について書いた。

 余談になるが、古代遺跡の宝庫である奈良県、特に桜井市周辺には行ってみたかった。
 ところが、視察に値する先進事例が見つからなかった。

 邪馬台国については、魏志倭人伝の中に2千字ほどの記述がある。
 時代的には、中国で魏、呉 
蜀が激しく覇権を争った三国志の時代である。

 吉野ケ里では魏志倭人伝の記述と一致する巨大な楼観等が発掘され、卑弥呼が支配する邪馬台国のあった場所ではないかと注目を集めたが、決定的なものはついに出なかった。

 九州説の根拠の一つは、大量の鉄器の存在である。
 朝鮮から伝来した当時の最新兵器の発掘で、動乱の世を平定した卑弥呼の邪馬台国は九州であるという説が有力視された。

 纏向遺跡の発掘で、魏志倭人伝の記述と一致するものが幾つかある。

 私が魏志倭人伝の中に出てくる「鬼道」の意味が分からなかったが、この番組で分かった。
 魏志倭人伝には「鬼道に事(つかえ)、よく衆を惑わす」とある。
 今回の纏向遺跡の発掘で、鬼道にまつわるいくつかの新たな発見があった。
 その一つが、2、765個にものぼる桃の種の発見である。
 2世紀後半に中国で興った初期の道教では桃を神聖なものとし、祭祀で用いた記録があるという。
 纏向遺跡で発見された大量の桃の種は、食用のものではなく、祭祀で使われたものと推測されるとのこと。
 従って、鬼道とは初期の道教であるとのこと。

 纏向では銅鐸の破片と思しき青銅の欠けらが発掘された。
 銅鐸は頑丈で、自然には壊れないもであり、故意に相当の力で破壊されたものと考えるのが自然である。
 弥生時代に信じられていた宗教の重要な銅鐸が人為的に破壊されたことは、新たな宗教の勃興を意味し、それが鬼道であり、所期の道教だと結論できるとのこと。

 卑弥呼が宗教改革と政治改革を行い動乱の世を沈め、統一国家を打ち立てた。

 今回の発掘で興味深いものの1つに全国各地の土器が出てきたことである。
 魏志倭人伝には「共立」という文字がある。
 この文字に当てはまると同時に統一国家の中心地であることの証明ともなる。
 九州にはこの様な事実はない。

 しかし、纏向に卑弥呼が存在した痕跡や邪馬台国としての決定的証拠は発掘されなかった。
 依然邪馬台国は秘密のヴェールの向こうにある。

 発掘現場が一瞬色めき立った時がある。
 竹籠が見つかった時である。

 古代中国では、装封という特別の包み方がある。
 それは、竹籠に入れ土で作った封土で封印する。
 もし、仮に、風土が発見されれば決定的な証拠となる。
 残念ながら封土は発見されないままである。

 古代のロマンは、依然として古代のロマンである。


 


安全安心マップ

2011年01月22日 | 日記

 錦六会の街歩きしての安全安心マップの作成、なかなか日程調整がつかず延び延びになっていたが明日の日曜日、午後に行うことした。
 午前中資源回収、午後の基礎資料づくりの街歩きと少しハードなスケジュールとなってしまった。

 調査項目等の再確認、調査票の作成等の作業を行った。
 例によって、他の市のマニュアル等をHPで再確認した。

 以前にも書いたが、市民が自主的に防災等の活動を展開しようとしても、立川市はその役割を果たしていない。
 防災マップを作ることは地域の客観的な現状を把握し、防災の必要性を肌で感じるための第一歩である。
 地域住民の防災意識の高揚を図るための一つのきかっけとなると思う。
 そのためには、マップ作製の手引書なりマニュアルが必要である。
 立川市では、自主防災組織の結成を市民に呼びかけてはいるが、その具体的な活動を誘引する手立てをとっていない。

 その結成率が50%前後と低いだけではなく、その活動の実態は本来の趣旨から遠いものではなかろうか。
 補助金の有効活用がなされているのだろうか。
 財政ひっ迫の折、金をかけなくともできることはいくらでもある。

 以前、現職の時代に「補助金の傾斜配分」を主張したことがある。
 補助金にも事務事業評価を適用し。
 補助金の一律交付ではなく、事業計画と事業報告を仔細に検討し、ランクを付けるべきである。
 これは補助金の制度全体に言えることだと思う。

 議会でも個々の補助金については議論されることがあるが、制度として補助金全体についてトータルに議論する必要があるのではなかろうか。

 


続多摩川

2011年01月20日 | 日記

 昨日に続き福生の河川事務所に行った時のこと。

 昨年同様、河川敷に降りてみた。
 目的の一つは、日本の固有種であるということが分かった、セグロセキレイをカメラに収めること。

 カメラは昨日の錦町の新年会を撮ろうと会場に持って行ったが、もともと2,3枚撮るぐらいの気持ちしかなく、気にも留めていなかったので、話し込んで居る内にすっかりカメラを持って行ったことを忘れてしまい、会場に忘れた帰ってしまった。
 年のせいなのか。
 カメラはニコンのD50で相当古い。新しいものと買い換えたいが、そこそこ使えるので、それももったいないと思っている。無くなれば、買い換えなければならない、そんな潜在意識があったせいなのかもしれない。

 河川事務所は睦橋と多摩橋の中間にある。
 多摩橋の上空を鳥が飛んでいた。

     

 鳥についての知識はあまりない。
 従って、名前も分からない。
 しばらく待っていると対岸の高木のてっぺんに停まった。
 ほどなくして鳴き声が聞こえた。まぎれもなくトンビのそれである。

     

 漢字では鳶と書くが、読み方は「トビ」なのだろうが、感じが出ない、やはりトンビである。
 なるたけ距離を近づけよとして流れの傍まで行った。

 対岸にセキレイがいた。ほとんどがハクセキレイであったが、中に1羽セグロセキレイらしきものがいた。

 キセキレイもいたがいい写真は撮れなかった。

     


多摩川:福生

2011年01月19日 | 日記

 遅くなったが、どんど焼きで使った多摩川の河川敷の車止めのカギを福生にある京浜河川事務所多摩川上流出張所の事務所に返しに行ってきた。
 河川敷の一時使用の申請に行った時、現在行っている場所は河川敷の使用条件に問題があり、来年は場所を変えてほしい旨のことを言われた。
 河川事務所が提示した場所は、枯草で覆われどんど焼きをするには不適であると言う事を、写真で示し、現在行っている場所が草刈りもされており、最適であり、ほかに適所がないことを申し上げた。
 ところが、今年度は、政府の方針で予算がカットされ、草刈りが行えないかもしれないとのこと。草が生い茂り、冬に枯草になってしまえば、当然、この場所でのどんど焼きは不可能。

 出かける時間になってしまったので、続きは明日。


ガラパゴス

2011年01月18日 | 日記

 シャープが新たに電子書籍配信サービスを立ち上げるに際し、ブランド名を「ガラパゴス」とした。
 話題を呼んでいる。
 ガラパゴスという命名に、業界では否定的な意見が多いようである。

 携帯が日本独自の進化を遂げ、世界で通用しないものとなってしまった。
 勿論この言葉の由来は、遺伝学上、大陸から隔絶した環境で特殊な進化を遂げたガラパゴス諸島になぞらえている。
 日本の高水準の市場ニーズに応えようとし、進化した結果、低水準で安定してしまった世界水準とはかけ離れたものになってしまった。
 携帯電話やデジタル放送、ICカードなどである。
 それを称して、ガラパゴス化という。
 業界において問題視されている。

 南太平洋のガラパゴス諸島には、有名なイグアナやゾウガメ等そこにしかいない生物がぞんざいする。
 これを固有種という。

 ガラパゴスこそ世界で一番固有種の多い地であると考えていた。
 ところが、日本がガラパゴスより固有種が多いことを、先日、TVの番組で知った。

 日本には131種の固有種が存在するが、ガラパゴスは110種だそうだ。同じ島国でもイギリスは1種もいないそうだ。

 その理由は様々あるだろうが、日本の自然の豊かさはこのことからも明らかである。自然を守る意義を更に痛感した。

 身近な野鳥としておなじみのセキレイの中で「セグロセキレイ」は日本の固有種だそうだ。市街地などでもよく見かけるセキレイはハクセキレイで、世界中に分布し、日本の固有種ではない。

 両者を見分けるのは大変に難しい。
 セグロセキレイは黒い顔に白い眉という感じでややハクセキレイよりやや大きい、ハクセキレイは白い顔に黒い眉という感じ。
 このブログに、どんど焼きの項に載せた写真、セグロセキレイかと思って再確認したが、多分ハクセキレイであろう。
 セグロセキレイはハクセキレイに比べて少ないが、決して見ることができない野鳥ではないそうである。


駅伝&民団

2011年01月16日 | 日記

 今日は駅伝の交通整理で8時30分から立川警察署の前の交差点に立った。
 風が強かった。道が南北に走っているため障害物がなく、一層強かった。
 とにかく寒かった。

 警察の正面玄関前の道路がコースだったので、気が付いたことだが、意外とパトカーを始め、警察に来る市民の車も含め、関係車両の出入りが頻繁である。
 幸い、出場選手も少なかったこともあって、問題も発生しなかった。

 12時から

 民団、正式には在日本大韓民国民団の新年会に出席した。
 しばらくぶりに参加した。
 顔ぶれも若干変わっていたが、多くの長老方が参加しており、懐かしい顔があった。

 民団とのお付き合いは現職の時代から相当長い。
 特に地方参政権については思い出が多い。

 これから出かけるので、「永住外国人の地方参政権」については後日書くこととする。


講演・宮田修

2011年01月14日 | 日記

 先日、立川食品衛生協会の創立60周年の記念講演を聞いた。
 講師は元NHKエグゼクティブアナウンサーの宮田修氏であった。
 エグゼクティブアナウンサーとはNHKの中での局次長級のアナウンサーを言うらしい。

 朝のニュースで見ていたので、顔は分かっていた。
 阪神淡路大震災の報道を担当したということであるが、あまり記憶にない。
 朝一番で見たときには、やや大きな地震が関西地方で起きたという程度であったが、朝早かったので、しばらくテレビから離れてしまい、しばらくたってから大変な地震であることが分かったという記憶はある。

 地震発生から1週間後に現地を視察した。

 宮田氏はその他多くのニュースの第一報を担当したということである。

 講演が終わり、賀詞交歓会を兼ねた祝賀会では同じテーブルだったので、政治のこと等つについてお話しできた。
 大変に面白かった。
 次の予定があり、もう少しお話しできればと思いつつ早々に失礼した。残念であった。
 セレモアつくばの執行役員でありロータリーのメンバーであるとのことであるので、又お会いできるのではないかと期待している。

 ICレコーダーを試してみた。
 スピーカーを通しての声なので、やはりクリアーな録音はできなかった。
 ただ聞きずらいが、内容は分かる。
 十分使えるものと判断した。
 全てを聞くのには時間がかかり実行してはいない。

 興味深いお話は多くあったが、今日はその一つについてだけ書く。

 普段我々が気にしていない1分とか10秒という短い時間に気を使うという。

 それが、千葉に転居した理由の一つだという。

 具体的には1分間に300から350字の文字を読むという。
 確かに、思い出せば、演説や挨拶の原稿を書くとき原稿用紙1枚、つまり400字で1分というのが目安である。
 勿論、間の取り方や話す速度も、その内容によって変えるので、およその目安である。
 仲人の挨拶や重要な場面での話の場合、今でも原稿を書くことはあるが、近頃では殆どメモ程度で済ませてしまう。横着になってしまったものである。

 アナウンサーの場合、決まった時間の中に納めなければ、気まずい沈黙が生まれてしまい、秒単位の緊張が生まれるのであろう。
 1分1秒について考えさせられた。
 


成人式

2011年01月10日 | 日記

 今日は成人式。
 昨日と打って変わって冷たい北風が吹いている。
 今年も昨年に引き続いて、交通安全協会の一員として、歩道の確保中心の場外整理を担当。
 とにかく寒かった。

 成人式も現職時代から見てきた。
 様々な変化がある。
 外にいて、中の様子はほとんど分からないが、ホールの様子を見に入ってみた。
 丁度、議長の挨拶が終わるところであった。殆ど満席で、拍手もしていた。問題なく進行するであろうという感じだった。

 荒れる成人式が話題になるが、一時ほどではないのだろうか。
 マスコミの報道もあまりないような気がする、もっとも、近頃忙しくて、TVのニュースもあまり見ていないので、
 気になって、ネットで見るとやはり皆無ではないようである。

 若者文化のワンパターン化は成人式にも表れている。
 荒れる成人式の主人公のいでたちは、どこでも、金髪にだらしない羽織袴姿でガニ股に歩いて、手に一升瓶を持っている。
 立川でも、ホールに入らず、外で騒いでいる連中も全く同じ姿である。
 羽織袴には一升瓶しか絵にはならないためか、昨年はワインもあったが、今年は一升瓶だけ。
 普段は、多分、日本酒は飲んでいないのだろうか、ラッパ飲みを試みるが、一回だけ、酔っぱらうまではいかない。

 今年はどういう成り行きからか、パトカーが来て、バス停付近に止めていた車を排除した。

 今年は、運転手付のレンタカーのリムジンを持ち込んだグループもあった。

 私も、市民中心の実行委員会が企画、運営するようになってから2回目の実行委員長を務めた。
 今年もその流れの上で行われたような気がする。
 イベントとしてはそれなりの成功であり、新成人の人生における思い出の1ページを飾ったのも事実であろう。
 しかし、もう一つ成人式には納得できない処を感じる。

 もともと私は行政が行う成人式の廃止論者である。
 戦後、日本の民主化を推し進める施策が様々行われた。
 成人式もその一環だと、私は思う。
 成人の一番大きな意義は参政権、つまり、投票権が20歳から与えられるという点にあると思う。
 民主主義を確立する第一の要諦が選挙である。従って、戦後、日本の民主主義を確立するために、時の政府は、新たに選挙権を獲得した新成人を祝い、有権者としての自覚を促す意味での式典を行政が主催することを推進したのではないかと考える。
 従って、議論はあるが、既に民主主義は日本に定着した、それを推し進めるために企画された成人式はその使命をずっと昔に終えている。
 参政権が18歳になったら成人式はどうなるのであろうか。
 

 成人式に親が来る、ヤンキーみたいな格好の新成人も結構指示に従う。
 むしろ親たちの方が始末に悪い。歩行者の邪魔になるようなところでカメラを構える、敷地の中には入らない。
 女性の振袖、男性の羽織袴、親の付き添い、何か七五三を連想させる。
 七五三にはそれなりの意味がある。
 三歳は三つ子の魂百までも、と言われるように己の人格形成の始まる年である、五歳の意味は分からないが、七歳は小学校入学に象徴されるように勉学のスタートである。
 人生における20歳の意味はなんだあろうか。
 祝辞で自己責任をよく言う。
 かような祝辞は無責任で、場当たり的なものである。小学生は小学生なりに、中学生は中学生なりに責任がある。その責任は当事者がとらなければならない。その責任をとれないところに様々な社会問題が発生している。

 20歳の意味を問い直さなければならない。
 人生はグラデーションのように変化する、20歳という区切りがあまり意味がない。還暦や古希の様な感じで人生のそれなりの区切りでのお祝いならそれはそれでよいかもしれない。
 しかし、それは私的なお祝いで、公がやるものではない。
 七五三の感覚で、親離れせずにお祝いするのか、真の自立を願い覚悟のお祝いとするかはそれぞれ自由であるが。


多摩川でどんど焼き

2011年01月09日 | 日記

 今年も、錦町のどんど焼き。
 無風、
晴天、温暖、これがどんど焼き日和。この3条件を今日はすべて満たしていた。
 正月飾りも予想以上の集まり。
 毎年やっているが、かっこう良く燃すのは難しい。最初、煙が多いのは櫓に乗せる正月飾りのバランスの悪さ、不完全燃焼させてしまった。

     

 年が明けての、初めての地域行事。錦町はここから出発。
 子供からお年寄りまで家族連れで集まる。特に、子供たちが伝承行事を体験できる数少ない機会。
 三小、七小の校長、副校長も揃って参加。
 この行事、地域の様々な人の協力で大成功、錦町の底力の表れか。様々な問題も山積しているが、錦町は前途洋々。

     

 昨日、準備している時に感じたことだが、多摩川の自然も変わりつつある。
 以前、何年前になるのか、団子をさす篠竹がなくなり、河原に生えている「荻」をとってきて代用した。
 荻の茎は固くて光沢があり丁度長さもよく、篠竹の代わりとなった。
 ところが今では、どんど焼きをやる周りには全く生えていない。

 多摩川の植物相は、私が子どもの頃と比べると極めて貧弱なものとなってしまった。

 埋め戻した後に早速ハクセキレイが来て、餌をついばんでいた。

     
 


新年会・・・古き良き人

2011年01月08日 | 日記

 どんど焼きの準備を多摩川の河川敷で行った。
 錦町恒例の行事であり、伝承行事である。
 明日が本番無風を祈る。詳しくは明日。

     

 夜は、立川市体育協会の賀詞交歓会。

 今年、立川警察署の武道始式に続いて2回目。
 これからも新年会は続く。

 今年の予測と抱負が語られる。

 立川警察署の武道始式には、歴代の署長も参加される。
 立川駅周辺の環境改善パトロールを始めた時の鈴木元署長も見えていた。
 昨年はお目にかかれなかった、お話によると、同種の新年会や武道始式が重なり、多忙であるとのこと。
 転勤が多い職種なので当然であると思う。

 現在の立川駅南口の変化と重ね合わせ、感無量。
 年数を経るにしたがって当初のことが忘れ去られてしまう。
 中国の古いことわざに、おいしい井戸水を飲むときには、その井戸を掘った人の恩を忘れてはならないという意味の言葉があるが、共に苦労した人との邂逅は懐かしさひとしおである。
 南口のことについては、稿を改めて、書いてみたい。

 ともあれ、新年会、現職時代に共に現状を嘆き、勉強したり、情報を交換したり、時には激論を交わしながら一つのことを成就した、同志ともいえる人とお会いできることはうれしい。

 一つのことをやり遂げるには、様々な人、時には意見が真っ向から対立する人の存在も欠くことのできないもであったということを、お会いする中で実感する。