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てるおですけど、何か?

過ぎし日々が物語る『未来』と
幼い頃描いてた『未来』を
重ねてみてるんだ

答えがあるんだ…きっと。

原爆の日に 振り返り 伝えゆく

2012年08月06日 | プライベート
歴史を知れと 若者たちに

てるおですけど、何か?

私も若者ですが。

「描写が過激」とかで真実を伝えないのは、
違うと思っていまして、

目を覆いたくなるような
写真や、表現だったとしても、
事実は事実として、
伝えるべきだと思う…。

見せるべきだし、聞かせるべきじゃないかなと。


綺麗事を言っているから、
痛みのわからない人が増えていく気がするのよね。



という訳で、
本日は、
広島「原爆の日」
被爆から67年。


以下は、Wikipediaより抜粋…

第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)
8月6日午前8時15分17秒
アメリカ軍が日本の広島市に対して
世界最初の核兵器「リトルボーイ」を投下した。


約43秒後、相生橋よりやや東南の島病院付近
高度約600メートルの上空で核分裂爆発を起こした。


この一発の兵器により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち
9万~16万6千人が
被爆から2~4カ月以内に死亡したとされる。

早期に決着させるために原子爆弾が使用されたとするの
アメリカ政府公式の説明であるが、定かではない。
何故なら、
広島にはウラン型、長崎へはプルトニウム型と
それぞれ違うタイプの原子爆弾が使用された事から
放射線障害の人体実験を行うためであったという説もある。




ウィンストン・チャーチル英国首相がアメリカに働きかけ、
ルーズベルト米国大統領は原子爆弾の開発を決断。

ルーズベルトが急死。トルーマンが政権を引き継ぎ、
原子爆弾への風向きが急変。

科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の大統領への請願書を提出するも、
原爆投下前に大統領に届けられることはなかった。

1945年7月25日、トルーマン大統領が原子爆弾投下の指令を承認。



トルーマン自身は生涯、原爆投下を正当化し、
アメリカでは未だに「戦争を早期終結に導き兵士の命を救った大統領」
という評価が定着している。
トルーマンは原爆投下について1958年のCBSのインタビューで
「まったく心が痛まなかった」と語っている。
公式的な場でも原爆投下を正当化し続けていた。



かたくなに正当化するその下地に

1.南京大虐殺
2.パールハーバーの奇襲
3.バターン死の行進

があったと唱える説もあるが…

トルーマンは何故原爆投下を決断したか?



ふむふむ。


当時を知らない世代だが、
忘れちゃいけないんじゃないかな~って。

今年は、トルーマンのお孫さんが、式典に参加したね。

時代を経て、つながってゆく…。

過去の経験から、相手を非難するのではなく、
何を学んでいくのか…

非常に難しいことだが、

学んで、後世に伝えていく事が
本当に大切なんだなと。


「平和」であれ

と黙祷。


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