インドラネット

パソコンが壊れる度に全てが消えるデジタルデータ。このブログをクラウド代わりに活用させてもらいます。

2019-06-17 22:58:57 | 日記

今日は、ちょっと一息。

「気絶するほど恐ろしい! 北欧の『なまはげ』」https://t.co/wYJ9uo0tci

これ、北欧の民俗行事の「クランプス」っていう化け物。

古いネット資料を整理していたら、発見。

とても面白いので皆さんにもご紹介したい、と思います。

 

何でも、「悪い子はいねーがー」

と言いながら町をうろつくらしい。

秋田の「なまはげ」と同じではないか。

しかもその姿は「赤鬼」そのもの。

何なんでしょうね。

この共通性。

もしかしたら昔、地球上には「鬼」の姿をした人類がいたのでしょうか。

 

そういえば、

沖縄の始祖伝説に出てくる

「アマミキョ」

テレビでその子孫の家が紹介されていて(半年くらい前だったか、、)

『今は残っていないが、自分たちのご先祖の遺骨には角が生えていた』

と代々伝承されているそうな。

 

 

ミクロネシア、ポリネシアあたりに突然現れて、

消えた、とも今のポリネシア人だとも言われている

「ラピュタ人」

美しい土器が有名です。

手足が長く、頭が大きく、身長も高かったそうです。

このほか足の脛の骨が今の人類とは構造が違い

さらに頭蓋骨の構造も違っていて、

頭の前後にかけて中央部の骨が高く盛り上がっていたようです。

この人たちはホモサピエンスと混血して

姿を消しました。

 

 

「ネアンデルタール人」は、

二万年前まではヨーロッパに純血種が居ましたが、

今では姿を消しました。

しかし、(アフリカのごく一部の種族を除いた)世界中の人類に、

このネアンデルタール人の血が混ざっている、

と言われています。

色が白く、金髪で、頭が大きく、

集団で群れる事を嫌ったと推測されています。

してみると、真っ黒黒助の私は、ほとんどこの血を受け継いでいないようです。

 

 

他に、「コロポックル」という人種が日本には居たことがわかっています。

彼らは大変背が低く、狩猟民族で、穴倉に暮らしていたと言います。

神武天皇のころの奈良には、まだいたようです。

この人たちも、我々現世人と混血していったのでしょう。

 

私たちは人類の歴史を

猿から人へ進化したと単純に考えがちですが、

何も世界のある一地域だけで進化が始まるはずもなく、

世界中には、我々の知らないたくさんの種類の人間がいたんだろうな、

という気がします。

現生人類と交配できた種と

交配がうまく行かなかった種がいて

うまく交配ができなかった種は、絶滅してしまったということです。

 

 

すると、「鬼」だって昔はいたと考えても不思議はない・・・

 

うーん。

やっぱり、この民俗文化を持った人たちが、

西欧や日本に散らばった、と考えたほうが自然かな。

 

世界は、意外なくらいに狭いですから。


北京に「鶴の恩返し」はない

2019-06-08 22:13:07 | 日記

犠牲者数千人、負傷者3万人以上と言われる

「天安門事件から30年-日本の教訓」

 

上島嘉郎さんのメルマガに

とても重要な話が出ていました。

私がまとめなおすよりも

上島さんの美しい文体のまま、紹介したほうがよいと思います。

長いですが、その一部を転載させていただきます。

日本外交を考える上で、

この情報を読んでおくことは必須だと思います。

 

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(前略)

当時の李鵬首相は事件の約3カ月後に

犠牲者を「319人」と発表しましたが、

極めて信憑性に乏しいもので、

実際の犠牲者は数千人から1万人規模

とみられています。


30年を経た今日でも事件をめぐる

基本的な事実は開示されていません。

中国当局は、天安門事件に繋がる

「1989」や「64」という数字を

ネット検閲の対象にしてきました。


ウィキペディアの中国語版は

2015年から閲覧できなくなっていましたが、

この5月17日、全言語ページが

ウィキメディア財団に何ら説明も通告も

ないまま中国当局によって遮断されました。 https://www.afpbb.com/articles/-/3225267

さらに、グーグルやフェイスブックを

はじめとする多くの海外サイトを

閲覧できなくしています。


中国当局の姿勢は、天安門事件について


「中国の巨大な発展の成果は、

 政府が当時取った行動が

 完全に正しかったことを表している」

 (6月4日、中国外務省の  耿爽・副報道局長の記者会見発言)


というもので、全き自己正当化です。


さて、当時の日本はこうした

中国にどのように接したか。


リクルート事件で失脚した

竹下登から宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一

と3代の内閣を振り返ると、

政治が機能喪失する急坂を転げ落ちる様を

見るようでした。


宇野首相は事実上

女性スキャンダルによって在任69日で倒れ、

後を継いだ海部首相は小沢一郎自民党幹事長に

 「神輿は軽くてパーがいい」

と嘯(うそぶ)かれたと伝えられます。


天安門事件当日の首相は宇野氏でしたが、

その後、国際社会が中国に制裁を科したなかで、

それをいち早く緩めたのが海部首相です。


中国当局の人権と民主化弾圧を厳しく糾弾し、

西側諸国を中心に経済制裁による

対中包囲網が形成されたなか、

日本は真っ先に対中円借款を再開しました。


さらに平成3(1991)年8月、

海部氏は天安門事件後、

主要国の首脳として初めて訪中したのです。

 

〈海部訪中の実現を中国の外務当局者は「対日外交

の大きな勝利だ」と位置付けていたという。当時の日本

政府の思惑について、海部訪中に関わった日中関係者

は「隣国として、中国を孤立させてはいけないという思

いがあった」と説明した上で「中国を国際社会に巻き込

めば、少しずつ民主化に向かうのではないかという期待

もあった」と話した。

海部訪中の翌年には日本が中国側の要望を受け入れる

形で天皇訪中も実現。国際社会での中国の孤立解消に

日本が大きな役割を果たした形となった。〉

 (令和元年6月5日付『産経新聞』〈【矢板明夫の中国点描】

北京に「鶴の恩返し」はない〉)

産経の記事にある天皇訪中は、

平成4(1992)年10月のことです。

 

 海部内閣を引き継いだ宮澤内閣は

「日中友好のため」として

天皇、皇后両陛下の御訪中を決めました。

両陛下の御訪中には国内に

反対意見も多くあったのですが、

"親中派"が押し切った格好になりました。

 

2003年3月に引退した

中国の銭其琛元副首相が、

自身の回顧録『外交十年』で、

この天皇訪中について、

天安門事件によって西側から受けた

制裁を打破する戦略的な狙いがあった

ことを明らかにしています。

銭氏ははっきり、

「日本は中国に制裁を科した

 西側の連合戦線の中で弱い部分であり、

 おのずから中国が西側の制裁を

 打ち破る最も適切な突破口になった」

 と述べ、天皇訪中が実現すれば、

「西側各国が中国との高いレベルの

 相互訪問を中止した状況を

 打破できるのみならず、

  (中略)

 日本の民衆に日中善隣友好政策を

 もっと支持させるようになる」

と記したのです。

 

中国側からすれば、日本側の

「日中友好」なぞとは関係なしに、

天皇訪中には「西側の制裁を打ち破る突破口」

という狙いがあり、銭氏は

「この時期の天皇訪中は

 西側の対中制裁を打破する上で

 積極的な効果があり、

 その意義は明らかに中日両国関係の

 範囲を超えていた」

と、訪中実現にこぎつけた

自身の成果を誇示しています。

 

銭氏の回顧録が物語るのは

無残な日本外交の敗北で、

「友好幻想」に囚われた摩擦回避、

先行譲歩は

中国に利用されるだけだということです。

付言すれば、平成9(1997)年5月9日、

自民党行政改革推進本部の総会で

当時の武藤嘉文総務庁長官が、

平成7年にオーストラリアの

キーティング首相から聞かされた

としてこんな話を明かしています。

 

中国の李鵬首相が オーストラリアを訪問した際、

キーティング首相に

「日本などという国はあと30年もすれば

 潰れてなくなっている」

と語ったというのです。

 

天安門事件に対する国際社会の制裁を

「日中友好」のためいち早く解除し、

天皇訪中を実現して"親中外交"につとめた日本を、

中国の首脳部は感謝するどころか

こう見なしていたことを、

日本人は冷静に、はっきり記憶に とどめておくべきです。

        (後略)

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小沢一郎は数千人の訪問団をつれて北京に行った際

「私は、人民解放軍の野戦軍司令官である」

と述べた人物です。

かつて民主党政権時代の「破壊のトロイカ」三人衆の一人として

日本をボロボロにしました。

しかも、その間なぜか収入は議員歳費しかないのに

かなりな蓄財を成し遂げました。

 

鄧小平のあとを継いだ

江沢民は、反日教育を支那において強力に推し進めた張本人ですが、

彼は、父親が日本政府の協力者であったし、

本人も日本語が話せたようです。

それゆえ、一層反日的態度を強調したわけです。

シナ人らしいといえば、まさにその典型。

平気で恩をあだで返します。

たしか、日本で入院して命を助けられたこともあったはずです。

日本は、自分の命の恩人でもあったのです。

福沢諭吉がショックを受けた「シナ人」の特徴を見事に体現されました。

 

「北京に『鶴の恩返し』はない」

 

このことを日本人は幾度も幾度も肝に銘じなければいけません。

「微笑み外交」

いったい、幾度裏切られればわかるのでしょう。

まあ、自戒の意味も込めて

「北京に『鶴の恩返し』はない」

中華人を見たら、すぐに頭に浮かぶようになるまで

繰り返しましょう。


嫌煙運動は「廃仏毀釈」

2019-06-04 21:23:24 | 日記

今日は、ひとことだけ述べさせてもらいます。

昨日ですが、

職場の会で敷地内全面禁煙が7月からスタートする旨の話がありました。

職場内には喫煙者も多いのですが、

みなさん遠慮がちな方ばかりで、

声高に反対の声を上げることがありません。

でも私は、いささか頭にきましたので、

会の後、その話は本当か、と聴いたり

「許しがたい暴挙だ。いったい何の法律に基づいているのか。」

などと聞いておりましたら、

厚生労働省が提出した「受動喫煙防止法」なる法だとのこと。

罰則らしい罰則はないが、

施設管理者が労働者から訴えられたときは負けるらしい。

汚い法律です。

 

そもそも喫煙自体は違法でも何でもありません。

よって、タバコを吸ったからといって「犯罪者」になるわけではありません。

以前「なんだか過激になってしまった」でも書きましたが、

タバコと肺がん発生率は、まったく相関性がありません。

本当の原因は「別にある」にもかかわらず、

すべて「タバコが悪い」

「ふくりゅう煙」で癌になる

などと言いふらす輩がいます。

しかし、彼(彼女)らは、単に「嫌煙者」なだけです。

そこに無理やり理由付けしようとしているだけです。

そこには理屈も放ッタクレもないわけです。

 

さて、喫煙者はいずれ将来的には消え去る運命にあるようです。

まるでグリーンピースにそっくりな団体が国連にあります。

彼らは、次のように決定したそうです。

(「暮らしと法律」から引用)

 

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日本は、「たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約」という条約に締結しています(締約国は2017年7月14日現在で181か国)。この条約の第2回締約国会議では、 受動喫煙法規制に関していくつかの原則が確認されました。

その中の一つを最後にご紹介します(注4)。

 

(原則1)

WHO枠組み条約第8条が予想しているように、受動喫煙からの保護のための有効な 方策を実行するためには、特定の場所あるいは環境における喫煙とタバコ煙を完全に 除去して、100%タバコ煙のない法的環境を作り出す必要がある。

タバコ煙曝露に安全レベルはない。

また受動喫煙の毒性に閾値があるという考えは棄却さるべきである。

なぜなら、そのような観念は科学的証拠により否定されているからである。

換気、空気清浄機、喫煙区域の指定(換気系を分離していようといまいと)など、 100%タバコの煙のない法的環境を実現する以外の解決策が無効であることはこれ までに繰り返し証明されてきた。

そして、工学的解決策は受動喫煙からの保護をもたらさないという科学的な確定的証 拠が存在する。

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どうです?

この過激な発想。

理屈ハイラナイ。排除セヨ。

あの反捕鯨活動家たちと何も変わりません。

これ、国連の正式な団体です。

これにそって厚生労働省が動いているわけです。

「冗談でしょ?」

ちなみに「タバコ煙暴露」とは「ふくりゅう煙」のことのようです。

(※「タバコ煙暴露」については、JTはその危険性をほぼ否定しています)

 

いい加減、喫煙者側からも「攻撃」を開始しなければ、

嫌煙者たちはやりたい放題、

今後も理不尽な攻撃をし続けることでしょう。

 

「攻撃」という言葉を、この際敢えて使います。

それには理由があります。

というのも

他人を「攻撃」する人たちは、

相手が受けたり、我慢してくれると

大喜びで、さらなる「攻撃」を加える習性があるからです。

まるで朝鮮の方々の反応にそっくりです。

こういう性質の人たちに対しては、

強く反撃することです。

反撃されると、「まあ、まあ、まあ、そんなに怒らんでも」

と急に弱気になります。

もともと何か理論武装された根拠があるわけでもないのです。

ただ、攻撃にもってこいなだけです。

相手が反撃してこないから。

 

国内の喫煙率は30%と、少ないとはいえ

国内全体が禁煙論者でもあるまいし、

ここはひとつ、

喫煙者による「正当なる権利」を折りあるごとに主張していきましょう。

今ががんばり時なのだ。フガ、フガ。(※鼻が膨らんでいる様子を表しています)


「自分が選んだ」と自覚する

2019-05-27 16:37:19 | 日記

「自分が選んだ」と自覚する

 

「寝る」、「遊ぶ」、「仕事」、「テレビを見る」、「本を読む」、「ぼうっとする」、「散歩する」

こういったことをするとき「自分が選んだ」と自覚してますか。

 

もしかすると

「嫁に言われたから」

「先輩の命令だから」

「恩人に頼まれたから」

「知人に呼び出されたから」

なんて思ってませんか。

そんな風に思いながら行動して具合が悪くなりませんか。

 

「せっかく今日は休みだったのに。」

「どうして私の自由を奪うんだ。」

「でも言うとおりにしておかないと後がめんどくさいな。」

なんて思いながら1/365日を過ごす。

 

そんな調子じゃ365/365日、自分の自由な時間なんて来ないでしょうね。

 

よく若い人達が

「女性にもてないのは、容姿に恵まれないからだ。」とか、

「勉強ができなくなったのは、先生の教え方が悪いからだ。」とか、とか

他人のせいにするのは定番ですが、

大人になってからも、同じようなことを言う人は結構いるものです。

 

 でも本当は、

「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」

と言われるように、

「飲む」か「飲まない」かは自分で選んだものなんです。

例えば、休みの日にゴロゴロしているのは

「自分がそうしようと決めた」のであって、

誰から命令を受けたわけではありません。

 

人生は、いつも二股の選択肢が目の前にあって、

常にどっちかを選び続けて生きているわけですが、

100%すべて自分が選んだものです。

 

まさか

「いやあ、気が付いたら無意識に仕事してたよ」

なんてことはないでしょう?

仕事だって、指示を受けてやるにしろ、

「必ず成功させるぞ」とか「てきぱき仕上げて、ありがとうの一言ぐらいもらっちゃおうかな」

なんて考えながらやっているはずです。

 

どちらかを選択するときは、

実はそのほうが自分にとって都合がいいから選んでいるのです。

ニートだって、あれ、自分に都合がいいことがあるからやってるんです。

その人なりに何らかのメリットがあるということです。

でも、ニートの場合は、「自分でそれを選択した」という自覚はないかもしれません。

もし自覚してたら、もっとアクティブに生きるはずですから。

 

 「自分が決めた」 そうわかって行動すると、

とたんに気分が明るくなるから不思議です。

我々は、ともすればぼんやりと行動しがちですが、

「よし、ゴロゴロするぞ」

と思うと、そのゴロゴロもますます気持ちのよいものになります。

「どうしようかな」と一瞬迷ったときは、

「どっちが気持ちいいかな」と考えます。

決めたら

「自分が決めた」と心の中で一言つぶやくのです。

それだけで、その行動をとったことに対する後悔の念は決して起きません。

「やらされた感」と「やった感」の違いは大変なものです。

「消極的」になるか「積極的」になるかもそこで決まります。

 

失敗してもいいのです。

「だって自分で決めたことだもの」

と言って、素直に失敗も受け止めることができます。

誰かのせいにするのと比べて、とても健康的にいられます。

落ち込んだり、精神的に不安定になったりすることもなくなるでしょう。

たぶん人柄も落ち着いてきて、誰からも好かれる人になるはずです。

 

 

日々、折々たった一言

「自分が選んだ」

ぜひ、みなさんもやってみてください。

休みの日にゴロゴロするのも一層楽しくなりますよ。

 

 

あ、でもテレビだけは気をつけてくださいね。

「テレビを見る」と決めたところまではいいのですが、

いつのまにか無意識に見させられてしまうから。

 

それから

「かなりの覚悟までして、決めて選んだ」はずの「嫁さん」だけは

なぜか、「後悔しないわけにはいかない」

というあなた。

「いいや、間違いなく自分で決めたんだ」

と、毎日再確認してみると効果あるかもですよ。


丸山穂高議員への辞職勧告

2019-05-17 21:02:49 | 日記

みなさんはどう思いますか?

丸山穂高議員への辞職勧告

 

どうも私は嫌な感じがしてなりません。

丸山議員が元島民の方々へ

「戦争しないとどうしようもなくないですか」

と聞いたのは、国会議員として確かに不謹慎。

この発現が原因で、所属する日本維新の会から除名までされました。

選挙も間近に迫っていますので、党として

いささか過激に反応してしまうのは止むを得ない、とは思います。

 

でもねえ。

議員を辞めろ、はないでしょう。

日本維新の会は、国政において是々非々を通す態度はすがすがしく、

足立議員を筆頭にその自由奔放な発言がまた心地よく、

党としてそれを許す大胆さがありました。

正しいことは正しい、

とする潔さがようやく国民に浸透してきていて

これからの日本政治の「新しい風」として期待されつつありました。

 

ところが、

今回の個人的とも思われても仕方がないような松井代表の

度量狭き反応には、

多くの国民があっけにとられたのではないかなと思います。

この程度の男だったのか?と。

私としても未だに信じたくない気分です。

党を除名するのはあってもいいでしょう。

まだ若い丸山議員に反省を促す意味で。

だけども「国会議員を辞めろ」はいけません。

「言葉狩り」ならぬ「議員狩り」です。

大変危険な発想だと思います。

 

 

菅官房長官もかつて維新に鞍替えしようとしてたことがあるそうです。

安倍総理に引き止められて、官房長官を引き受けることになったと言います。

以来6年。見事な働きっぷりです。

安倍首相は運がいいと思います。

その菅さんがかつて認めた党です。

政治を真面目に考える人たちにとって期待の党なのです。

 

 

「君子は豹変す」

と言う言葉があります。

上に立つ人間は、自分の過ちに気が付いたら、すぐ改めるのに躊躇しない、

と言う意味です。

松井代表には、今からでも遅くないですから

「彼も十分に反省しただろう。私も些か感情にかられた面もあった。

党として除名処分という極めて厳しい処分をくだしたのだから、

これ以上は何も言わない」

と、公式に発言すべきです。

 

このまま、松井代表が意固地な小さい度量を見せ続けると

維新の会全体の評判が、ガタ落ちしかねません。

すでにネット上には

「こんな党だとは思わなかった。もう維新は応援しない」

「まるでリンチではないか」

「ここまでしなくても」

といった声が多数上がっています。

このままでは、維新は共産党にも似た組織としての烙印を押され

きっと国民から見放されます。

 

松井代表の

大人の対応を期待しています。


2019年は、「動乱」元年か

2019-05-12 22:39:06 | 日記

今日は、「予感」です。

ですから、2点ほど極めて簡単に書いておきます。

 

 

《 北朝鮮は、政権交代が近い 》

 

下の記事を読んで確信しました。

「北朝鮮ミサイル発射の陰で消えた幹部」

 

2013年に張成沢氏が粛清されたときとは、状況が違います。

あの時は、

金正恩委員長に対する軍の求心力を高めるため

政治局と軍幹部を大量に粛清することで、

大衆を「恐怖」させましたから

反対勢力は全滅状態でした。

 

でも、今は違います。

決定的だったのは、2月末に行われた

ハノイにおける「第2回米朝首脳会談」での大失敗。

愚かにもトップ自らが交渉の矢面に立ち

大恥をかかされたわけです。

この時点でクーデターが起きるのではないか、

とも思いましたが、

それはありませんでした。

しかし、あきらかに求心力が毀損、低下したことは事実です。

 

しかもまずいことに、

「大勢の餓死者が出た「苦難の行軍」の再来か」

と上記の記事中にもありましたように

現在、北朝鮮では飢饉が発生しています。

これは、他のメディアでも指摘されています。

それなのに、ミサイル発射など無駄なことに国家予算を浪費し、

国民は絶望するばかりです。

「この指導者の下にいては、我々が餓死するだけだ」

そういう気分が国内に蔓延するのは当然でしょう。

ただでさえ薄い国民の国家忠誠心は、

もはや無いと言っても過言ではないでしょう。

 

しかしながら、北朝鮮政府は、

身内として唯一の味方であるはずの南朝鮮に対し、

「『人道主義と民族を愚弄』北ネットメディア、韓国批判」

という愚かさをさらしています。

とはいえ、

この手の反応は朝鮮半島に独自のもののようで、

いつものことと言えばいつものことなのですが、、、

なんといってもタイミングが悪い。

自分で勝手に

孤立する要因を増やしています。

 

米国を中心とする西洋世界は、

核兵器開発をやめない北朝鮮への経済封鎖を

決してやめることはありません。

 

金正恩の求心力が失われつつある今

もはや国内の不満勢力を抑えきる力は

彼には無いのかもしれません。

もともと「兄殺し」の汚名を持っています。

「力」を失ったとき

一気に政権はひっくり返るでしょう。

 

 

《 米支覇権戦争が本格化 》

 

米国は「現在の危機に関する委員会」において

「中国共産党とは共存できない」

と先日明言しました。

この中ではっきりと、シナ共産党政権が「敵」であることを宣言しました。

私は、

米国は、習金平総書記をその地位から追い落とすまで

その攻撃の手を緩めることはない

と考えていましたが、

どうやら米国は、

「中華人民共和国」の政治体制自体を「敵」と見なしています。

 

今回の米支経済協議は決裂しましたが

米国からすれば、シナリオ通りということでしょう。

あとはシナが「米国の意志」をどこまで深刻に受け止めるか、です。

 

「ソビエト」が崩壊したときのように

米国はシナを国際的に孤立化させ、

経済的に無理難題を突きつけて追い込み、

かつ内部崩壊を企て

じわりじわりと追い込む気でしょう。

先に野心を表したのはシナの方ですが、

もはや、米国から「宣戦布告がなされた」

と理解したほうがよいと思います。

 

これは、「米国の意志」

というよりも、もっと大きな組織の意志だと考えています。

米国単独の戦争なら、誰も協力はしませんが

どの国も、この米国の独断的とも思える行動を

非難するものはいません。

このことが、米国単独の行動ではないことの証しのように思います。

 

シナは国家計画として

軍事、経済で米国を圧倒した上で、

「世界基軸通貨ドル」

の地位を奪おうとしたわけですから

世界金融経済を掌る組織からすれば

「消滅」させるべき国家ということになるのかもしれません。

 

来年1月には、台湾総統選挙もあります。

ここには「習金平の兄弟分」郭台銘が立候補しています。

現在のところ、親日派の与党・民主進歩党は、敗北必死な状況です。

ここで、誰が勝つか

台湾だけの問題ではすまない、激しい戦いが起こるでしょう。

米国の絡み方次第で

なんだかきな臭くなる可能性も捨て切れません。

 

 

備忘録として簡単にメモっておくつもりが、少し長くなってしまいました。

どこまでもまだ書いてしまいそうなので

この辺でやめておきます。

それではお休みなさい。


ウイグルの惨状

2019-05-09 11:29:59 | 日記

シナ共産党がチベットに引き続いて、ウイグルで無茶苦茶なことをしているようです。

宮崎正弘氏のメルマガに貴重な情報が出ていましたので、

転載します。

シナ共産党の本質が現れています。

日本も国内に共産党支部がありますが、

気をつけないと、こういうことになります。

なお、宮崎先生のブログは下のとおりです。

そこからメルマガを無料登録すると、貴重な情報を読むことができます。

http://miyazaki.xii.jp/

 

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中国は侵略的援助で覇権目標を世界に浸透させようとしている

ポンペオ国務長官、ヘルシンキでBRI(「一帯一路構想」)は経済的目的ではない

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 5月8日フィンランド訪問中だったポンペオ国務長官は中国のBRIについて、

「スリランカのハンバントタ港が借金のカタに取られたように、中国は経済的、商業的見地からだけでBRIを展開しているのではない。

  中国の国防上の目的は世界にその影響力を浸透させることであり、シルクロードの究極の目的である。たしかに道路も鉄道も、橋梁もつくられた。だが、金融的側面からみても、そこには透明性がないうえに説明責任を果たしていないではないか」と激しい批判だった。

 シュライバー国防次官補は、ポンペオ国務長官ヘルシンキ発言と同時期に、新彊ウィグル自治区における強制収容所問題を取り上げ、150万人のムスリムが拘束され、再教育と称する非イスラム化、「漢化洗脳」を行っていると強く非難した。 国防総省の幹部が、ウィグル問題に言及するのは珍しいことである。


  ▲「イスラム聖地の破壊はここまで進んでいた」と英紙ガーディアン


 さて、問題はそのウィグルだ。

 英紙『ガーディアン』は、衛星探査専門家と組んで、ウィグル上空からの撮影記録を精密に調査し、近年だけでも31のモスクと、二つの巨大な神殿が破壊され、2016年から2018年の間に、ムスリムを隔離し、再教育をなし、聖地に近付かないように監視態勢を強化し、また外国人のトレッキングもみとめない期間に、神聖なるモスクを破壊しつくしていたと報じた。

  中国全土にムスリムは2000万人、モスクならびに宗教施設は三万五千箇所あった。 
  典型的な聖地のひとつはタクラマカン砂漠にある「イマム・アシム神殿」で、幾つかの複合的な神殿をフェンスで囲み、八世紀頃からお墓のまわりに巡礼者があつまって祈りを捧げる聖地とされてきた。

   2011年頃の写真を見ると、無数の布が張られ、まるでチベット仏教とシャーマニズムが混在しているような風景で、イスラムが遊牧民につたわって伝統的習俗のうえに、新しい信仰儀式が重なっている印象を受ける。

  現在、墓地をのぞいて全てが破壊され、建物は撤去され、しかも巡礼者はいない。ホータン地区で最大の宗教祭礼は中止されたままとなった。モスクの破壊は2016年から2018年のあいだに行われた。

  聖地巡礼はイスラム教徒のつとめであり、比較的自由にウィグル族もサウジアラビアのメッカ巡礼をするひとが多かったし、財政的にサウジまで行けない人々は国内の聖地を巡礼してきたのだ。


 ▲モスクの多くが破壊され、埋められ、聖地が消えてしまった


 カシュガルやホータン(和田)では文革時代にも破壊されたり、倉庫に使われたモスクがあった。だが、2016年以来の中国共産党の遣り方は、完全な破壊であり、イスラム宗教施設の絶滅にある。

  中国の言い分は「施設は環境が悪く、昭明、電器系統、エアコンディションをそなえた近代的な建物に造り替えているのだ」と強弁を繰り返しているが、ムスリムはそんなことを誰も信じていない。
  カルギリク地区にも高いミナレット、豪華な入り口の門などがあって、庭園には花々が咲き乱れ、オアシスとしての水、緑豊かな木々があった。このカリギリクのモスクは完全に無くなっていた。

 英紙ガーディアンは、上空からの偵察を専門家と協力して行った結果、「多くが破壊され、埋められ、聖地が消えてしまった」と伝えた(2019年5月7日)。

 陳全国はチベットから転じて、新彊ウィグル自治区の党書記となるや、「宗教活動を厳密に規制し、イスラム文化の表現をやめさせ、辻々には検問所を設け、顔識別とAI機器を駆使して手配者の逮捕を強化し、さらに砂漠に次々と強制収容所を設営し、拷問による改宗を強要した」(『TIME』2018年8月27日号)。 

  陳は団派から習近平に靡いた結果、幹部入りした人物である。

 危険な宗教や民族的な慣習を廃止し、信信仰の迷妄からさめて科学的社会主義に社会を変える使命があると、陳全国ウィグル自治区党委員会書記は叫び続け、強圧的な漢化政策を実施してきた。

  やがて新世代はモスクの存在も知らず、いやウィグル語も満足に喋れなくなり、ウィグルとしてのアイデンティティを失う。これが中国共産党の進める政策であり、西側が民族浄化と非難する遣り方なのだ。
  

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テレビなどでは、決して紹介されない事実。

世の中には、このように「事実」のみを追い続けて、

世の中に届け続けておられる方たちがいます。

新聞やテレビは、

必ずある方向を意識して活動しているため

事実を組み合わせて、或いは事実部分を切り取って

「創作」ニュースを制作しがちです。

 

 

世の中には、

テレビや新聞からしか情報を得ていない人たちがいます。

その人たちと政治や経済問題を語ると

決まって反体制的な、ひねくれたような意見を述べます。

最初は、その人個人の考え方の癖なのかな、

と考えていました。

ところが気をつけて観察して見ると

(みな無批判・従順な性格なのかもしれませんが)

大手メディアからの情報を

鵜呑みにする癖があることがわかりました。

年齢はバラバラで、

上は90歳から下は30代まで。

特徴として、

日常的に「マスコミ」からしか情報を得ていない

と言う点があります。

これに気が付いたときは、いささかショックを受けました。

 

面白いことに、20代以下にはこの傾向がありません。

というか、テレビ、新聞を読んでいないようです。

よほど彼らのほうが健全な意見を述べるのです。

自分で考えている。

 

皆さん、マスコミを経由した情報は避けるようにしましょう。

必ず「ある意図」が入っています。

洗脳されますよ。必ず。

情報は、自分で探さなければ

そうして、信用のできる情報発信源をいくつか持つことです。

騙され、振り回され、洗脳され

いつの間にか、人生に絶対に必要な

「主体的思考」ができない人間になってしまいます。

 

秋篠宮家でしたか、子供たちが生まれた頃からテレビを見せていない

と言う記事を読んだことがあります。

また、優秀なジャーナリストや、実はテレビのタレントも自分たちはテレビを見ない

と言う人たちがたくさんいます。

その「嘘っぽさ」をよく知っているのです。

スポーツや、語学、あるいは息抜きにお笑い番組を見るのはよいでしょうが

ニュースやその解説番組、歴史検証番組、自然保護、人権もの、

それらのほとんどに「作為」が入っています。

ついでに言わせてもらえば、

他人を批判するのだけを楽しみにしている3面記事番組

そんなものはあなたの脳を腐らせるだけです。

 

「真」、「善」、「美」のみを自分に取り込むように心がけ

人生を豊かに送りたいものです。

 


身を捨つる人は

2019-05-07 22:13:53 | 日記

「自我」は3,4歳になって言葉を覚え、

彼我を意識したときから生じる。

だが、これは「魂」でも「自己そのもの」でもない。

あくまでも相対的人間関係の中で生じるもの。

では、我々、「自我」以外に何を持っているだろう。

 

 空白

 

何もないんじゃないか。

 

「めんどくさいなあ」

「何で、自分のことをほって置いてくれないんだろう」

「みんなの注目を浴びたい」

「悩んだり、苦しんだりすることこそが生きてる証だ」

「カッコよくなりたいな」

「有名作家、音楽家といった有名人になりたいな」

「うらやましい」

「誰からも必要とされていないじゃない?」

「もっと充実した日々を送りたい」

「一目置かれる存在になりたい」

「人や国を支配したい」

「お金持ちになりたい」

「美人の彼女がほしい」

「他人の不道徳が許せない」

 

そんなことを考えている自分が、「自分」だと思ってるんじゃない。

 

それって単なる肉体の欲望だ。

肉体から生み出される「自我=欲」だ。

 

決して貴方の本体「魂」ではない。

 

こんなものを自分だと思っていると

釈迦の手のひらから抜け出せない孫悟空みたいに

一生、「小世界」の内でしか生きられないで

迷い、悩み、何にもわからないまま

むなしく「死」を迎える

 

「身を捨つる人は   まことに捨つるかは

捨てぬ人こそ   捨つるなりけれ」(一遍)

 

自分の身体にこだわり続ける限り

永遠に迷いの中で生き続けることになる

 

自分の身体からの離脱 = しがらみ、こだわりからの開放

 

そうできてはじめて

「自由の身」となり

何の規制を受けることなく自在に生きられる

 

「真の自分」を縛ってがんじがらめにしているのは

実は自分だと思っているその肉体自身

「死」を迎えれば

再び電子の結合が解かれ

ばらばらに雲散霧消してしまう

便宜的に寄り集まってできただけの存在

なぜこれを「私自身」と思えるのか

これが私自身のはずがない、と何故気づかないのか

 

生きているうちに

このことに気が付いた人は

このことを皆に知らせたくて

うずうずする

 

皆にもこのワクワク感を味わって欲しいから

そして「皆」も「私そのもの」だと思うから


徳之島の地名考(その2)「カナン」と「アマミ」

2019-04-27 17:44:30 | 日記

地名考その2です。

かなりローカルでマニアックな話題なので、

ほとんど意味がわからないかも・・・

 

今日は、もう開き直って徹底的に「徳之島の地名考」です。

ほんとはやらなくちゃいけないことがあるんだけど、

まるで中間・期末テスト前の中高生状態です

おいおい、お前の頭は大丈夫かい?

自制心というものがなくなっとるではないか。

(これ心の声です。)

無視します。

たぶん、昨日敬愛するH先生が亡くなられたことで、

少し動揺しているのかもしれません。

 

 

 

 

さて

だいぶ以前からのことなのですが、

「カナミ」、「カナマ」、「カンニ」は「彼見」が語源だと考えています。

と言っても誰にもわからないでしょうから

説明しますと、

これらは徳之島町の地名で、順番に

〇「金見」(灯台が建っていて、徳之島一の絶景ポイント)、

〇「金間」(金間崎といって、西郷隆盛が徳之島に島流しとなった時

   最初に上陸した村が山(さん)村ですが、その港の入り口にあたる場所)、

〇「神之嶺」(カミノミネと呼びます。島口あるいは古名がカンニで

  「カンニンウシシギャ伝承」が残されています。四方を見渡せる絶景の地)

となります。

(下は、金見の写真です。この先に奄美大島が見えます)

いずれも、大変見晴らしのよい場所です。

音も似ており、

「彼地」や「彼方」などと同じ語源の「カナ」に「見」が付いた言葉で間違いないと思います。

この地名は、不思議なことですが、

徳之島の東側にあたる徳之島町にのみに分布しています。

奄美、沖縄地方でよく知られている

「グスク」地名も徳之島町側に多く分布しています。

 

グスクとは概ね丘状の地形にあり、

村の防御施設や見張り所、狼煙台、

又はアジと呼ばれた村主の屋敷が置かれていたと考えられています。

 

 

中世日本では、盗賊、海賊のみならず

公家、大名ですら村を襲撃したり、「人さらい」をするのは当たり前でしたから、

各村々は、共同して自衛を図らねば生き残れませんでした。

盗賊たちは、時には「略奪」「放火」「虐殺」も行いました。

このため、多くの村に専用の「城(じょう)」があり、「見張り所」があり、

武装した賊の集団に襲われそうになると、

いっせいに家財を持って、老若男女が山城へと逃げ込み、防御を固めました。

そこには作場小屋のような仮住居が作られたといいます。

中には、避難が間に合わずに切り殺されたり、さらわれる人々もいました。

生け捕りされた人々は、「身代金」の要求に使われたり、

奴隷として安価に売買されました。

そのための市場もあちらこちらで普通に開かれていたようです。

規律の行き届いた今の日本からは、想像が付きません。

 

 

奄美の島々の場合、そのような武装集団は海上から現れました。

徳之島では、主に北東の方向から海賊は襲ってきたようです。

これは、グスクや「カナミ」地名が徳之島町側に多く見られることからわかります。

 

もっとも、「グスク」については港の数とも比例しているようで、

徳之島西部は断崖が発達していて近寄れず、

南部はサンゴ礁に阻まれて、

賊たちも大挙して襲うには近寄りがたかったのでしょう。

また、亀津村には意外なほどにグスクの数が少ないわけですが、

中世の頃から、数千の人口を抱えた大きな村であった可能性が高く、

いかに賊といえども、襲うには大きすぎたのだろうと思います。

1609年に琉球征伐に出向いた際に、亀津村の隣村秋徳で戦となったわけですが、

このときの薩摩藩の記録にも亀津村は「人過分に居り」と書かれていて、

既にたいへん大きな村だったようです。

琉球時代、薩摩時代を通じて

徳之島の支配役所が置かれたのは自然なことだったと思います。

たぶん遠い昔から、亀津村は徳之島の政治、経済などの中心地であったのでしょう。

 

このように考えると、

「グスク」が、決まって村の背後の高台にあり、

その多くが立てこもりやすい地形になっている理由がわかります。

また各村に2~4箇所のグスクがあることや、

狼煙台であったと思われるグスクが見られるのも当然でしょう。

なお、このようなグスクのいくつかは、

村の一番高い場所だったり、

泉があることが多いといった条件が揃っていたことから、

後に政治が安定してきた「ノロ(女性の宗教祭祀者)」の時代には、

拝み所へと変異していった可能性が高いと見ています。

 

 

この「村の城」を本土では、「ジョウ」と呼んだようです。

南西諸島一帯では、この城を「グスク、ウスク」と呼びます。

実は、未だに定義や語源がはっきりしていません。

後代、ノロの祭祀場になったケースも見られ、

また、文字通り支配者の住む城で、山城式の戦闘的構造であったり、

物見場であったり、村人の避難所であったりと

多用な使われ方をしたことがその原因です。

それらすべてを「グスク」と称しているのです。

 

私は、「グスク」を「スク」は「シキ、キ」と同義で

「城」の古名であろうと考えています。

実際、福岡の「水城(みずき)」や大分の「臼杵(うすき)」

といった地名は全国に数多くみられます。

 

なお、厳密には

「城」と書いて「シキ」と呼ぶ場合は、石をめぐらした城を指し、

「キ」は柵をめぐらした城を言うようです。

いずれにしても、「グスク」は緊急時の防御や避難を目的としたもので、

そこに常住するものではありません。

村中が一致団結して、身の安全を図るための大事な施設ですから、

「御」の敬称をつけて、「ウスク、グスク」と呼んだのでしょう。

 

 

実を言うと、

「スク」が「村」という意味であることだけは、はっきりしています。

朝鮮の「白村江(はくすきえ)」、

人名の「村主(すぐり)」、

といった音が残っていることからも証明できます。

古代の村が柵で囲まれることが多かったことから、

「城」を指す言葉へと変化したのでしょうか。

 

しかしながら「スク」は朝鮮や日本だけではなく、

ロシア語でも「ハバロフスク」とか「ノボシビルスク」のように

「村、町」の意味で使うようですから、

中央アジア、シベリア、東アジアにかけた

かなり広い範囲で使われていたようではありますが。。

 

なお、やはり広範囲で、

「キ」は、古くから「長官」あるいは「支配域」の意味としても使われており、

これは「城」から「城主」の意味へと、転化していった形なのかもしれません。

 

 

ところで、はじめの「カナン」地名にもどって、

これに個人的な新見解を加えます。

 島口に「アマ」「クマ」という言い方があり、

「アマ」は「彼方(あちら)」、「クマ」は「此方(こちら)」を意味します。

そこで連想されるのが、

未だに解明できていない「アマミ」地名です。

 「海見」(7世紀の文献に始めて登場した時は「海見嶋」と書かれていましたが、

714年には「奄美」と表記が変わりました)とあったり、

琉球国の始祖アマミクが光臨した地なので「アマミ」と呼ぶとか、

俗に雨が多いから「雨見」とか、

いろいろいわれています。

 

もっとも、アマミク説なら

「ミ」は通常「神」を指す(例えば「ワダツミ」=「海の神」)ので、

「天神」あるいは「雨神」と表記すべきとは思いますが。

あまりにも神がかり過ぎているようです。

地名としては、後世的で今ひとつの感があります。

むしろ、他の島名と同様に、

ずばり、「遠くを見る」あるいは「遠くから見える」意味の

「彼方見(あまみ)」と考えたほうがよいのではないでしょうか。

 

島名を決めるのは誰かと言いますと、

多くの場合、実は船乗り達なのだそうです。

海から見た島の印象を名前にするわけです。

例えば、徳之島は「トク」がもともとの名前です。

この「トク」は、「徳之島の地名考(その1)」

で紹介した「嶽」の意味で、

主峰井之川岳(645m)とアメキ嶽(533m)が

比較的、平らかな島に屹立している姿が

海上からは印象深かったのであろうと思います。

 

 「アマミ島」は「奄美大島」を指す言葉です。

沖縄島に次ぐとても大きな島で、

全体に4,5百mの高い山が連なっていて、

船乗りたちの重要な目印になったうえ、

深い入り江も多く、

この島沿いを通過する間は、遭難の危険から守られましたから、

その存在感と安心感は大きなものであったでしょう。

後代になると、

船乗りたちは「奄美嶋」を「大島」と呼ぶようになり、

「奄美」は「奄美諸島」を指す言葉に変化していきました。

 

 

ここまで話を進めておいて、こんなことを言うのもどうかと思いますが、

 「奄美」の語源を「彼方(あま)見(み)」とするには、

まだ説得力に欠けるようです。

本土でも「あなた」「こなた」と古くは言ったようですから

「彼」を「ア」と呼ぶことに問題はなく、

日本古語と方言の「アマ」「クマ」は一致します。

それでも漠然とした違和感が残るのも事実。

 

不思議なことに

徳之島にだけ、この「カナミ」地名が残っているのです。

もっとも、

島名は船乗りが決めるのであって、

地元の人間ではないですから、

大島に地名としての「カナミ」がなくても困るわけではないのですが。。

 

 

 

現時点では、

「遠くから見える島」と言う意味での「彼方見(あまみ)」を

当座、私の「奄美」地名考としておきます。

 「うんにゃ、そりゃ違う。私はこのように考える」

 といった何か他の案をお持ちの人は、

下のコメント欄で、ぜひお知らせくださいね。

                       


徳之島の地名考(その1)

2019-04-27 16:15:41 | 日記

なんだかなあ。

他の調べものをしていたら、

何故だか「徳之島の地名考」に走ってしまった。

ほんと、私の頭は「思いつき頭」

一貫性がなくて

あっちにいったり、こっちにいったり

トイレに行こうと思って、立ち上がったのに

気が付いたら洗い物をしている、

一事が万事、こんな調子。

これをぼけ老人と言わずして

何を言う、

って言う感じ。

気持ちまだ早いはずだ、

と自分を慰めつつ

「やばいかもしれない」

という不安を拭えない昨今であります。

 

ところで、今日の地名考は、

稲村公望先生の「続・黒潮文明論」に紹介されていた一こま

(思い出した。これをチラミしたから地名考が止まらなくなったのだ)

からスタートです。

続けざまもう一本行きます。

 

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徳之島の主峰となる山々には、「岳(ウデ、デー)」が使われている。

南から犬田布嶽(いんたぶだけ)、剥嶽(はげだけ)、ヨブサ嶽、井之川嶽(イノウデ)、母間嶽(ボマウデ)、アメキ嶽、剥嶽(はげだけ、上記とは別山)の7峰である。

美名田山(やま)等の他の山々の場合は、井之川岳、天城岳等と異なり、中世以降の新たにやってきた農耕民が付けた名前だろう。

(ごめんなさい。稲村先生。上記は、先生の文章を元に私があれこれと追加編集をしてしまい、元の姿をとどめなくなってしまいました。)

 

  登山家である古川純一『日本超古代地名解』(彩流社)は解説する。

  「沖縄本島の山は、岳が30で、山が4のみであるが、対馬では岳は7で、山が42となり、佐渡が島ではついに岳は0となり、山(やま)が41、山(さん)が6、峯が3になる。津軽半島ではまた岳が多くなる。

日本の中央部で後続の人種によって岳が消され山(やま)や山(さん)に変えられたのであり、岳が山より古いことを意味している。これは山と岳は日本に渡来した時期が異なっている証明である。

山の呼び方は、古い順に、峯(ね)、根(ね)、嶺(みね)、岳(だけ)、山(やま)、峯(みね)、山(さん)になる。古い峯(ね)、根は少ない。

先に『遠野物語』に関連して早池峰山のことを書いたが、ハヤチは疾風のことであるから、風の吹きすさぶ嶺(ね)の山(さん)という意味になる。「ね」は日光や草津、そして南アルプスの白根山の「ね」となって残っている。

細かい議論をすると、峯は尖った形状を指名しているが、岳はなだらかな傾斜地の連なり示しているのではないか。 

たとえば、錦江湾の入り口にある開聞岳の秀麗さが岳であり、高千穂の峯(みね)となると逆矛が立てられているかのように尖って屹立する山のことである。霧島山はアイヌ語で山のことをキリ、シリといい、シマとは石のことだから、火山岩の山を形容しているに違いない。

なるほど、日本国中に霧や桐の字を持つ山や峠がある。徳之島の松原集落では人間の後頭部の尖った部分を「みにしゅし」というが、「みに」は峯に繋がる。

一説に、岳は西アジアのウル語のダカンから来ているとあり、語源がベルシアにあるとも説く。」

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若干の疑問は残るものの、

人類の移動史、あるいはその集団ごとの文化史を考える上で、大変参考になる地名考である。

ただし、

上記「アイヌ語」は「古語」と言い換えなければなりません。

既に20年ほど前になりますが、

アイヌ人がオホーツクを渡って日本に来たのは、5世紀頃のことと判明しています。

この研究は、北海道大学が行い、DNA調査によって出した結論です。

なんと先住縄文人と交わった時期等まで推測できるようです。

つまり、純粋なアイヌ語は歌や伝承等に残るのみで、

今に残る言葉の多くは、

すでに在地日本で使われていた言葉であるということ。

無論、アイヌ特有の言語も残ったには違いありませんが、

アイヌ人が日本にやって来たとき、

在地の縄文人のほうが圧倒的に多いわけですから、

新参者のアイヌ人は、

在地住民の言葉を覚えないことには生活できなかったはずです。

後にアイヌ人は、夷人(えびす、毛深い人)として特殊扱いされたことで、

逆に独自の文化が残されることになり、

日本の古代語もそこに含まれる形で伝承された、と考えるべきでしょう。

 

日本語の多くがアイヌ語だと考える旧慣は、

本日ただいまより止めなければ、

言語学上、歴史学上の研究に大きな間違いを生じることになります。

 

 

なお、古川純一氏の本に

 「沖縄本島の山は、岳が30で、山が4のみであるが、対馬では岳は7で、山が42となり、佐渡が島ではついに岳は0となり、山(やま)が41、山(さん)が6、峯が3になる。津軽半島ではまた岳が多くなる。」

と紹介されています。

徳之島の場合はどうなのかというと

岳が7つ、山が12でした。

(参考地図は、明治13年作成「鹿児島縣下徳之島全圖」神戸大学付属図書館)

 

もちろんこれは主だった山だけで、

島内にはこのほかにもたくさんの小山があります。

ただし、それらはすべて「山(やま)」です。

 

 

ちなみにではありますが、古川氏の文中に

「徳之島の松原集落では人間の後頭部の尖った部分を「みにしゅし」という・・・」

ともありました。

そういえば、私も子供のころ、

絶壁頭を「サバ」

きれいな頭を「ミニ」

と言っていたけど、どうやらここから来ていたみたいですねエ。