
E子はベッドメイキングルームにいた。
31 パパのヤキモチ
の次の日だった。
ドアを叩く音が聞こえたのでドアを開けた。それが片山さんだった。
「片山と申します」
そうは言ったけど真っ青な顔をしていた。
「片山さま お客様とうなさいましたか?」
「私はシーツは毎日は変えないの」
「お客様によってシーツをどう変えるか お好きに言ってくだされば」
「ちょっと汚しちゃったから 変えたくて それを言いに来たけど道に迷ってぐるぐる 一時間は経ってるんじゃないかしら」
「一時間ですか お電話くだされば伺います シーツを変えます」
「でもドッチャラかっちゃらで部屋の中を見せたくないの」
「はぁ」
「それに部屋にネズミがいるの」
「マサカ 船にはネズミはいませんよ」
「本当? だけどタイタニック号にはネズミがいたでしょ」
「この船はタイタニック号ではありませんから」
「あぁ そうだったわね」
と楽しそうにクスクス笑った。あんなに真っ青で困った顔をしていたのに違う人のようだった。結局E子はシーツを持って片山さんを部屋の近くまで送って行った。本当にネコは飼っていないのかわからない。
「片山さま ネズミはいないと思いますけどネコはいませんか?」
「ネコ? いいえ 私は動物は苦手なの 娘は何とかいう小さい犬が大好きでそれはそれは可愛がってるけどね」
にこやかに答えた裕子だった。それならいいけどね。片山さんについてはかなり心配だとE子は思った。でも片山さんがネコは苦手でよかった。実は誰にも言っていないけどお客様が飼っていたネコが逃げ出して頼まれて追いかけたとき捕まえた。なのにうっかり海に落としてしまったのだ。もちろん誰にも言えない言わない言うわけがない。そしてそれ以来ネコが怖くて怖くてたまらなくなってしまった。

E子に会えると思った3番は小走りになっている。デッキに出るとE子は海を見ていた。若い頃年上の女性たちはみんな上から目線で何を言っても相手にされなかった。それが今は自分が上から目線で誰のこと信用しなかった。それがE子だけは違った。若くて可愛くて爽やかで賢い。付いた3番はE子の背中に言った。
「お待たせ」
振り向いたE子は答えた。
「船で走ってはいけませんよ」
「そうだったわね」
「それでどうでしたか?」
「片山さんはオプショナルツアーのバスに乗ったみたい だけど片山さんの部屋に行ったら彼女がいて」
「彼女って今日の午前中は休みだった人?」
「そう だけどスタッフの格好をしてたわ」
「ナゼですか?」
「わからない でも片山さんのことは心配みたい」
「気になりますね」
E子はまるで探偵みたいだった。
「私は先日飲みすぎた片山さんを送った時に初めて会話を交わしたけど別に ただ部屋はドッチャラかっちゃらだから近づかないでって途中で返されたわ」
「とにかく片山さんはおかしいです」
「お客様よ」
「私も心配なんです 船にネズミがいるって言うけどそれはネコじゃないかと」
「マサカ」
「どっちが」
「どっちも」
「船にはどちらもいないわ」
「でも前に乗ったときこっそりネコを連れていらしたお客様がいらして 結局ネコは死んでしまいお客様は海に飛び降りたりするかと心配で心配で」
「へぇ そんなこともあったんだ」
そう答えながら3番は別のことを考えていた。どちらかといえばネコがいい。ネコになってE子のペットになりたい。マサカ同性でしかもずっと年下の女性に惹かれるなんて思ってもみなかった。どうしてこうなったのか考えるのも怖かった。




「ライブラリー」と書いた部屋があった。こっそり開ける裕子。中で壁に本が飾られている。何人かの人が静かに本を読んでいる。キレイな鈴の音が聞こえた。奥から一人のスタッフが登場。
31 パパのヤキモチ
で裕子はこの人たちのおかげでずいぶん助かったのだ。
「片山さん」
「スタッフさん 先日はありがとうございました わたくしスタッフさんの名前を聞くこともなくて」
「スタッフには名前がないんです」
「えっ」
「いろいろな国の方がいらっしゃるので名前を聞いたり覚えたりするのが大変なので全て数字になっています」
「ほう」
「先日の一人は3で私は29です」
「それぐらいでしたらわたくしも覚えられますね」
「本をお探しですか?」
「わたくしも今まではお買い物に大騒ぎしてましたけどそれより次に行く国を勉強しておかなければと思いまして」
「奥にも本がありますから少し探して来ますね」
29番が奥に入った。裕子もテーブルに座った。十何人かが座って本を読んでいた。白人もいるしアジア人もいる。また黒人もいる。国から離れるとその国の言葉が恋しくなるんだなぁ。私もそうなんだ。向こうの壁に船の帰路が書いてあったので立ち上がって近づいた。この前はボンベイだったなぁと思った裕子だったがしばらく眺めていたが自分はナゼ今ここにいるのがわからなくなってしまった。やがて裕子は黙って部屋を出ていった。奥から戻った29番。裕子がいない事に気づいたが持ってきた本の何冊かの中の文章をコピーした。
資料を持った29番だったがもし3番に聞いたらお客さまの部屋まで開けさせたりしないでドアの下の隙間から資料を入れた方がいいというだろう。だがやはり29番は裕子の部屋に近づいてしまっていた。何も考えないようにと裕子の部屋を叩いた。
「片山さま スタッフです」
ドアが空いた。
「あっ スタッフさん 先日はありがとうございました お二人のおかげで助かりました」
「いいえ」
「スタッフさんのお名前も聞くのを忘れてしまいました」
「スタッフには名前がないんです 色々な国のお客さまがいらっしゃるので名前を聞いたり覚えたりするのが大変で 全て番号にしています もう一人が3番で私は29番です」
「なるほどねぇ ところで今日は?」
言われた29番は冷静になければいけないと思った。資料を見せて
「今度の寄港です」
「わぁ ありがとうございます まるで心が通じたようですね」
「何でもおっしゃって下さい」
頭を下げてから離れていく29番。ドアを閉める音がしないから振り向くとドアを開けたままお辞儀している裕子だったが部屋の奥までよく見えた。段ボールがまだいくつも重なって置いてあるしその上に洋服やバッグやスカーフが乱雑においてあった。29番には大体なことはわかった。ただそのことを3番にいうかいうまいか悩みが尽きないだろう。

「裕ちゃん」
「パパ どうしてここに」
「私はあなたの父親じゃない」
「子どもから見たらパパでしょ」
「そんなことより手を繋いでるのは誰だ?」
「お医者さんです あっ!! 大変 先生の名前を聞いていなかったわ」
「片山さん 片山さん 船に戻りましたよ」
それでようやく裕子は目を開けた。スタッフに起こされたのだがバスの一番奥で壁に寄りかかっていてヨダレが出ていた。裕子はキョロキョロしながら
「あら 先生は?」
「先生は途中降りて日本に向かったなんです」
「えー」
「片山さんがあまりによく眠ってましたから起こすのは悪いと」
「先生帰っちゃっんですか」
「実は先生」
後ろから近づいてきたもう一人のスタッフが「しっ!」
と止めた。
やっと裕子は思い出した。ガンディ記念館のそばのレストランでオードブルをいただき白ワインもいただき上機嫌で2杯飲んだところまでしか憶えていない。裕子はガーンと思った。先生も呆れていたんだろうなと。
船でも二人のスタッフが両側に立って歩いていた。さん人の後ろから声が掛かった。
「裕子さん 大丈夫? ホントに具合が悪かったのね」
チラッと振り向けば例のツッコミ。
「はぁ まぁ」
「裕子さんは行けなかったホテルでいいもの買えたのよ 後で部屋まで見に来ません?」
そう言われて前の裕子だったらはしゃいで「後で伺うわぁ」などと言っただろうけど言わなかった。そして突然言い出した。
「ガンディさんをよく知っていますか?」
「えーよくは知りません」
「私はガンディさんの本を買いました。後でお見せしたいわ」
「あ! 結構ですわ」
ツッコミとボケは去って言った。スタッフのおしゃべりの方が
「お買いになったんですか?」
「ガンディ記念館にあった本を買おうとしたら先生は日本語じゃないからねって」
「でも記念で飾りで買いたいって言ったら」
「ハイ」
「飾りはいりません 大事なのは本当の心です」
「ホー まるで学校の先生みたいですね」
「そうなの そうなんですよ」
裕子はすっかり医師のファンになっていた。今だに名前は知らなかったけれど。
印度にはカーストという特別な制度があった。親の職業をそのまま子どもが引き継ぐのが当たり前とされていた。
農家に生まれた子が
「病気で苦しんでいる人のために医者になりたい」
とか
「料理が好きだからコックになりたい」
という本人の希望は印度では許されなかった。
最近ではカースト制度による差別は見られなくなかったそうだが地方では今なお差別が根強く残っているそうだ。
「だからマハトマ·ガンディのような人が現れたんです」
二人はマニ·ババン·ガンディ記念館を歩いていた。医師はまるでガイドのように説明する。この記念館は1917年〜1934年までボンベイにおけるガンディ運動の本部として使われていた。ここからガンディは真理と非暴力という不滅の理想に基づいて国家を築きあげていきました。1919年にはガンディが初めて自由を勝ち取るための大衆闘争を繰り広げ英国支配の基盤を揺さぶりました。
建物の一階にはガンディの生涯や思想の本の図書館になっていた。そのあたりから裕子は自然に左腕で医師の腕に絡まった。パパとよくこんな風には歩いていたと懐かしく思っていた。
二階にはガンディの部屋がそのまま保存されていた。そして1932年ガンディはいつも睡眠してお祈りするテラスのテントで逮捕されたという。裕子は立派な指導者の悲痛な最後に胸を打たれた。だからろくにガンディのことも知らずホテルでバッグや宝石をいかに安く買えるかそんなことばかりの自分がとても恥ずかしくなっていた。
21 浅野内匠頭
に登場した医師と裕子はバスに乗っていた。
医師はホテルのタクシーなら安心だと言っていたがスタッフに連絡したら反対されたらしい。タクシーでなくバスでと言われ しかもスタッフの二人も乗るといった。バスに乗っていたのはほとんど外国人。医師はバスの一番うしろの窓際に裕子を座らせた。もちろんその隣に座った。スタッフ二人は前の方に座っている。バスが走り始めてからずいぶん経っている。スタッフは船の客と医師が勝手にバスから降りてどこかに行ってしまったら大変だから前に座っているんだわ。もしスタッフが後ろに座ってグズグズしていたら二人がどこかに行ってしまう それを心配しているんだと裕子は妄想中。デートなんて言ってたけど何も言わないのねと医師の横顔を見つめる裕子。その時医師が裕子の方を見た。裕子はドギマギ。
「片山さん」
「はい」
あれ? さっきは片山裕子さんだったのに片山さんに戻ってしまっていた。
「片山さんのご主人のお父さまも医師でしたか?」
え!? これがデートの会話?
「サラリーマンでした ただ主人が小児麻痺にになってしまって よくなって歩けるけど走ることが出来なくなってしまったんです 医者になって子どもたちを治したいと思ったそうです」
「素晴らしい話ですね」
「先生のお父さまはやはり?」
「はい 高校に入った途端言われたけど嫌で嫌で でも母親に泣かれてね」
「お優しい」
「印度はカーストでね」
「カースト!?」
「意味は生まれです」
「あぁ 聞いたことあります 主人も印度にいたらお医者さんになれなかったんですよね」
「船に乗っていろんな国に来たのに意外と見物してなくて特に印度にはどうしても会いたい人がいて」
「初恋のインド人?」
「会ったことない人です」
「えぇ!?」
「昔のひとですよ」
それっきり医師は遠くを見ていて何も言わなくなってしまった。これデートかな? 首をかしげる裕子だった。