齋藤百鬼の俳句閑日

俳句に遊び遊ばれて

角川春樹という奇妙な男

2008年04月17日 | Weblog
故山本健吉は角川春樹を指して「芭蕉以来の才能」と言ったのだという。
春樹の句集は何冊か読んでいて、その非凡な才は認めてはいたものの、そこまでとは思わなかった。
芭蕉を何がなんでも最上位に置こうとは思わないが、長年月読み継がれてきた芭蕉と、まだこの世の人であり、今後どうなるかわからない春樹を比べることは性急であり、それより何故、芭蕉が出てこなければならないのかがよくわからない。健吉はどんな意図があって、このような言辞を吐いたのか。

サブタイトルに「獄中俳句」とスキャンダラスに刷り込まれた春樹の句集『海鼠の日』を読んでいる。
句集の中味は刺激的である。好きな句をあげれば限も無いほどで、「やっぱりかなりの才能だよな」と改めて感じ入っている。
句は刺激的で面白いし、それはそれでいいのだが、もっと面白いのは句以外の部分である。
「あとがきに代えて」の最末尾に春樹はこう記している。

私は、刑務所の中で、自分が拘束されていながら、本物の生き方は何かと考えた。何を生き方の規範にするのかと。そして、一つの結論に行き着いた。私にとっては、やはり不良性と友情が根底のテーマなんだ。一生不良でいて、死ぬまで恋をして、友情を大切に生きる。精神の無頼性を大切にしようと、改めて気がついた。
精神の無頼性、何ものにも束縛されない自由な遊び心。私の不良性の本質は、そこにある。そして、その場所にこそ、私の俳句は存在する。今回の獄中での体験で、私はそれを確信するに至った。
もともと私は、武神の魂を持っていた。さらに私は、仏の慈悲の心に目覚めた。つまり、変ったわけだ。
私は、その両方を持って、一生恋を続けるような無頼の遊び心をもって生きようと思う。獄中で、現在を過去として生きる境地を獲得した私。―それは、俳人として、ついに芭蕉を越える表現者として出現することになる。

春樹は、自分の未来を「俳人として、ついに芭蕉を越える表現者として出現することになる。」と予言しているのである。
他人の健吉は「芭蕉以来の才能」と言ったのだが、春樹本人は既に「芭蕉を越えて」しまっているのである。
この句集の句以外のほうが面白いといったのは、こういう部分があるからなのであるが、こういう精神構造を読者はどう捉えたらいいのだろうか。
宗教書であれば、こういう大上段の見得は定番でさして驚くに価しないのだが・・・

春樹の「あとがき」に垣間見られる幼児性、過度な精神の高揚は、薬の後遺症なのだろうか。
かつて獄中に身を置いた俳人、秋元不二男の前書きのある、

  獄凍てぬ不二男に負けじと飯くらふ 春樹

という一句が収録されている。
ご存知のように不二男は、「京大俳句事件」として戦前の特高警察の手によって獄中生活を余儀なくされた俳人だ。その同じ境遇の不二男と自分を重ね合わせていることは間違いない。
しかし、逮捕のもとが春樹は麻薬法違反、不二男は思想弾圧の無実の罪なのである。不二男が生きていれば、「俺と同じにしてくれるな」と言うだろう。
この発想の幼児性、政治音痴には、ちょっと信じられないものがある。

こういう春樹を、解説を書いて目一杯持ち上げているのが森村誠一だ。「角川春樹 未知の狩人」のなかで言う。

俳人、角川春樹は故山本健吉に、「芭蕉以来の才能」と評されたが、「檻の中」はすでに芭蕉を超えている。その、平明な用語で詠んだ心と実景との間に開いた無限の距離と絶望的時間は、「夏草」を圧倒している。

ここで森村は、芭蕉の句「夏草や兵どもが夢の跡」と春樹の句「そこにあるすすきが遠し檻の中」を対比させて、春樹の句が芭蕉の「夏草」を圧倒しているといっているのだ。
私は笑わない。そう思うのは勝手だからだ。
実に面白いと思う。ここまで提灯記事の書ける森村という作家が面白いと思う。
森村は最近、俳句番組によく出演しているようだが、どんな句をつくるっているのだろう。師匠は春樹なのだろうか。それはそうだ。なにしろ春樹は芭蕉を超えているのだから。

この『海鼠の日』はブックオフなどで安価で転がっている。読んでみれば、もつと可笑しくて、「奇妙な」ところが見つかるだろう。
しかしそんな閑はない方は勿論読まなくとも大勢に影響はありません。

6 コメント

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句集『海鼠の日』 (ゆらぎ)
2008-04-20 10:39:06
またまた興味深い句集をご紹介いただき、ありがとうございました。探して手に入れます。読んでみます。
なんでも知らないこと、新しいことには好奇心をもちますので。どういうところが芭蕉を超えていそうなのでしょうかね?
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ゆらぎ様へ (百鬼)
2008-04-20 14:19:51
コメントを有難うございます。
角川春樹という俳人の実力は十分に認める私ですが、言動その他、しっくり来ないところがある人物です。同業の俳人もこの人については口を閉ざしますね。なにしろ出版社の社長ですから、物書きの口は重くなるのでしょう。いつ世話になるかわからないですから。触らぬ神に崇りなしというところでしょうか。私も同業ですが、実は出版社なんて大したことはないんですがね。
正直に言って春樹が芭蕉を超えているなど幻想、妄想の類です。ともかく「奇妙な人」ではあります。
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感謝 (阿部  昭)
2008-04-20 14:56:48
一昨日拝見しました。角川春樹について山本健吉がなぜそれほどに言うのか、彼の定本現代俳句を再読した。角川一家の特異な人々の才能やエピソードが好意的に記載されてをり、春樹の句についても過分な褒詞に満ちていた。しかし芭蕉を超えた云々はなかった。
山本の「芭蕉を超えた云々」が事実なら、山本の勇み足、いや、山本の業績に残された汚点だと思う。百歩譲っても芭蕉より優れたところはあるかもしれないが極一部に過ぎないと僕は思う。
若しかしたら山本のよいしょかも知れない。
森本誠一も然りだと思う。二人とも業界で世話になっている人達ですから。(執筆の時点で)
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阿部様へ (百鬼)
2008-04-20 18:37:28
コメントを有難うございます。
春樹の言動には、「父・角川源義の仏事の時、自分だけに雨が降ってずぶぬれになった。参列者は誰も濡れていなかった」など奇妙なところが多々あります。

私にとっては、やはり不良性と友情が根底のテーマなんだ。一生不良でいて、死ぬまで恋をして、友情を大切に生きる。精神の無頼性を大切にしようと、改めて気がついた。

この程度の悟りでは、到底、芭蕉は超えられないでしょうね。インファンティリズムにすぎません。
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角川春樹 (九分九厘)
2008-04-21 21:54:17
書店でちらりと表紙だけは見ることがあるのですが、彼の句はまともに読んだことがありません。

この『海鼠の日』はブックオフなどで安価で転がっている。読んでみれば、もつと可笑しくて、「奇妙な」ところが見つかるだろう。しかしそんな閑はない方は勿論読まなくとも大勢に影響はありません。

此の百鬼様の結論を信じて、春樹をパス致しましょう!
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九分九厘さまへ (百鬼)
2008-04-22 14:47:47
パスでよろしいかと思います。笑。
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