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2020年9月8日ー1964年大和米軍機墜落事故慰霊祭

9月8日に開催された「1964年大和米軍機墜落事故」の慰霊祭に行ってきたのでその時のレポートです。

東京オリンピックを1か月後に控えた1964年(昭和39年)9月8日午前10時58分頃。
厚木基地を離陸したF8クルセイダー機が直後にエンジン故障で失速し墜落して滑走した先にあった、館野鉄工場に激突し工場のガスに引火して大爆発。
これにより5人が死亡、3人が重軽傷を負うという悲惨な事故がおきました。

近年毎年この事故の慰霊祭が行われているようで、神奈川新聞などにはこの時期になると「慰霊祭実施された」という記事が載るようです。

私は特に近現代の大和市史を調べている一環もあり、今年の慰霊祭に参加したいと思い、日程や一般参加の可否などを確認するために、当初大和市役所の基地対策課に連絡するも「市の関連する行事ではないので詳細は分からない」とのことでした。
結果別ルートで主催団体の関係者の方から情報提供をいただき、日程や詳細が判明し参加出来ることになりました。



当日東名大和バス停方面から慰霊碑の場所に向かいます。
9時30分ごろに到着すると普段は入れない慰霊碑前に既に数人の姿が・・



脇に回るとゲートが開いていて中に入れるようになっていました。
係りの方から「中には蚊がたくさんいる。まだ時間があるので大和トンネルの方に行ってみれば??」と声をかけられ、せっかくなので大和トンネルの方に行ってみます。



大和トンネルの上部。
日本有数の渋滞の名所である大和トンネル。このトンネルは地形上のものではなく厚木基地に離着陸する飛行機が高速道路上に墜落することを防ぐ掩体壕のようなもの。1964年の墜落事故の教訓で建設されたと考えらえます。

トンネル内部は4車線化の拡張工事も既に終わっているような雰囲気。今は周辺工事を行っているような状況のよう。なんでもトンネル上部のこの場所は子供の遊び場のようにする計画だとか・・??



会場と大和トンネルの間にある自動車修理工場のようなところには左ハンドルの国産車やアメ車のような車がおかれています。「大和はカリフォルニアだ」という言葉がよぎります。



さて会場に戻ってきて森の中に入ります。
この場所は泉の森に隣接していて、泉の森の一部分のようになっていますが、事故後に墜落事故対策の緩衝地帯として国有地化され通常はフェンスに囲まれ立ち入り禁止となっています。

さて10時になり慰霊祭が開会。
今年は残念ながら遺族の館野義雄氏(工場主館野氏の息子・四男)は健康上の問題で不参加だそうです。来年は体調を整えてぜひ参加したいとの意向だそう。

報道記事等によればこの場所は国有地なので、慰霊碑の設置やこの慰霊祭自体国に使用料を払って行っているそうです。
この場所を慰霊公園として自由に慰霊碑前に入り慰霊が出来るようする、要望や署名を提出しているものの大和市議会では保守系議員の反発により実現出来ない状態。国は「大和市がその気ならば前向きに協力する」とのことだそうですが・・。

現状、この場所は知らないとわからない場所の上、事故の経緯などを記載した解説板の類すら設置されていません。
慰霊公園とする際は、泉の森と一体化した上で木あまりを切らずに、しっかりした慰霊碑や解説板を設置して、今の森の雰囲気を残した上で行ってほしいと思います。



善徳寺のお坊さんがお経をあげます。
善徳寺は大和トンネルのすぐ横にあるお寺。当時事故の犠牲者の葬儀が行われたお寺だそうです。善徳寺はこの辺りでは有名なお寺のようで、戦時中は疎開児童の受け入れなどで大和市史にも登場。また台湾少年工の犠牲者の慰霊碑もあるそうです。

読経中、仕方がないとはいえ後ろを通る車の音が気になります。
お経の途中から参加者が一人ずつ碑の前でお線香を立てお参りします。



その後に主催者から挨拶となり、参加人数は20名程度を見込んでいたが30名ほどに来ていただけたこと、この場所の慰霊公園化を待望していることなどが話されて10時40分ごろに終了し順次解散となりました。



慰霊祭の終了を見計らったのか南関東防衛局からと思われるスタッフがやってきてゲートに鍵をかけます。


私はそのまま慰霊碑のフェンス外から事故発生の10時58分を見守り黙祷します。



相模大塚駅行きのヤマトンバスは55分頃に通過してしまったので、歩いて相模大塚駅を目指します。ここから相模大塚駅までは森を横切り徒歩15分強。

この写真で見ると市街地の中とは思えないようなのどかな光景です。都市の中に豊かな森を擁し自然が豊富なのは大和市の魅力の一つですが、昔からこうだったのではなく、爆音問題や墜落事故の危険回避のための住民移転などにより生まれた森であるのも事実です。


現状、フェンスに阻まれて通常は慰霊碑に近づけない状態ですが、これを解消する為の慰霊公園化に当たり大和市議会の保守系議員の反発が強く実現出来ないとのことです。
基地問題に関しては現代日本でも大和市に限らず沖縄など色々な意見があります。それぞれの意見の是非の前に、過去に起きた悲惨な事故を風化させず記録して、現代そして未来の時代に教訓として伝え再発防止に努めることが重要だと思います。

ちなみに余談ですが、この事故は事故自体悲惨なものですが、それに輪をかけて悲惨さを感じるのが事故後の補償問題。
工場主の館野氏は会合で鶴間の市役所行っていて難を逃れたものの、事故後にこの場所は危険だということで工場再建は許可されず、国が用地を買収、代わりに補償の一環として工場移転の代替地を提供するとのことで、候補地としていくつかの国有地を下見し移転を決めるも、土壇場で代替地提供の約束を反故にされ工場再建の道は断たれ・・と悲惨な事故にあい更にその後の補償問題でも悲惨な目に合うという二重の悲劇が起こります。

この辺りの経緯はこちらのサイトに詳しく紹介されています


当日配布されたご遺族/館野義雄氏の事故当時の状況に関する証言のプリント(「墜落50周年市民の集い」2014年11月14日大和市生涯学習センターにて)をPDF化したもの。

(当日主催者から公開してもよいと確認していますが問題があれば取り下げます)
また事故当時の現場の写真などは大和市史など市史刊行物等でも掲載されています。

慰霊碑の場所について(googlemap)

やまとんGOバス相模大塚ルート「東原北自治会館」バス停最寄り

2020/9/10 1:50(JST)
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