Cowboy Bebop - The Real Folk Blues ending theme
寝ぼけた、kiyasumeです。。。
「ぶん殴ってやった馬鹿野郎」
私が、丁度中学生ぐらいの時にだ。近所の中学の同級生で藤堂。そして。藤田。韓国人のキムと言う同級生が居た。この3人組が私の邪魔ばかりした。前にも話した事があるが、彼らは学校が終わると私の家まで着いて来た。私は殆困って居た。何故なら私の部屋に上がり込みあちこち開けて見るからだ。私は何時も「帰ってくれよ!!」と言って居た。藤堂は豆腐屋のせがれだった。藤田は大工のせがれだった。キムは親父は何の職業か知らなかった。そして私に一緒に遊ぼうと言うのだ。私はつくづく嫌だった。遊ぶ?中学にもなって遊ぶ?私は丁度この頃1973年当時、夕方5時からテレビで「ザ・ロック」が放送されて居たし。夜にはラジオの「ミュージュク・アワー」でロックとかフォークなどが掛かって居たのだ。だから、それらをラジカセでカセットテープに録音したかったのだ、よく皆さんはテレビの音声を昔ラジカセに録音する時に、テレビの前に置いてスピーカーの音を拾って居たはずですが。私は少し考えた。何故ならラジカセには外部入力端子がついて居るし、テレビにはイヤフォン端子か外部出力端子が付いて居た。だから近所に行ってオーディオ用のピンコードを一本購入して来たのだ。それで、テレビの外部出力端子や無い場合はイヤフォン端子から、ラジカセの入力端子に繋げた。これで直に録音が出来て周りの音も入らない。しかしこの方法に気が付いて考えたのは、私だけで同級生は誰もやって居なかった。
'77-80 家電CM集 vol.5 テレビ1
だから、私のラジカセで録音したオーディオ・カセットテープの音源は綺麗な音だった。そして、その大切な私の趣味を邪魔をする先の3人組は、よく嫌がる私を連れて遊ぶのだった。空き地に行って缶蹴り。瓦を手刀下ろして割る。置いてあるガラスを石を投げて割る。皆んな人の所有物だ。そして私がサッカーボールを持って居ると。サッカーをやるから一緒にやろうと部屋まで来る。私は怒りまくり「俺はな、大切な音楽の録音があるんだ!!お前たちだけで勝手にやって居ればいいだろう!!」しかしそう言っても毎日来る。私は持って居たサッカーボールを「くれてやるから、持って行って勝手にやって居ろ」と言って渡した。一体どれだけ幼稚なのだ。私はつくづくこの3人組が嫌だった。私は一度、藤堂に、「レッドツェペリン」の「移民の歌」と「天国への階段」のシングル盤のレコードを貸した事があった。結果は聴いても解らないのだ「何だ変な音楽聴きやがって。」としか言わなかった。藤田の親父は競馬で60万当たると仕事をしなかった。遊んで居るのだ金が入ったと言って。そして藤田の家は暫く経つと新築に成った。遊びに来いと言うから行って見たら最新鋭のステレオとテレビ、そしてオープンリールのデッキなどが部屋に置いて有った。しかし私はロックの番組の放映時間が気になりもう帰りたかったが。「ザ・ロック」が始まって仕舞ったのでテレビを付けてくれと言ってチャンネルを合わせた。音はステレオから出てくる。丁度その日は「スレイドとミッシェル・ポルナレフが放映されて居た。」私が「いいなぁ〜」と思い見て居ると突然テレビを消して。クラシックの「展覧会の絵」のレコードをステレオで駆け出した。「先生がいいと言ったから買ったんだ。クラシックが本当の音楽だと先生が言って居た。何だあんなロックなぞ変な音楽聴きやがって!」と言う。私は激怒した。
1970年代の東京 [50fps HD] Tokyo in the 70's | 昭和48年 (1973年)頃 / circa 1973
「ならば、何で俺を此処に連れて来た!?。俺は来るのは嫌だと言ったろう!!。」そう言うとヘラヘラ笑って居る3人に愛想を尽かし玄関に行き靴を履いてさっさと帰って来た。私は当時ステレオなぞ持って居なかったが、大工のせがれは持って居た。しかし音楽の良さは何も解って居なかった。中学2年の頃だ。文化祭で私は小型のバスレフ式スピーカーを自作したものを展示した。そしてラジカセを繋げて音を鳴らして居た。鳴らしたのは「フラワー・トラヴェリン・バンドのライブ盤から「サトリ」」だった。人が集まってくれて。女の子たちも「凄い凄い!!」と言ってくれたし。スピーカに対する質問も受けたし作り方も聞かれた。それを見て居た藤堂が言った。「気取りやがって!!」そして文化祭が終わると「おい、あのスピーカー俺に寄越せ!!」と言うのだ。藤堂は我が儘で自分勝手だった。だから面倒は嫌いだし。また作ればいいと思い「ああ、やるよ。」と言ったら展示場から持って帰って行った。藤田は、要約ラジオの深夜放送を聴き始めた様で私に「おい、昨日のジェット・ストリーム聴いたか?城達也はいいよな....。」と話し掛けて来た。私は小学校3年生から深夜放送は聴いて居る。私は苦笑いを浮かべて「そ〜だねぇ...。」と言って居た。そして中学三年の時にバザーを開催する事になった。私のラジカセはもうすでに壊れて居たが、藤堂と藤田とキムは私に「お前のラジカセ寄越せ!!」と言うのだ。だから「何でだ.....。」と言ったらバザーに出すと言う。私はまあ、少し壊れては居るが、誰かが使ってくれるのならばいいかと思い「いいよ。しかし高値で売れよ。」と言って翌日。呉れてやった。
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私は、この時期に学校では漫画研究会に所属して居たし。壁新聞も書いて居た。私はそれらで忙しくして居て、「あれ、そう言えば、バザーで幾らで売れたんだろうか?」と気になって藤堂に聞いて見たら「へっ、あんなもの100円だ〜〜」と言われた。私はまたしても激怒した。私は早くこの3人組から離れたかった。高校に行く事になって藤堂は兄貴がヤクザ者だと言う事があり。しかも貧乏豆腐屋だから。奨学金制度で行ける高校にしか入れずそう言う高校へ行った。藤田は中学卒業と同時に鳶職に成った。キムはどう成ったかは解らない高校はどこかに入ったろう。私が高校生になってベーシストが私の家にまで私を向かいに来て、私がギターケースを持って髪を長髪にして居て、ふたりして駅まで行こうと歩き出したら。そこに藤堂が通りがかった。「何だ貴様はヒッピーかよ?へぇ〜ギターなぞ弾けるのか?」「弾けるんなら今此処で弾いて見せろや!!」私は言った「此れはなぁ、エレキギターだよ。そんな事もお前は解らないないのか!!」と怒鳴ったら「ケッ!!どうせド下手なんだろう!!何がエレキだベンチャーズか?」と居なく成った。
「ベンチャーズ???」時代錯誤もいい加減にしろと思った。私は当時はブルースを弾いて居たからだ。そして月日は流れて私が障害を持つ様になって会社で荷物の片付けをして居た時だ。藤堂が側に寄って来た。そして言った。「あめえがチンタラチンタラ、外で何か働いてウロチョロして居ると言うので見に来てやった。」続けて言った。「俺はな、秋田の大学に行ったんだ。そしてな子供が3人居てなぁ、今は秋田で百姓して居る」私は呆れて仕舞った。東京の人間が秋田の大学?子供が3人?百姓して居る?歳は私と同じ21歳だ21歳で子供3人?どれだけ、ドスケベなやろうだ。そしてこう言う「おめえなぞ、大学にも行けてねえんだろう。」私はこんなバカに声を掛けられて、忙しい仕事の最中に時間がもったい無いから「行ったさ大学には、、」とだけ言って後は完全無視をした。そしたら「体がチンケなくせしやがって何がエレキギターだ!!」藤堂は身長は184センチは有った。「俺の勝手だろ。お前は何か楽器のひとつでも演奏出来るのか?」と私が言うと。ニヤニヤ笑って「ケッ!!俺は今から用事があって出掛けに行く」と言うので私は呆れて「ああ、勝手に言ってくれ.....。」と言ったら。要約居なくなった。
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ある時に整形外科に、私が首を痛めて治療に行った。そして紐に顎をかけて引っ張る治療をしてたら。藤田が隣に座って来た。どこのチンピラかと思った。しかし私は藤田だなと思った。しかし着るものも作業服であいつにはお似合いだった「「展覧会の絵」が泣くねぇ〜〜。」と思い一緒に居るのは嫌だし、治療に効果が無いのでその医院に行くのを辞めた。キムは韓国に帰ったらしかった。それから数十年が経った。私が40代の終わり頃に新宿を歩いて居たら、いきなり肩を掴まれた。そして笑顔で「やあ〜久しぶりだなぁ、俺だよ藤堂だよ〜!。」と言われた。そう聞くが早いか私はあいつを3回思いっきり真正面から渾身の力を込めてぶん殴って居た。藤堂は鼻から血をぼたぼた流して口も切り、痛がり苦痛の顔を浮かべて身体を震わせて何が何だか解らない顔をして居た。そして唖然として私を見て居た。血が凄く出たのだ。
通行人がビックリして帽子を被って長髪で黒いトレンチコート姿の私を見て居た。私は言った「なぜ殴られたかは解るよなぁ、自分の胸に聞いて見ろや〜!!。」そう言って、私は歩き始めた。少し経って後を振り返ったら。藤堂は暫く動けずに蹲って居たが人が見て居るので慌ててハンカチで鼻を押さえて足早に居なくなった。多分医者に行っただろう。それから藤堂の実家はあいつの兄貴のヤクザが刑務所に入り。あいつの実家は売りに出されて無くなった。あいつは秋田で百姓をやって居ればいいだろう。私は農家の人たちを差別するつもりは毛頭無いが。あいつは所詮東京で生きられ無かった人間だ。田舎が似合って居たのだろう。俺は気に食わない相手はぶん殴りますよ。恨みを持つ相手はね。ただ最近はそう言う人間はユキカズとケンジを除いては周りには余り居ない。
「学歴について」
学歴なんか世の中に出たら関係ないとよく言いますけど、果たしてそうでしょうか?
「社会に出たら能力と実力がすべて。学歴なんて関係ない」と人は言うが、それでもなんだかんだ学歴は付いて回るもの。
・抜群に仕事が出来る同僚が矢張り高学歴だった時
・仕事がうまく行かない時
・人に紹介される時・履歴書を書く時
こんな時に学歴へのコンプレックスが顔を出す。「学歴なんて関係ない」と言うのは簡単だ。だが、そう言われただけでコンプレックスが無くなる程、人間は単純ではない。
■「学歴なんて関係ない」は本当か?
学歴はキャリアにまったく関係しないかと言うと、そうでもない。就職活動の書類選考で、企業によっては大学名で学生を「足切り」して居るのはよく知られて居る。それを考えると、社会人としてのスタート地点を決めるのに、学歴は関係して居るとは言える。
ただ、逆に言えば学歴がキャリアに関係するのは、実質そこだけだ。そこから先は、学歴など、無意味な格付けとマウンティングの材料としての用途しかない。
マウンティングされるのは不愉快だが、学歴をタテにマウンティングをする人は、自分の出自と受験勉強の成果にしか拠り所がないのが見えて居る。おそらく現在の仕事の実力の方は、決してほめられたものではあるまい。学歴で劣っても、その後の取り組みで追い抜く事が出来る。
社会人になったら「学歴」より「学習歴」の方が大事、とするのは『「学歴なんて関係ない」はやっぱり正しい』(草思社刊)の著者、安井元康さん。安井さんもまた、社会人になってからも自主的に学び続けることで学歴を乗り越えて、ビジネスの世界で大きな成功を手にした一人だ。
自分なりのゴールを定め、地道に学び続ける事で、学歴でのマイナスはカバーできる。しかし安井さんによると、社会人の学びには4つの「罠」があると言う。
・自己の責任で学び、カリキュラムがない仕事以外の時間で何をどのくらい勉強するかは自分次第。だからこそ、自分のキャリアプランやライフプランを設計したうえで、何を学ぶかを決める必要がある。
・時間の制約がある一日の大半は仕事の時間。それ以外の時間で勉強するとなると、体力的にも時間的にも限られて来る。そして、勉強に使える時間はライフステージの変化とともに、年々減って行く。
・学習の進捗や成果が見えにくい受験勉強は偏差値や志望校への合否で勉強の成果が測れたが、社会人の勉強にそうした指標はない。ゴールの無いマラソンである。
・過剰な期待を抱きがち。本来学びは地道なもの。学習によって人事評価につながったり、資格取得で転職が有利になったりなど、すぐに人生が好転するとは思わない方がいい。
キャリアアップの為の学びである以上、何を学ぶかを考える際は「労働市場で自分の価値を高められるかどうか」が基準になる。ただ、「今の仕事が不満だから、関係のない資格を目指す」と言った方向よりも「今の仕事とリンクした学び」の方が、学んだ内容を仕事で実践出来る為、効率がいいと言う。
◇
たとえ人に誇れる学歴が無くても、大切なのは「此処から人生を逆転させてやる!」と言う気概だと安井さんは言う。
受験勉強では負けたけど、社会に出てからは高学歴の人には負けたくないと思って居る人は、本書で明かされて居る安井さんの体験談や生き方、学び方は大いに参考になるはずだ。
まあ、「学歴なんて関係ない」は高学歴にのみ許された発言で、中卒や高卒が口にして言っても世の中、誰も相手にしないです。普通はそうですよね?。幾ら私の様な精神疾患者が普通に見てくれと言っても世の中はそう見ない様にね。中卒だとか高卒が真面に相手にされる世の中ではありません。高学歴の人間は平気で差別して来ますよ。はっきり言って私は大卒ですが、、人は何思うか私の主治医は私を軽蔑の目で見ました。今日は此処で私の本当の学歴を言いますが。実は私は夜学です。夜間大学出身者ですよ。出たのは40数年前です。そのせいで。私の主治医は私が自分の病状の経過を話そうとして「私は大学の2年の時に、発・・・」と言ったら人をバカに仕切って「大卒じゃないだろ!?大学だと言うな!!」そう言われましたよ。私に言わせれば精神科医なんて普通の医者の中ではバカにされて居ますよね。医者の中では位が低いのにね。自分がそう言われたら烈火の如きに起こるでしょうに?夜間大学でも大学ですよ。大学と銘打って居るのだから、、
薬の効用で、眠くて仕方ないkiyasumeです。すぐにうたた寝をして仕舞います。。。。
はっきり言って、あの主治医は患者を頭からバカにして居て、、私はねぇ、家の事情があって夜間大学に行ったんですよ。確かに夜学と言う事で人は差別をしますね。あの日本が誇る西田哲学の創始者。西田喜多郎は東大の本科生では無かったから(夜学でした)物凄くバカにされました。でもどうでしょうか。彼はあれだけの哲学体系を纏め挙げましたよ。彼をバカにして居た人たちが何か出来たのでしょうか?何も出来無いくせに彼の学歴は低い?と足を引っ張りました。此処で夜間大学の授業の事を言いますが。夜間大学(2部)の授業は夕方5時から始まります。そして夜の11時まで講義があります。私は昼はバイトをしてバンド関係の仕事をしたり。一応ミュージシャンの端くれの生活をして居ました。大学名は拓殖大学・夜間経済学部・商学科です。今はこの部署は拓大にはもうありませんが。しかし私はキッパリと大卒だと言って来ました。
実際、夜間部と言えども昼間の大学と教えられる事は全く同じです。私はよく学食で夕方近くに夕飯を食べたり。大学の近くにあった。茗荷谷の駅前にあった札幌ラーメン店で夕飯を取りました。色々な学生が居ましたよ。殆んどの人が高校卒業して働きながら勉強して居るのですよね。その分、皆さん学生は必死に勉強をしようとして居ました。ただ私が今まで言って来た様に。バカな学生も結構居て、大抵が昼間の大学に入れなくて高校から推薦で夜間大学に来た様な連中ですが。まるで幼稚でどうしようも無かったですね。例えば、ある時に政治経済の講義を受けて居たら。ある学生が突然立ち上がり「先生!!なぜ時計の針は左から回らないのでしょうか???」と聞いたりね。頭がおかしいんですよね。私は当時、自分では何も考えてなかったけど。よく友人から「歩き方がコタコタして居るよ」と言われましたね。私が思うに、私はもう大学2年の初め頃から精神的葛藤があって精神的に参って居たのでしょうね。
私の高校時代は、教室の壁にギターケースが置いてある様な処で。私立でしたが制服が無く。皆んな普通の服。大体がジーパンとジージャンとかですが1970年代の初頭ですから。女の子はミニスカートに冬はセーターとかでしたね。私の高校は演劇をやって居る女の子が居たり。男は、ほぼ、皆。ミュージシャンを目指して居ましたよ。私は高校当時は幅広く活動して居まして。よくblogに挙げても居ますが、漫画を描いたり。シナリオを書いたり、あとはギターとハーモニカ演奏でしょうか?よく軽音楽部に居たから部活でバンドのメンバーと演奏する時には、私がギターを弾くのでは無くて他の人が弾いて、私はベースを弾いたり、オルガン弾いたり、ドラムを叩いたりして居ました。軽音楽部ではバンドは3バンドぐらい居ましたからね・・・・。そして大学です、勿論夜学だから、夜に勉強ですから。昼間に来て部活をして居る人たちも居たけど。私はバンド関係で忙しかったから、よく早稲田大学の「R&B研究会」に通って居たり。東大のジャズ研のメンバーと話して居たり。東海大学の「漫画研究会」に顔を出したり。自分でも「ザ・ブルース」に記事を投稿したりして居ました。
大学は夜学でしたが演劇サークルの女の子は、昼間に大学に来て演劇の練習をして居たっけなぁ。それに学生とは言え。社会人の方たち年齢的に30代から40代の方も居ましたね。皆さん事情を抱えて居ましたね。大学受験が遅くなって仕舞った社会人の方などはもう子供が居ました。それで。大学の2年の終わりに普通科に成績さえ取って居れば編入が出来たんですよね。私などは成績が良かったから。教授やら助教授に目を付けられて居て。「君は夜学部に居たのではダメだ。成績もいいのだから。2年の終わりに編入試験を受けなさい」と言われて期待されて居ましたが、、精神病(統合失調症)になってから、全てが駄目になって仕舞いました。誤解しないで下さいね。期待されて居たと言うのは大学生としてですよ?バンド時代は、ほぼ大学の時にはBluesとjazzを演奏して居ました。ロックも全盛でしたけど。聴いては居たけど。演奏はロックの方はたまにしか演奏しませんでしたね。
あるHPから・・・・。
『学歴なんて関係ない! こんな事を工業高校中退で実質中卒の田村淳が言って話題になっていますが、こんなことをこいつが言っても何の根拠もないだろ。だって学歴得たことないんだから。 高学歴の人が「学歴あってもあんまり意味なかったなあ」って言うのなら分かるけど、最初からないのなら分かるわけ無いじゃん。 貧乏人のクソが明日食うものもない家族に「金あっても幸せとは限らないよ。」って言ってるようなもんだろ。そんな事言ってる暇あったらさっさと金稼いでこいと誰もがいいます。 それと同じで学歴なんて関係ないと低学歴が言っていれば、そんな事言ってる暇あったらさっさと勉強して学歴得ろって言って終わりです。 』
この文はあるサイトに書いてあったのですが、、この人は物事の表面しか見て居ませんね。大学行かなかったからって、大卒並みの教養が付かない訳ではありませんし。貧乏人が「金あっても幸せとは限らないよ」と言うのは本当なんですよね。私の知り合いに65歳の女性が居ます。彼女は20億の資産を持っては居ますが。旦那はDVでその女性は生傷が絶えず旦那のお陰で精神状態に異常をきたして居ますよ。だから、お金があれば幸せと言う事では無いのですよね。お金持ちたちは、何故仕事を辞めないのか?人生は金じゃないのですよ。使命感と言えばいいのか普通なら大金を得たら仕事は辞めて、悠々自適な生活をして、趣味にでも没頭して暮らすのではないでしょうか?でも、そうはしない。それは、そう言う人は一定のお金が稼げて居るのだから。
例えば、服飾専門家のMBさんとか彼は会社を3つ持って居て。数十億の稼ぎがあります。ですが、彼はYouTubeなどでお洒落が解ら無い人向けに公演して居ますよね。「使命感」なんですよね....。世の中は確かに学歴で人を見て来ます....。私は自分は大学2年、それも夜学でおかしくなって仕舞った人間ですよ。でも人がなんと言おうとも。バカにしようとも私は信念を持って生きて居ます。心の中までは誰も踏み込む事は出来ません。そして私の知識は雑学程度ですが、人の為になろうと思って、こうやってblogを更新して居ます。人として立派な人とは、最近では若いけどGACKT君の様な人やMBさん様な人の事を言うのですよ。此のblog記事の最初で社会人になったら、学歴より学習歴の方が大切だと言いましたが。例えばGACKT君やらMBさんやらは大学中退です。芸能人なら身近な人ではタモリは早稲田中退ですよ。だけども、彼らは日々勉強をして居ますよね。、学歴よりも学習歴(独学)の方が重要なのですよ。。。
高学歴だって社会のカスは山ほど居るし、逆に低学歴でも社会の役に立つ人や社長さん、株で大儲けした人だって沢山居ますし。皆さんはどう思いますか?皆さんでよく考えましょう・・・・。
私が、好きで応援して居る青木志貴ちゃんです。。。声優で舞台俳優、モデルでYouTuberです、、、
【祝7歳】愛しの我が子のお誕生日をお祝いしました!
==「過去記事より抜粋」==
「ハードボイルドについて、、」
書店では収穫無しだったが、古書店で一冊買い込んだ。
どうも最近、正規の本屋では欲しい本が見当たらない。要するに、私は小説はあまり読まないのです。昔はセリ・ノワールだとかハードボイルド小説だとか読んでいたけど。ダシール・ハメットとかゼェイムズ・エルロイなどだけれども、ハメット、チャンドラーに代表される伝統的なハードボイルドに対するアンチテーゼとして新しいハードボイルド、すなわちネオ・ハードボイルドが生まれたのは1970年代に入ってからで、次々と新人作家たちがデビューを果たした。ジョセフ・ハンセン「闇に消える」マイクル・Z・リューイン「 A型の女」ロジャー・L・サイモン「大いなる賭け」ほかで、特徴的なのは、一部の例外はあるものの、ヒーローたちは伝統的なタフガイ・ヒーローに対抗してのアンチ・ヒーロー、事件のみならず探偵の私生活が書き込まれると言う私小説の味わいが濃くなった。
重要なのはこのアンチ・ヒーローであり、エルロイがデビューした1980年代はネオ・ハードボイルド派の探偵たちが大きく注目された時期である。
主人公の殆んどがマイノリティー派、ドロップ・アウト組、市井派などに分けられ、これらはハメットのサム・スペイド、チャンドラーのフィリップ・マーロウ、などのタフネスやヒロイズムとは無縁の、より現代的な主人公像で、それがヴェトナム戦争後のアメリカの疲弊した社会、価値観が喪失しつつあった時代にはより身近に感じられて歓迎されたのであろう。
映画を例に取ってもハンフリーボガートの「三つ数えろ」ロバート・ミッチャムの「さらば愛しき女よ」などに対して、同じフィリップ・マーロウでもエリオット・グールドの「ロング・グットバイ」やクリント・イーストウッドの「ダーティハリー」などが出てきた。1980年代になるとあの2枚目スターのアラン・ドロンも冴えない3枚目の私立探偵を演じた「危険なささやき」などが出てきた。ああ、ロバート・カルプ 主演の「殺人者にラブソングを」もありましたね。
ダーティハリー、山田康雄の吹き替え版
The Long Goodbye Official Trailer #1 - Elliott Gould Movie (1973) HD
Pour la peau d'un flic (film 1981) bande annonce
【町山智浩のアメリカ映画特電】ガンマニア俳優「ロバート・カルプ」追悼
Magnum Heat (USA 1972 "Hickey & Boggs") Trailer deutsch / german
Farewell, My Lovely 1975 theatrical trailer
クリント・イーストウッドと言えば最近の若い人たちは映画監督でしょうと思って居るでしょうけど、「ダーティハリー」はその後の刑事アクションの流れを変えた作品です。何しろ初めは、フランク・シナトラで撮影を開始していたのだけどもシナトラが「俺はこんな汚い役はやりたくない・・・。」と降板してしまい。替わりに「夕陽のガンマン」やらのマカロニ・ウエスタンでアンチ・ヒーロー像を体現して居たイーストウッドが演じた映画です。サンフランシスコ警察殺人課の刑事。常に汚れ役の仕事を任せられる事から、「ダーティ(汚れ屋)ハリー」と呼ばれている。所有する銃はスミス&ウェッソン社のM29・44マグナムという大型銃で、射撃の腕も超一流。しかし、犯人の捜査には手段を選ばず、暴力に訴えることもあり、しばしばトラブルを起こすそんな刑事。しかし思うに、ハードボイルドは今の時代、消えてしまいましたね。
「ハードボイルド」は元来、ゆで卵などが固くゆでられた状態を指す。転じて感傷や恐怖などの感情に流されない、冷酷非情、精神的・肉体的に強靭、妥協しないなどの人間の性格を表す。
ハードボイルド小説とノワール文学(小説)は多くの共通項があると同時に、さまざまな点で異なって居る事もまた事実です。ハードボイルドとノワールの最大の相違点は、「主人公に感情移入が出来るか否か」です。いや、主人公が強固な意志の持ち主であるか否かと言い換えた方が解りやすいかも知れません。
ハードボイルド小説の主人公は、過酷な現実に直面しても感情に流されず、己の信念を貫く為に命懸けで抗います。一方、ノワール文学の主人公の多くは、意志の弱さゆえにどこまでも転落し、破滅へとひた走ります。
ちなみに古書店で購入した本です。ユリイカはちょくちょく購入しています。
なんとまあ、ジジィでぇ〜〜。すっとぼけた顔して居るのか、、眠りから覚めた直後の写真です。。。
==「これも過去記事から以前の話です。」==
「レーザーディスクの思い出」
貧血のため、夜は色々とおかずが多い宅配弁当を取っているのですが、1ヶ月で1万8千幾らかになる。その他、朝、昼の食費が可也掛かっている。此の儘ではどうしようもないので、昼は120円の惣菜パンを2つ買っていたのだが、弁当では金が掛かるので。そうしたら訪問看護師さんがおにぎりにした方が良いと云うので、今日はコンビニでおにぎりを明日の分も含めて4個買って来た。今日来た若い看護婦さんは矢張り、私の映画コレクションやら書棚に興味があるらしく小津安二郎の書籍を見て居て、「私、前にみゆき座で、小津安二郎の映画を週替わりで上映して居たので、その期間中、映画を観に行ってた....。」と云ってましたね。それで、レーザーディスクを「レコードですか?」と訊いて来たので、これはレーザーディスクだと云って見せてみたら、良く解らない顔をして居たので、五社監督の勝新太郎と石原裕次郎、それに山本圭、仲代達矢、三島由紀夫、共演の「人斬り」を見せてテレビで再生して見せたら、「三島由紀夫が出て居るのですか!!」と驚いて居た。三島が役者としても活躍して居たのを知らない人も多いかと思う。まあ、レーザーディスクと云っても、今時の女の子は解らないのだろう。
多分、幼い頃に、レーザーカラオケとして普及して居るのを、見たか聞いたかしたぐらいだろうと思う。。。。一般の人はレーザーディスク=カラオケの概念が強く。映画を収録してある、レーザーディスクがあると云う事は、映画通の人なら直ぐに解るけど、それ以外の余り映画には興味のない人たちには、そんなに知られて居ないかも知れませんね。以前に弟の嫁さんにレーザーディスクを見せたら、「私も、実家にカラオケの機械と一緒に持って居る」と云うので、「これは映画を収録してあるんだよ」と云ったら驚いていた。最近の若い女の子が知るはずも無いと云った処か。1990年代はまだビデオが普及して居たので、映画通は別にして一般の人は、レーザーディスクまでは手が回らなかった見たいですね。まあ、私はビデオテープのソフトを買うのでは無く、レーザーディスク、それも中古を買い漁って居ましたが。
雑誌で以前読んだのだが、俳優の竹中直人さんは、2万枚のレーザーディスクを所有して居て、自宅とは別にマンションを借りて、そこに全部収納して「映画の部屋」と命名し、映画が観たくなると、そのマンションまで行って居たそうです。まあ、今日はそんなこんなで疲れた1日だった。
追伸....。今はレーザーディスクはもう販売して居ません。特殊な店に行けば中古のソフトが一枚百円ぐらいで売られて居るのでしょうけど。ちなみに竹中さんは今はBlu-rayで映画を集めて居るそうです。2万枚のレーザーディスクは矢張り処分したのでしょうか、、このblogを見てくれた方、此処まで付き合ってくれて有難う御座います。此処まで読んでくれて有難う。下はお恥ずかしながら持っている書籍の一部です。笑わないでね...。
下は妹尾さんの貴重なライブ映像と、日本のブルースシーンを特集したテレビ番組です.....。暇つぶしに見て下さい。よろしく。。。
kiyasumeが吹くマイナーな曲のメドレー。また聞いてやって下さいね。。。
kiyasumeが作ったメロディー。下手ですが聞いて見てやって下さい。
kiyasumeが吹いたハードバップ風、ハーモニカソロ 。聞いてやって下さい。
"The Roots" japanese TV show [Weeping harp senoh][Shinji Shiotsugu] Second part
「フォロー・ミー」
輝く海を越えた地へ、私は行きます
そこは、私たちの知って居る世界を超え、
夢でしかなかった世界をも超えた先
私たちが味わって来た事の無い喜びが待ってる場所
愛だけが見い出せる道にそって、私を追って来て
喜びの歳月の夜を登り、
私たちが無駄に流した涙も、無駄に過ごした年月をも超えて、
光の中へ
遠く離れた地へ、この山を超えて、私は行くんです
そこでは、私たちがずっと隠して来た音楽すべてが、空にひびきわたる
沈黙の中で歌えば、退屈な日常から離れ、こころは自由になる場所へ
この世界がまわり、まわりつづけ、
堕ちつづけているうちに
聴いて見て下さい.....。
Ghost In the Shell: Innocence
昨日、起きられなくなり、、訪問看護師さんが来るもドア開けるの困難なので。ドアに鍵が空いて居ると書いた紙を貼り付けるのが精一杯で。また布団にと雪崩込んで寝て居たら.....。
寝て居ると言うか気絶みたいな感覚、、、
看護師の女の人が、慌てて、病院に電話を掛けて、主治医に指示を仰いで居ました。
その結果。リスペリドンの分量をカットして貰いなさい。飲まなくていいと指図があったのですが。以前は、幻聴が聞こえて来て。まあ、感覚的なものだけどもね。こう言う状態は、私は幻聴だと思って解って居ますから。対処出来て居ましたが。今は幻聴は出てきて居ませんが、薬は減らないのですよね。。。
薬は飲ま無いと病状はよくはなら無いし、、でもね抗精神薬は、病気を治す薬では無いので、あくまで症状を抑えるだけですから・・・・。
まあ、精神病、特に統合失調症は治ら無いんですよね。
だから人から何、言われようと、自分の病気への自覚を持つ事が大切なんです。まあ今は私は調子が悪いですが、普段は薬を飲んで居れば、生活は不自由ですがある程度は生活は出来ます。外へも行けるし。
外でパニックに成るなんて事はありませんよ。それにもし気分が悪く成ったら飲む薬が処方されて居ますので。そう言う時はそれをすぐに飲みます。それで心は安定します。
ただ変な話を言う様ですが抗精神薬を飲んで居るとEDになります。これは参りますが仕方がありませんね。まあ、私は結婚もして居ないし、恋人も居ないしね。ただ嫌なものですよ。気分的に。
そんな事で、食料品を買いに、コンビニまで行きました。
そして、ファミリーマートに寄って「洗剤無いですか?」と聞いたら、2階にありますと言うので。「2階あるのか?」と思い行ったら。飲み物が飲めるコーナーがあり、
「こう言うふうだから、最近は喫茶店が無くなるんだよなぁ....。」と思った次第です。
ああ、書籍のミニコーナーも有ったしね。ミニコーナーの机の上で。ノートパソコン広げてコーヒー飲んで居る人とか、買った雑誌読んで居る人とか居て、喫茶店見たいでしたよ。
だから洗剤をコンビニで買って街並み見ながら横向いて歩いて居たら、前から来た女子高生が「へッ!ケッ!ハハ!!」と人見て笑った。私の格好を見て言ったのだ。だから前向いたら、まあ、此のバカ娘も超ミニスカートで太い太腿剥き出しだ。
なんか私は最近、若い女の子が嫌に成った。どいつもこいつも低能のバカに見える。前にテレビ見て居たら、、
ある家族の事を映して居たのだが。IT企業の社長の若い奥さんが、「もう食べれるから、カッケーじゃん。ちょ〜よいじゃん」と子供抱えながら言って居て、此の男はもっとマシな女の子を嫁に出来なかったのかと見て居てバカ臭く成った。
バカ女は嫌いです。そう言えばあのGACKT君でさえも,,「食べれる。食べれる。ちょ〜かっこいいと言う様な女は大嫌いだ!!」と著書の中で怒って言って居た。気の利いた男なら誰でもそう思うだろう。特に40歳以上の男なら。
でも先月頃に用事があって。近所では駄目なので、、用足しに電車に乗って遠くまで行ったら。スカートの丈が膝小僧の上までで、清純な女子高生が2人して駅に居てきちんとベンチに座り話をして居て。心が和んだ。「君たち娘盛りを大切にな、、」と言いたく成って思わず笑みが溢れた。
まあ、此の文読んだ若い子からは「てめえがただのジジイなんだよ!!」と言われそうだが。。。
「美人はとくだ」
また、過去の事だが、働いて居た時の話です。私は元ケーキ屋の息子を親父から紹介された。「おい。お前は明日からこの人の車に乗れ。」そう突然言われた。その男は当時26歳で学歴は日大鶴ヶ丘高校を出て居た。出たと言っても、親父が日大鶴ヶ丘にブローカーに大金を払って入学させたのだった。高校入学当時、友達を呼んで刺身とかウナギ料理などやらビールを出してどんちゃん騒ぎをしたと言う。しかしそんな男でも苦労はして居た。高校在学中に、親父さんが突然愛人を作り自分と兄貴母親を捨てて、暮らし始めたのだ。彼の父親は彼を捨てたのだ。だから私のバカ親父が、精神疾患を持つ私に単に歳が近いからと言って面倒を観させようとしたのだ。しかし彼はそれを察して私にこう言った。「〇〇ちゃん、こんな商売なんかで働く事ないだろ。他の商売を、他のもっとちゃんとした会社を見つけた方がいいと思うよ。」すると親父はバカだからそう言われても「じゃあ、松本頼んだなぁ」と言って、自分は会社の社員の50男に運転させて居なくなって仕舞った。そして次の日。私はその男の車に乗って一緒に働く様になった。しかしそいつは怠け者だった。皆んな荷物を満載に積んで出かけるのに、わずかの荷物しか積まずに私を連れて何時も出掛けた。言う事は立派だった。「あのパン屋のドーナツは油を。あげる時に油を使いすぎて居るな。」私が黙って聞いて居るとこう言うのだ。「おりゃあさぁ、親父の後に店を切り盛りした時に揚げてるんだよ。」だから私は言った「松本さんはそれなのになぜパン屋にならなかったんですか?」すると「いや〜〜あんな仕事したくはねえなぁ.....。」と言う。
そして映画の話になって私が「昨日、やって居たマカロニ・ウエスタンの「ミスター・ノーボディー」と言う映画見ましたか?」と聞いたら怒ってこう言う。「ミスター・ノーバディーだろ!!」私は「?????」となって仕舞った。彼はなんでも高校はどうも出たらしいのだが英会話の専門学校に半年ぐらい行ったらしく。入り方が分からなくて上級コースに入ったら英語講師と街中で会うと。外国人の英語講師から英語で話かけられて困ったと言うのだ。「バディー」は日本語では「兄弟。相棒」で「ボディー」は直訳で「誰でも」要するに「ミスター・ノーボディー」とは、「名無し様」となるはずです。それが分からなかった。まあ、分かるから偉いと言うものではないが。そして荷物を積んで居ないのだから。時間を潰す事になる。何時も行くのはスナック喫茶でクラシックが掛かる店だった。そこで彼は当時で流行り始めたインベーダー・ゲームをして遊んで居た。私はゲームは嫌いなのだ。だから置いてある雑誌「フォーカス」を読んで居た。ゴシップ週刊誌だがそれなりには情報は解った。ある時に76歳ぐらいのヨボヨボの老婆が入って来た。そしてウイスキーを注文した。見て居るとそれを一気飲みしてスタンドの椅子から後ろに転げ落ちて頭を強く打って気絶して仕舞った。常連の客やら、店の従業員たちは慌てて119番を掛けて救急車が来て運ばれて行った。
すると彼は今度は自分のお馴染みの小料理屋やら、知り合いの女の子の家に私を連れて行くのだ。そして相手を煽てて、何時もタダで食事やらおやつを貰うのだった。そして相手を煽てておいて車に乗ると「あいつはバカな野郎だとか。」「あんなブス女本気に相手にするかよ!」とか言うのだ。そう言う事を思って居るからそのうちに、相手もその男が自分たちをどう思って居るのかが解って来て。ある小料理屋で定食を頼んだらその男の分と私の分の魚が真っ黒焦げで出された。そしてそこの看板娘のまだ19歳ぐらいの可愛い顔をした女の子が私たちを横目で睨むのだ。そうしたら、それ以来自分のアパートに私を連れて行って2時間半は寝て居るのだ。私はその間どうしようも無くただボーとして居た。仕事は真面にやろうとはしないのだ、ただ私は障害があるので休めて正直言って楽は楽だった。そうしたらある日、ユキカズが私にまた自分の車に乗れと言うのだ。そして乗ると後から乗って来て「貴様か!!俺の悪口を得意先で言って居るのは!!」と言う。ユキカズは私に嫌がらせをする時には必ず自分の車に乗せた。何故なら。それが証拠隠しなのだ。自分が私に嫌がらせをして居ない様に見せかけるのだ。私は一言「違いますよ」と言ったら。「じゃあ、誰が俺の悪口を得意先に言って居るんだ!!専務か!!バカヤロー!!」と叫ぶ。私は「もういいでしょう?」と言って車から降りて来た。それから数日経ったら、その松本は私に「ユキカズは低能の大バカ野郎だ。ざまあみろ。」と笑って居る。
そしてある日。「俺の彼女に逢わせるから彼女の家に行くぞ」と言って私を連れて行った。しかし行って見るとキセルを吹かした玄人ぽい老婆が一人で縁側に座って居て、私を見るとキセルを炭火の中にポンと落として私に深々とお辞儀をするのだ。私も深々とお辞儀をして頭を上げてもその老婆は頭を上げない。私は困って仕舞ったら。「あら、来たの」と奥くから出て来た23歳ぐらいの女の子がえらい美人なのだ。私も当時21歳だちょうど思春期だ。きれいな女性には参ってしまう。だが、肝心の彼がその老婆におせいじを言うとけらけら笑い出すのだ。そしてその美人の女の子が私に微笑んで、コーヒーを持って来てくれた。しかし私はなんかこの女の子は水商売をして居るなと思った。普通の美人とは違うなんか玄人ぽい雰囲気を持って居てきれい過ぎるのだ。それから1週間後。彼はその子と結婚した。そしてこう私に言い出した「俺も一家を張ったのだから、給料挙げて貰いてえなぁ」私は言った「当分共働きは出来ないんですか?」するとこう言う。「俺は一家を張ったんだ。女房を働かせる訳にはいかねぇ、、」でも私は言った「奥さんならOLとか色々仕事が出来るでしょうに。」
そうしたらその日は結婚の報告におじきに挨拶に行くと言う。そして私を連れて行くと相手は開口一番「あんばいはどうだった〜。」と聞く。そして「処女だったか?」と聞くのだ。私は「なんて言う会話をして居るんだ」と思って居たら。彼は一言「もうとっくに開通して居たさ」と言った。それから彼は私を車に乗せるのを嫌がり始めた。乗ろうとすると「また、お前が乗って来るのかよ」と言う。私は「分りました。それじゃあ」と言って乗らなくなった。その後。常務の悪口をうちの会社の親会社のメーカーの社員までに言って居た事を知られて、ユキカズが激怒したらしい。そして私も一言「仕事怠けててやりませんね」と言ったら。自分から会社を辞める羽目になって辞めて行った。その頃。彼の奥さんには子供が生まれた。彼をその後見かけた会社の社員が、彼は痩せてボロボロの格好をして居たと言って居た。しかし私はあの彼の奥さんならば、水商売でも、また、反対にどっかの会社のOLにでもなって働いただろうと思う。だから貧乏暮らしだっただろうが暮らせたはずだ。彼の友人は彼にうちの会社に入る前に。ある議員のお抱え運転手の職があるとか、バーテンダーの職があるとか言って居た様だが、「興味が無いねぇ、」と彼は皆んな断ったそうだ。今彼の子供は30歳ぐらいだろう。お母さんがあれだけの美人だから娘も嘸かし、べっぴんさんに育ったと思う。これもある意味思い出です。