【マンガ雑談】古書店さんで買ってきた漫画紹介☆彡
親父の思い出で、いいものは皆無だ。会社では私が倉庫番をやって居たら、自分が外回りが出来ないと言って、倉庫に来て居て、私がラジカセで音楽を聴いていると、「そんなものを聞くな競馬をかけろ!!」と言いたい放題。。挙げ句の果てには競馬のノミ屋を会社に連れ込んで私が邪魔だと言って、「てめえは外に行ってろ!!」と怒鳴る始末。私がそんな会社が嫌になり従兄弟のゆきかずからの嫌がらせもあって会社を辞めて家に居ると、夜12時に帰って来て、私が楽しみに観ている放送大学の「芸術論」「メディア学」を見させない算段をする。私の前に来て夕刊を広げて観るのを邪魔をする。私が怒ると「おめえはバカだ!!勉強なぞは学生時代だけでいいんだ。あとは遊んで暮らせばいいんだ。」と大馬鹿な事しか言えない。そしてバカ親父は会社が5時半に終わってから、パチンコ屋に行き夜12時の閉店までパチンコをして居た。聞く処に寄ると、親父は金が無く成るまでパチンコをして、金が無くなると隣の人がやって居るのを見て居たそうだ。そして隣の人が呆れて「じじい!!球ならくれてやらあ!!」と投げつけられた球を拾い、それでまた2時間遊び。そして球が無くなると、今度は床を這いつくばって落ちている球を探しあるとそれでまた遊ぶ、乞食のような真似をしても恥ずかしくは無かったバカだ。会社で一緒に働いていた頃。或る日、親父が私に食パンを買って来いと言う。何故だと思ったが自分で食べるのだろうと思い買ってくると。それに会社の倉庫にあるサンプルのジャムを塗れと言う。そしてそれを皆んなに配れと言う。私は「こんなものをあげても誰も喜ばないよ!!」と言うと「おりゃあな、みんなに缶コーヒーを奢れば8百円は掛かるんだ。これなら百八十円ですむ!!」と言う。私が「金がないなら奢らなきゃ、いいだろ!!」と怒っても私に皆んなに食パンを配れと言う。「私が配ると社員は困った顔をし、私にいらないと返してくる」するとあのバカ親父は「儲かったじゃねえか、お前が喰え、美味いぞ!!」と言う。「いい加減にしろバカヤロー!!」と私がブチギレてバカ親父を怒鳴りつける有様だった。バカ親父にビデオデッキを挙げた時だ。当時6万8千円の安いビデオデッキだったが。親父の寝室のビデオデッキが壊れて居て無いので、挙げてテレビに繋げて「これでビデオテープが見られるよ」と言ったら、「これは幾らしたんだ」と聞く。「安いものだから数万円だよ」と言うと「だからおめえはこれを幾らに値切ったんだと聞いて居るんだ!?」と聞く。私は呆れて「新品なんだから定価だろ!!」と言うと「見た所、箱もねえし、新品じゃないだろう!!いくらで買った、いくらに値切ったんだ!!」と言うのだ。私は激怒した、親父が好きな時代劇を録画して観られる様に、一週間前に私用の予備のビデオデッキとして買って居たものだ。それを挙げたのに。。。そして自分はこずかいを全部パチンコ。競馬。オートレースにつぎ込んで、金が無くなると、姉さんの家にまで行って「今日のパチンコ代、2万よこせ」と行っては姉に怒られて帰って来るバカだった!!私が賭け事も程々にしろと怒ると、「おりゃな、遊ばせて貰ってるんだ。金なぞ幾ら掛っても遊び代だ」と言う。親父が肺がんで入院した時に、弟の友人の内科医が見舞いに来て「お父さん、パチンコ屋に毎日7時間余りも居たのは良くなかったですねぇ」と皮肉を言われたが。私が「タバコの煙が充満する処に毎日6時間から7時間も居て、ガンにでも成ったらどうするんだ」と言って居たが「おりゃ、生きても72だ。俺の親父が死んだのは72歳だ、人間はそう生きられねえんだ!!」と言って居て、言う事を聞かなかった。呆れ果てたバカだった。ガンが末期に成って、骨ガンに転移して医者から酸素呼吸器を充てがわれて居た時に、私がバカ親父の手を握って、「意識があるのなら手を握り返して来な」と言ったら、すごい勢いで握り返して来たが、私はその時思った。「あれほど言ったのに自分で命を詰めて、こうやって思いっきり握って来るとは、死ぬのが嫌らしい。もう遅いんだよ、あんた。」親父は安楽死だった、医者が注射を打って息を引き取らせた。私は自分に流れている親父の血を嫌だと思う。私は親父の家系は大っ嫌いだ。親父は明治大学を卒業したと言うが私は疑って居た。大卒にしてはバカすぎるからだ。親父は学生時代、香料の会社でバイトをしていて、大学を卒業してから香料の会社に勤めたと言うが、本当に明治大学を卒業して居たら、そんな会社には就職しない。親父は会社を立ち上げた、菓材材料の卸問屋だ。兄弟の兄と一緒に立ち上げた。しかし、近所の人は、特に家の裏に住んでいた宗教に凝っていた人が、「〇〇さんは立派な会社なぞ立ち上げて、これも何も神様のお陰だから、気張って寄付をしてくれないと困るよ。」と周りもロクでも無い事を言って居た。親父は優秀だった弟が医大に行く勉強をして居るのに、「頼むから俺の後を継いでくれ、医大なぞは行くな、高卒かその辺の大学を出ればいい」と言ったそうだ。弟は毎日夜遅くやって来てそう言ってくると怒って居た。菓材材料の会社なぞ、今はどこも潰れている。会社会社と自分が作った会社をなんか特別に凄いと思い込んで居た。私は子供の頃、板チョコを買って貰えなかった。板チョコが欲しいと親に言うと、親父が厚さ10センチはある原料用の板チョコを割って持って来て「これを食え、同じチョコレートだ」と言うのだ。厚みがあって食べられない。そして甘くは無いのだ。子供の頃は親父が学校で同級生にチョコバーがうちにあって一個80円だと言えと言うのだ。小学生当時チョコバーは人気があった。同級生の子供らは私から話を聞くと、当時100円していたチョコバーが80円で買えると皆んな喜んでこぞって買いに来た。親父はうまく在庫が掃けたと喜んだ。一から十、そういった具合だ。私はよくダシに使われた。親父は材料を下ろして居る相手の会社が倒産するとその会社の倉庫から食料品を持って来て会社で売って居た。よく、バターだとか油、小麦粉などを仕入れて来ては私に学校で安く売ると言えと言って居た。その度に私はそう言い、友達が買いに来た。1990年代に成ると会社は何億の儲けを出す会社に成って居た。そして親父が苦労して育てた会社は、親父と一緒に経営して居た兄とその子供に乗っ取られた。親父は俺はもう駄目だと泣き崩れた。弟はそんな親父に「後の生活は自分が金を家に入れるから」と言って慰めた。親父と母は戦後すぐに出会った。母が神田神保町の新星堂の本屋に書店員として勤めて居た時に親父に会ったそうだ。母は初め親父のことを同僚に言うと「あの人だけは付き合うのやめた方がいいよ」とよく忠告されたと言っていた。母は当時3畳間の下宿で一人暮らしをして居た。母は17歳で両親に死なれて居る。自分を好きで通ってくる親父に根負けして結婚したらしい。親父は3畳間の母の荷物を荷車に乗せて母を連れて自分の実家に来させたそうだ。そして結婚式は自宅で挙げて一緒になった。母は苦労した。姑は鬼だった。親父の父親は嫁の母が大好きで付いて回ったそうだ。いつも母の30センチの処に居て、母が体を動かすと必ずおじいちゃんにぶつかったと言って居た。そして実家を出た親父たちは長屋に住み、その長屋を売って2階家を立てた。2階家を立てた時に、会社は社員と住むための2階家で、お勝手を広く取ったのは、社員たちに食事を取らせる為だと言った。私は自分の部屋は無いのかと聞いたら、社員を住まわせるために家族が使える部屋は2部屋だけだと言う。私は小学校2年生なりに「それはおかしいんじゃ無い。お父さん達が立てた家じゃ無いの?」と言った。しかし従業員は初めのうちは2階のお勝手まで食事を食べに来て居たが、悪いと自分で食べ物屋に行って食べる様に成った。1階は会社だ。2階には部屋が5部屋あった。そのうち2部屋に学生を置き。母が下宿屋を始めた。残り3部屋のうち1部屋がリビングで、もう一部屋が親父と母の寝室。残り一部屋が姉と私の子供部屋だった。私は姉と布団を敷いて寝た。1960年代から1970年代初頭。私はよく部屋で朝方早く置きて居た。明け方の5時になると決まって掃除婦のおばあちゃんたちが、家の前の通称青バス通りを10人ぐらいで大声で話しながら通って行った。その後小学校3年生ぐらいになると部屋は姉専用の部屋になり。私は廊下の角の空いたスペースに机を置いてそこが私のコーナーと成った。私は中学に成るとその廊下の角にベニヤ板と秋葉原で買ってきた1千円のスピーカーを使って、自分でスピーカーボックスを作ってラジカセを繋いで鳴らして音楽を聴いて居た。そして高校生に成った時に1階にうなぎの寝床程の部屋を増築した。そしてそこが私の部屋と成った。その部屋は大学を卒業するまで私の部屋と成った。私は部屋に靴箱の横長のものを置いて、その上にビデオデッキとテレビ、ステレオを置いた。音楽はバイトで買った3万幾らかのモジュラーステレオを買って聴いて居た。広い横長の靴箱の上に家電は全て乗せて、下の靴箱の中にレコードとビデオテープを収納して、その前にベットを置いて居た。そして人と会うときは行きつけのブルース喫茶で会って居た。やがて自宅はマイクロソフト社を立てる為に、地上げ屋に地上げされて土地を他に用意して貰い、今度こそ自宅だけの家を建てた。この時、親父の兄貴がやって来て。「一階を前みたいに会社にしてくれ」と言って居たが、親父は兄貴に「なに都合のいいことばかり言ってるんだ?会社は雑居ビルの1階に入居すると言っただろう?」と言って取り合わなかった。正解だった。私は今度は10畳間が自分の部屋と成った。弟は自立したいと言い、4畳間と3畳間そして10畳間を貰い。階段は外階段をベランダに付けて貰った。私は10畳間一部屋で暮らして居たが、ビデオテープが1千本。レーザーディスクが400枚ぐらいに成り、またレコードも400枚ぐらい合ったものだから部屋が狭く成って居た。楽器演奏をする為に、10畳間は防音に成って居てギターアンプとエレキギター2本とベースが1本、ブルースハープとハープ用のアンプもあったので、隣の6畳間ものちに貰う事に成った。そして問題が無ければそのまま暮らせる筈だった。しかし親父は先に書いた通り亡くなり弟は結婚して田園調布に家を持ち。母は認知症に成り。困った私は、弟が出ていった部屋の10畳間を300万掛けてリフォームしてトイレとシャワールームを付け、10万で貸して、働いて貯めた金とその10万で認知症の母と共に暮して来た。しかし、自分が障害を持つように成ったら、姉弟からは家を出ていってくれと言われ、今度は弟の援助で、月11万のデザイナーズ・マンション、8畳間と5畳半の2部屋の処に住み、暮らして居た。ビデオテープ1千本は持って来れず実家に置いて居たが、弟が亡くなり。実家は処分された。その時にビデオテープも処分された。そして家賃が払えなく成り、今、こうやって6畳間と5畳間の5万円のアパートに越して来て、今が有ります。何遍も言う様ですが持ち金で暮して居る為にあと2、3年は住めると思いますが、それ以降は生活保護で暮らすつもりです。障害があって働けないですから。仕方が無いです。。。
紀伊国屋書店に行って来る。まあ、散歩がてら見てきた。此の間、ネットの古書店で本は購入しているので立ち読みです。
今日は、靴とブルースハープが届いた。。。
またまた自撮りです。太っているなぁ〜〜。御免なさい。。。
最近、人は何思うかと思う時がある。ヘルパーのオバハンが「〇〇さんはいつもちゃんとした格好をして居るけど」と言う。私が「Yシャツですよ?」と言ったら「なんでTシャツ着ないんだ」と言うのです。そして「汚れたらどうして居るの?」と言うので「洗って居ますよ」と言ったら「Tシャツ着れば汚れは目立たないのに」と言うのです。そして私が、「この間新宿の東口に行く地下道のアーケードにあるシャツ・ショップで柄物のシャツを2着購入した」と言ったら。「新宿は高い。シャツは高い、幾らの物を買ったの?」と聞くので4千円の物だと言ったら、「私なんか下北沢の古着屋で1枚三百円のTシャツを買って着て居るよ」と言う。高い物を着すぎると言うのです。私は普段着は1,800円のUNIQLOのYシャツを着ています。私はちゃんとした格好をしたいのです。Tシャツも嫌いでは無いが、歳から言って、砕けすぎだと思って居る。Tシャツも絵柄が入ったものを持っては居るが最近は着ないです。此処の処、京アニの放火殺人犯が自分の小説を京アニに真似されたとか、彼がアパートを借りると出て行く時に、家主が気に喰わないからと必ず部屋を無茶苦茶に壊して出て居ったらしいけども。自分が悪いのに人のせいにしているし、他人を羨んで居たそうですね。私が大学生だった頃にある男にストーカー行為をされて居たのですが。そいつは優を一つ貰えたからと威張って他の学生に見せて居たけども、ある日私の成績表を見て、私に対してライバル心を寄せて来たけど。居るんですよそう言う御仁が。人と自分を比べてやっかむ。なぜ自分は自分と思えないのか?人は人の都合で生きているし動いて居るのですよ。自分とは違って当たり前です。それを受け入れられない。困った人が偶に居るのです。人に寄っては私の部屋を見て、「こんなに広いお勝手は入らないですよ。5畳だなんて広すぎる」と言う人も居るんです。大抵、自分の部屋と比較して居る。私はこのくらいの広さがないと本棚だとかDVDが収まらなかったのです。本当に人は何思うかですよね。まあ、そして若いと最近の知識でモノを言う事が多々あるけど、ケア・マネージャーが前に行って居たけど。「CD、DVDの盤で所有するのは可笑しいですよ。あれは外に持ち歩く時に必要なだけです。私はHDDに収めて居る。場所も取らないです。」と言って居たが、合理的な考え方だが、私は全部が全部いいとは思っては居ない。確かにHDDに入れるのは場所を考えればいい方法だとは思うが、金が掛かる。それにHDDの容量もあると思う。私はだから一部は取り入れたけど(4K放送はHDDに録画する事にした)が、今まで通り、私はドキュメントはDVDに、Blu-rayにはドラマ、映画、アニメを焼いて行こうと思って居ます。でも、最近は映画が入って居るBlu-rayソフトは余り購入はして居ない。ケーブルで観られる地デジ、BS、CSをBlu-rayディスクに焼けば良いだけだから。それにLPレコード300枚は遂に売らなかった。価値がありますから。そして私はLPレコードのジャケットを眺めるのが好きです。中の解説書だとかも読んで居ます。レコードのあのアナログの感覚がいいのです。最近では、またレコードが復活して居ますよね。大体がCDはレコードに比べたら周波数を上と下の値をカットして居ます、要するにレコードの方が音がいいのですよ。本も、電子本が21世紀になったら流行ると言われて居ましたが、果たして流行って居ますか?相変わらず紙の本は人気がありますよね。確かにCDは売れなくなったけど、今はYouTubeで大抵の音源の曲はタダで聴けますからねぇ。私は此処、3年ぐらいCDは購入して居ません。私はまだオーディオ・テープをラジカセで聴いて居ますよ。特に自分のバンドでの演奏やら、来日したアーチストのライブだとかのオーディオテープですが。ラジオもよく聴きます。ミニコンポで聞く事もあるし、ラジカセのラジオで聞く事もあります。ラジカセはいまだに必需品ですよ。私が持っているラジカセはサンスイ製で、勝手のナショナルのラジカセを復刻させたものです。今時ラジカセは古いので、僅か4千円で買えました。今は過去の物も新しい物も何でもありの時代ですよね。ラジカセの様に古い機種も復刻されて居ますよ。その内ブラウン管のテレビなども小型のものは復刻されると思いますよ。地デジ、BS、CS、が4Kで観られる様に改造されたものが。。。復刻されたラジカセも最新のコンデンサーに改良されて居ました。音もいいです。ただ安い3千円ぐらいのCDラジカセは駄目ですね。やはり無理がありますね。私はデザイナーズ・マンションに居た頃に寝室用に1台購入して持って居ましたが、音が悪すぎて使えなかったですよ。復刻されたラジカセの方が音がいいですね。最近はパソコンの音も低音やらが結構出て来る様に成って居て、私はiMacを愛用して居ますが本体内蔵のスピーカーが音がとてもいいです。ロックやジャズ、クラシック、アニソンまで幅広く鳴らしてくれるのがお気に入りです。今はいい時代ですよ.....
僕のオススメiMacデスク環境を紹介します!
【アップル】iMac2019の内部スピーカーと外付けスピーカーで聞き比べをしてみました。
ー1960年代ー
1966年それは来るべき炸裂を予告する様な年だった、4月にフランスで出版されたフーコーの「言葉と物」がその謎めいた文体によって人々を魅了し始めた頃。ビートルズはコンサート活動に終止符を告げる、そして狭いスタジオの中に立てこもる。1967年。フランスでは昨年来、奇妙なモードが氾濫していた。若者たちが、前年に発表されたフーコーの書作をかかえながら、ビーチに集い<人間の終焉>というつぶやきをモードとして受け止めていたのである。その年、ジミ・へンドリックスやジャニス・ジョプリンなど、その後のロックを決定するミュージシャンが相次いで群衆の前に姿を現し、ジャック・デリダと言う哲学者が「グラマトロジーについて」というスキャンダラスな書物を発表している。日本では、前年から放映されていた「ウルトラマン」が最終回を迎える、秋から新シリーズとして「ウルトラセブン」の放映が開始された。そしてビートルズは急激に豹変した。コンサート活動を休止した成果が、67年に「サージェント・ペパーズ」となって結実したのである。レコードと言うメディアから何かが炸裂したと言っていいだろう。そこにはステージで再現不可能なロックが有りレコードに固有の臨場感だけが唸りを上げていた。又ビートルズは同年、コンサートやレコードとかけ離れた方向から人々の前に姿を現している。すなわち、スタジオである楽曲をレコーディングしながら、その光景を人工衛星によって世界中に中継して見せたのである。その数年前にJFKの暗殺シーンが世界を駆け巡ったように、ビートルズのレコーディング風景が地表のすみずみにまでばらまかれた。日本では夜もしらじらと開けるという頃NHKで放映された。ビートルズはいったい何を達成したのであろうか?単なるレコーディングによって、それまでのどんなコンサートよりはるかに多くの聴衆を自室のモニターの前に釘ずけにしたのである、私はこの映像を観たのを覚えている。1967年が重要なのはビートルズが群集の前から姿を消したからでは無い。彼らが群集を前に演奏するとは別の形で、それもきわめて意図的に公衆の面前に出現したからである。ビートルズは関係の触接性を放棄したわけではないし、メディアを介した間接的な関係の中に埋もれてしまった訳でも無い。自体は逆の方向に進んで行った。一見すると局所的な空間に制限された「今ーここ」のアクチュアリティが各地に分散し、異なる時空に開かれた「今ーここ」へと切り開かれて行った様に思われるであろう。しかしながらビートルズはコンサートに嫌気が指していたのだ。或いはこう言って良いだろう。ー叫びにかき消されるような現在など、始めから無に等しく、それ故に彼らはアクチェリアリティの亡霊を追い払ったに過ぎないのだーと。すでに19世紀の頃から現在とは点であることを辞めていた、出来事は縦横に層をなし、多数の場所で複雑に交差している。現在とは、ある一点における炸裂ではなく、幾つもの層を貫いて前後にぶれ、そのぶれの中で過去にすでに反復され、やがて未来に反復されるべき出来事に成って行った、この点を実戦的に証明することにより、ビートルズはナム・ジュン・パイクの予言を正確に実現して。パイクに並ぶ先駆者の栄光まで手にし得たのである。「ウルトラマン」も、また、やがて「真夜中のカウボーイ」の中に引用されるだろう。映画の中のテレビ画面に「ウルトラマン」が上映されたのである。しかし「ウルトラマン」が前年に終了し、「ウルトラセブン」が渇いた都市の風景を描写してい居た年、すなわち1968年にはまた別な出来事が炸裂し始めていた。日本では全学連による新宿騒乱が起こり全共闘の学生たちは「ガロ」に掲載されていた白土三平の「カムイ伝」をバイブルとしたのである。そしてジル・ドールズが「差異と反復」を発表し、吉本貴明が「共同幻想論」を出した年でもあった。1969年1970年と年は変わりアポロは到達したが革命の時代はやっては来なかった。若者は挫折し打ちのめされ、時代は変貌を遂げて行った。そしてビートルズはホワイトアルバムを発表したのだった。
The Beatles - A Day In The Life
The Beatles - Girl
The Beatles- Michelle
Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band (Remastered 2009)
While My Guitar Gently Weeps (Taken from Concert For George)
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「マンガについて・・・」
<20世紀以前の漫画>
世界の美術史から見ても最古の「漫画」にあたる存在は、平安時代末期に書かれた「鳥獣人物戯画ではないかと言われています。それは写実的な絵画とは異なる「遊び心」をもって描かれた「エンターテイメント絵画」を「漫画」とみるなら間違ってはいないのかもしれません。ただし、当時の絵巻物は、ごく一部の貴族や僧侶たちのものにすぎませんでした。「漫画」が大衆のための娯楽文化として大きく発展するためには、印刷機などの複製技術の登場が不可欠だったのです。その意味では、18世紀初め(江戸中期)に大阪などで人気を得た「鳥羽絵本」と呼ばれた戯画本こそ、本当の意味の「漫画」だったといえるのかもしれません。大阪生まれのその娯楽文化は、すぐに江戸にも広がります。こうして、18世紀末の写楽による役者絵や1814年に登場した葛飾北斎の「北斎漫画」など、浮世絵文化として、さらなる人気を獲得してゆきました。しかし、こうした浮世絵の発展だけから「漫画」が生まれたとはいえないでしょう。そこには写実性や批判的視点、それにギャグの要素、それにストーリー性などが不足していたからです。では、そうした要素をどこから補ったのでしょうか?意外なことに、それは海外の漫画から吸収されたものでした。
<海外からの漫画文化流入>
海外から漫画文化を持ち込んだ原点ともいえるのは、1862年(文久2年)に横浜の外国人居留地で創刊された漫画雑誌「ジャパン・パンチ」です。イギリス人のチャールズ・ワーグマンによるこの雑誌は、日本人の風俗や時代の流れを風刺する内容で、明治20年まで続き、文明開化の日本に大きな影響を与えました。そのため、日本では諷刺画のことを「パンチ」と呼ぶようになり、後の「平凡パンチ」などのもとになります。
ちなみに、「パンチ Punch」とは、もともとがイギリスの有名な諷刺雑誌のタイトルです。しかし、さらにそのもとになっているのは、「パンチネロ Punchnello」という17世紀イタリアの人形劇の主人公の名前です。そのずんぐりむっくり体型の道化師パンチネロの名前が略されて「パンチもしくはポンチ」という名前が生まれたのでした。「ジャパン・パンチ」の影響を受けながら社会諷刺週刊誌として、1877年に創刊されたのが「團團珍聞(マルマルチンブン)」です。武家の出身で英国留学の経験があった野村文夫という人物が自由民権運動の盛り上がりを背景に作ったこの雑誌は全国各地で売られ人気を獲得。その影響を受けて様々な諷刺雑誌が誕生することになります。
次に日本の漫画に大きな影響を与えたのは、フランス人の画家ジョルジュ・ビゴーです。もともとヨーロッパで一大ブームとなっていたジャポニズム・アートに憧れて日本にやってきた彼は、日本で画学を教えながら、1887年諷刺雑誌「トバエ」を創刊します。(もちろん「トバエ」とは、「鳥羽絵」からとられた名前です)彼は17年間日本で出版活動を続け、日本の軍国化に警鐘を鳴らし続けますが、警察からの弾圧を受けるようになり日本を離れざるをえなくなりました。しかし、こうした彼の姿勢はその後、日本人にも受け継がれてゆくことになります。
1900年代 | |
1901年 | 宮武骸骨が雑誌「滑稽新聞」を創刊 |
1902年 | 「時事新報」に日曜漫画欄「時事漫画」が登場 |
1905年 | 北沢楽天が週刊誌「東京パック」を創刊 |
1906年 | 「東京パック」に対抗して、「大阪パック」創刊 |
1907年 | 絵葉書で出来た本が大人気となり、そのブームに乗り、宮武が遺骨が「絵葉書世界」を創刊 |
<宮武骸骨、登場!>
骨太なジャーナリズム的諷刺漫画の世界を日本で発展させ、今や伝説的な存在となった人物、それが宮武骸骨です。「ジャパン・パンチ」が終刊となった都市、1887年、宮武骸骨は「頓知協会雑誌」を創刊。ところが、その痛烈な政治批判は明治政府にマークされることとなり、明治憲法の発布式のパロディー描写が不敬罪にあたると訴えられます。彼は、雑誌を発禁にされただけでなく、罰金と禁固刑を言い渡されます。普通ならこれで出版活動は終わるところですが、彼はそうしませんでした。刑期を終えた彼は、すぐに出版活動を再開します。雑誌の名前を変えた雑誌において、彼は牢獄での生活をネタにするなど、まったく悪びれることはありませんでした。そんな彼の雑誌を支える自由な風潮も当時はまだ十分に残っていたということでもあるでしょう。
1901年に彼が大阪で創刊した「滑稽新聞」は、こうして彼の出版活動を象徴する雑誌として今や伝説的存在となりつつあります。様々なアイデアと過激な思想を盛り込んだこの雑誌は、その後も治安当局に摘発され続けますが、彼は資材を投げ打って出版し続けます。
ペンによる反政府活動を続けた宮武骸骨の存在は、時代を越えて今でも多くのファンをうならせ続けています。
<ポンチ絵ブーム>
前述の「團團珍聞」に政治諷刺漫画を描いていた田口米作は、1896年三号にわたり6コマ漫画「江ノ島鎌倉長短旅行」を発表。デコボコ・コンビ「長」と「短」の珍道中を描いたこの三連作漫画は、漫画史における初の連載コマ漫画といわれています。
明治28年(1895年)に日清戦争が始まると、それを題材にした浮世絵師たちによる戯画錦絵が次々に発表され、ポンチ絵ブームが起きました。(ポンチはパンチがなまったもの)そこへ宮武骸骨の「滑稽新聞」が登場すると、その人気に便乗して東京でも対抗する漫画雑誌「東京パック」が創刊されます。東京の漫画界を代表する存在となった北沢楽天のこの雑誌と宮武の「滑稽新聞」はともに好調時には、全国で8~10万部を発行していたといいます。こうした時代の流れに乗って、大阪では「大阪パック」が、さらに1907年には初の少年向け漫画雑誌「少年パック」も創刊されました。
しかし、1910年「大逆事件」によって、政府批判が困難な時代が訪れ、多くの雑誌が反政府的とされ廃刊に追い込まれてゆきます。
1910年代 | |
1915年 | 岡本一平が東京漫画会を結成。(後に日本漫画会となります) 第一回漫画祭開催。 |
1916年 | 岡本一平、近藤浩一路ら東京美術学校卒業生らを中心に「トバエ」創刊(ヨーロッパ美術の影響を受けた漫画誌として漫画史に大きな影響を与える) |
1919年 | 宮武骸骨が雑誌「赤」を創刊(プロレタリア運動のブームに乗った内容) |
<大正デモクラシー>
1917年、ロシア革命が起きます。その後、世界中で社会主義が大きなブームとなり、日本でも社会主義思想が急激に広まりをみせ、「大正デモクラシー」の時代がやってきます。1918年、富山で主婦たちが起こした米騒動は全国に広がりをみせ、当時の寺内内閣は総辞職に追い込まれてしまいます。漫画の世界でも、そうした流れを受けて「プロレタリア漫画」と呼ばれるジャンルが登場し、宮武骸骨はズバリ「赤」という漫画雑誌を創刊しています。漫画が再び勢いを取り戻したこの時代に、その地位を確立し、文化としての漫画を完成の域へと高める役割を果たしたのが、あの岡本太郎の父親、岡本一平でした。
<岡本一平>
岡本一平は、1886年北海道の函館に生まれています。5歳の時、東京日本橋へと引越した彼は、東京美術学校で西洋画を学びました。画家として成功を目指すものの、その夢はかなわず、26歳の時、朝日新聞社に入社。社会面に絵と文章による社会諷刺漫画を描き始めます。自ら「漫画漫文」と名づけたこのスタイルは、一躍人気を獲得。これ以後、漫画家は絵だけではなく自ら文章も書くのが常識となってゆきます。
さらに彼は「朝日新聞」に「人の一生」という連載漫画を執筆。唯野人成(タダノヒトナリ)という平凡な男のサクセス・ストーリーを絵と文章によって何年にもわたって描き続けたこのシリーズは「漫画小説」と呼ばれました。彼は当時娯楽の中心となりつつあった活動写真の大ファンだったことから、フィルムのコマを意識した連続漫画を描きました。「映画小説」ともいわれた、このスタイルも、その後のコマ割り漫画に大きな影響を与えることになりました。
さらに彼の功績として特筆すべきなのは、東京在住の漫画家たちに声をかけ、1915年東京漫画会を結成したことです。この団体は後に日本漫画会と名前を改め、漫画家たちの親睦だけでなく、漫画祭や展覧会、講演会などを開催。職業漫画家という新しい職業を広く世間に認知させることになりました。さらに彼は仲間たちと日本初の漫画同人誌「トバエ」を発行。フランスやドイツの雑誌からの影響を取りいれた実験的な内容で、美術としての漫画のレベル向上を目指す画期的な試みでした。
数多くの作品を発表し続けた彼は、それらの作品を「一平全集」としてまとめて発売。全十五巻のセットが、なんと5万セットも売れたといいます。当然、彼はそのおかげで多額の印税を受け取ることになりました。そして、そうして得た収入を用いて、彼は妻のかの子と息子の太郎、そしてなんと妻の恋人までも連れて、2年3ヶ月にわたる世界旅行。さらには太郎を芸術家にするため、パリに留学させることができたのです。この時代、未だ先進国の仲間入りもしていない日本からパリへと留学させるのにどれだけのお金が必要だったのか?そう考えると、漫画なくして芸術家、岡本太郎も、「太陽の塔」も生まれることはなかったのです。まだ漫画は生まれたばかりでしたが、それでもその分野で成功することは、現在の人気マンガ家に匹敵する報酬を得ることも可能だったというのは驚きです。
1920年代 | |
1923年 | 「アサヒグラフ」が「正チャンの冒険」と「親爺教育」(ジョージ・マクマナス作のアメリカ製漫画)を連載開始 報知新聞が「ノンキナトウサン」(麻生豊)を連載 |
1924年 | 本格的な子供向け漫画誌「子供パック」創刊 |
1928年 | 「現代漫画大観」全10巻が刊行される。漫画全集のブームがおきる 元祖少女漫画「とんだはね子」(北沢楽天) |
1929年 | 北沢楽天が自らの欧米旅行をもとに「世界漫遊漫画」を「時事漫画」に発表 岡本一平の作品を集めた「一平全集」が5万セット突破! |
<戦争の時代へ>
岡本一平の「人の一生」と並び、連載漫画の名作重要なのが麻生豊の「ノンキナトウサン」(1923年)です。同じ年、アサヒグラフに連載されていたアメリカの作家ジョージ・マクマナスの「親爺教育」の影響を受けたといわれるその漫画は、ダメなとうさんの波乱万丈な人生を描いた味わい不快ギャグ漫画として大きな話題になりました。
トボけたキャラクターを主人公にその人生を描いた連載ギャグマンがの原点はこの「ノンキナトウサン」と言われています。さらに大人のアイドルが「ノントウ」だったのに対し、子供たちのアイドルとして、新たな子供向け漫画の世界を切り拓いたのが「正チャンの冒険」(1923年横島勝一(画)織田小星(文))でした。
北沢楽天によって創刊された「東京パック」は、1928年第四次「東京パック」として新たな時代に突入。当時の時代背景を映し出すように、エロチック漫画とプロレタリア漫画が紙面の中心となり、再び人気を盛り返しました。しかし、戦争の始まりとともに出版事業は困難な状況となり、1941年にはこの雑誌も休刊となります。
大人向けの漫画が、時代の右傾化とともにどんどん厳しくなってゆく中、逆に戦争直前まで勢いがあったのは子供漫画の世界でした。
特に有名な作品としては、1931年「少年倶楽部」での連載が始まった田川水泡の「のらくろ」は、その代表的な作品として11年間にわたって連載が続きました。1930年に出版された「長靴の三銃士」(牧野大誓(画)井元水明(文))。1934年から「幼年倶楽部」で連載が始まった阿本牙城による「タンクタンクロー」は、コメディー・タッチとはいえ、史上初の戦場用サイボーグ漫画でした。
「のらくろ」の人気を受けた動物漫画としては、1935年から7年にわたって「幼年倶楽部」に連載された「コグマのコロスケ」もありました。その他にも、時代を反映した子供漫画「冒険ダン吉」(島田啓三)や「日の丸旗之助」(中島菊夫)などもブームも起こしました。しかし、そうした人気漫画も戦争の始まりにより連載中止を余儀なくされることになります。
1930年代 | |
1930年 | 「読売新聞」が日曜版漫画付録「読売サンデー漫画」を創刊 「長靴の三銃士」(牧野大誓(文)井元水明(画)) |
1931年 | 少年倶楽部に「のらくろ」連載開始(田河水泡) |
1933年 | 中村書店が児童向け漫画本の刊行開始 |
1940年 | 新漫画家協会発足。機関誌「漫画」刊行 |
1943年 | 益子善之「月月金チャン」(戦意高揚漫画時代の始まり) |
1944年 | この年後半から終戦まで主要新聞から漫画が消える |
<終戦後の漫画界>
1945年、終戦とともに漫画界はすぐに動き出します。終戦の日から2週間後には漫画雑誌「漫画」が復刊。翌年には時代を象徴する新時代の総合諷刺雑誌「VAN」が創刊されます。(横溝正史の小説も掲載されていた)
この時代は特に社会諷刺雑誌がブームとなり、「真相」(1946年)、「クマンバチ」(1947年)などが次々に登場しました。そして、そんな終戦後の厳しい時代に早くも現代へとつながる作品も登場しています。1946年「夕刊フクニチ」に連載が始まった「サザエさん」(長谷川町子)です。
しかし、その後、日本は朝鮮戦争による特需景気などにより、高度経済成長時代へと突入。社会の安定とともに社会諷刺、政治批判のマンガは急激に減ってゆきます。そんな中、1954年に創刊された「文藝春秋臨時増刊 漫画読本」は、娯楽的な要素をもつ新しいタイプの漫画を収めて新たな漫画ブームの火付け役となりました。
同じ頃、新たに登場した漫画本のスタイルとして「貸本マンガ」があります。
一冊10円程度でマンガ本を借りて読めるというのは、現在のレンタル・ビデオ店のシステムと似ていてある意味必然的に生まれたブームともいえそうです。そして、貸本マンガの登場は、貸本漫画専門店と貸本漫画雑誌を生み出すことにもまりました。
1956年に大阪で創刊された「影」は、そんな貸本漫画誌の先駆けでしたが、その中に連載されていた辰巳ヨシヒロの「幽霊タクシー」の中で漫画界では初となる「劇画」という言葉が登場しています。「劇画」の登場により、それまで子供向けか大人向けどちらかだった漫画の読者層は、その中間層ともいえる青年たちにも広がり始めることになります。そうした青年層に受けた作品の代表作が、白土三平の「忍者武芸帖」です。
単なる忍者アクション漫画ではなく、農民やそれ以下の扱いを受けていた階層の人々が支配層である侍たちに反乱を起こすという社会派のストーリー展開は、当時日本中に広がりをみせていた安保闘争を思わせるものでした。ただし、これらの作品は貸本の作品だったことから発行部数は少なく6000部程度だったようです。そのため、日本が経済的に豊かになりだし、大手出版社により安価な週刊誌が登場するようになると、こうした貸本漫画の時代は1960年代半ばには、いっきに終わりを迎えることになります。
<貸本漫画出身者>
つげ義春、白土三平、辰巳ヨシヒロ、さいとうたかお、水木しげる、楳図かずお、小島剛、永島慎二、佐藤まさあき・・・などは、恐怖漫画系、もしくは「ガロ」系の青年漫画の作家たち。
彼らに対し、その対局に位置する同時代の作家には、手塚治虫、石森章太郎など、児童漫画の作家たちがいました。そして、彼らの多くが伝説のアパート「トキワ荘」に終結し、マンガの黄金時代を牽引することになります。
1940年代 | |
1945年 | 終戦から二週間後、「漫画」が復刊 「フクチャンマンガ」横山隆一 |
1946年 | 「ヤネウララちゃん」(南部正太郎)が大阪新聞に連載開始 「ブロンディ」(チック・ヤング)が週刊朝日に連載開始 「子供マンガ新聞」創刊(子供向けの安価なマンガとして広く普及する) 「サザエさん」(長谷川町子)が「夕刊フジ」に連載開始(その後、朝日新聞にて連載となる) |
1947年 | 関西を中心に赤本マンガのブームが広がる 「バット君」(井上一雄)が漫画少年に連載開始 「新宝島」(酒井七島(構)手塚治虫(画)) |
1948年 | 「月刊子供マンガ」、「コドモ大阪」など子供向けマンガ誌が相次いで創刊される 「冒険ターザン」横井福次郎 岡本一平死去 |
1949年 | 「サザエさん」(長谷川町子)朝日新聞にて連載開始 「冒険王」(秋田書店)、「おもしろブック」(集英社)創刊 |
1950年代 | |
1952年 | 「イガグリ君」福井英一(「冒険王」に連載) 「鉄腕アトム」手塚治虫(「少年」光文社) 「チョウチョウ交響曲」うしおそうじ |
1953年 | 「リボンの騎士」手塚治虫 |
1954年 | 「赤胴鈴之助」武内つなよし(「少年画報」) 「火の鳥」手塚治虫 |
1955年 | 少年向けマンガ雑誌「ぼくら」(講談社)、子供向けマンガ雑誌「なかよし」(講談社)、少女向けマンガ雑誌「りぼん」(集英社) 大人向け漫画雑誌「漫画読売」、「漫画タイム」などが次々創刊 「二級天使」石森章太郎 |
1956年 | 「フクちゃん」横山隆一(「毎日新聞」) 「おせんち小町」うしおそうじ |
1957年 | 辰巳ヨシヒロの「幽霊タクシー」で「劇画」という言葉が始めて使用される 「赤胴鈴之助」がラジオ・ドラマ化され、一大ブームとなる |
1958年 | 日本初の長編アニメ映画「白蛇伝」(東映動画) |
1959年 | 初の少年週刊漫画雑誌「少年マガジン」(講談社)、「少年サンデー」(小学館) 「忍者武芸帖」白土三平(全17巻の刊行開始) |
<少年マンガの時代>
初の少年マンガ雑誌「少年マガジン」の創刊は、1959年3月26日。当初の目玉作品はマンガではなく川内康半の小説「月光仮面」でした。当初はそれほど売り上げも上がらずにいましたが、1966年に梶原一騎(原)川崎のぼる(画)の名作「巨人の星」が連載されたあたりから、売り上げが急激に伸び始め100万部を突破。さらに1967年に赤塚不二夫の「天才バカボン」、1968年に高森朝雄(原)ちばてつや(画)の「あしたのジョー」などが登場し、150万部を突破します。
1959年「少年マガジン」の発売からわずか一週間後には、「少年サンデー」が創刊され、いよいよ少年マンガの競合が始まることになります。1963年に「少年キング」、1968年に「少年チャンピオン」、1969年に「少年ジャンプ」が創刊され、大手の雑誌が出揃うことになります。これらの雑誌が競合することで、売り上げはどんどん伸びてゆき、1978年に「少年チャンピオン」が200万部を突破し、1980年には今度は「少年ジャンプ」が300万部を突破。同誌はさらに売り上げを伸ばし、1985年に400万部を、1989年にはいよいよ500万部を突破した後、1991年には600万部を越え、1994年ピークとなる記録653万部という売り上げを記録しています。
<「ガロ」誕生>
1964年9月に創刊された漫画雑誌「ガロ」は、青年向けの内容であると同時にアート志向のセンスをもつ日本の漫画が究めたひとつの到達点ともいえるものでした。それ以前に白土三平の「忍者武芸帖」や水木しげるの「鬼太郎夜話」をヒットさせていた編集者、長井勝一は、1950年代半ばに自ら三洋社を立ち上げ数々の話題作を世に送り出し、漫画界の新しい時代を築きつつありました。しかし、結核を患ってしまたために入院を余儀なくされ、三洋社は解散してしまいます。それでも彼の漫画に賭ける情熱は変わることはなく、1962年、青林堂を設立し再び活動を始めます。時代は貸本ブームの終わる頃で、彼は新しい時代に向けて一般書店で販売するための新雑誌を企画。こうして、彼は白土三平の作品を中心とする漫画雑誌「ガロ」を創刊。(「ガロ」の名前は、白土三平の作品に登場するキャラクター「大魔のガロ」からとられました)学生運動が盛り上がりをみせた1960年代後半、「ガロ」は学生たちの間で絶大な人気を誇りました。こうして、白土三平の「カムイ伝」、つげ義春の「紅い花」、林静一の「赤色エレジー」、水木しげるの「イソップ式漫画講座」、滝田ゆうの「寺島町奇譚」などの名作が次々に誕生しました。
子供向けの漫画で育った若者たちが、自分たちの世代のための漫画を得たことで、漫画文化は青年層をも取り込み始め、より文学的、より前衛的、より政治的な作品を生み出すようになってゆきました。
「ガロ」はその後、1996年に長井が75歳でこの世を去ってもなお発行され続けましたが、1997年についに休刊となりました。その後も一度は復活するものの、1998年またも休刊しています。
「ガロ」によって育てられた作家たちは数多く、彼らによって、大人向けの漫画は完全に定着。日本の漫画の質は世界に類を見ないほどの高いレベルに達することになります。
「いま当時の『ガロ』を振り返ってみるとその大きな特色は『片隅の抒情』ではなかったかと思う。つげ義春をはじめとしてその弟のつげ忠男、あるいは滝田ゆう、辰巳ヨシヒロ、林静一、亡き楠勝平ら。彼らの作品にはどこか社会の片隅にいる人間の醒めた悲哀があった。世の中は東京オリンピック以降、高度経済成長の明るく豊かな時代になっていたが、『ガロ』にはそうした明るさに背を向ける処があった。と言って反抗とか抵抗という強い姿勢ではない。暗い、隅っこのところでうずくまって居たいと言う静かな諦念。」
川本三郎「時には漫画の話を」より
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ジェフ・ベックです。技巧派です。芸術的なギターをどうぞ。。。
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