私が応援して居る。声優でモデルで、YouTuberの青木志貴ちゃんです。。。
コメントの書き込み、何でもいいので書き込んでくれると嬉しいです。励みになりますから。よろしくお願いしますね、、☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
漫画「あしたのジョー」は少年マガジン連載の「力石の死」で迎えた漫画の第一部終了後、間も無くテレビアニメがスタートした。1970年だった。当時、私は小学生だった、漫画を読むようになったのは、隣に住んで居た同級生が或る日、こんなに面白い漫画がある。と教えてくれたのがキッカケだった。読んで見て、すぐに引き込まれた。孤児院出身の若者が老拳闘士と出会いライバルの力石を倒すために孤軍奮闘するというストーリーだ。しかも、主人公の矢吹は宿敵力石をリング場で事故による過失なれど殺して仕舞う。1970年と言えば日本で初めて開催された万国博覧会が始まった年です。大阪万博は、父親の仕事の関係で、見る事が出来た。関西に旅行に行ったのは初めてだった。私は中学の修学旅行は東北。高校の修学旅行は北海道だった。なんだか寒い処ばかりに行っている。東北では秋田のきりたんぽ。北海道ではアイヌ民族の長老に話を聞いたのが忘れられない。なんだか同級生は修学旅行だと言うのに、ちっとも、面白そうにして無く。土産物も全くと言って良い程買わなかった。或る同級生に、何故土産物を買わないのか聞いた処、親がお金をくれないと言っていたのを思い出す。
要するにシラケ世代なのだ。お陰で、此方までせっかくの修学旅行が気分の良い物では無くなった。話は大阪だ。父親の得意先が大阪にあり、その相手の会社の社員寮に泊まる事と成った。寮の外にはコーヒー牛乳の自販機が置いてあり。起きるとそれを買って飲んだ。食事は外食だ。旅館にもホテルにも泊まら無いので、3日間の滞在中、ラーメン屋やら、食堂で食事を済ませた。ただラーメンだけは頂けなかった。何しろ関西は薄味だ。ラーメンの味がしない。だから醤油を入れて食べた。しかしこの醤油薄口ときている。途端に醤油瓶の3分の1が無くなった。店主が奧さんと二人で複雑な顔をして眺めて居たのを思い出す。万博は物凄い人の数でどの館も長蛇の列が付き、月の石を見るのに4時間半も並んだ。やっとの思いで見てみると、石炭のように黒く小さな物だった。あと思い出に残っているのは、ビキニ・スタイルの女の人が洗濯機みたいな変な機械の中に入って、まるで洗濯をされる様に、洗われるデモンストレーションだった。他にカッコイイ近未来的な車が置かれて居て、案内嬢は「21世紀はこう言ったものが主流に成るでしょう」と言って居た。果たして今、そんなものが普及しているか?私が残念に思ったのは。竹田和夫のブルース・クリエイションのライブが広場で始まるのを見られなかった事だ。確かフラワー・トラヴェリン・バンドも演奏して居たはずだ。
Blues Creation - Baby Please Don't Go
そして東京に帰って来てから、数日たったある日、共産主義者同盟・赤軍派によって、羽田発の日本航空351便よど号がハイジャックされた。
ちなみに飛行機のペットネームのよど号とは、ボーイング727型は日本の河川シリーズで統一されていて、よど号とは淀川から名付けられたそうです。「我々は明日、羽田を発たんとしている。我々は如何なる闘争の前にも、これ程までに自信と勇気と確信が内から湧き上がって来たことを知らない。最後に確認しよう。我々は「あしたのジョー」である。」赤軍派の声明だった。1970年はジョーの宿敵、力石徹の葬式が行われた。漫画の登場人物の死を本当に葬式をあげて弔ったのだった。寺山修司が弔辞を読み。現在まで続くフィクションと現実の隙間をあえて超えて見せる聖地巡礼の元祖みたいに、今でも度々話題に上がる。矢吹丈は力石を殺してしまった十字架を背負いながら宿敵たちと戦い。そして、最後はキング・オブ・キングス。ホセ・メンドーサとの試合で最終ラウンドまで、片目をパンチドランカー症状で失明し、見えなくなっても戦い抜き「真っ白に燃え尽きて」コーナーの椅子に座り込んだまま静かに死んでいく。昔の漫画や、アニメの主人公は戦い抜いて敗れ、そして、死んでいった。そう言う話が多かったと思う。
訪問看護師は相変わらず週に2回は来てくれて居る。様子と薬の管理を見にだけども、此の間は「あしたのジョー」の力石が死ぬまでと、矢吹ジョーが死ぬまでを観せた。結構神妙に観ていた。悲しい話だとも言っていた。原作者の梶原一騎の原作ではジョーは最後は廃人になり白木葉子に面倒を見てもらいながらサナトリュームで静養の人生を送ると成って居たが、漫画家のちばてつやが猛反対をし、最後は燃え尽きて死んでいくストーリーに変えたそうだ。私がアニメを見せる看護婦さんは結構本気で見てくれるので見せ甲斐がある。勿論飛ばし見で見せては居るのだが。それでも話は分かる。まだ、若いので昔のアニメを知らない。だから今度は「北斗の拳」(TVシリーズではなくOVA)のトキ伝を見せようと思っている、まあ、私のblogでも観れるのだが。やはりテレビの大画面がいいだろうと思う。そういえば「北斗の拳」のラオウが死んだ時も本当に葬式を挙げたと言ったら驚いていたっけ。。。
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荒木一郎/果てしなき闇の彼方に (1981年)
Ashita No Joe 2-Glory of Pain
Ashita no joe music -joe forever-
Hateshinaki Yami no Kanata ni
- 『北斗の拳』第一部
- 西暦199X年、地球は核の炎に包まれた。
- だが、人類は死に絶えてはいなかった。国家が機能を失い、暴力がすべてを支配する世界となった核戦争後の大地で、一子相伝の暗殺拳北斗神拳の伝承者ケンシロウはかつての親友で南斗聖拳の継承者シンによって七つの傷を胸に刻まれ、将来を誓い合った許嫁のユリアを奪われる。
やがて、長兄にしてケンシロウ最大のライバルであるラオウが拳王軍を率いて現れる。世紀末覇王を目指すラオウは自ら力を背景として核戦争後の混乱に終止符を打とうと目論んでいた。そして、南斗六聖拳の最後の将でその実生存していたユリアを手中にすべく彼女を護る南斗五車星の戦士たちを次々に倒していく。ラオウの実弟トキも戦士としてラオウに死を賭した戦いを挑むも敗れる。トキの導きで北斗神拳究極奥義「無想転生」を会得したケンシロウは激闘の末にラオウを倒し、余命の短いユリアとささやかで平穏な日々を暮らして行く。
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北斗の拳 真救世主傳說北斗神拳 電影版3 拉歐傳激鬥之章 HD 1920x1080繁简中日本語字幕 日音
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下はマカロニ・ウエスタンの研究本です。今は殆どが廃版です。欲しい方がいらしたら古書店で探して見て下さいね
マカロニ・ウエスタンとは・・・・
傑作西部劇「荒野の用心棒」が日本に輸入された際に、淀川長治が呼称した造語。
本場イタリアやアメリカではスパゲッティ・ウェスタンと呼ばれているので、この呼び方は日本でしか通用しない。 アメリカ西部劇との作風の違いは、その暴力性にある。
往々にしてアメリカ西部劇はドラマ性や抒情性を持たせたうえで、正義然とした主人公が悪を屠るという内容の作品が大半である。 それに対しマカロニウェスタンは正義などカケラも持っていないアウトローや一匹狼を主人公にしたハードボイルドな作風を前面に押し出しているのが特徴である。
激しい銃撃戦と血で血を洗う抗争、善悪では割り切れない男の世界、ある種のすがすがしさすら感じさせる暴力性こそがマカロニウェスタンの魅力なのである。 70年代までに多種多様な作品が作られ続けたが、観客に飽きられたためブームの終焉とともに銀幕から姿を消した。 マカロニ・ウェスタンシリーズにてスターになった役者や監督は数多く、クリント・イーストウッドやフランコ・ネロなどがその代表例である。 最近になってマカロニ・ウエスタンは再び注目されて居て、人気があります。
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さて、映画です。今回は「パリは霧に濡れて」です。ルネ・クレマンが放った、サスペンス映画です。現代の高度に発達した産業社会の緊張によって生み出される不安と恐怖に苛まれ疲弊する現代人の心理状態を描出するサスペンス・ドラマ。1971年フランス映画です。
「ストーリー」
最近になって、時として記憶を失ったり、自失するジル(F・ダナウェイ)は今日も、ふと気がついたときには、セーヌを行き来する貨物船に乗っていた。はっとしたジルは、カフェに向い、夫に電話をかけた。いきなり夫のいら立った声がはね返ってきた。家に戻ると、夫のフィリップ(F・ランジェラ)とのいつもの耐え難い会話が待っていた。とげとげしい言葉のやりとりのあとの夫の異常ないたわりにジルは、ますます混乱を深めざるを得なかった。フィリップとジルはパリに住むアメリカ人夫婦で、二人の間には八才になるキャシーと四才のパトリックがいた。フィリップはいまは著述家として生計を立てているが、アメリカでは電子工学の会社でその明晰な能力を発揮し、現代科学の最先端に立っていた。ところが、何年かのち突然会社をやめ、逃れるようにフランスにやってきたのだ。ジルの精神異常はますます激しく、最近はすっかり親しくなった階下のアメリカ人シンシア(B・パーキンス)に何かと頼ってしまうことが多くなった。しかしシンシアはよくジルの小さな思いちがいをこまかく指摘し、そのたびジルは新たなショックを受けた。
そんな状態のジルが、小型車を運転していて、事故を起してしまった。ところが自宅に帰ったジルに花束が届き、一通の手紙が添えてあった。急いで戻ってきたフィリップはそれを見て戦慄した。彼はまさに手紙の主から脅迫を受けていたのだ。数年前、電子工学に携さわっていたフィリップはいつしか産業スパイの役割まで担っていたのだ。フィリップはそんな息づまるような生活から逃れて、パリにやってきたのだ。ところが、組織は彼をまだ解き放していてはくれなかったのだ。クリスマスも近いある黄昏、恐れていた事件が起った。サーカスの帰り、セーヌにかかる橋の上で二人の子供が忽然と姿を消したのだ。捜査はまずノイローゼのジルに向けられた。必死に証言するフィリップだが、フィリップにはわかっているのだ。相手は“彼ら”なのだ。しかし必死の捜査を続ける警察は、遂にジルから事件の鍵となるべき証言を得たのだ。子供たちが姿を消す直前デパートでかつてベビー・シッターとして家へ出入りしていたハンセンなる女性(K・ブランゲルノン)の姿を見たというのだ。子供たちは隠れ家で発見された。ハンセンを手先に使ったのは何とシンシアであった。そしてシンシアこそ組織が送りこんだ人物であったのだ。
Gilbert Bécaud - La Maison Sous Les Arbres (The Deadly Trap / Sisli Günler | 1971)
脚本にダニエル・ブーランジョが参加している。フェイダナ・ウエイの母性が光る一遍だ。霧中のパリ、セーヌからサン・マルタン運河へと進む運搬船の上では、どこか幼さを残すフェイ・ダナウェイがまどろんでいる。かくも美しきシーンで始まるこの映画は、だが、彼女の運転する2CVが炎上するに及び、急激に「乗り物映画」としての輝きを失ってしまう。サスペンス作家クレマンは今回も「組織」なるマクガフィンを登場させる。ダナウェイの夫は元産業スパイで米国からパリへと逃げてきたらしい。彼の才能を愛でる「組織」は是が非でも彼を復帰させようと二人の子供を誘拐する。見所はフェイダナウェイの悲しみとやりきれない屈折した思いだ。子役もまだ小さいのにしっかり演技をしている。名匠ルネ・クレマンの面目躍如が炸裂している。とにかく、クレマンの忘れ去られた圭作として知られる本作は非常に物語が良く。脚本、脚色は実に良いと思う。米国からパリに越した家族に起きる事件…明かせぬ過去を持つ旦那。記憶障害の妻…誘拐された子供達。この静寂な心理劇と大女優ダナウェイの芝居は必見でお勧めです。
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以下の文は英語からの私の翻訳ですので、正確に帰する事は狼狽ますが、まあ、完璧ではありませんが、デニスグルンリングの経歴はわかると思いますので、よろしく。。。。
Gruenlingは、ニュージャシー州に生まれました。彼は家族の友人からのクリスマスプレゼントとして10代に最初のハーモニカを貰いました。音楽に対する興味で、Gruenlingはその後Harp Attackを聞きました!(1990)、ジェームス・コットン、ジュニア・ウェルズ、キャリー・ベル、そしてビリー・ブランチ のハーモニカ演奏をフィーチャーしたアルバムでした。彼は打ちの目されました、「私は叔父に私のレコードを掛けて貰い、私は今までにない衝撃を受けました。私はこれまで本当のブルース奏者を聞いたことがありませんでした。」と言って居ます。さらにコットン、ウエルズ、リトル・ウォルター、ジョージ・ハーモニカ・スミス、そしてビック・ウォルターホートンなどの購入したレコードにインスパイアされたGruenlingは、熟練した標準に合わせて演奏するように自分自身で学ぶことに着手しました。学校を中退してまで彼のその後のガールフレンドと一緒にニューオリンズにまで移動し、彼は練習を続け、1994年にニュージャージー州に戻る前にブルースハープをマスターしました。彼は周りの地元の数多くのバンドで演奏するようになり。1998年に彼自身のスタイルを形成し、それから彼のデビューアルバム、Dennis GruenlingとJump Time(1999)をレコーディングしました。そしてそれはGruenling自身のレーベル、Back Bender Recordsからリリースされました。
その当時、Gruenlingは、主にジャンプ・ブルースととブギウギを演じる彼のJump Timeのバンドと、シカゴ・ブルース・スタイルを好むより小さなユニットとの間で演奏しました。彼はロッド・ピアッツアとウイリアム・クラークの両方をブルースラジオで聴き、彼らが地元で演奏したとき定期的に彼らのショーの両方に頻繁に参加しました。彼はピアッツアに彼の録音のコピーを渡し、それが今日まで続く友情につながりました。そして「Up All Night」(2000)と「That's Right」(2001)が続居て発売され、後者はケニードーハムがクラリネットで2、3曲を演奏しました。2000年に、Gruenlingはシカゴ・ブルース・フェステバルに出演しました。
しかし、Gruenlingは自分のバンドを維持するのが難しいと気付き、彼は何年もの間、他のミュージシャンの作品に取り組むことに成りました。彼はこの期間にジナ・シシリアと カーテルによるアルバムに貢献しました。2007年には、デビット・マラカウスキー。レイクジョージ・ブルースブラストで演奏し、Gruenlingを中心メンバーにして、バンドを組む事にしました。同じ年、Gruenlingは、レコーディングに着手し、トリピュートアルバムを発表しました。一緒に働くことになったキム・ウイルソン。リック・エリストンとステーブ・ガーガー、と言う面々でリトル・ウォルターへのオマージュのレコードを作りました。、ギターはただラヴィン・ヒム一人を起用しました。
The Modern Sounds with Dennis Gruenling -- Benny's Bugle
The Modern Sounds with Dennis Gruenling -- Flying Home
Little Walter's "Crazy Legs" - Dennis Gruenling - Blues Harmonica
Buffle Off To Shuffalo - Dennis Gruenling
Dennis Gruenling / Little Walter Tribute / Sad Hours
"The Chicken"_SUZUKI 10HOLE MANJI Performed by Koei Tanaka feat Daisuke Kawai in 2016楽器フェア
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『パサージュ論』 ウオルター・ベンジャミン著。
これはベンヤミンの「千夜千路」あるいは「千夜千境」である。また、ベンヤミンの「書物売立て目録」である。だいたいは1927年から1935年までに書かれた。最晩年だ。そのあいだに、ベンヤミンはナチスから逃れてパリに移住したりしていた。パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である。境界をまたぐことである。ベンヤミンはパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事(Werk)にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものだ。
しかし「本」とは本来はそういうものなのである。ベンヤミンはこう書いた、「パサージュは外側のない家か廊下である、夢のように」というふうに。 この夢はベンヤミンの関心では「集団の夢」というもので、時代社会の舞台としては19世紀の都市におこったことを差している。そのことをベンヤミンは「19世紀とは個人的意識が反省的な態度をとりつつ、そういうものとしてますます保持されるのに対して、集団的無意識のほうはますます深い眠りに落ちていくような時代なのである」と説明した。 その深い眠りに落ちるものを都市から掬い出してみる。ベンヤミンはそれを試みようとして、メモとノートを執りつづけた。厖大だ。それが『パサージュ論』である。生前にはまったく刊行されてはいない。それどころか、ベンヤミンはこれをジョルジュ・バタイユに託して図書館に消えていった。いや、実際に消えたのは1940年にドイツ軍の接近にともなってパリからルルドに逃げ、そこからマルセイユに飛んで、最後にピレネーからスペインの入国をはかって足止めにあい、強制連行の直前に服毒自殺をとげたときだった。
このような亡命者ベンヤミンが、最後まで“目の言葉のアーカイブ”として綴り残した『パサージュ論』が活字となって陽の目を見たのはずっとのちのことだった。ともかくも、まことに奇妙なのに緻密、あくまで外見的なのに内密な「本のパサージュ」である。これまで「千夜千冊」が案内したものではこれに類する「本」はほとんど見当たらない。たとえばベルナール・パリシーの道具手記(第296夜)と今和次郎の考現学(第863夜)ともまったく違っている。どちらかといえばハンフリー・ジェニングズの『パンディモニアム』(第248夜)がその近くに先行する。。なぜなら近代社会ではやっと個人や自我が歴史や社会と対応して、その確立と懐疑に向かえたからだ。それなのにベンヤミンは20世紀の半ばに向かっても、むしろ19世紀の集団が夢みた痕跡の解明にこだわった。それはヘタをすれば資本主義が商品や製品に託した幻影のようなものの追慕になりかねない。けれどもベンヤミンはそれをした。そしてその資本主義社会が19世紀の都市の隅々に投下したファンタスマゴリ(幻像)に、今後の社会がそれ以上のものを付け加えるのは不可能ではないかというほどの原型の羅列を見た。
あとは「複製の時代」になるだろうと予想した。これはアナクロニズムだろうか。私はそうは思わない。このような思索態度や記録態度こそは、これからやっと重視されるだろうと思われる。 ベンヤミン以降の時代、それは大戦後の社会ということになるのだが、どんな場合でも集団よりも個人が重視されていく。まして集団に排除された個人や集団に埋没した個人については、その集団の意義を無視してまでも擁護されていくようになった。ベンヤミンはそれとはまったく逆の方向に歩んでいた戦時者だった。 これはアナクロニズムだろうか。私はこの点についてもそうは思わない。ベンヤミンにとっては「配列」と「布置」こそがすべてであって、そこから何が抽出され、そこに何が引用されたかが最大の問題なのである。個人とはその抽出と引用の質量の代名詞であったのだ。 このことが示唆する意味は、ベンヤミンが若い頃から書物を偏愛し(これは予想がつくが)、それ以上に装幀に稠密な好奇心をもっていたことにあらわれている。ベンヤミンにとって書物とは、それが見えているときと、それが手にとられるときだけが書物であったからである。
その書物の配列と布置と同様に、ベンヤミンには都市が抽出と引用を待つ世界模型に見えた。しかし、書物も都市もそれを「外側から内側に向かって集約されたもの」と見るか、それとも「内側が外側に押し出されたもの」と見るかによって、その相貌が異なってくる。 そこでベンヤミンはさきほど述べた「個人にとって外的であるようなもの」と「集団にとっては内的なもの」との線引きに関心をもつ。そして、その線引きを「敷居」(Schwelle)とよんだ。ファンタスマゴリな閾値をともなう敷居である。のちにヴィフリード・メニングハウスがベンヤミン論でそう述べているのだが、ベンヤミンの業績のすべてにお節介な学問の名をつけるとすれば、それはやっぱり「敷居学」というものなのだ。しかし、意外にもベンヤミンは敷居そのものではなく、また個人が敷居を跨ぐ意識のことではなく、そのような敷居をつくった都市や百貨店や商品の現象のほうに記述の大半を費やした。それゆえ誰しも感じることだろうが、『パサージュ論』を読む者が驚くのは、その都市の敷居がトポグラフィックにも、精神科学的にも、また現象学的にも文学的にも、個人の意図も集団の意図も消しているということなのだ。ベンヤミンは敷居(たとえば門や呼び鈴)に意味を与えようとしなかっただけでなく、敷居を通過させるようにした装置そのものにのみ関心を注いだのである。
さあ、これが「数寄のパサージュ」でなくて、いったい何であろうか。これまで多くのベンヤミン論者がパサージュの解明に挑んでいて、その多くがベンヤミンがたまさか使った「遊歩者」や「遊歩の弁証法」という言葉にこだわったけれど、これはどう見ても茶室の構造をその内容にも意図にもこだわらずに、そのパサージュのすべてを詳細にメモしようとした試みそのものなのだ。いやいや、茶室や数寄屋でなくともかまわない。ベンヤミンのようにその記述の対象はパリであってもかまわない。ボードレールの目であってもかまわない。 いずれにしてもそこに「数寄のパサージュ」として記録されるのは、ベンヤミンの言葉でいえば「過去についてのいまだ意識されない知の覚醒」であり、「それによって視覚がずらされたのに、そこから出現してくる積極的な部分」なのであって、つまりは「寓意の数寄」を認証するための部分品リストなのである。 こうして『パサージュ論』はさまざまな現代思想との対立の様相を呈してくる。なぜ、そうなるかといえば、ベンヤミンにとってはいっさいの主題はいっさいの方法によって包含できると思えていたからである。 思想というものは主題にしがみつく。職人と商業は述語と方法を神とする。
パサージュとは最初に書いておいたように、通過することだ。通過とは、茶碗でいうなら轆轤で成型をして窯に入れ、これを引きずり出すことである。読書でいうなら書物を店頭から持ち出してページを開くことである。むろんそれらの行為にはあらゆる意図がからみあう。けれども、その行為はいずれは終わる。終わってどうなるかといえば、それはどこかに配列されて布置される。それが都市というもので、社会というものなのである。 写真は近代社会がつくりだした最も劇的な配列と布置を記録する方法だった。ベンヤミンは写真に注目し、「それはまだ複製ではない」と見抜いた。 まさにそうである。写真はベンヤミンがいま記録したパサージュそのものなのだ。けれども、それ以降は、写真は複製され、印刷され、メディア化される。では、写真家が写真を撮ったときは何がおこったのか。パサージュがおこったのだ。その写真を見た者には何がおこったのか。パサージュがおこったのだ。 では、これらの行為のなかでどこからが複製なのか。答えはあきらかだ。パサージュを忘れた者の意識のなかで、そのとたん、それは複製になってしまうのだ!
われわれはいま誰からも、どこからも亡命していない。それなのに、パサージュは街に転がったままにある。
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2日前から、どうしても、DVDで売っては居なくて、売るのに勿体無いと思うレーザーディスクだけをBlu-rayに焼いて置いた。明日売らなければ成らないので、時間も無かったのだが、数枚を焼いた。思えば、此処30年位、自分を楽しませてくれた。購入の際の記憶が蘇って来る。私はレーザーディスクは、ほとんどが新宿の西口にあった、「ビデオ・マーケット」で購入していた。その店は雑居ビルの一角にあって、初めはビデオ・マーケットという名の通り、ビデオテープを売っていた。アメリカからの輸入ビデオやら中古ビデオを主に取り揃えていた。その後、1990年位からレーザーディスクを置く様に成り、勿論、輸入版も置いてあった。私はほぼ20年間位、要するにレーザーディスクが無くなるまで、購入を続けた。レーザーディスクと言っても、最近では知らない人の方が多いだろう。レーザーディスクの寿命はほぼ20数年間だと思う。日本ではパイオニアが製品化し、1981年(昭和56年)10月に第1号機LD-1000を発売。
日本市場では当初はパイオニアのみが製品を販売し、日本ビクター(現・JVCケンウッド)の開発したVHD陣営と販売競争を繰り広げた。ビクターはビデオデッキ市場でVHS方式を広めた実績があり、採用メーカー数では13対1と圧倒的に不利だった。映像ディスクはビデオデッキと違い再生専用で録画が出来ない事から、当初はビデオデッキよりも高画質を求めるマニア向けの規格となった。そのため、水平解像度が240本程度だったVHDに対し、レーザーディスクは400本以上と画質面のアドバンテージがあったことに加え、ピックアップがレーザーによる非接触式のため、プレーヤーで再生した事が原因のディスクの劣化が無いことから、レーザーディスクの方が圧倒的に優勢だった。さらに、コンパクトディスク(CD)とのコンパチブル再生機の発売、レーザーカラオケのヒットによって、一般層にも普及した事から、結果的に規格争いに勝利した。VHD陣営のメーカーも参加して開発した音楽CDの量産技術が、同じ光ディスク方式であるLDの技術とコストの問題を解決させ、LDを勝利に導いたと言う。まあ、私は1980年代の終わり頃から購入し始めた。2000年代にDVDが登場するまで買い続けた。しかし時代には逆らわれず、レーザーディスクの時代は終わった。明日、愛蔵していた、レーザーディスクとはお別れです。。。
最近、引越しに備えて、本を整理して居るが、又、懐かしい漫画の単行本が出て来た。「坂口尚作品集」だ。これは、まだ新品同様に綺麗だ。私はこの漫画家は月刊漫画誌「COM」で知った。手塚治虫のアニメ・スタジオ「虫プロ」にも在籍していた。洗練された都会派の絵柄が好きです。
1969年「COM」9月号SERIES霧の中『おさらばしろ!』で漫画家デビューし、「COM」の連載と並行して、1970年から1971年にかけて「ぼくらマガジン」に『ウルフガイ』を連載。『ウルフガイ』連載終了後は、アニメーションの仕事のほうが多くなり、漫画は年に数本のみとなった。1978年、24時間テレビ、愛は世界を救うのスペシャルアニメ『100万年地球の旅 パンダーブック』で中心的役割を担う。スケジュールが切迫した制作現場では手塚治虫と対立することもあった。仲裁役は現手塚プロダクションの社長の松夜行性だった。
1979年、ニューウェイブの波の渦中で『たつまきを売る老人』をはじめとするシリーズ「午后の風」を発表、1980年より『12色物語』を連載。その詩的な作風から「短編の名手」「詩人」と呼ばれた。1983年、長編『石の花』連載開始。以後、長編を中心とした執筆活動に入り『石の花』『VERSION』『あっかんベェー一休』の長編3部作を発表。ユーゴスラビアの複雑な環境に世界の縮図をみいだした『石の花』は5度出版されるほどの代表作となった。
一部からは手塚治虫の後継者と目されるも『あっかんべェ一休』第4巻のカバー校了にたちあった直後の1995年に急性心不全のため49歳で死去。没後の1996年、遺作となった『あっかんべェ一休』に日本漫画協会賞優秀賞が贈られた。アニメの遺作は『安達ヶ原』(1991年)。
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浅田彰「構造と力」
カオスから象徴秩序へ、そして象徴秩序へのカオスの侵入、それによる象徴秩序の組み替え、これが本書で押さえておくべき最も基本的な図式である。人間は環境世界との適合関係が壊れているので、そのカオス的な状況から逃れるために、文化の秩序(象徴秩序)が必要になるのであり、このことを浅田彰は、個人の心理的発達と、社会の文化的進展という、二つの視点を交錯させながら論じている。
個人の心理的発達という視点では、乳児期におけるカオス的な状況は、言語の発達によって秩序化されることになる。例えばラカンは、言語以前の世界(想像界)を錯乱した領域だと考え、想像界の錯乱的状況を克服するために、エディプス・コンプレックスが必要になり、象徴界という言葉の世界に参入するという。想像界においては、子の母への欲望が、母と子の相互関係に大きな葛藤をもたらしているのだが、この欲望は父によって諦めさせられる。つまり、第三者としての父を意識することで、父を中心とした秩序、言葉の世界(象徴界)が生成されるのだ。
この問題を、浅田は円錐の図形を使って説明している。母と子の関係が個別的な他者との相互的な関係として、平面的な構造で表せるのに対し、第三者である父は平面的構造を吊り支える中心点に位置づけることができる。父を頂点として、平面構造を吊り支える円錐の立体構造、これが象徴界を示すモデルである。それは、平面構造=静的な共時的構造だけを問題にするのではなく、その外部との相互作用を問題にしている点で、「力」の理論に通じている。その意味で、ラカンはレヴィ=ストロースのような静的な構造主義を超え、構造主義の極限的な場所に立っているのだと、浅田彰は主張している。
ラカンの優位を確信する浅田彰は、さらに批判の矛先をメルロ=ポンティの現象学へと向けている。同じ現象学でもサルトルの「個」の哲学と違い、メルロ=ポンティは他者との相互性を強調している点では優れている。しかし、その他者との相互性は想像的な関係に閉じた平面的構造でしかなく、しかもメルロ=ポンティは、そこに予定調和的な世界を想定している点で問題がある。乳児の世界は予定調和的な世界ではなく、ラカンの主張したようにカオス的な世界であり、そこに言葉が必要とされる理由がある、と言う。
また、浅田彰の理論を正確に追えば、「個の哲学=現象学」(点)<「対の哲学、静的構造主義」(平面構造)<「動的構造主義」(立体構造)というような、哲学の序列が浮かび上がってくる。
以上のような個人の心理的発達という視点は、その前後の章で論じられている社会の文化的進展という視点と重なっているが、これを具体的に整理すると次のようになる。
人間がカオス的な状況を秩序化し、文化(象徴秩序)を形成した背景には、まず贈与による不均衡が生み出した、単純な交換関係が考えられる。これが「コード化」された社会、原始共同体である。次に「超コード化」された社会として、古代専制国家が成立する。これは、神や王のような超越者を頂点とする社会であり、個人は超越者を媒介にして自己同一性を獲得し、他者との相互承認が可能となる。最後に「脱コード化」された社会として、近代資本主義社会が登場する。これは超越者という中心のない社会、貨幣が超越的な頂点を相対化している社会である。
前近代は超越者を中心とする「超コード化」社会なので、先に述べた円錐の構造を象徴秩序だとすれば、その頂点が超越者ということになるだろう。象徴秩序の外部はカオスであり、祝祭によるカオスの侵入によって、固定されがちな象徴秩序も組み替えが可能となる。しかし、このような社会のモデル(円錐モデル)は、前近代までなら当てはまるのだが、近代のように超越者が存在せず、象徴秩序が日常的にカオスを吸収している社会を説明することはできない。
一方、近代社会では、「超コード化」するような超越的中心はなく、「脱コード化」の繰り返しが社会を動かしている。敢えて超越的中心を想定するならば、そこに位置づけられるのは貨幣である。貨幣はあらゆるものの交換を可能にし、絶えず価値増殖を続けているため、カオスの侵犯は日常的となっている。つまり、超越的な位置にある貨幣が、絶対的な中心に留まっていないため、円錐モデルではなく、クラインの壺こそ近代社会のモデルにふさわしいという。
さらに浅田彰は、超越者が存在しない社会だからといって、近代が自由な社会というわけではないという。近代社会においても、家族のエディプス関係が生み出す内面的な規範(超自我)は、私たちの行動を抑制している。目に見えるような超越者、権力者はいないのだが、超越者はエディプス・コンプレックスをとおして内面に形成され、超越者なきパノプティコン的効果が生じ、一定の方向へと動かされるというのである。そうした状況から自由を得るためには、一定方向へ動くのではなく、多数多様な方向へ散乱することが必要になる。この多数多様な方向への散乱を、ドゥルーズは根茎(リゾーム)のイメージで説明しているが、浅田彰はドゥルーズ理論を自己流に簡略化する形で、様々なルールやしがらみから逃げるという、逃走論を掲げるのである。
家族のエディプス関係が内的規範を形成するとしても、それは自由を拘束する内在的な他者、最後の支配者、というような否定的なニュアンスで捉える必要はない。父の視点、あるいは影響力のある他者の視点を内在化することで、より一般的な視点を身につけることができるし、自分自身を第三者の視点から見つめ直し、自分のあり方、行動を考え直すことが可能になる。
つまり、近代社会では自己を反省し、自分がどうあるべきか、どのように行為すればよいのかを、自己の内面に深く問いかけながら生きることが可能になったのであり、それは自由の絶対条件だと言える。第三者の視点で自己を意識し、自分の納得できる形で行為を選び取ること、それこそが自由の意識をもたらすのであり、自由=社会や他者の拘束から逃れることだと言う
勿論、誰でもこうした自由の拘束感が完全に解消されることはないのだが、自分の欲望が他者との関係において満たされることを、多くの人は無自覚のうちにもわかっている。だからこそ、他者との関係において満足が得られるように、他者の視点を重視するのである。重要なのは、こうした自分の欲望に対する自覚であり、自分の意志でやっていることだと納得できれば、そこに自由の実感が生じるに違いない。全ての拘束から多数多様に逃げるという浅田の逃走論は、イメージの自由論なのである。
浅田彰インタビュー「柄谷行人を語る。」
柄谷行人は、共産党が国家権力を奪取することで資本主義を解体し、ひいては国家そのものを解体するっていうロシア型マルクス主義──とくにボルシェヴィズムの根源的批判を進めてきた。カール・ポラニーが整理したとおり、市場の交換と、国家による再分配のほかに、共同体における贈与のネットワークってものがあるわけだけど、ロシア型マルクス主義のように国家で市場を統制するだけではダメで、むしろ贈与のネットワークを高次のアソシエーションとして回復することが社会主義の本道だ、と。マルクスが達成すべき理想としての社会主義・共産主義像を描くことを禁欲したのはいいんだけど、大体は最も資本主義の発達したイギリスでさらなる社会化の果てに社会主義が実現されると考えてた、しかし、ロシアで前近代の共同体をバネに脱近代に飛躍するって議論が出てきたとき、それを頭から否定しようとはしなかったために、ロシアや中国や北朝鮮はまさしく前近代的な一党独裁から個人崇拝へという最悪の道をたどることになっちゃった。
イギリスでは資本の集積が進む一方でウィリアム・モリスのアーツ&クラフツのような運動もあった。小さなアトリエのネットワークを基礎として、質的に豊かで美しい労働と生活を実現しよう、と。そのモリスも実はマルクス主義者で、『資本論』をきれいに装丁したりしてるわけ。われわれはマルクス主義というとボルシェヴィズムを考えちゃうからモリスなんてのは趣味人にしか見えないけれど、モリスのような人こそマルクス主義者だと考えればまったく違った社会主義像が見えてくる。近年の柄谷行人はそう言う事を強調してるんだよね。
市民連合シンポジウム 基調講演 柄谷行人さん(哲学者)2016.01.26
Bluesharpも此処の処、練習をしていない。毎日忙しすぎる。今は引越しの事で頭が一杯だ。それにハッカーのことで警察から連絡があった。詳しいことは言えないが、最近どうだと聴かれたので。最近はあまり書き換えられないと言ったが・・・それと、調子が悪いです。頭が痛く成り。午後になると眠くなる。一時期、昼頃まで寝ていたことがあったが。最近は睡眠時間は短く成っている。睡眠薬を飲んでも朝方、朝3時とか4時頃には起きてしまう。困ったものです。下はブルース・ハーピストの演奏です。聴いて観て下さいね。
Mark Hummel-Kim Wilson- Charlie Musselwhite Harp Blowout
The Fabulous Thunderbirds 'Live'- Early Every Morning ]
ヘヴィーメタルは1970年代後半から1980年代が全盛だった。当時出現したヘビーメタルのバンドは現在でも活動している。最近ではべイビーメタルなどの、アイドル系の女の子たちがへヴィーロックで歌うバンドも登場している。実の処、私はヘヴィーメタルは苦手だった。処が歳を取ったら良いなと思えてきたから不思議だ。ハードロックは 1970初頭に一時代を築き上げるが、1970年代半ばにパンク・ロック・ムーブメントが起きると、かつてのハードロックは「オールド・ウェーブ」と呼ばれるようになり、ブリティッシュ・ハードロック・シーンはその勢いを失っていく。しかしながら、アンダーグラウンドシーンでは様々な若手バンドが頭角を現し、サウンズ誌の記者により『NWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)』と名付けられたこのムーブメントはイギリス全土に広がり,1980年にはアイアン・メイデン、デフ・パレードがメジャーデビューし、シーンは一気に活性化していく。それに先立ちモーター・ヘッドは、従来のロックやハードロックに重いギターとスピード感のあるリズムを導入し、NWOBHMや後のスラッシュ・メタルの先駆けになった。また、イギリス国外のバンドがシーンに登場し、ドイツのアクセプト、フランスのトラスト、オランダのバンデン・バーグ、デンマークのプリティ・メーズやアーシフル・サイト、などが注目された。さらにディープ・パープルのコンピレーション・アルバムが大ヒットするなど、かつてのハードロックバンドの再評価、活躍も見られている。それでは、ヘヴィーメタルバンドです。聴いてみて下さい。
Judas Priest - The Hellion / Electric Eye (Live from Battle Cry)
Van Halen - "You Really Got Me" (Official Music Video)
Iron Maiden - The Trooper (Official Video)
Metallica: Orion (Turin, Italy - February 10, 2018)
今回は何時もより記事が短いですが、調子が悪いのでご容赦を・・・暫くは更新が出来ません。皆さん宜しく御願い致します。。。