正直言ってまだ、休んで居ようと思ったのですが。皆さんからの励ましを貰いまして。また記事を上げようと思いました。だからまた記事を上げます。丁度4日間しか休んでは居ませんが。今までは2日置きに記事を上げて居ましたけど。今回からは今後4日か、5日置きに記事を上げて行きます。皆さん宜しくお願い致しますね。相変わらず漢字は書き換えられて居ます。もう諦めました。やって居る人間は可成りなバカですね。ええ、、呆れて居ますよ。そのうち相手のID名書いてやろうかと思って居ますよ。本当に辞めて貰いたいです。。。調子は毎日寝込んで居ますので。だいぶ楽にはなりました。此処5日間ぐらいは寝て居ましたから。1日18時間ぐらい寝込んで居ます。おかげで何も手に付きません。此間要約、NHK 受信料免除の更新の用紙を書きました。また、こう言う事を書くと反感を買われるかとも思いますが。精神障害者は NHK の受信料は免除に成るのですよ。国は考えてくれて居るのですよね。しかし手紙を出せに行けて居ません。今日、ヘルパーさんが来るので、そして買い物を頼むので出して下さいと、頼もうと思って居ます。その他、選挙のお知らせだとか、ワクチン接種の手紙だとか、来て居ますが。まだ読めて居ません。ああそう言えば。UNIQLOから感動パンツを1本と痩せようとアクティブ・スレンダーを購入したのですが、まだ箱の中を見ても居ません。何もする気が無いのですよね。無気力に成ってしまって気力も湧きません。今度の月曜に病院に行く事に成って居ますから。主治医に言わないとね....。言っても薬は外さないでしょうけどね。こんな調子なのにblogを改竄して居る奴はいい気になってやって居ます。警察が動かないと見ていい気に成って居ますよ。それではそう言う訳ですので、それでは今回の記事をお読み下さいね、どうぞ・・・。(๑>◡<๑)
若手ブルースバンド、「MONSTER大陸」の演奏です。聴いて見て下さいね。。。
Lucille|MONTER TAI-RIKU【#20】 VIDEO
昨日、ケア・マネージャーと生活保護について話し合った。生活保護の申請に行くに当たって。彼は私の「生活費が残り30万になったら、行きましょう」と言って居た。私は此間野党が岸田総理に生活保護の扶養共助で孫からひ孫まで連絡が行くと言われて居たと言ったら。それは地方の事で東京はそんな事は無いと言われた。私が申請に行っても断られるのじゃないかとビクビクして居たら。ケア・マネジャーは「私は区役所の生活保護課に知り合いが居るから。その人にアポを取るから心配は要らない」と言って居た。私は杉並なのだが、八王子は厳しいらしいけど。「杉並は裕福な区なので、生活保護はすんなり通ると思う。」と言って居た。それを訊いて少しは安心した。何しろ生活保護は悪い噂しか無いから。しかしねぇ、生活保護者が寿司を1回取っただけで「なんて贅沢な!!」と部外者が難癖つけたり。DVDを見て居たら気に喰わないと言うのは如何なものだろうか。生活保護を受けて居るのだから。私の税金で暮らさせて貰って居るのだから。普通の人の様な暮らしは絶対に認めないと言う、周りの圧力には閉口してしまう。何もあんたの税金で生活保護を受けるのではないでしょう?と言いたい。私だって今まで税金は払って来て居る。ケア・マネージャーが言って居たが。「当然の権利なのだから堂々と申請しなさい」と言われた。
大体が私はあるブロガーさんが自分の団地に生活保護者が居るが、毎日ビデオを見て煎餅を齧って居て許せないと、偏見で見て居たので。もうそのブロガーさんとは距離を置いて居る。その人は70歳ぐらいの人です。確かに年金7万円で暮らして居るから文句も言いたくなるのは解るが?何遍も言うが、生活保護を貰う人の大半は私の様な、精神障害者で働けない人が殆んどを占めて居るのですよね。そう言う人たちに向かって憎悪を向けて来る。私たちは唯でさえ、精神的負担が病気のせいで重い。それなのに部外者の自分勝手な屁理屈でそう言う事を言う。私の様な病を持った人間を攻撃して排除する様な真似をするのは如何なものかと思いますよ。ただでさえ、精神的な病を持って居るものは脆いのです。だから周りからの思いやりのないバッシングに耐えられなく成って自殺するものが跡を立たない。言われる方の身にも成って見ろと言いたいです。その人はDVDを見るしかやりようが無いのだろう。煎餅一袋、幾らだ100円しかしないですよ。赤の他人がどうのこうと言う資格は無いはずです。まあ、私はだから30万に生活費が成ったらまずは相談に行き。その時に色々と訊かれると言うのです。今までどうやって生きて来たのか?生活費は働いて稼いで居たのか?持ち金を崩して生活をして来たのか?そして「金が、後残り幾らに成ったら来てくれと言われるから....。」と言われた。しかし、皆んなは何故に生活保護者を攻撃するのか?それは世の中のいじめの構図だと思うのですが。人と言うのは自分よりも少しでも劣る人を徹底的に攻撃して差別をするものだ。この間の生活保護についての記事でも書いたが。歳を取って障害を持つ様になると障害者手帳が貰えるのだが、若い頃に障害者をバカにして来た人は、自分がそう成っても障害者手帳を持たないそうです。自分が若い頃散々バカにして来た、障害者に自分がなると言うことは、どうしても受け入れられないからだそうだ。しかしねぇ、、誰だって好きで生活保護者になる人なんて居ませんよ。皆さんはどう思いますか?コメント頂けると嬉しいです。宜しく。。。。
今日、今また、寝て居た。そして昔の事を思い出して居た。バカ親父から言われた事をだ。私はよく会社を休んだ。するとあのバカ親父はこう言うのだった「お前は学生の頃。小学校から大学まで休まずに通って居たのに、なぜ会社は休むんだ?」私は言われて呆れたのを思い出した。私は統合失調症の薬を、それも可也キツイ薬を飲まされて居る。普通なら働けない薬だ。その私を強引に会社に入れて馬車馬の様に働かせて、具合が悪くなって休んで居るとそう言う事を言って居たのだ。何も解っては居ないのです。疲れて調子が悪くなって休んで居るのだろう!!私は小学校の、3年生の時に扁桃腺の手術をした。そして、ほぼ半年間。自宅で寝たっきりになってしまって。治って学校に行く様になって、はたと困ってしまった。勉強に着いて行けないのだ。私が休んで居た半年間の間に皆んなは可成りな事を勉強して居たのだ。私は完全に置いてきぼりにされて。勉強に着いて行けなくなって仕舞った。母に言った。勉強が解らないからどうしたものかと。すると母は「お前の勉強不足だろ」と言うばかりで何もしてはくれない。だから親父に勉強を教えてくれと頼った。親父は「じゃあ、毎朝1時間、朝6時起きして教えてやるから勉強しろ」と言って初めの1日は教えてくれた。しかし次の日からは起きては来なかった。私は親父を起こしに行くと「うるさい!」と言って起きて来ないのだ。私は困った。本来ならば、こう言った時には家庭教師を雇うはずなのだが。私の親は何もしてくれなかった。だから私は勉強に着いて行けなく。成績は最下位になって仕舞った。そして、それが元で。小学校、中学と成績は殆んど赤点だった。
それ以来。私は勉強が点で解らなくなって仕舞った。私は中学の頃に余りに勉強が出来ないのでテストを白紙で出した。それが担任の怒りを買った。私はいよいよ持って追い詰められた。私は知り合いの大学生のお兄ちゃんのアパートに遊びに行って居たが、その人が突然。私の家庭教師になると言い出して。不本意ながら教えて貰う事になったが。私はこれで勉強が解る様になると期待した。然し、その大学生のアパートに行くと。彼は教えてはくれるのだが夜中の1時まで話して居て、それ以降に勉強を教え出すのだ。私は眠くなって仕舞い。殆んど勉強は頭に入らなかった。そして勉強が終わると、朝方の深夜放送を聴いて帰って来る始末だった。そのうちに、高校受験になった。私は塾に行ったら、塾の講師から、アルバイトの大学生の可愛いお姉さんを紹介されて、その人に教えて貰う事になった。しかし駄目なのだ。こうも勉強が解らなくなって仕舞うと、もう追っ付も張っ付きもしない。ただでさえ、お姉さんは可愛い人だったから私は上がって仕舞い。何も質問が出来ない。するとそのお姉さんは「君どこから勉強出来て居ないの?」と訊いて来た。私はどうしようかと思ったが。正直に言って数学などは小学校高学年から解っては居ないと言った。すると彼女は、「大丈夫よ。私が教えるから」と言って、その代わりに1時間半の勉強を2時間半に延長契約して教えてくれた。私は彼女から色々と教わって要約、勉強が解る次元までになって行った。そして高校受験、志望校へ入学出来たのだった。目を閉じて寝ながらそんなことを思い出して居た。バカ親父よ。あんたは何でそうだったんだい。私にキツク当たり。迷惑ばかり掛けてくれた。まあ、それ以降は言うまい。色々あったのです。もう私も63歳だ。生きても10数年の歳になった。少年老いやすく学なり難しとはよく言ったものです。さてと、もう起きないとな・・・・・・。
今日は「モリのいる場所」と言う映画をまた観て居た。。。
山﨑努演じる画家モリ(熊谷守一)は94歳。猫、蟻、カマキリ、揚羽蝶、鬼百合・・・毎日、庭の小さな生命たちを飽くことなく眺め、絵を描いてきました。 50歳を過ぎて要約認められ、近頃はどうにか暮らせるようにはなったけれど・・・相変わらず周囲の期待通りには筆が進みません。樹木希林が演じる妻・秀子は76歳。 生活のことなど、どこ吹く風の夫と世間の間に立ち、時に光と影を包み込み、毎夜アトリエに送り出します。子どもを亡くす経験もし、決して平坦な52年の結婚生活ではありませんでした。二人は、じかに優しい言葉を掛け合うことはしませんが、ふと漏らす言葉に互いへの深い敬意と 愛情が伺えるのです。山﨑努と樹木希林という日本映画の至宝たる名優が演じる老夫婦の佇まいには、長い歳月を経てきた者の深い絆が感じられます。ただ二人がいる、 その姿だけで感動が心に広がるのです。
映画『モリのいる場所』予告編
VIDEO
私が好きで応援して居る。青木志貴ちゃんです。彼女は本業は声優さんですが。その他、モデル。舞台俳優。歌手で、自分のアパレルブランドを持って居て、そしてデザインもして居ます。その他、コラムニスト、ゲーマーでYouTuberでもあります。皆さんも応援頼みますね、、♪( ´▽`)
【久々のGACKT】活動を休止していたGACKTが大阪で復帰後初めて公の場に登場 「やっとここまで回復しました」「ファンの皆様に歌声を届ける日も近いと思います」 VIDEO
「原田芳雄語録」、、、。
原田芳雄 石榴 VIDEO
横浜ホンキー・ブルース 原田芳雄VIDEO
原田芳雄「愛情砂漠」 VIDEO
さ す ら い VIDEO
原田芳雄が福島原発でアポ無し撮影『原子力戦争』 VIDEO
〜〜思い出の原田芳雄〜〜「B級エッセンス」と「風来去」から。
黒木和雄の『竜馬暗殺』に、原田芳雄、石橋蓮司、松田優作の三人が化粧をして緋縮緬をかける場面がある。このとき原田はほんの一瞬だったそうだが、ニンゲンが生まれ落ちてくる前の、男か女かわからないところから俳優(わざおぎ)が出現しているような気がしたという。 出生未萌(しゅつしょうみぼう)のニンゲンだ。以来、自分がやっている役者という遊びは「女の情念」に近いものだというふうに思うようになったらしい。 原田は男にも女にもなる前の俳優をめざしたのだろうか。だとしたら「俳優の精」にめざめたのである。 なんとも凄い話だが、こんな凄いものがきっと原田芳雄にはいくつも巣食っているのだろうなということは、あの役者ぶりである、 存分にスクリーンを通していろいろ感じてきた。竜馬やヤクザのような荒々しい役もいいが、画面の一角にいる脇役が黒光りしていた。しばしばぶるっときた。
《竜馬暗殺》(1974) 監督:黒木和雄 坂本龍馬暗殺事件までの3日間に話をしぼり、敵と味方の両方から命を狙われドン詰まりになった龍馬を描いた。映像は16ミリモノクロ。盟友・石橋蓮司、弟分である松田優作との共演。
《はなれ瞽女おりん》(1977)監督:篠田正浩 《闇の狩人》(1979)監督:五社英雄 《原子力戦争 Lost Love》(1978)監督:黒木和雄 『原田芳雄 風来去』p56〜57
第4回織部賞受賞式時(2003年9月11日 大垣市ソピアホール)グランプリに選定された鈴木清順氏を祝うため、原田芳雄さんをはじめとした俳優陣がかけつけた(上写真)。左から松岡、磯崎新、原田芳雄、鈴木清順、山口小夜子、宍戸錠《敬称略》。
暇な時はいつも家でゴロゴロしていますよ。家庭のためじゃない。家庭はなくたって家族は残る。幸せな家庭なんて、なんにもならんというやつだと思っている。
そんなのほっといてもいいわけですよ。 男と女が台所を挟んで一緒に生活するというのは、自分では一番不得手なんだ。
朝ごはんにお新香、納豆に味噌汁、焼き魚のひとつもあれば、千年一日のごとく変わらない状態で不満がないんです。生活に変化はいらない。いまじゃ、下の子と擬似恋愛ごっこやっている。
生まれは昭和15年の2月の29日。まもなく戦争になった。その前夜の生まれ育ちだね。オフクロの背中におぶさって夜中に逃げた。火の粉が降るから毛布をかぶってね。兄弟はいません。一人です。下谷の金杉2丁目。三の輪の近く。オヤジは日本人形の職人で、縁日でも店を出していた。そこに連れていかれて、人形と同じかっこうで赤い着物を着せられた。
「かもじ」もつけて。でも疎開先が足利のオフクロの実家だったから、小学校4年までは農村生活ですよ。八木節を聞いていたね。実家はタバコから下駄や薬まで、何から何まで売っていた雑貨屋です。
よろず屋だね。何にもなかったかといえば、雑貨屋だったからいろいろあったけれど、でも特別なものはない。小学校1年生の時に、初めてコロッケが登場した。小さな子供用の自転車で1時間くらいかけてコロッケ屋さんに行った。
月に1、2回のコロッケが当時の大ごちそうです。オフクロは気が強くて、働き者だった。競馬場や競輪場で予想紙に印をつける赤鉛筆がありますね。あの赤鉛筆をひたすら削る内職をしていた。
オフクロが削った赤鉛筆は合計すると何千万本や何億本になるんじゃないか。でも、俺はこの両親から抜け出たかった。どこか別のところへ行きたかった。
それが俺の人生になった。
《浪人街》(1990)監督:黒木和雄
原田さんが男くさく泥臭い浪人を演じ、裏界隈を生きるアナーキーな人々との人間模様を描いた時代劇。『原田芳雄 風来去』p80 どんな子供時代だったかといえば、自分としては嫌なガキだったと思う。 暗い少年だったんですよ。絵を描くと卵の中に胎児がいるとか、お化けがいるとか、気味悪いものを描いた。チラシ集めが好きで、新聞にはさまっている建売りのチラシをノートに貼りつけた。それが3冊、4冊たまっていった。
家がほしかったんだろうね。ラジオは落語とジャズ。先代の金馬、枝太郎、文治、志ん生師匠は心の師ですよ。小学校4年のときに東京に戻りました。足立区梅田のボロ屋。昭和24年になっていた。下町の人情というけれど、
中で暮らす子供にとってはベタベタした関係が多くて、嫌だった。町道場で柔道を習っていて、あるときオヤジが子供をあやすようにふざけたときは、 思わず背負い投げで投げましたね。中学になると下町と貧乏から抜け出したくて、お決まりのようにアメリカの文化に憧れた。スタンダードジャズにハリウッド映画です。 そこにはいままでにない明るさと、強いアメリカがあった強い親父ぞうもね。13歳か14歳の時、ラジオ局が主催するジャズののど自慢大会に出た。 何百人も予選会を受けにきて、そのなかから5人だけ、丹下キヨ子さんが司会する本選に出られる。その5人の中に入ったから、少年のナルシシズムで自信満々。坊主頭で詰襟の学生服を着て運動靴をはいて、『ローズ・タトゥー』を歌いました。ところが、かまやつひろしさんのお父さんのティーブ釜萢さんが鐘を一つしか鳴らしてくれなくて、落ちた。
参加賞としてグンゼの靴下とキスミー化粧品か何かをもらったんだけれど、ぜんぶ荒川放水路にぶん投げた。
1988年頃の原田芳雄のライブ。独特の渋い声を生かし、ブルース歌手としても数多くのステージに立ち、 精力的にライブ活動を行なった。「音楽の嘘のつきかたは芝居より高級だね。でもやればやるほど宿題も増えていくんだ。 だんだん深みにはまっていっちゃった」。 高校は東京の本所工業高校。当時は高度成長の端緒だったから、 工業高校は就職率200パーセントで、ダイヤモンドみたいな金の卵。 だから行けと親に言われたんですよ。でも1年の時の通信簿がずっと1。それも普通の1より悪い赤1と言って、 赤いインクで書かれた赤1が洋服のステッチのようにずらって並んでいた。 いまだに黒板に数式が並んでいて、全然わからないという夢を見る。もともと人前で喋るのが苦手だったんです。 小学校の6年間、教室で自分から手を挙げて先生の質問に答えたなんて、1回もあるかないか。 そこへもってきて学校の成績のこととかが重なって、ついに対人恐怖症になってしまった。 心を通わせる友達は何人かいるんです。 でも、他人がダメで、向こうから知らない人が歩いてくると、すれちがう時にどうよけようかとばかり考えた。 電車の中でも吊り革につかまったまま、 絶対に目をあけない。この対人恐怖症は高校1年から2年にかけての頃が一番ひどかった。そのうち山に夢中になった。 クラブも山岳部と野球部に入った。 野球はレフトで7番。三振か一発かで、振り回していた。とくに山に入ると、自分がさあっと解放される感じがした。 バイトをして金をためて、 年に10回以上も南アルプスに入ってました。そんなとき、大学をドロップアウトして山小屋をやっていた男と 意気投合しましてね、二人で新しい山小屋をやろうということになった。 ところが2カ月かけて学校で描いた図面を持って山に行くと、山小屋が柱しか残っていない。揉め事があって山を下りなきゃならなくなったらしい。柱を見てオイオイ泣きました。
青春時代の原田芳雄
高校を出て農業機械の会社に就職です。何をやってもダメだったから、
雑務をしていた。でも、週に2日か3日は休んでいるような、ひどい社員でした。 1年半でやめた。人と接するのができないんですね。だから芝居を始めたのは対人恐怖症のリハビリですよ。 演劇部の友達が家に遊びにきた時、台本を忘れて帰った。 で、これ、面白そうじゃないかと言ったら、稽古場に連れて行かれてエチュードをやらされた。 「何をやってもいい、何を喋ってもいいから、怒りを表現しろ」と言われて、ワーッとやったら、これができた。 この俺が人前でこんなことできるのかと思った。それで芝居に夢中になって、稽古に通うようになった。 これはリハビリになると思ったわけですよ。親の手前、一応、就職したけれど、 もう役者になるつもりで芝居を続けようと思ってましたね。 あるとき芝居の相棒が俳優座養成所を受けることになったのに、 そいつが突然に「俺、役者をやめる」と言い出した。それで、 俺が代わりに試験を受けた。そうしたら試験の前の日に強烈な胃痙攣になった。 そんな状態のままやっとの思いで試験に行ったから、一次試験の筆記と作文は白紙。次がパントマイムの課題で 「彼は失望落胆して部屋に入ってくる」というもので、 こっちはやっと歩けるかどうかの状態だったから、ふらふらしながらやってみたところ、 これがめちゃくちゃうまかった。これで合格ですよ。俳優座養成所の第14期。 同期は清水紘治、佐藤信、吉田日出子、斎藤憐たち。倍率は20倍くらいあったんじゃないかな。
俳優座時代の原田芳雄
俳優座養成所と俳優座で10年以上の下積み時代を過ごした。たびたび先輩にどやされ、悪い見本にされていたという。 養成所でやっていたのはソ連製のスタニスラフスキー・システムから始まる新劇です。 そういうものかと思っていたけれど、 俺の姿はなんだか汚れたものに映っていたらしい。先輩から「なんて汚い奴だ、動くな」と言われた。 折からちょうど唐十郎さんの状況劇場、鈴木忠志さんの早稲田小劇場、寺山修司さんの天井桟敷などが旗揚げしていて、 気になりましたね。なかで土方巽さんの暗黒舞踏を見て、ショックを受けた。ものすごいコンプレックスを感じた。 それで、なんとか自分の中の新劇的なものをぶち壊したい、 爆破したいと思うんだけど、いざ自分がやろうとすると、どうしても新劇的なものを引きずっちゃう。 そこで行き詰まり、どん詰まり。 そんな時、清水邦夫さんが『狂人なおもて往生をとぐ』(1970)を、俳優座の若い連中のために書き下ろした。 その主役に抜擢されたんですね。清水邦夫さんと出会うことで、自分の中のいろいろなものがどんどんひっくりかえっていきました。 そこへ日活の『反逆のメロディー』(1970)という映画からの誘いがあったんだけれど、 当然、興味が湧かないから、すぐ断った。 ところが監督の澤田幸弘さんが俳優座まで来て、口説くんです。ヤクザ映画でした。 その時分、僕はジーンズの上下の着た切り雀で、しかも長髪だったんですが、
この格好のままでいいんだったら出ますと言った。 そう言えば諦めるだろうと思ったんだけれど、そうしたら「はい、どうぞ」と言われて引っ込みがつかなくなった。
戯曲《狂人なおもて往生をとぐ》(1970)演出:清水邦夫 精神に異常をきたしている長男・出が、自分は売春宿に住んでいると思い込んでいることから、出の妄想にあわせて毎晩「売春宿ごっこ」をする家族を描いた狂気的な作品。
『B級パラダイス』p72〜73
《反逆のメロディー》(1970)監督:澤田幸弘
原田芳雄初主演の映画。淡野組が解散し、組織からはぐれて一匹狼となった組員の哲。「Gジャン、長髪、サングラス」の出で立ちで、新興都市K市で闘争を繰り広げる。
映画をやってみて驚いた。シナリオはどんどん変わるし、そもそもシーンの番号だけはふってあるけど 台詞が書いてない。 野蛮な現場で、俳優座のやりかたがまったく通じない。自分の中にあったものがガタガタと壊れていく。 ああ、これはいいなあと感じて、 そこから映画に夢中になった。夢中になったけれど、芝居もしたかった。 仲間と街頭演劇などを半年ほどやっていた。演出もしてみた。けれども、映画をやると街頭演劇がやれない。 どちらを取るかということで、映画をとった。 芝居というのは、自分がやっている「そこ」が芝居の空間になる。 映画はそうではない。「そこ」に映画の画面がない。映画の現場の一つ一つの作業というのは、 野蛮でガサツな作業なんですよ。セット撮影だって同じことで、 いくらセットを作っても、「そこ」で映画成立しているわけじゃない。 映画の現場で映画成立しているのは、カメラのレンズを通した35ミリの一角でしかない。 そこにしか映画のエキスはないんです。 ミキサーの中のジュースみたいなもので、現場から出てきたものの、ほんの一滴か二滴がたぶん映画なんだと思う。 現場にいるときは、どんなジュースになって出てくるのか、わかりはしないんですよ。 いいかえれば、映画の現場にはジュースになって出ていかない余分なものがたくさんあるということになる。 その現場と映画との距離は大きい。自分にはその距離が大きければ大きいほど、おもしろいんです。
原田芳雄の台本の最終頁 撮影シーンごとに項目を書き出し、撮り終わると赤丸をつけていくのが変わらぬ習慣だった。映画の現場では誰と出会うかがすべて。役づくりもそこから始まる。 最初に『新宿アウトロー・ぶっとばせ』(1970)とか『関東幹部会』(1971)で、 渡哲也さんに出会ったのがよかった。「ご趣味は?」と聞いたら、「焚き火です」。 これに勝る趣味はない。やられたと思いました。
『野良猫ロック・暴走集団71』(1971) で藤田敏八さんと出会ったのも大きい。不良の映画だったからみんな革ジャンを着ていたけれど、 あえて日本的なドテラを着ましたよ。長~いドテラをね。そうしたら上の方から、 主役の奴にあんな変なものを着させておいていいのかとクレームが入った。 だから途中からちょっと短くなった。敏八さんとは『八月の濡れた砂』(1971)でもご一緒します。 このころの1年間は長谷川和彦がほぼ最後の助監督としていたんだけれど、 現場的にはゴジ(長谷川和彦)の存在が効いていた。ゴジがバカなことを全部うけいれていた。 現場の中で何が一番の味方になるかといったら、 助監督のチーフですからね。チーフ助監督は現場を仕切ってはいても、ハサミを入れない。 俳優は百人が百人、エゴイスティックだから、チーフがそれをどこまで許容するのか。 そこにかかっている。 ゴジはある程度「そりゃそうだ」というふうに背負っていった。 ゴジは大切なポジョションを守ってくれたんです。1974年あたりがぼくの「春」でしたね。 藤田さんと梶芽衣子さんの『修羅雪姫・怨み恋歌』、黒木和雄さんの『竜馬暗殺』、 寺山修司さんの『田園に死す』、翌年の黒木さんの『祭りの準備』と続いた。これで「春」が終わった。 僕の「春」というのは若い頃からの美空ひばり、エルビス・ディビス。ジョニー・マチス。ジェイムス・ディーンに始まったもので、 それがずうっと続いていたんです。
《新宿アウトロー ぶっ飛ばせ》(1970)監督:藤田敏八 《野良猫ロック 暴走集団’71》(1971)同上
原田さんは藤田敏八を“パキさん”という愛称で呼び慕っていた。 「僕にとってパキさんと撮った映画は、僕の映画俳優としての原点というか、 へその緒なんですね」。
《祭りの準備》(1975)監督:黒木和雄
昭和30年代の高知県中村市(現:四万十市)を舞台にした脚本家中島丈博の半自伝的作品。青年が地縁・血縁のしがらみの中でもがき苦しみながら旅立ちの日を迎えるまでを描く。右下の女性を洗う場面は、原田が現場で思いつき創作した。
鈴木清順監督にはひそかに憧れてました。だから最初に『悲愁物語』(1977)に誘われたときは勇んだのだけれど、 みごとに大失敗をした。現場で自分の「清順さんの映画」を思い浮かべちゃったからです。 それで『ツィゴイネルワイゼン』(1980)では、すべて取っ払った。 何もなし。用意できるはずもない。そしたら、自分で何をやってるのか、ほとんどわからないままになった。清順さんはこちらのことを裏切っていきますからね。 その裏切られ方が楽しかった。
たまらなかった。ざわめくんだね。これこそが遊び心というものでしょうね。 自分自身の中で「遊び」が貧しくなったらいちばん寂しい。焦ります。
一つの遊びをやめても次の遊びがあるっていうのはわかっていても、一つの遊びが終わるっていうのは 衰弱してるってことでしょう。遊びのなかでいちばんいいっていうのは「遊びのあと」ですよ。 遊びのあとに何も残らないのは衰弱です。
《ツィゴイネルワイゼン》(1980)監督:鈴木清順
4人の男女が、サラサーテ自ら演奏する「ツィゴイネルワイゼン」のSPレコードを
取り巻く、妖艶な世界へと迷い込んでいく。
『原田芳雄 風来去』p62〜63
原田芳雄と「遊」
『B級パラダイス』の最後は「どんな状況になろうと、遊びだけは手放しちゃいけない」という言葉で結んでいる。原田宅の居間には、書家・小畑延子による「遊」の書が飾られていた。
ともかくも原田芳雄が出ている画面は格別なのである。 「裂け目」があるのだ。
そういう原田の野性や「精」を思い切り引き出したのは 『とべない沈黙』で映画デビューした黒木和雄だった。『竜馬暗殺』『原子力戦争』『浪人街』『スリ』と連打され、熱狂的な原田ファンをつくりあげた。 以来、松田優作は一挙手一投足のすべてを原田流に徹することになる。 黒木はのちに井上ひさしの『父と暮せば』(2004)に原田と宮沢りえと浅野忠信を組ませた。
《スリ》(2000)監督:黒木和雄
「浪人街」以来10年ぶりの黒木和雄監督作品。“ハコ師”と呼ばれる電車の中を仕事場とする凄腕のスリを演じた。右ページは原田さん独特の絵。けっこう綿密だ。
《父と暮せば》(2003)監督:黒木和雄
井上ひさしの戯曲を映画化。原爆投下後の広島を舞台に被爆した父の亡霊と娘を描いた二人芝居になっている。右ページは『暮らしの手帳』に寄せた作品に関するエッセイの草稿。
『原田芳雄 風来去』p94〜95
原田芳雄と松田優作
『竜馬暗殺』での共演以降、松田優作は原田さんを兄貴分として慕い、スタイルや演技に大きな影響を受けた。松田の告別式の弔事には、原田さんの愛情と悲しみが込められている(右ページ)。『原田芳雄 風来去』p118〜119
しかし、私にとっての「俳優の精」ベスト1は『寝盗られ宗介』(1992)なのである。若松孝二の演出もよかった。 何度も見た。ベスト2は同じく若松孝二監督作の「われに撃つ用意あり」です。
『寝盗られ宗介』(1992)監督:若松孝二
つかこうへいの同名舞台劇を映画化したコメディ。原田さん扮する一座の座長とその妻の奇妙な愛憎関係を中心に、座員たちの面白おかしい人間模様を描く。原田さんは作中で女装し〈愛の讃歌〉を歌いあげた。日本アカデミー賞の主演男優賞にもノミネートされた。
『大鹿村騒動記』(2011)監督:阪本順治
300年以上続く大鹿歌舞伎の伝統を守り続けている実在の村を題材にした映画。
原田さんは公開3日後の2011年7月19日に逝去したため、本作が遺作となった。 ところで、原田芳雄は鉄男クンである。鉄道模型には目がない。子供の頃に列車に憧れたのがきっかけで、東京に戻ってきたときに近所の「つばめ屋」という模型屋で、 毎日ショーウィンドウを眺めていたようだ。 それが長じて、あることをきっかけに猛然と噴出した。 けれども、いわゆる鉄男クンではない。 原田が好きだったのは鉄路、 すなわちレールだったのである。どこまでも続くレールのひたむきさに惹かれた。そのレールのために周囲をレイアウトする。それが無類の時間になった。 鉄路が大好きなのだから、飛行機は苦手である。できるだけ鉄道で行く。 つまりは、どういうことか。原田芳雄は何でもないことに夢中になれることを選んできた男なのだ。 何でもないことに夢中になれるとは、やっぱり本物の不良だったということである。 レールがあって、そのまわりに光景がある。俳優原田芳雄はそこに走り込んだ列車に乗る。乗るたびに演じる個性が変わる。その変わるのために、いつもはカラッポになっておく。
鉄道模型「B-LINE’82」を作る原田芳雄 映画などのロケーション撮影で日本各地に行く場合は必ず鉄道にのっていた。
さて、映画です。今回は「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト」こと、「ウエスタン」です。
1968年製作のイタリア・アメリカ合作映画です。セルジオ・レオーネ監督作品。黄昏の西部開拓時代を舞台に、当時の人間模様を活写した大作群像劇です。原題を意訳すると「昔々、西部で・・」となります。
レオーネの代表作であるのみならず、西部劇の金字塔として高く評価されています。この作品から『夕陽のギャングたち』、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』までを、それまでの「ドル三部作」に対して「ワンス・アポン・ア・タイム三部作」と呼びます。
『ウエスタン』はレオーネの後期作品群である「ワンス・アポン・ア・タイム三部作」の第一作目に相当する作品です。三部作の間に話の繋がりは存在しない物の、いずれもレオーネなりに解釈した西部開拓時代から近代社会までのアメリカという共通のテーマを扱っている。レオーネは当初本作品を自身が監督する最後の西部劇映画だと認識していた。『ウエスタン』にはレオーネの西部劇への決別の意志と共に、当時全盛期を終え徐々に衰退しつつあったハリウッド製西部劇への愛惜の念が込められているとされる。作中には実際に過去の西部劇の名作からの引用が多く為されている。
それまでの賞金稼ぎや無法者たちが闊歩する「ドル三部作」の世界観と異なり、『ウエスタン』の舞台はフロンティアが消滅しつつあった西部開拓時代末期です。映画に登場するハーモニカ、フランク、シャイアンの三人のガンマンたちは単純な西部劇の英雄や悪漢ではなく、時代の流れに抗しきれず居場所を奪われた男たちとして描写されている。本作品では鉄道が彼らに西部開拓時代の終わりを告げる象徴的存在として登場している。
また、『ウエスタン』はそれまで映画中に女性をあまり登場させなかったレオーネが、初めて本格的に女性に焦点を当てた作品でもあります。クラウディア・カルディナーレ演じる気丈な未亡人ジルは、それまでの西部劇に多く見られたような、悪党に苦しめられ助けを待つか弱い女性ではなく、はっきりと独立した意思を持った物語の中心人物として描かれている。
『荒野の用心棒』、『夕陽のガンマン』、『続・夕陽のガンマン』のいわゆる「ドル三部作」を撮影し終えたレオーネは、もう西部劇というジャンルでやりたいことは全てやりつくしてしまったとして、新しく禁酒法時代のユダヤ人ギャングを描いた映画(17年後に『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』として結実)を製作しようとしていた。しかし、ハリウッドがレオーネに期待したのはあくまで従来のマカロニ・ウエスタンでしかなかった。当初「ドル三部作」の配給会社であったユナイテッド・アーティストはチャールトン・ヘストン、カーク・ダグラス、ロック・ハドソンたちが出演する映画製作を打診したが、レオーネは気が進まなかったのでその申し出を辞退した。しかしパラマウント映画がヘンリー・フォンダが出演する映画製作のオファーを出した時には、それを受け入れた。パラマウントが提示した潤沢な製作資金が魅力的であったことの他に、ヘンリー・フォンダが、レオーネの敬愛する俳優であったことがレオーネの心を動かしたと云われている。
レオーネは新鋭監督のベルナルド・ベルトルッチと当時まだ映画評論家であった、ダリオ・アルジェントに映画の原案を委託した。彼らはレオーネの自宅で『真昼の決闘』や『大砂塵』といった西部劇の名作を鑑賞しながら、『ウエスタン』のプロットを練ったと云う。そのためか『ウエスタン』はこれまでの娯楽性を追求したレオーネの「ドル三部作」(いずれも典型的なマカロニ・ウェスタンである)と異なり、登場人物の心境の変化や作品のテーマ性によりフォーカスを当てた構成、いわば伝統的な西部劇スタイルへの回帰が見られるとされる。
「アメリカの良心」を体現してきたヘンリー・フォンダが、悪役を演じることに抵抗を感じた観客が多かったアメリカでは、『ウエスタン』は期待されたほどのヒットにはならなかった。しかしヨーロッパや日本では大ヒットし、それらの国におけるレオーネの評価を更に高めることになった。2005年にはアメリカの雑誌『TIME』によって映画ベスト100中の1本に選ばれた。
本作を観たジェーン・フォンダは、父ヘンリーが、極悪非道な殺し屋のボスを演じた事が、自分と弟ピーターそして自殺した母たちへの謝罪だと感じ。涙を流し、一人のファンとして、ヘンリーにファンレターを出した。因みにクラウディア・カルディナーレはジェーンより1歳年下である。
ストーリー。
西部に初めて鉄道が敷かれようとしていた頃……。アイルランドから移住して来たマクベイン(F・ウルフ)は、この荒野に大きな夢を抱いていた。そして、彼は砂漠を買い、ニュー・オリンズにいる婚約者ジル(C・カルディナーレ)を呼ぶ準備をした。その彼の地権を狙う二人の悪党がいた。鉄道局の役人モートン(G・フェルゼッティ)と、ガンマンのフランク(H・フォンダ)である。そこへ、フランクを捜して一人のよそ者(C・ブロンソン)がやって来た。彼は“その男”と呼ばれた。もの凄いガンさばきとハーモニカがうまいのが特徴であった。彼と同じ汽車でジルもやって来た。彼女はマクベインに呼ばれて来たのだった。しかし、その時すでに、マクベインはフランク一味の銃弾に倒れていた。この事件は、ハーフのシャイアン(J・ロバーズ)の仕業と云う事になったが、居酒屋で“その男”に出会ったシャイアンは、犯行を否定した。一方、法的な利権がジルに与えられると知ると、フランクは彼女を狙いはじめた。身の危険を感じたジルは、保安官(K・ウィン)の助力を得て遺産をせりに出した。フランクは裏工作をしたが、“その男”とシャイアンが権利を買いとり、再びジルに与えた。その後も、フランクは執拗に彼女を狙ったが、目的を果せなかった。そしてついに、フランク一味の襲撃を待っていた“その男”の怨みの銃弾がフランクを倒した。その時“その男”の脳裏には15歳の時フランクに虐殺された兄の事が浮かんでいた。彼は再びこの土地を去って行った。夫の夢を受け継いで行こうとするジルを残して……。
Once Upon a Time in the West / Ennio Morricone ウエスタン(映画)/ エンニオ・モリコーネ VIDEO
決闘、復讐のバラード(ウエスタン) 高画質HD VIDEO
この作品は初めテレビでカット版を観て、後にビデオで通常版を観たのですが、クリント・イーストウッド主演のドル三部作のマカロニ・ウエスタンとは趣が変わっていて、どちらかと云うとアメリカの正統派の西部劇みたいに撮れています。ですが、そこはレオーネ、ちゃんとマカロニ・テイストも含んでいて、まあ、マカロニと本場西部劇の良いとこ取りをして、混血西部劇を作ったと云う処でしょうか。復讐に燃えるチャールズ・ブロンソン、悪党のヘンリーフォンダ、そして未亡人のクラウディア・カルディナーレ、三者三様の人生絵巻が展開されます。冒頭のクラウディア・カルディナーレの婚約者とその家族がヘンリーフォンダに撃ち殺され、皆殺しにされるシーンから一気に、ボルテージが上がりました。そして、ブロンソンが演じる”その男”が最後に敵の悪党のフォンダを倒して、自分に好意を持っている未亡人カルディナーレに背を向けて去っていくシーンまで一気に観てしまいました。それとジェイソン・ロバーズが演じる風来坊も良い味出しています。私は本場アメリカの西部劇もジョン・フォード監督作品「リバティバランスを撃った男」やニコラス・レイ監督の「大砂塵」など結構好きな映画があります。この映画は『真昼の決闘』(1952)へのオマージュであるのをはじめ、様々な“西部劇映画”からの引用に満ちています。『アイアン・ホース』(1924)『シェーン』(1953)『追跡』(1947)『捜索者』(1956)『赤い矢』(1957)『大砂塵』(1954)『ウィンチェスター銃'73』(1950)『ワーロック』(1959)等々、しかし、これをレオーネはマカロニ・テイストで纏め上げています。最近この「ウエスタン」の3時間復元ノーカット・バージョンがCSで放映されて、それをBlu-rayに録画しました。レオーネは自身の初のマカロニ・ウエスタンの「荒野の用心棒」が黒澤 明監督の「用心棒」にそっくりだった事から分かるように、日本の時代劇からの影響も受けています。反対に日本の時代劇もマカロニ・ウエスタンの影響を受けていて、三隅研次監督の「子連れ狼・三途の川の乳母車」などは、トニーノ・バレリ監督の「ミスター・ノーボディ」からヒントを得たようなシーンがあります。まあ、映画はお互いに影響されて作られていくものです。今回このblogで紹介の動画を挙げていますが、出来れば、このblogでこの映画を知った方は、レンタルでもして「ウエスタン」を堪能して下さいね。
bluesの映像です。観て下さい。。。
Sonny Black - Heart and Soul - Blues Walkin' By My Side VIDEO
Tinsley Ellis - Kiss Of Death
VIDEO
今回は此処までです。読んで観てくれて有難う、、また更新出来たら逢いましょうね、、( ◠‿◠ )