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奇乃堂

「あの時、どこにいました」というのが切り出しだった

 東日本大震災から11年。
 最近は話すことは減ったけど、地震の後2年くらいは、互いにどこであったかなど聞いたりした。
 「あの時、どこにいました?」と。
 そのあとはないのは、それぞれの生活が安定したのもあるだろう。
 苦しいことはあってもそれは私のことであって、震災の影響ではないから……地震の話はない。


 私の周りは被災したといっても、電車で帰れなかったとかそういうたぐい。
 それでも、被害は壁のヒビた時計が落ちたとかで、揺れた直後はてんやわんや。家の人間と連絡取れたり、会社に泊まると決まるなど、混乱の中でも、被害は少ないわけだ。
 テレビがある職場だったから、大津波の情報や、地元でも相当揺れいる映像など見ていた。誤情報が流れたり……。
 会社で白飯の炊き出しがあったり、毛布の貸し出しがあった。こういう時、企業側がしっかりとしているとありがたい。

 なお、翌朝、電車が動いているということで、同じ方向に行く人と向かった。
 地下鉄だったから、できるだけ、乗りたくないなぁということもあり、少し、私は歩いた。
 朝で気持ちがいい。
 一緒の人から阪神淡路大震災被災の話を聞いたり、とりあえず、帰宅できそうとか、今日仕事出る人どうなんだろうとか話しながら……。

 一人になった後、緊急地震速報が入る。
 周りの人たちは気にしていない。
 当時はまだ空振りが多かった。
 ちょっと涙目になりながら駅に向かう。
 電車に乗ったとき、混雑していたが、なんか安堵した。
 乗っている人たちもホッとしている様子。
 ここでも緊急地震速報が入り、電車は止まる。
 皆、息をひそめるが、何もなく終わる。

 帰宅して、部屋の片づけをした。
 本棚がひどいことになっていたしね。
 ぬいぐるみが椅子の下に落ちていたのだけど、家の人が避けたのではなく、自主的に避難したらしい。
 お、おおう。

 福島第一原発の事故があってからのほうが状況は大変だった。
 停電で動いている電車が少なくて、超絶混雑。
 メガネが取れたので、降りてすくのを待つとか……結構、ホームで「ぼー」としていた。
 計画停電や急な停電も考えて、懐中電灯を持っていた。後日、小さいのを買う。

 あと、隣の席の人が、放射能が、放射能が……とぶつぶつ言い、色々言うため、かなり、精神消耗。後日、精神的な影響を他人から受けるんだということを理解した。気を付けるようになるけど、まぁ、人間関係は難しい。

 客が減った店で、てこ入れがあって格安でおいしいランチを食べられたことはよかった。
 サンドイッチも食べたいなと思っていたけれど、なかなか行けなかった。
 結局、店は閉店してしまった。
 このころ、また、店は簡単につぶれると気づいた。
 使い続けるのは難しい。でも、必要な店については、できる限り使いたいのだけれどもね。

 なお、小学生のころから「明日、関東大震災が起きてもおかしくない」と言われてきている。
 今、こうして、文章を書けるのは、幸せなのかもしれない、と思うのだった。

今後ともよろしくでございます。

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