北関東の宮彫・寺社彫刻(東照宮から派生した宮彫師集団の活躍)

『日光東照宮のスピリッツ』を受けついだ宮彫師たち

日光東照宮奥社の宝塔について考える

2021年07月09日 | 総論 
前に当ブログで「日光東照宮-宮彫師の原点」で、東照宮の概略を紹介しました。本項では、奥社の宝塔をもう少し掘り下げたいと思います。

日光東照宮奥社 宝塔

 現在の銅製の宝塔は三代目になります。初代は木造で家康公(東照大権現)没年の元和五(1619)年の2年後に着工されています。増上寺の二代将軍秀忠公(台徳院)の宝塔も木造でしたので、元和期の宝塔は木造が一般的であったと思われます。三代家光公の行った寛永の大造替(寛永十三年)で、石造の宝塔に造り変えられましたが、天和三(1683)年の日光地震で破損し、現在の銅製の宝塔に至っています。
 日光山輪王寺伝来の『旧記』には、「御墓ノ上二御宝塔ヲ建ツ、御本尊薬王菩薩」(『旧記』)とあり、初代木造の宝塔内には薬王菩薩の像が安置されていた可能性があり、別説では、「釈迦、多宝」の二仏(『仮名縁起』)ともあります(文献①)。

久能山東照宮 宝塔

 元和二年四月一七日に家康公がなくなり、直後に秀忠公の命により久能山神廟の社殿が造営されました。元和二年十月に日光の土地の選定、日光東照宮の工事着手され、元和三年三月に竣工しています。家康公の遺骸が久能山、日光どちらにあるのか論争があります。久能山の宝塔は石造であり、前述したように、初期は木造であった可能性があり、こちらも何らかの理由(地震等による損壊)により石造に造り変えられたと思います。

宝塔の構造について
 日光、久能山の宝塔はどのような構造であるのか、詳細な調査はされていませんので、他の将軍(増上寺にある六代将軍家宣公(文昭院))の宝塔から考えたいと思います。

増上寺にある文昭院(六代将軍家宣公)の宝塔

 現在は増上寺本堂の北東の徳川将軍家墓所にあります。現在の増上寺の北隣の東京プリンスホテルの敷地が、将軍家北御霊屋で六代、七代、九代、十二代、十四代将軍の霊廟でした。増上寺南の南御霊屋には二代、二代正室の霊廟があり、ザプリンスパークタワー東京が建つ場所に二代台徳院の奥院、宝塔がありました。昭和33-35年に改装され、現在の形になりましたが、改装の前に詳細な調査をされています(文献②)。

六代将軍家宣公(文昭院)の宝塔の地上部(上)、と地下部(下)

 家宣公は正徳二(1712)年に亡くなられています。正徳二年から翌年に作られた宝塔と考えられます。現在の家康公の三代目の宝塔と同じように銅製になっています。

文昭院宝塔

 宝塔の中心の筒状部分は基壇まで伸びて固定されています。

文昭院宝塔の地下部分

 宝塔の直下には蓋の大石があり、さらに下には漆喰、その下に石室があります。石室のと外郭の石の間には木炭が詰め込まれています。石室の内部は銅棺があり、その中に木炭、木棺があり、将軍の遺骸が納められていました。



現在の日光東照宮の境内図を示します。
 奥社の手前にあります陽明門、拝殿、本殿のライン(赤の点線)上に奥社宝塔が書かれている場合がありますが、実際の宝塔は少しずれた赤丸にあります。ライン上の部分は奥社の石垣の外になり、尾根の斜面になっています。天和の日光地震で地滑り等の地形の変化が生じて移動させた可能性があり、現在の宝塔の地上部だけでなく、地下部も天和年間に再建されたとするならば、文昭院の宝塔の構造に近いものになっていると推測されます。

Google Mapによる日光東照宮


参考文献
①浦井正明『もうひとつの徳川物語 将軍家霊廟の謎』、誠文堂新光社、 1983
②鈴木尚、矢島恭介、山辺知行、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』、東京大学出版会、1967

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