北関東の宮彫・寺社彫刻(東照宮から派生した宮彫師集団の活躍)

『日光東照宮のスピリッツ』を受けついだ宮彫師たち

文昭院(六代将軍 家宣公)の霊廟(東京 芝)

2021年07月18日 | 総論 
六代将軍家宣公は、父が甲府宰相とよばれた徳川綱重(家綱、綱吉と兄弟)になります。五代将軍綱吉公に嗣子がなかったので、綱吉公の兄の子として世子になりました。綱吉公が麻疹で亡くなった宝永六(1709)年に将軍になりましたが、正徳二(1712)年十月に病で亡くなられました。宝永四(1707)年に富士山の大噴火の復興の途中であり、将軍の在職期間は約四年と短かったですが、新井白石を重用し、生類憐みの令を直ぐに廃止し、老中、側用人など幕府要職への賄賂も禁止し、綱吉政権の一新を図りました。
 その病臥中に、近しい臣下に「常に東照宮(家康公)の神徳に仕えることを心としてきたが、在職の年数短くして志を遂げること今に至ってまで及んでいない」と述べ、子の鍋松(七代将軍家継公)に対し、「大猷院殿(家光公)、厳有院殿(家綱公)は祖に準じて行え、常憲院殿(綱吉公)はいうまでもないが、台徳院殿(秀忠公)の忌日は軽んじられ奉る者もなく、増上寺に詣る人も多くないようである。これは台徳院殿を軽んする基にもなるであろう。今度自分が命を終わったならば増上寺に葬ることにせよ」と遺命を残している(文献①)。増上寺は、二代秀忠公の次からの三代の将軍は寛永寺に葬られたのを、墓所を菩提寺の増上寺にしたことは家宣公の人柄がわかります。
・増上寺北廟(将軍家墓所)の全体図   文昭院の宝塔は、祟源院(秀忠公正室)、桂昌院(綱吉の生母)の後方に建造されました。


・文昭院の銅製宝塔(文献①)  時代の七代将軍から石造になります。  


・同宝塔の構造(文献①)


・宝塔の地下の石室(お墓)(文献①)


・文昭院の宝塔前鋳抜門(現在の増上寺将軍墓地の門)










 同門の裏側








・同門の周囲(増上寺将軍墓地 説明版より)



・文昭院霊廟の二天門(文献②)


・文昭院霊廟の勅額門(文献②)


・文昭院霊廟の水盤舎(文献②)


・文昭院霊廟の鐘楼(文献②)


・文昭院霊廟の中門(文献②)


・文昭院霊廟の中門左右廓(文献②)




・文昭院霊廟の拝殿内部(文献②)


 同 (増上寺将軍墓地 説明版より)


・文昭院霊廟の相之間内部(増上寺将軍墓地 説明版より)


・文昭院霊廟の宝塔前の拝殿(文献②)


・増上寺北廟 御成門 (現存)


 同門の裏面


*後に十二代将軍家慶公(慎徳院)、十四代将軍家茂公(昭徳院)が合祀されます。


参考文献
①鈴木尚、矢島恭介、山辺知行、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』、東京大学出版会、1967
②田邊秦:『徳川家霊廟』、彰国社、昭和17年




最新の画像もっと見る

コメントを投稿