岸和田民商の新着情報ブログ

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市民税・固定資産税払えていますか

2009-04-24 12:29:15 | Weblog
 国の税源移譲により、国税と地方税が逆転し、市府民税の支払が困難な会員さんが増加しています。市民税と固定資産税の徴収担当者の中には、勘違いをしているのかなという方もおられます。

 今年は、正式に交渉にも入り、行き過ぎがあるような場合には、是正もしてもらおうと思っています。集団での分納申請日は、6月に取り組みます。日程が決まれば、ニュースでお知らせしますので一緒に申請して下さい。

 又、督促状や催促状が送られてきた場合は、ほって置かずすぐに連絡して下さい。法律では、納税者の事情を十分に考慮し、生活を第一優先に考えなければならないことになっています。逆に言えば、本人が何も言ってこないとか連絡が取れない時には、差し押さえしても良いということになってしまいます。

≪今年は固定資産の評価替えの年です≫
 5月13日に名寄帳を出してもらって、評価額の見方などを学習しようと思っています。市役所玄関で午後1時30分集合です。

(だんじり、2009年4月27日付けより)

市民フェスティバルに今年も参加します!

2009-04-19 17:21:51 | Weblog
民商も 例年どおり 参加します!!
今年も、アイスクリン・ヨーヨー・バザー他で出店します。

◎バザーに出す品物、提供してください!
家で眠っている品物、商品など、寄付してください。
(連絡いただければ取りに伺います)

◎当日手伝ってくださる方も募集してまあす!
1時間でも2時間でもけっこうです。
都合のつく時間、手伝ってください。

(だんじり・2009年4月20日付けより)

グッピー(国産です)を飼ってみませんか!?

2009-04-18 17:19:47 | Weblog
会館で、グッピーの赤ちゃんがいっぱい生まれています。

色、形の違う何種類かがいます。飼い方はそんなに難しくありません。
名前を付けてその成長を見守ったり、赤ちゃんを増やしたりと楽しみ方は色々。

飼ってみようと思う方は会館まで連絡下さい。
一人、2ペアまでOKです。

(だんじり、2009年4月20日付けより)

≪ 労働・生活なんでも相談会 ≫

2009-04-18 17:15:21 | Weblog
 4月26日に民商も加盟団体として参加する相談会を岸和田駅前で取り組みます。

 大きなテントを張って、午前10時から午後4時までの取り組みです。
参加団体は、阪南合同・生健会・民商・新婦人・民青同盟・医療生協・年金者組合・地域労組・岸和田労連・阪南地区協・共産党議員団・共産党市委員会などです。

 都合が付くようでしたら覗いてください。

(だんじり、2009年4月20日付けより)

なんでも相談会

2009-04-18 17:03:15 | Weblog
毎週水曜日になんでも相談会を開催しています。
1ヶ月に平均してのべ20~25人前後の方が来られます。

内容は色々で、「融資」「売掛金の回収」「サラ金・高利」「借入返済金を減らしたい」「税金・国保などが払えない」「離婚したい」「教育費が払えない」「相続財産について」「家を買いたい」など多岐に亘っています。

サラリーマンや主婦の方も相談に見えています。
周りで困っている方が居られましたら、声をかけて下さい。

(だんじり、2009年4月20日付けより)

お茶のはなし・シリーズ(その21~30)

2009-04-18 12:17:39 | ひとことコーナー
シリーズ(二一~三〇)お茶のはなし

 堺南宗寺の本山である大徳寺は臨済禅の本山で、一休は総長として大徳寺へ迎えられますが、本人は大徳寺には住まず宇治の薪(たきぎ)に目の見えぬ女性と住みました。

 禅の教えにある「侘」を薪で実践し、「侘た能」を演出し、薪で一休が創った能の演目を「薪能」と呼ぶようになりました。さらに大徳寺の修行のうちに、茶を呑む行を加え、茶を禅の修行の一つとして、茶道の元を作り上げ茶を禅の一部としました。


 一休は知られているように後小松天皇の子で、薪の酬恩庵に葬られています。この一休の侘茶を引き継いだのが村田珠光でした。

 珠光は茶をすることが禅に通じる、と茶を持ち上げ、侘茶を広めます。又、藤原定家は『見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮れ』と和歌で示しています。
 しかし、この「侘」とは日本独自の思想ですが、今の私達には知らないところが多く、禅を求めて来日する外国の人の方が「侘」を理解しているようです。


 「侘」を表す物として珠光は、あばら家に名馬をつなぐ、としています。これは、苫屋(とまや)に中国の陶器(茶器)を置くと考えられ、中国南方窯の青瓷(せいじ)を好みました。これは、珠光青瓷と呼ばれ、青瓷の内では安物にあたります。茶室も銀閣寺の四畳半書院より苫屋風にと、豪華さを抑える侘思想が具現化されてきました。

 その頃堺でも茶が盛んで、への松に住む皮商人、武野紹鴎(たけのじょうおう)は乱世の世の武具商人として成功します。


 紹鴎(じょうおう)は茶だけでなく和歌を習いに京に出て、高価な茶道具を買いあさっていましたが、珠光の侘茶に通じることで禅に帰依し、一休禅茶をさらに堺へ伝える役を果たしました。
 堺では、紹鴎の弟子に、今井宗久や田中与次郎、津田宗及ら、納屋衆が侘茶を習い紹鴎の侘茶が堺に広まりました。

 信楽の水指や竹の茶杓(ちゃしゃく)、棗(なつめ)は紹鴎が使い始めた侘道具で、利休以前に侘茶は完成していました。


 田中与次郎さんは紹鴎(じょうおう)に「今、一番侘茶に通じるのは弟子のうち誰か」と尋ねました。紹鴎は「私の中には誰もいない。京に住むへ貫(へちかん)ぐらいだろう」と言われたそうです。へ貫は釜一つ茶碗一つで生活をし、釜でご飯を炊いて、後湯を沸かし、飯碗で一服茶を呑むという侘生活の人であったそうです。紹鴎も羨む侘びを実践していた僧でした。

 へ貫は武士を茶に誘い、途中に落とし穴を掘って、客をその穴に落としてはばからなかったそうです。


 紹鴎(じょうおう)はその後、織田信長から茶の指導を求められました。信長は堺と通じるために、納屋衆が茶を習っている紹?に近づき、商人と繋がろうとしました。
 紹鴎は、「比叡山を焼き討ちにするような人に侘茶を教えたくはない」と従わなかったことで、信長は紹鴎に毒入りの茶を出して、「従わねば殺す」と迫ったそうです。しかし紹鴎は僧でもあり、僧殺しの片棒は担がぬと、その茶を呑んで死んだとも言われています。


 信長はその頃ザビエルと交流し、宿敵の石山本願寺(現大阪城)を攻めていましたが、一向宗の宗教の力を恐れ、その対抗者として、耶蘇教(やそきょう=キリスト教)を取り入れました。
 信長は無神論者でありましたが、耶蘇教を利用したのです。信長は教会より砒素の毒を手に入れ、天下統一へと、毒殺を行った人です。

 しかし、石山本願寺は毒殺も出来ず、仕方なく、高麗茶碗を与え、和議を結び、石山本願寺を手に入れました。


 信長は最後に残った国、堺を攻めますが、環濠(かんごう)で囲われ、鉄砲で武装した堺は、なかなか言う事を聞きません。そこで堺衆の先生である紹?に近づいたのですが、自殺されてしまいました。

 今度は、残った紹鴎の婿、今井宗久に茶の指南を申し入れてきました。宗久は、義父のように殺されてはたまらんと、紹鴎から引き継いだ茶道具を信長に差出し、信長の政商となるのです。

 この時贈られた茶道具に、「千鳥の香炉」があります。


 信長が石川五右衛門に命を狙われたさい、千鳥の香炉が鳴いて一命を免れた、と言う話もこの香炉にまつわる有名な話です。

 信長は頭の良い人で、茶を、家臣には許可制とし、功績のあった者にだけ茶を許しました。秀吉などは、この茶を許されたことがいちばん嬉しかった、と言っています。
 領地を与える代わりに、茶道具で済むので信長は安堵できたのです。領地を与えれば、信長に謀反を起こしかねないからです。

 という訳で、信長の家臣はキリスト教と茶に、否が応でも従うことになりました。

 信長は京都にキリスト教の布教を許可し安土には、天主閣(教会)を建てました。安土城は教会だったのです。
 ザビエルらは信長に、バチカンでは大きな吹き抜け、石造りの教会があると紹介し、その屋根はブルーの瓦で葺(ふ)かれていると伝えました。
 信長は、そのブルーの瓦を安土城の屋根にも葺こうと、朝鮮から来た瓦師に緑色瓦を焼かせました。

つづく

会長 西念 秋夫

(だんじり連載記事より、お茶のはなし・その21~30)

お茶のはなし・シリーズ(その11~20)

2009-04-15 16:40:49 | ひとことコーナー
シリーズ(その十一~二十) お茶のはなし

 幸い、茶の種は薬にも侵されず芽を吹きました。
 そこで、親友である栂尾高山寺の明恵(みょうえ)に、残った種を送りました。明恵は後に宇治へ茶を植え、宇治茶の元となりました。
 他にも、この栄西がもたらした茶で産地となったところもありますが、肯振山(せぶりやま)の茶は後に八女茶(やめちゃ)となりました。

 中国より茶の種を入れて持ち帰った薬壷(茶入れ)は、現在高山寺に残されています。その蓋には、油紙の代わりに象牙の蓋があつらえられて、抹茶に引いた茶が入れられるようになりました。



 栄西が唐より持ち帰った茶の種は、日本に三つの産地を作ることになりました(本茶)。
 八女、宇治、奈良(月ヶ瀬)で、古事記を書いた太安万侶(おおのやすまろ)の墓は、月ヶ瀬の茶畑で見つかりました。

 茶と同時に伝わった茶碗(天目茶?)は、日本にはありません。茶が、みんなに行きわたる様になったら今度は茶碗が欲しくなります。大名などは、この茶碗を寺から買い取ったり、又、寺も闘茶(とうちゃ=本茶と非茶を当てあう茶会)に天目茶?を景品として出すようになりました。


 闘茶はだんだん派手になり、ばさら大名がその賭け茶の景品を見せびらかすようになりました。
 この闘茶で力を持っていたのは僧、道元で、日本には無い天目茶?を持ち帰った栄西のように、日本には無い天目茶?の釉薬(ゆうやく)を学びに宗へ渡りました。この時、道元は禅宗を学び、弟子の加藤四郎佐衛門を焼き物の技師として同行させました。

 道元は中国で椎茸を買いに来た僧を頼って目的を達しますが中国の僧の口のにおいに閉口し、歯を磨くように指導した話などが残っています。


 日本に帰った道元は曹洞宗(永平寺)を興し、上薬を学んだ加藤四郎佐衛門は瀬戸で天目茶?や壷を焼き、今も陶祖として祀られています。瀬戸で加藤姓が多いのも納得です。

 実質的にお茶の文化が日本でも動き始めました。
 しかし まだ、中国風な茶の文化の真似事でしたが、僧や武士の間で茶が広まり、宇治の平等院近くには、旅人にお坊さんが茶を振舞う処まで出来てきます。

 寺の催しには、参拝客に茶を振舞う所も出てきました。


 西大寺に派遣された叡尊(えいそん=下欄に詳細記)は、荒れた寺の復興を命ぜられました。しかし復興は思うようには行きませんでした。

 旧暦の一月二日、(現在の二月)本山より呼び出しがあり、雪の降る中を京まで上りました。大切な話でも有るのかと思っていましたが、本山では抹茶と粥が振舞われただけでした。

 不満に思った叡尊が愚痴をいうと、今日の茶は一年の無病息災を願う大福茶行事
で、大事な茶であることを知らされました。


 叡尊(えいそん)は、ひらめきました。西大寺でも大福茶を行なって民衆を引きつけようと実行したのです。寺の床には本山の大福茶会での雪景色を再現し、本堂で民衆に茶を施しました。この噂を聞きつけた人達は、寺へ行けばありがたい茶を飲ませてくれると多くの人がやって来るので茶碗も大きくなって、今の※『西大寺大茶盛』が起こったのでした。

 その後、農民も茶を呑むようになり、奈良の茶粥や出雲のボテボテ茶、東北のバタバタ茶になりました。


 中国では元の国が成立し、モンゴル帝国は朝鮮を併合し、チンギスハーンは日本への侵略を企てていました。
 元では禅宗を嫌い、僧侶を迫害したので中国禅宗の僧は日本に亡命してきました。
 フビライの第一次軍は日本海を渡り、九州へ攻め込みました。しかしこれは日本の戦力を確かめる出兵だったので、鎌倉軍が弱いのを確かめて安心して引き上げました。困った日本勢は、中国禅僧に協力を求め、元軍の上陸を水際で阻止する作戦を立てることになりました。


 それは元軍の馬を止める土塁でした。元軍をよく知る禅僧の協力は、日本を焼き肉の国にしたくないのが本当の理由でした。(世間では元軍が引き上げたのを神風と言っていますが…)そのせいか武士は禅宗に深く入り、茶へのかかわりもあったのでしょう。この頃になると日本中で抹茶が飲まれるようになりました。

 寺では四つ頭の茶が行われ、武士が林間茶会という、蒸し風呂で汗を流し、川で水浴びをするこの河原で出雲の阿国が踊ったのでした。


 この時代、武士は力を持ちましたが、公家の文化にはなじめず、茶だけを武士の文化として取り入れていきます。もう一方で荒れる京都の応仁の乱を逃れ、金持ちは奈良や堺へと移り、商人として生きる人達が増えました。この商人の中にも茶が文化として取り入れられました。

 堺で生まれ堺で育った一休は、茶は禅僧が伝えた文化にも関わらず、京や堺では風呂にかこつけて料理と茶を出し、女性と遊ぶお茶屋などが流行などしたため、茶の文化の墜落をなげきました。

つづく

会長 西念 秋夫

(だんじり連載記事より、お茶のはなし・その11~20)

お茶のはなし  シリーズ(その1~10)

2009-04-14 14:31:07 | ひとことコーナー
お茶のはなし  シリーズ(その1~10)

 お茶はその昔、ミャンマーや雲南地方では、若葉をそのままおしたしにして食べていました。現在でも新茶の出し殻なら、塩をかけて食べられます。
 茶の木はつばき科で、5メートルを超える大きな木で、葉を摘むのも大変でした。

 雲南は長江の上流で、その文化は下流へと伝わり、浙江省あたりでは、葉を煎じて、その液を薬として呑む煎茶の習慣が現れました。


 唐の時代淅紅省の陸羽は、茶経と言う喫茶法を書物として発表し、中国茶の普及に寄与しました。
 茶経には、茶は健康に良いこと、茶の木は、岩の湧き水がしみる断崖に生えている岩茶が良いとされ、猿を使って取らせたとも言われています。
 茶の炒り方やその含み方も紹介し、壷の中で葱、生姜、橘、団茶を入れ熱湯を注ぎ、盞(茶碗)に入れて呑むと書かれています。


 日本人で最初に茶を呑んだ人は誰でしょう。
聖徳太子は、日本での新羅・百済の対立を、外へ目を向けて、治めようと、小野妹子を遣隋使として中国へ派遣しました。

 ちょうど陸羽の茶経が知られる時で、淅紅省の天目山でも禅の修行の時に茶が出されていました。
 一行は、初めての茶に、感動したことでしょう。
 小野妹子は、そのまま隋にとどまりますが、帰った留学僧らは、この珍しいのみものをたくさん持ち帰りました。

 この時、茶の器として持ち帰った器に天目山の名をつけました。


 この持ち帰った茶の器は盞(さん)といい、煎茶を飲む器で、中国では安価な物ですが、日本へ来ればたいそうな器となり、天目茶垸と字も特別に書かれます。同時に持ち帰った茶は、輸送に便利なようにレンガ型や、丸いもち状につきかため、体積を小さくしています。これを団茶とよび、刀で削って煎じます。

 日本へ帰った僧により、京にいる天皇に、献上され、寺でも呑まれましたが、一般民衆には手に入る品ではなかったのです。


 遣唐使はいろんな文物を日本へもたらしました。しかし、良い物ばかりとは限りません。
 その最大の弊害は、聖武天皇の時代、日本人口の四分の一が死んだと言う天然痘の進入でした。長屋王を死に追いやった聖武天皇は、これは長屋王のたたりと、平城京を捨てて都を家出してしまいます。
 あちこち転々と都が移り、信楽に行き着いた家出騒動も、遣唐使のお土産でした。

 紫香楽宮には大仏も作られ、この大事件も神頼みでの対策でした。 


 平安時代に入っても又、同じような事件が起こりました。今度はコレラのような強烈な伝染病で、京の町は大変な騒ぎになります。一般民衆だけでなく貴族にも病が広がり時の天皇は、神頼みにたよりました。

 今度の僧は空也上人で、時の権力者とは対立していましたが力のある僧に天皇も頼まざるをえず、空也に祈祷を頼みました。空也は、祈祷で病が治らないのを知っていて、鑑真(がんじん)が中国より漢方薬として伝えていた茶に注目しました。 

 空也は、貴族の人たちに、茶を供出させ、病人に与えようとしますが、量も少なく、煎じるよりも、粉にして全部与えようと考えました。

 そこで、繊維を砕く臼、「薬研(やげん)」で粉にし、与えました。精が付くようにと、粥に昆布、梅干を入れ、茶も混ぜますが、粉は混ぜにくく、竹でササラ(茶筅の荒い物)を作り、かき混ぜました。中国になかった茶筅(ちゃせん)は、空也の抹茶用に考え出されたのです。


 この空也の抹茶はさしもの病も終息へと向かい、都では空也にあやかって、一月二日に、茶に梅干しとコンブを入れて飲むと一年間無病息災になると言うありがたい慣習が「大福茶(おおぶくちゃ)」として始まりました。
 今も年末に京都で茶を買うと梅干しとコンブの小さな包みをいただきます。

 この話は国中に伝わり、茶の薬効が知られることとなりました。
しかしこの平安末期には、茶は中国から輸入される貴重な嗜好品でした。


 国中の人たちが、この、茶と呼ばれる薬を呑んで、無病息災を願うようになりました。
 そこで、茶を日本で栽培しようと中国へ渡ったのが建仁寺の僧、栄西(ようさい)でした。しかし中国ではこの茶は絹と同様、国外への持ち出しは厳しく規制されていました。

 シルクを求めて西欧の国は、蚕の繭を、西域に嫁ぐ中国の娘の髪の毛に結いこんで、繭を国外へ持ち出したと言われています。
 茶も同様で、持ち出しは命をかけた大仕事でした。


 見つかって命を取られては大変と栄西(ようさい)は考えました。そこで中国漢方薬の軟膏入れに種をひそませて持ち帰ろうと考えて、その内でも臭いのきつい手で触りたくない薬の中に入れたと思われます。

 日本へ帰るまで半月余り、やっと大宰府に着きました。
 早く京へ帰り、茶の種を植えなくては薬に侵されているかもしれません。

 しかし朝廷もこのころ、いきなり京へ戻したら、又 疫病が流行ると、一年間大宰府に足止めされてしまいました。

 仕方なく栄西は、裏の肯振山(せぶりやま)に種を植えました。


    つづく

  会長 西念 秋夫

(だんじり連載記事より、お茶のはなし1~10)

仕事・資金繰り大丈夫ですか

2009-04-12 14:57:05 | Weblog
雇用保険に加入している事業所へは、仕事量が減少して従業員に休んでもらわないといけなくなった時に、雇用助成金(休業補償分)が給付されます。

該当される方は声をかけて下さい。民商に申請説明書があります。
又、特別融資も総枠が拡大され借り易くなっています。現在大変込み合っていますので、実際手元にお金が入るのは時間がかかります。早目々に対応してください。

すでに借入している分も月々の返済額を減少(条件変更)出来ます。毎月申し入れの日程を組んでいますので連絡して下さい。

共済会桃の花見バーベキュー

2009-04-12 14:50:09 | Weblog
 4月4日、途中からあいにくの雨でしたが、桃畑の横の広い倉庫で無事開催できました。参加者は大人27人子供8人でした。

 昔懐かしいベーゴマ大会・名前のビンゴゲームに賞品があれもこれも・・・南さん差入れの竹の子と倉庫を貸してくださった桃農家の松本さんから桃の切花と、お土産も一杯貰って帰りました。

 秋には一泊ツアーを組みます。今回参加できなかった方も次回は是非参加して下さい。

 4月5日には、包近町の桃まつりと岸和田城のお城まつり・ドンチャカフェスタの観光行政視察に行って来ました。
 いろいろ問題点も多く、せっかくの催しが台無しなどでしたが、逆に展望もこれからに向けての希望もあると思います。

 引き続き街づくり学習会も続けます。皆さんも是非参加して下さい。