2010-4-14
桐生市天神町三丁目で大学予備校を40年にわたって運営してきた学校法人下山学園が解散し、桐生外語学院(下山進平学院長)は同所で学習塾として、今後も存続していくことになった。同学院の原点は昭和29年(1954年)発足の「ひばり英語会」。下山学院長は「所期の使命を終えたいま、建学の精神に立ち返り、大空高くさえずるヒバリのように広く世界に目を向けて羽ばたけるよう、きめ細かな教育をしていきたい。語学教育部門も一般社会人向けをふくめ多様化させたい」と抱負を語っている。
ひばり英語会は創立10周年を機に桐生外語学院と改称、さらに5年後に大学予備校部門で学校法人の認可を受けた。地域社会の受験生が東京へ出て行かなくてもいいように、また語学力だけでなく理解力や考える力を培い、受験指導だけではない深みのある内容をと、講師陣の充実も図ってきた。
ピーク時の1980年ごろは400人弱の予備校生がいたが、少子化時代に入って対象人口が減少。全国予備校協会でも対策が論じられており、同学園としても介護福祉系専門学校などへの路線変更を検討した時期もあった。しかしそれも困難として解散を決めたあと、下山嘉一郎前理事長が急逝。弟の進平学院長が清算手続きを進めてきた。
今後は外語学院の存続をはかり、学習塾部門と語学教育部門の2本立てで運営していく。スタッフは常勤3人、非常勤5人で英・数・国・社・理の教科に対応。塾部門には今年度も小学生から高校生まで約40人が通っている。語学教育に関しては英語検定やTOEIC対策講座のほか、工学部・留学向け講座、また英会話や地球環境、比較文化・国際理解、児童文学のサークルなど、地域のカルチャーセンターとしての役割も果たしたい考えだ。
下山学院長はさらに「10年ほど前に休刊した機関誌『ザ・ラーク』も再開できれば」と望んでいる。
桐生市天神町三丁目で大学予備校を40年にわたって運営してきた学校法人下山学園が解散し、桐生外語学院(下山進平学院長)は同所で学習塾として、今後も存続していくことになった。同学院の原点は昭和29年(1954年)発足の「ひばり英語会」。下山学院長は「所期の使命を終えたいま、建学の精神に立ち返り、大空高くさえずるヒバリのように広く世界に目を向けて羽ばたけるよう、きめ細かな教育をしていきたい。語学教育部門も一般社会人向けをふくめ多様化させたい」と抱負を語っている。
ひばり英語会は創立10周年を機に桐生外語学院と改称、さらに5年後に大学予備校部門で学校法人の認可を受けた。地域社会の受験生が東京へ出て行かなくてもいいように、また語学力だけでなく理解力や考える力を培い、受験指導だけではない深みのある内容をと、講師陣の充実も図ってきた。
ピーク時の1980年ごろは400人弱の予備校生がいたが、少子化時代に入って対象人口が減少。全国予備校協会でも対策が論じられており、同学園としても介護福祉系専門学校などへの路線変更を検討した時期もあった。しかしそれも困難として解散を決めたあと、下山嘉一郎前理事長が急逝。弟の進平学院長が清算手続きを進めてきた。
今後は外語学院の存続をはかり、学習塾部門と語学教育部門の2本立てで運営していく。スタッフは常勤3人、非常勤5人で英・数・国・社・理の教科に対応。塾部門には今年度も小学生から高校生まで約40人が通っている。語学教育に関しては英語検定やTOEIC対策講座のほか、工学部・留学向け講座、また英会話や地球環境、比較文化・国際理解、児童文学のサークルなど、地域のカルチャーセンターとしての役割も果たしたい考えだ。
下山学院長はさらに「10年ほど前に休刊した機関誌『ザ・ラーク』も再開できれば」と望んでいる。
ちなみに、ビッグコミックで紹介されたソースカツどんの立田野食堂は叔父の家です。息子は小学校教員、定年後に引き継いでくれればいいのですが、大変です。
里の桐生は空が広いです。遠くに赤城山がよく見えます。自然が多い半面、過疎が寂しいです。何とか盛り上げていきたいですね。