
2月23日(木)
第2編 囚人達が主役のRichmond、そしてPort Arthur
1時間ほど南へドライブするとRichmondに着いた。私はこの町を訪れるのは2回目になる。町を歩くと路地裏の小道や、公園の芝生にポツンと置かれたベンチなど何でもない風景が記憶の中によみがえる。この町には、1825年に完成した牢獄又、1823年にできたRichmond Bridgeがある。当時、この橋は、LauncestonからPort Arthurへ送られる囚人たちにより完成する事が出来たと記されている。ここにある牢獄はこの橋を作る人たちを収容する為に作られたのだろうか。いつの時代も社会に貢献した成果は人に感動を与えてくれる。この橋を建設した囚人たちはいったいイギリスでどんな罪を犯したのだろうか。その橋をCube3はゆっくり渡り、ハイウェイに向かう。
ドライブをしていつも感じる事はTasmaniaの景色はどこか日本に似ており懐かしく感じる。曲がりくねった道の向こうに山が見え、その山がさらに遠くの視界を遮っている。NSWをドライブした時の解放感は無いがこの曲がりくねった道路を小気味よく走るセンスはさすがCube3である。
2時半頃にCube3はPort ArthurのHistoric Siteに着いた。ここはオーストラリアのPrisonの中でも刑罰の重い囚人が送還されてきた。湾に向かってなだらかな斜面を利用して収容所が建設された。Tasmaniaの中でも南極に近い場所にあるPort Arthurの冬は、北海道の
網走と比べどちらが寒いのだろう。43年の間、約12,000の人たちがここで生活したのだ。丘の上は、監督官や係官の立派な建物が残り、湾に向け下る場所は、今も崩れた石造りの壁に鉄格子が残っている。その中に多くの少年囚人だけを収容する房あり1メートルの幅で壁で区切られた部分を見ると当時の厳しい生活環境を想像するには難しくない。このSiteは2時間ほど歩いて見学することもできる。又、船に乗り湾にでるとSite全体を望む事が出来る。その湾の中に1周数百メートル程の小島がある。そこにはこの収容所で死んだ数千人の亡骸が眠っている。何人かの観光客はその島を歩くが私達にはその様な気持ちになる事が出来なかった。そして1878年にこの収容所は閉鎖された。
Port Arthurを発つとき、既に時計は5時を回っていた。Hobartに向かう途中海岸線をドライブした。この辺は南海の強い風と波に浸食された洞窟や切り立つ岩の壁が気候の厳しさを現している。
今日の停まりはまだ決めていなかったがCube3のガソリン残量を見るとかなりお腹をすかしているようだったが道路沿いにはモーテルや、Caravan Parkの標識は見当たらなかった。しばらくするとガソリンスタンドとレストランの看板が目に入り、期待して停車したが、
なんと店は閉められ、ガソリンの給油も止められていた。幸子はスタンドの向かいにある公園のテーブルにクロスを敷き、夕食を作り始めた。Cube3の食事を考えるとここで一夜を過ごすのが最適である。日本では急ぎアコモを探しそこでゆっくり食事でも取るのだが、このようなのんびりした旅行をするのも楽しいものである。食事を終えると陽は沈みかけあたりは夕やみに変わりつつあった。旅行中いつも気にかかることは、Cube3の食事であるが、Hobartに近づけばきっとスタンドは見つかると思い出発することとした。
夜のドライブは極力避けるようにしたが、不案内な道路を充分安全運転に気をつけ進んだ。
するとヘッドライトに照らされ「CAMP」と書かれた標識をみつけた。私達はやっと泊るところが見つかったと思いその方向にハンドルをきった。やっとの思いでそこに着くとそこは、地域コンベンションセンター「CAMP」であり、立派な建物が明るく照らされていた。
仕方なしに私達は近くにあったJettyのある公園に向かった。そこは地元のヨットクラブが使用しているJettyである。すでに駐車場に1台の車が停まっており水辺に釣人のライトの灯がぽつりと見えた。ここはLewishamと言われ静かな湾をのぞむ小さな町である。
海が暗いだけに夜空の星は一層輝きをまして視界に入ってきた。
今日のCube3の走行は237km。
第2編 囚人達が主役のRichmond、そしてPort Arthur
1時間ほど南へドライブするとRichmondに着いた。私はこの町を訪れるのは2回目になる。町を歩くと路地裏の小道や、公園の芝生にポツンと置かれたベンチなど何でもない風景が記憶の中によみがえる。この町には、1825年に完成した牢獄又、1823年にできたRichmond Bridgeがある。当時、この橋は、LauncestonからPort Arthurへ送られる囚人たちにより完成する事が出来たと記されている。ここにある牢獄はこの橋を作る人たちを収容する為に作られたのだろうか。いつの時代も社会に貢献した成果は人に感動を与えてくれる。この橋を建設した囚人たちはいったいイギリスでどんな罪を犯したのだろうか。その橋をCube3はゆっくり渡り、ハイウェイに向かう。
ドライブをしていつも感じる事はTasmaniaの景色はどこか日本に似ており懐かしく感じる。曲がりくねった道の向こうに山が見え、その山がさらに遠くの視界を遮っている。NSWをドライブした時の解放感は無いがこの曲がりくねった道路を小気味よく走るセンスはさすがCube3である。
2時半頃にCube3はPort ArthurのHistoric Siteに着いた。ここはオーストラリアのPrisonの中でも刑罰の重い囚人が送還されてきた。湾に向かってなだらかな斜面を利用して収容所が建設された。Tasmaniaの中でも南極に近い場所にあるPort Arthurの冬は、北海道の
網走と比べどちらが寒いのだろう。43年の間、約12,000の人たちがここで生活したのだ。丘の上は、監督官や係官の立派な建物が残り、湾に向け下る場所は、今も崩れた石造りの壁に鉄格子が残っている。その中に多くの少年囚人だけを収容する房あり1メートルの幅で壁で区切られた部分を見ると当時の厳しい生活環境を想像するには難しくない。このSiteは2時間ほど歩いて見学することもできる。又、船に乗り湾にでるとSite全体を望む事が出来る。その湾の中に1周数百メートル程の小島がある。そこにはこの収容所で死んだ数千人の亡骸が眠っている。何人かの観光客はその島を歩くが私達にはその様な気持ちになる事が出来なかった。そして1878年にこの収容所は閉鎖された。
Port Arthurを発つとき、既に時計は5時を回っていた。Hobartに向かう途中海岸線をドライブした。この辺は南海の強い風と波に浸食された洞窟や切り立つ岩の壁が気候の厳しさを現している。
今日の停まりはまだ決めていなかったがCube3のガソリン残量を見るとかなりお腹をすかしているようだったが道路沿いにはモーテルや、Caravan Parkの標識は見当たらなかった。しばらくするとガソリンスタンドとレストランの看板が目に入り、期待して停車したが、
なんと店は閉められ、ガソリンの給油も止められていた。幸子はスタンドの向かいにある公園のテーブルにクロスを敷き、夕食を作り始めた。Cube3の食事を考えるとここで一夜を過ごすのが最適である。日本では急ぎアコモを探しそこでゆっくり食事でも取るのだが、このようなのんびりした旅行をするのも楽しいものである。食事を終えると陽は沈みかけあたりは夕やみに変わりつつあった。旅行中いつも気にかかることは、Cube3の食事であるが、Hobartに近づけばきっとスタンドは見つかると思い出発することとした。
夜のドライブは極力避けるようにしたが、不案内な道路を充分安全運転に気をつけ進んだ。
するとヘッドライトに照らされ「CAMP」と書かれた標識をみつけた。私達はやっと泊るところが見つかったと思いその方向にハンドルをきった。やっとの思いでそこに着くとそこは、地域コンベンションセンター「CAMP」であり、立派な建物が明るく照らされていた。
仕方なしに私達は近くにあったJettyのある公園に向かった。そこは地元のヨットクラブが使用しているJettyである。すでに駐車場に1台の車が停まっており水辺に釣人のライトの灯がぽつりと見えた。ここはLewishamと言われ静かな湾をのぞむ小さな町である。
海が暗いだけに夜空の星は一層輝きをまして視界に入ってきた。
今日のCube3の走行は237km。