氣まぐれ剣士の言いたい放題

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414 麻生太郎(1)

2006-11-06 11:09:38 | Weblog
氣まぐれ剣士の言いたい放題

414 麻生太郎(1)

麻生太郎さんがいいことをおっしゃってます。
ODAとはまったくもって「情けは他人(ひと)のためならず」でして、他人(ひと)を思いやる暖かい気持ちを抜きにやって貰っては困る。しかしかといって、最後は日本のためにしているのだという点を忘れて貰ったのではいけないものだからです。

実は私、西アフリカのそのまた西の端にあるシエラレオネという国で、昭和45年から2年生活したことがあります。年齢で言うと、30歳になった年に行き、32歳までおりました。

 実家の会社からの派遣でした。ご存知なくても一向構いませんが、私の実家というのは元は石炭の山を掘っておりました。シエラレオネでは、ダイヤモンドを掘れという命令です。

 日本の大使館や領事館が何もない時代でした。青年海外協力隊も来ていない。自分で水を汲んで風呂を炊き、発電機を動かして電気を起こすという、協力隊の諸君がしているような生活を送りました。それなのに、アメーバ赤痢やマラリアに、私の会社から行った中では私だけがかからなかった。まあこれは、余談であります。

 ダイヤモンドを掘る現場ですから、マシンガンで襲われたりする事件に、いちいち驚いてはいられない。けれども我々のところは、全く襲撃されませんでした。部族の長老にきちんと挨拶をしてあるし、電気を起こしてあげたり薬を譲ったり。指導者たちの信頼を勝ち得ていたから、命を狙われるというような心配は何もなかったわけです。

 この時期以来、私はいつしか、「日本の常識は世界の非常識などと言うが、日本人がアフリカでもっと働くようになると、日本の常識は素晴らしいと言われるようになるのじゃないか」と思い、口にもするようになったのです。

 というのは2年というもの、我々日本から行った者と同じようにして、現地の人たちと一緒に汗を流しているヨーロッパ人や、アメリカ人の姿というものに、あまりお目にかかることがなかったからです。一般化しすぎるのは慎まないといけないが、少なくとも我々日本人だけでした、現地の人々とまったく同じ目線で、共同して働くという姿勢を持ち合わせていたのは。

 同じ姿勢が、途上国でODAの実行に携わるJICAや協力隊、NGOの人々に、昔も今も変わらず明確に見て取れることは言うまでもありません。
 お気づきの通り、私はいま、我が援助哲学の核心に触れる話をしております。
 旧約聖書によれば、労働とは、アダムとイブが神との約束を破った罰として与えられたものといいます。ところが古事記には、天照大神が機織小屋から出てみれば、神々は高天原で働いていたと書いてある。神々が働くくらいですから、日本の神話によれば労働とは当然のこととして、善をなす行いであるわけです。

 労働それ自体に喜びを見出し、自分と世の中を高めていく大切な行いであると、単に考えただけではありません。日本人は官民挙げて、ODAに関わる人であれ、商売に携わる人であろうとも、それを自ら実践し、手本を示して見せた。

 そのことはアジアにおいて、儒教の教える伝統を打ち破る仕業でありました。アフリカなどでは今申しました通り、革命的なといってもいい態度、習慣を伝えることであったわけです。そしていずれの場合でも、近代化を準備するうえで欠かすことのできない、ある精神文化を伝えたのでした。
 私はここに、無言であっても極めて雄弁な、日本人の思想、この際、「志操」と言っていいかもしれない一つの考え方が、表れていたと信じて疑いません。


 小生もまったくその通りだと思います。「情けは人の為ならず」 若い人は、その人のためにならないと考えている人が多いようですが、本当の意味は、情けは他人のためではなく、自分のためにあるのですね。

 麻生さんの言うように、きっと日本流の考え方が世界に広まると思います。神教でも仏教でも、キリスト教でも全てを受け入れられる日本人だから出来ると思います。
 なんだかとっても気分がすっきりした氣まぐれ剣士でした。

次回もお楽しみに                          以上