(澤木興道老師のことば) 引用文中の強調処理はわたしです。
われわれのたった今の生活態度がインチキならば、今まで飯を食べさした人も、今まで教えてくれた人も、今までものをくれた人もみなインチキをさせるためにしてくれたことになる。
もし今日の生活態度が立派ならば、その立派なことをさせるために私を生み、私を育て、私を教え、私にものをくれたことになる。
このたった今の生活態度が全過去を生かしていくのじゃ。
(引用終)
これはなんと素晴らしい教えだろう。
そして、なんと素晴らしい気づきだろう。
しかし、そのために具体的にどうすればいいのか。
ここが大事だ。
それは、
たった今の生活、毎日毎日の生活において「グループ呆け」しないように気をつけることだ。
と、老師は教えてくれている。
澤木老師は、この「グループ呆け」ということばをよく使った。
老師のことばに学びます。
「グループ呆け」というのがある。そして呆けたのを経験とこころえておる。
…
いま時分の奴のやることは、みな集団をつくって、アタマ数でゆこうとする。
ところがどこの集団もグループ呆けばかり、金がほしいというのもグループ呆けなら、エラクなりたいというのもグループ呆け。いわんや党派をつくるなど、グループ呆けの代表である。
…
グループができると、その中に麻痺状態が発生して、良い悪いがわからなくなってしまう。
…
今の世の中の人間は、オカシナことに自分の人生を、しみじみと考えてみたことがない。
われわれ過去永劫の昔から、何ぞ煮えきらぬものを持ってきており、「あの人もそうじゃ、この人もそうじゃ」と、それで平気でいるだけである。
これがグループ呆けというもんじゃ。
人並みでありさえすればいいと思うとる。
…
グループ呆けの中でのみしか見えぬのが凡夫の性である。
…
ひとり透明になって呆けぬことが必要だ。
(引用終)
党派をつくるなど、グループ呆けの代表である。とあるので、党派をつくることはグループ呆けの一部に過ぎないとわかる。
老師は、
われわれ過去永劫の昔から、何ぞ煮えきらぬものを持ってきており、「あの人もそうじゃ、この人もそうじゃ」と、それで平気でいるだけである。これがグループ呆けというもんじゃ。人並みでありさえすればいいと思うとる。と教えている。
つまり実際に党派(グループ)をつくっていない個々人の金がほしいというのもグループ呆けなら、エラクなりたいというのもグループ呆けなのだ。
人並みでありさえすればいいと思うとることが、そもそものグループ呆けだ。
だから世間で普通に行われている『金がほしいしエラクもなりたいと党派をつくる』ことは、グループ呆けが2乗3乗された年季の入った大呆けだ。
これはもう、話にもなんにもならん醜態を曝けている。
これほど本道からそれると、いくら世間普通に行われていても、その怪しさに誰もが一度ならず気づいているはずなのだ。
しかし、その時すぐに周りの空気(あたりまえに通用している)を読んで怖くなり、気づいたことを忘れる努力をして、呆けたのを経験とこころえて自分の意志で己の呆けを重症化させてしまう。
このゲンナリする手順を何度となく踏んで、グループ呆けは、今やみんなの第二の天性と化している。
こうして、たった今の生活態度がインチキになり、自分の全過去・受けた恩の全部を自分で殺してる。
(My Favorite Songs)
「レッド・ラバー・ボール」
作曲はポール・サイモン。いい曲だ。
(過去記事再録)