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哲学日記

アートマンに掻い付く社会

(ブッダのことば スッタニパータ249 中村 元訳)


魚肉・獣肉(を食わないこと)も、断食も、裸体も、剃髪(ていはつ)も、結髪も、塵垢(ちりあか)も、粗い鹿の皮(を着ること)も、火神への献供(けんく)の奉仕も、或いはまた世の中で不死を得るための苦行も、神呪(しんじゅ)も、供犠(くぎ)も、祭祀(さいし)も、季節の荒行も、それらは、疑念を超えていなければ、その人を清めることができない。

(引用終)



 社会が成熟してくると、一時的退廃を経て、最終的に祭祀や苦行に深い意味を感じるように、人間はプログラムされているとおもう。

釈尊は、それは人が陥る落とし穴だと教えている。



釈尊は、アートマン(我)を立てることは愚か者のごまかしだと明言している。
しかし人類は現在に至るまでアートマン(我)の酷い欠陥をいかに見せつけられても、これを捨てようと真剣におもったことがない。

アートマン(我)は、この上なく強固な錯覚だ。

アートマンは、人が世界を解釈し適応し生きるために必要なインフラとして自動作成されるように人のDNAにプログラム化されている、とおれはおもう。

 

 人はまずこのプログラムに執着讃嘆する天文学的な長い時期を経てのちにようやく飽きて、では釈尊の教えも聞いてみようという気分になるとおもう。

(人類絶滅が先になる可能性が高いが)

それまでは、アートマンを、不死の魂、真我、大我、仏性と様々に呼び変えては隠し持ち、決して捨てようとしない。

そして唯一絶対宇宙創造人格神がアートマンの最終形だ。

したがって、アートマンを(どんな名前で呼ぼうと)保持する社会は、成熟するたびに何度でもこの神を見いだし、「おお神様 神様 助けて パパヤー」と掻い付き、祭祀と苦行の暗い穴倉に入る。


 

 

 

 

 

  (My Favorite Songs) 

左卜全とひまわりキティーズ。
「老人と子供のポルカ」

左卜全。バージョンアップ版笠智衆。ファンシーな人だった。 

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