個人的な一例をあげて説明したい。
突然ですが、
少なくとも、おれの周辺で「整合性」と「全否定」を日常会話で普通に使いだした、最初の人間はおれだと、自分一人で勝手におもってる。
おれは自分の思いを周りにしゃべる時、どうしても「整合性」と「全否定」(他にもある)が話し言葉で普通に流通する環境の必要性を感じ、早くそうなってほしかった。そのために、微力ながら孤軍奮闘してた。
実際に当時、硬めの文章では普通に通用してるが、日常会話では全く流通してなかった。(何度も言うが、おれの田舎の周辺だけかも)
おれの口から「整合性」と「全否定」が当たり前のように発せられるたびに、周りが「ん?」という空気になる長い期間をおれは耐えて、あえて使い続けた。
この単語が自分以外の口から発せられるのを聞きたかったが、長い間叶わなかった。
40年以上経った今、ようやくぼちぼち叶いだした気がしてる。
一方、日常会話で普通に使われてる「ら抜き言葉」は、
フォーマルな文章で使うと、いまだに
「教養のない輩」「行儀の悪い人間」「失礼で不快な若造」
と蔑する隠然たる妨害勢力が残存してる。
下の動画内でも指摘される「最近の若者は間違った言葉を使っててけしからん!」というあれだ。
おれはこのブログを始めた15年前、基本「ら抜き言葉」で宗教を記述したいとおもい、迷いながらも少しずつ実行してきた。
実のところ、不可思議な何かに強いられ、なぜそうしたいのか、自分でさっぱり分からんまま、そうしてたに過ぎない。だからどうしても迷いが消えない。長いこと意味不明に孤軍奮闘してるとおもう。
それが、この動画(6分頃から)
「ら抜き言葉」で日本語は美しくなった【サピア3】 #56 を視聴して、
おれはここでも、整合性を希求してたのか
とおもい、妙に腑に落ちたのだ。
硬軟のバランス絶妙のゆる言語学ラジオ
毎回面白い、分かりやすい、コスパ最強。
ちなみに「い抜き言葉」もあって、おれは、
「流通していなかった」ではなく「流通してなかった」
「残存している」ではなく「残存してる」
と書くことを好む。
フォーマルな文章では「ら抜き・い抜き」はNGだぞ
という社会常識を覆したいとおもってる。
伝わる内容が同じなら、一字でも短く表現したい欲求が、おれには、あるみたいだ。
(意識下の真の欲求もあるとおもうが、それが何かは分からん)
とにかく、冗長な表現は大嫌いだ。
(ただし、たとえば井上陽水「紙飛行機」のように、詩人の意味ある冗長表現は認めるし感銘を受ける)
(My Favorite Songs)
「ら抜き言葉」に関する他の動画もちょっと見てみた。
田中弥生「『日本語学概論』ことばのゆれ:ら抜きことば」ー第11回東大院生によるミニレクチャプログラム - YouTube
動画は、きちっと整理されてる。
「眠られる」のar抜き「眠れる」
が変化定着するまでに300年かかった説。
「ら抜き・い抜き」も同様か……
孤軍奮闘止めよ~