数年前から、週一実施のウォーキング会に参加している。
以前、リード役の一人であるおばさんの信念で、幼稚園的遊戯、全員で縦一列の電車ごっこをしながら「わたしに続いて大声で笑って。あっはっは、あっはっは」これを何度も繰り返した。「作り笑いがほんとの笑いになる」と。
それっていいことなのか?
次の週に別のおばさんが、
前回の「あっはっはおばさん」に共感するスピーチをした。
これからも大いにやろう「みんなでやれば怖くない」からみたいに激励する。
「みんなでやれば…」は揶揄をこめた反語で、やるもんじゃないという意味だと思うが。
こんな偏執が流行りだせば、おれはこの会から速やかに離脱する。
こんな偏執が流行りだせば、おれはこの会から速やかに離脱する。
思うに、おばさんの人生の目的は、幸福なのだ。
(もちろんおれだって不幸より幸福がいいに決まってるが、人生の目的にはしない)
ショーペンハウアーは「幸福論」のなかで
(もちろんおれだって不幸より幸福がいいに決まってるが、人生の目的にはしない)
ショーペンハウアーは「幸福論」のなかで
最も直接的にわれわれを幸福にしてくれるのは、心の朗らかさである。…朗らかさが今来ては困るという時はない。
(「幸福について」2橋本文夫訳)
と言っている。
つまり、幸福目的ならおばさんは正しい。
ワザと笑うことで、朗らかになれる人が、そうするのは当然だからだ。
ショーペンハウアーはさらに
朗らかさにとって…健康ほど有益なものはない。
とも言っている。
つまり、ウォーキングに皆勤参加して、自分たちなりに楽しくなるためにワザと大笑いし、休みなく空談しながら朗らかに歩くおばさんたちは、まことに幸福の法則にかなっている。
それでも、おれは一言だけ究極の反論をしておく。
幸福は人生と何の必然的関係もない。
幸福は人生と何の必然的関係もない。
幸福が、人生の問題を解決することは一切ないからだ。
これは、残念ながら、おばさん達には、猫に小判馬に念仏で、さあいよいよ死ぬというその瞬間まで理解しない。
これは、残念ながら、おばさん達には、猫に小判馬に念仏で、さあいよいよ死ぬというその瞬間まで理解しない。
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おれは、昔から考え続けている疑問がある。
「自分を王様だとか神様だとか事実誤認して幸福だとおもい込んでいる精神病院の患者は、本当に幸福か」という疑問が。
大多数の人は「本人が幸福を感じてるんだから幸福に決まってる。他人がいくら気の毒がろうとも、本人は自分が精神病だと気づいてないから関係ない」とおもうだろう。
自分が幸せだと感じてればそれだけでオッケーってことだ。非常に多くの人が結局そういう考えだとおもう。人生の目的が幸福で止まっている。
それだとこの先、副作用のない麻薬が開発されて「幸福薬」として売りだされたら、みんな飛びつく。
それさえ飲めば幸福な良い人生ってことになるわけだから。
幸福を人生の目的にすると、様々おかしなことが起きる。
「自分を王様だとか神様だとか事実誤認して幸福だとおもい込んでいる精神病院の患者は、本当に幸福か」という疑問が。
大多数の人は「本人が幸福を感じてるんだから幸福に決まってる。他人がいくら気の毒がろうとも、本人は自分が精神病だと気づいてないから関係ない」とおもうだろう。
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それさえ飲めば幸福な良い人生ってことになるわけだから。
幸福を人生の目的にすると、様々おかしなことが起きる。
(My Favorite Songs)
グッド・バイブレーション