哲学日記

不安を無くして安心しようとする人の不安が増大するのは当たり前

 以前テレビで「不安病」を特集していた。


不安で過呼吸とか激しい動悸とかが起きる。

それがさらに不安を大きくするという悪循環。全般性不安障害とかパニック障害とか。

 



なに一人相撲してるんだ。



不安病になる人は不安を病気、悪、損、不都合と思いこんでいる。

 

不安を無くして安心しようとする人の不安が増大するのは当たり前だ。

 

自縄自縛だ。

 

 

 

不安の本質は病気ではない。

死の本質が病気ではないように。

 

自分勝手に不安をこねくり回しドロドロにして

望み通りの込み入った病気にしている。

有意義に使える自分のエネルギーの膨大な浪費だ。

 

世の中には「ぼんやりした不安」に苦しんでる人がいる。「何が不安なのか具体的には自分でもわからないけど、とにかく不安だ。なにが不安かわからないからこそ非常に不安なんだ」と。


こういう人こそ根本仏教を学べよとおもう。

あまり不安をこじらす前にね。

 

 

不安は人生に役立てるためにある、とおれはおもってるが、「取り扱い注意」なのも確かだ。

こじらせてしまうと医者や薬の助けが必要になる。

 

おれも強い不安がある。
でも、誰にとっても人生は生老病死で一切皆苦で最悪なので、そんなの当たり前だとおもっている。 

 

 

 

不安があって当たり前という

事実の中にのみ本物の安心がある。

 

 

 

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「安心なんてないさ」というほんとの安心

 
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