本日聴いた朗読.mp3は菊池寛『極楽』
【朗読】菊池寛『極楽』 − 浄土の光に導かれた老母の静かな旅路 −
青空文庫菊池寛『極楽』より引用させていただきます。
…おかんは極楽の凡てに飽いてしまった。五十年七十年の間、蓮の花片一つ落ちるほどの変化さえなかった。宗兵衛とも余り話をしなかった。凡ての話題は彼等に古くさくなってしまったのである。彼等がまだ見た事のない『地獄』の話をする時だけ、彼等は不思議に緊張した。各自の想像力を、極度に働かせて、血の池や剣の山の有様をいろ/\に話し合った。
こうして、二人は同じ蓮の台に、未来永劫坐り続けることであろう。彼等が行けなかった『地獄』の話をすることをたゞ一つの退屈紛らしとしながら。
(引用終)
地獄に生まれたら「地獄最高!」と叫ぶのが人間だ。そんな「生きんとする盲目の意志」にまみれたまま、阿弥陀他力によって極楽浄土に往生させてもらっても、毎日毎日続く苦痛のない極楽の退屈に苛まれたあげく「いっそ地獄に行ったほうがまし」と思いかねない。もっとも、極楽往生してしまったら、もはや地獄に落ちる自由はなく、二度とどこにも生まれない解脱に至るまで何億年でも何兆年でも、そこにいることになるが。⇒※
(ショーペンハウアー「幸福について」 橋本文夫訳)より引用させていただきます。
人間の幸福に対する二大敵手が苦痛と退屈である…
この二大敵手のどちらか一方から遠ざかることができればできるほど、それだけまた他方の敵手に近づいている…
困苦欠乏が苦痛を生じ、これに反して安全と余裕とが退屈を生ずる。
われわれの実際の現実生活は、煩悩に動かされるのでなければ、退屈で味気ないものである。さりとて煩悩に動かされれば、忽ち苦痛なものになる。
(引用終)
おれは、煩悩が苦痛をもたらすことを学んでからも、煩悩を愛することを止めることができない。
煩悩に動かされないでいると、すぐに苦痛より耐え難い退屈に苛まれるからだ。
苦痛と退屈の間を往復する人生。
苦痛と退屈の間を厭くことなく往復するのがけっこう楽しい。おれのような平凡な多くの人間は、苦である五蘊に夢中になってるのだ。
こんな人間は解脱できるわけがないと、ブッダは明言してる。
(相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻39頁64項)HP「ターン・プッタタート」ブッダの言葉による四聖諦・完全版『五蘊は知り尽さなければならないもの』より引用させていただきます。
比丘のみなさん。形に夢中になっている人は、その人は苦であるものに夢中になっているのと同じです。私は「苦であるものに夢中になっている人は、当然苦から解脱できない」と言います。
比丘のみなさん。受に夢中になっている人は、苦であるものに夢中になっているのと同じです。私は「苦であるものに夢中になっている人は、当然苦から解脱できない」と言います。
比丘のみなさん。想に夢中になっている人は、苦であるものに夢中になっているのと同じです。私は「苦であるものに夢中になっている人は、当然苦から解脱できない」と言います。
比丘のみなさん。すべての行に夢中になっている人は、苦であるものに夢中になっているのと同じです。私は「苦であるものに夢中になっている人は、当然苦から解脱できない」と言います。
比丘のみなさん。識に夢中になっている人は、苦であるものに夢中になっているのと同じです。私は「苦であるものに夢中になっている人は、その人は当然苦から解脱できない」と言います。
[引用終]
動物は苦を楽と錯感覚して、夢中で苦を欲しがる。
賢いつもりの人間もその点さしたる違いはない。苦に夢中の人が苦から解脱できるわけがないと。
全くもってごもっとも。だから世界中いつもどこもおぞましいことになってる。
形(色)・受・想・行・識を死ぬまで堂々巡りする、人間のこの愚行を根本的に解決するブッダの獅子吼が残されてます。
色は無常なり。
無常なるは即ち苦なり。
苦なるは即ち我に非ず、
我に非ざるは亦我所に非ず。
是の如く観ずるを真実の正観と名づく。
是の如く受・想・行・識は無常なり。
無常なるは即ち苦なり。
苦なるは即ち我に非ず、我に非ざるは亦我所に非ず。
是の如く観ずるを真実の正観と名づく。
聖弟子、是の如く観ずれば色を厭ひ受・想・行・識を厭ふ。
厭うが故に楽はず、楽はざるが故に解脱することを得。
解脱すれば真実の智生じ、我が生己に尽き、梵行己に立ち、所作己に作し、自ら後有を受けざるを知る。
(雑阿含経1)
このイメージに後世、さらに加上した(=人の隠れた欲を投影しエスカレートさせた)ものとして、
人々と苦しみを共にし救うために、死んでもまたこの世へ還って来る菩薩、といった曇鸞の還相回向。
(過去記事増補編集再録)