「自分を王様だとか神様だとか事実誤認して幸福だとおもい込んでる精神病院の患者は、本当に幸福か」という疑問が。
大多数の人は「本人が幸福を感じてるんだから幸福に決まってる。他人がいくら気の毒がろうとも、本人は自分が精神病だと気づいてないから関係ない」とおもうだろう。
自分が幸せだと感じてればそれだけでオッケーってことだ。非常に多くの人が結局そういう考えだとおもう。人生の目的が欲の幸福で止まってる。
それだとこの先、副作用のない麻薬が開発されて「幸福薬」として売りだされたら、みんな飛びつく。
それさえ飲めば幸福な良い人生ってことになるわけだから。
欲の幸福を人生の目的にすると、
いつの間にやら、人間の幸不幸、好き嫌い、よしあしに戻ってしまう。
(禅に聞け 澤木興道老師の言葉 櫛谷 宗則編)
仏法の核心は、人間の幸不幸、好悪、善悪とは関係ないということ。
多くの「幸福論」が、無駄な苦労を避け、過去の悔恨と未来の憂慮は最小限に止めて、「今」を楽しみなさい。と教えてる。
それはいい。もちろん、おれだってそうしてる。
だけどそれは、たんなる処世術に過ぎない。
処世術は世渡りのテクニックであって、人生とはなんの関係もないことだ。
幸福は、こころに余裕を作り、単なる幸福感を超えて、生死を明らめる次のステージに進む力にしてこそ意味をもつ。
幸福というだけで人生の問題が解決することは一切ないからだ。
だが、
いつの間にやら、人間の幸不幸、好き嫌い、よしあしに戻ってしまう。
人間の宿病は容易には治らないということ。
いや、実際はそれどころじゃない。
人生の意味や世界平和や人類愛などの壮大な哲学的議論をする自分の本心は、なんと同僚の給料が自分より1,000円高いことへの妬みでいっぱいだったりする。
この眩暈がするほどの落差。
でもこれが大多数の人間の現実だとおもう。
どうせ妬むなら、1,000円ぽっちの差を妬んでないで、イーロン・マスクとか妬めよ、せめて。
己の半径1㎞圏内のちっぽけな欲の幸福が人生の目的になってしまってる。
死なないなら、それでもいいかもしれないが…
人間は、
欲以外の幸福(さとり)に達するまでは、
誰でも例外なく常に、
欲望につきまとわれる生き方しかできない。
ブッダでさえそうだったのだから。
いかに欲の禍が甚しいものであることを知っても、欲以外の幸福に達しない間は、どうしてもこの欲につきまとわれる。これは余の経験であるが、余も亦、さとりを得るまでは、常に欲に追われていた。
(現代語仏教聖典 第14章1,2)
(My Favorite Songs)
She’s A Rainbow - The Rolling Stones - Hyde Park London - 25th June 2022 - YouTube
(過去記事編集再録)