心のままに

自分のことと他者のこと(自らの無力と非力を感じながらも・・・祈り)

日本に続いている大地震の流れ、地下深くはどうなっているのでしょう。

見えるはずもなく、でも、敏感に感じ取る人たちは、確かにいらっしゃるようです。

私自身は、感じ取れない人ですけど。

 

被災地域の人たちやお身内の人たちはどんなにかご心配な事でしょう。

何もできない自分に無力を感じられていることでしょう。

焦りも不安も怒りも、さまざまな感情の中にいらっしゃること、本当に本当にしんどくて辛いと思います。

私自身もできることは本当に少ないのですが、募金とかお祈りはできますね。

たとえ、ちっちゃなことでも、できることがあることは、自分をホッとさせてくれます。

 

それでも、それでも、被災地の人たちへの思いを持っていても、

自分の身に起きることと他の人の身に起きること、

どうしたって、こうしたって、自分のことにはならないのです。

いくら思いを寄せていても、自分のしていることは何ら変わらない日常生活です。

だからこそ、できることは確かにあるのですが、それでもいつもの日常なのです。

 

そういうことが起きると、いつも娘が倒れ、亡くなり、その後の生活に重ねて思いを馳せる私がいます。

被災者の方々が大変な苦労をされていることはニュースを通じて知りますが、それでも自分は日常生活の中に時の流れを刻んでいきます。

このギャップこそが、あの時私自身が感じたギャップです。

そして、苦しく辛いその時は、なぜ?自分だけなぜ?あの子だけなぜ?というドロドロの中にはまり込んでいきました。

笑っている他の人が恨めしい(うらやましくなくて恨めしいなのです)、笑っている自分が許せない、幸せ、喜びなんて一生無縁だと感じていました。


でも、気づけばたくさんの愛があったのに、見えていませんでした。

その頃は見たくもありませんでした、という方がピッタリでしたが。

 

大きな災害があった時、

お祭りなどを「自粛する」「自制する」などの行動、

反対に「元気づけるために中止しない」とする行動、

両方に愛がある、それは確かなことです。

 

何をどう受け取るか、

自分自身にかかっているけれど、

受け取れない時期もあって当たり前ですよね。

 

「自粛する」「自制する」

それがホッとする人もいれば、反対に申し訳ないと思ってしまう人もいる。

「元気づけるために中止しない」

それに勇気づけられる人もいれば、 この痛みへの無理解を怒る人もいる。

どちらも真実で、どちらも愛がありますね。

 

巻き込まれない環境にいるから、できることを見つけることができる、それが支えることにつながる、

いろいろな側面があって、いろいろなサポートにつながります。

 

被災地の人たちのニーズに合わせたサポートがよりたくさん届きますように。

助かる命と助からなかった命の理不尽さも、ただそのままに。

私自身は自分を癒すことで、自分を緩めることで、大地を、地球を緩めていくことを学びましたので、

自然に対する癒しの一助としてできることをしていきます。

お祈りしながら日常を過ごしていきます。

大地にも必要な癒しが届けられることを祈りながら。

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