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神の力また神の知恵

2025年03月31日 | 聖書にちなんだ話
力とは何であり、また神の力とは何でしょうか。
知恵とは何であり、神の知恵とは何でしょうか。
神には、彼のご計画があり、それを遂行するために、神の力と神の知恵は用いられています。
そして、神の力であり、神の知恵である方が、「十字架に付けられたキリスト」(1コリント1:24)であると聖書は言っています。
キリストは十字架につけられたとき、ご自身を救うためには、何もなさいませんでした。
なぜでしょうか。
未信者の目からすれば、キリストは無力さの故に死なれ、ユダヤ人の目からすれば、彼らの憎しみや怒りの故に、キリストは十字架を免れることはできませんでした。
私達クリスチャンの経験からすれば、「十字架を経験すること」は、非常に難しいことであり、私達の肉、天然の命、旧創造は、なかなか対処できないものです。しかし、神の目からはキリストは神の力、また神の知恵です。
どうして、キリストは十字架につくことができたのでしょうか。
彼は、義をもってさばく神に、一切を委ね続けられました。(1ペテロ2:23)
神には、ご自身の中で計画されたエコノミー(ご計画)があり、それは、神の大いなる喜びによって打ち立てられました。
その喜びがキリストの御前に置かれたので、彼は恥をもいとわないで十字架を耐え忍ぶことができました。そして、その喜びとは、神の完全で、全体的な救い、すなわち、キリストが私達と一つになり、私達の全てとなることです。
神の御心とその完成は、私達にとって喜びでしょうか。
言い換えると、私達は、日ごとの救いを喜んでいるでしょうか。
主が私達の中で前進しておられるなら、私達は、日ごとの救いを喜んでいることを、証しできると思います。
私達は、日ごとに救われること、神の全体的で、完全な救いにあずかることを喜ぶでしょうか。
あるいは、十字架につけられたキリストは、私達の経験において、私たちとは遠い存在で、私たちに対して何もしておられないかのようでしょうか。
私達の霊は義とされましたが、まだ依然として、多くの時、不義から救われる必要があります。
また、私達は魂における聖別や、体の贖いを願うでしょうか。
私達の魂は複雑であり、造り変えられる必要はないでしょうか。
私達の体は、日ごとに衰え、老いていきますが、新しい体が、すなわち、変貌させられたキリストの栄光の様を持つ体が欲しくありませんか。
キリストはそのための神の力また、神の知恵です。
キリストは神の力として、私達のうちで、力を持って活動し、私達を力づけてくださいます(ピリピ4:13)。ですから、十字架を経験するために、私達は、十字架に付けられたキリストと一になる必要があります。
私達が、主イエスを信じて呼び求めるとき、私達は、キリストと一になります。
そして、私達の中で活動し、私達を性情において、聖別します。
それは、私達が聖別されるために召された聖徒たちだからです(1コリント1:02)。
私達が、十字架につけられたキリストを神の力として経験するためには、主の御名を呼び求めることと、主に対する高い評価が必要です。
私達の天然の力は、40歳のときのモーセが、一人のエジプト人を打ち倒したように、何かに勝とうとします。それが力であると思うからです。しかし、それは神の力ではありません。
神の力は、キリストが私達の中で全てとなるために働く力です。
その力は、自己を否むため、自分の十字架を負うため、主に服従し、彼に従っていくための力であって、私達の霊の中に、生きておられるキリストの中にあります。
私達は、神の力を得るために、霊なるキリストに来て、彼に触れる必要があります。

教会を建造するための王国の訓練

2025年01月12日 | 聖書にちなんだ話
教会を建造するための、王国の訓練というものがあります
私達は、教会が神の王国でもあることを、以前から聞いてきました。
神の王国と教会との違いは何でしょうか。
真の教会は王国であり、王国の出現が教会を生み出します。
王国としての教会とは、今日、教会がどうであるべきかを証しする、団体の、また一群れの、建造された教会です。
建造について語るとき、それは人の友情ではなく、人の組織でもなく、命、神の命の建造です。
この命は、キリストの死と復活を経過した命、命を与える霊となった、霊なるキリストです。
この命は、私達が主を信じ、受け入れた後に、私達の中に入ってこられました。
私達はこの命を持っているので、既に教会の一部ではあるのですが、王国としての教会には、行政の面、支配や統治といった、教会が一つにまとまる面、秩序の面、平和の面が必要となってきます。
そのためには、王国の訓練が必要です。
どのように私達は教会を建造するために、王国の訓練をするのでしょうか。
私達はキリストを享受する必要があります。
そして、その享受を祈りに移す必要があります。
その祈りは、主との交わりです。
私達は建造のために何が必要であるか、実は、私達は既に主から語られているかもしれません。
しかし、その達成のためには、少し祈っただけでは足りないかもしれません。
継続的に祈る必要があるのですが、継続的にキリストを享受することができません。
しかし、訓練とは、多くの失敗の後に、目標に到達する事柄です。
鍵は、私達が進んで十字架を負うこと、進んで、魂の享受を否むこと、進んで、主のみこころを取ることです。
これが表現されるとき、私達は団体の享受があり、調和のとれた王国を、徐々に、段階的に、少しずつ表現するようになります。
ペテロの見た岩としてのキリスト、そしてその上に立て上げる石のビジョンは私達と共にあるのですが、実行は、訓練を必要とします。
主日の集会で、私達は間違いなく、神の言葉に触れ、供給され、また力づけられています。
しかし、主に語られたことや、享受したことを、建造のためには祈ってきていないかもしれません。
あるいは、主に示されたことを、訓練の課題として、真剣に扱ってきていないかもしれません。
主は、彼との交わりの中で、私達を建造にふさわしく整えてくださいます。
どうか私達が集会に参加するたびに、享受したことを主に持ち出し、教会の建造のために、主が私達を整えてくださいますように。
団体的でありながら、調和のとれた、この世では見たことのない、また、この世には属していない神の王国が、私達の間に来ますように。

主の祈り

2024年11月17日 | 聖書の言葉の紹介
 ヨハネ第17章において、主は私たちのために祈られました。そして今日に至るまで、彼の祈りは継続的に、成就するまで捧げられています。私たちは皆、主に祈られている者たちです。
 22節は言います。「あなたが私に与えてくださった栄光を、私は彼らに与えました。それは私たちが一であるように、彼らも一となるためです。」
   御父が御子の中に与えられた栄光は、復活において現されました。その同じ栄光が私たちを一にします。キリストの栄光が、彼の人性の殻が十字架上で砕かれた後に現れたように、私たちに与えられている栄光もまた、自己の殻が砕かれた後、現れることができます。ですから、私たちには復活の過程、復活の経験が必要です。
 23節は言います。「私が彼らの中におり、あなたが私の中におられるのは、彼らが成就されて一となるためです。それはあなたが私を愛されたように彼らを愛されたことを世の人が知るためです。」私たちが見る必要のある事は、主が私たちの中におられるのは、私たちが神を表現するためだけではなく、私たちが自己を否むためでもあると言うことです。
 どうして御子は御父を表現することができたのでしょうか?それは御子が御父の愛を知っていたからです。私たちは、団体的に神を表現するために御父の愛に触れる必要があります。御父の愛は、私たちをあらかじめ用意されている栄光にあずからせます。私たちは皆、栄光へとあらかじめ用意されていた、あわれみの器たちです。その用意された栄光とは、建造のために自己を否んだ後に表現される栄光です。
 私たちはヨハネ17:1を引用して祈ることができます。「父よ、時が来ました。建造のために自己を否む時が来ました。あなたの子の栄光を現してください。それは子である私があなたの栄光を現すためです。
 どうか私たちが団体的に建造された方法で神を表現し、栄光を現すことができますように、御父の愛とあわれみが、私たちすべてを、彼の栄光のために、守ってくださいますように。


2024/11/10

2024年11月10日 | 聖書にちなんだ話
キリストは復活であり、また一粒の麦です。私たちは復活と一粒の麦としてのキリストをどのように経験し、享受し、表現するのでしょうか?
私たちが復活を経験することができるのは、キリストが「復活の命」となられたからです。キリストは十字架の死を経験し、また経過されました。もし私たちがキリストの復活の命を持っておらず、さらには適応することがないなら、たとえ苦難や困難を通っても、それは十字架の経験とはならず、キリストを復活の命として経験することもできません。私たちが信じる必要のある事は、救われたと私たちの遭遇する、すべての事は、神を愛する私たちにとって、「すべてが共に働いて益となる」と言うことです。それは、神を愛する者たちには全てがプラスに働いているということです。神を愛するとは、神の御心の完成を愛することであり、それは神の長子としてのキリストと同形化されることであり、また、団体的にキリストの体の実際となり、新エルサレムに構成されていくということです。
復活の前提にあるものは、十字架の死です。そして私たちは、復活の命としてのキリストと一つとなり、キリストの十字架を経験した結果、復活の領域にもたらされます。私たちは自分が耐えることができないと思う苦難、困難、試みを前にして、動揺したり、慌てたり、諦めたりしてしまうかもしれません。しかし、私たちはただ、「主イエスよ」と、主を呼び、静まり、霊の中で、復活としてのキリストに触れるまで「落ち着く」必要があります。そのような時、主イエスの御名を呼び、御言葉を祈り読みすることが、私たちに十字架を経過させ、天然の命と力を終わらさせ、復活にもたらさせます。
一粒の麦としてのキリストを経験すると言う時、私たちが「多くの麦粒」であると言う事と、彼の命の継続、また複製であることを思い起こさせます。それは、私たちが彼と同じ表現を持つことを暗示しています。
私は特にヨハネによる福音書に啓示された、三一の神について印象づけられました。それは一粒の麦が生み出した神性と人性の合併が、御父の家、真の葡萄の木、その霊の子供であるということです。
御父の家として、私たちには存在するルーツがあり、私たちの源は父なる神です。私たちが源ではなく、御父が私たちの源です。
真の葡萄の木として、私たちはその枝として接ぎ木されました。ですから私たちは、今実を結ぶために存在しています。
その霊の子供として、私たちは成長する必要があります。私たちは神・人の種族として、日毎に内なるキリストの命を成長をさせる必要があります。
成長する過程で、私たちには聖書に書かれている、多くの教えが与える、多くの課題、多くのレッスンがあります。もちろんそれを成就してくださるのは内にいます、復活における、一粒の麦としてのキリストです。しかし、私たちは主に協力する必要があります。
私たちは1つ1つ、自分ができなかったことを主の光で照らされ、尊い血によって洗い清められ、自分ができないことを主の御前で認め、告白し、何度も何度も主に来て、供給され、満たされるというやりとりを続ける必要があります。その結果は、御父を源とすること、ぶどうの木の枝として実を結ぶこと、キリストの命が成長して神の相続人となり、神の嗣業となることです。
主を賛美します。


2024/11/04

2024年11月04日 | 心に残った聖書の言葉
 ヨハネ第7章37節は言います、「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って叫んで言われた、「誰でも渇く者は、私に来て飲むがよい。」
 祭りは何かを記念して開かれるものです。今年の夏、多くの場所で多くの祭りが開かれました。そしてその祭りにはすべて、終わりの日がありました。あるいは祭りの締めくくりの時間が設けられました。その時、楽しかったと感じる人がいれば、なんとなく虚しさを覚える人もいたと思います。主イエスはそのような時にこう言われました、「だれでも渇く者は私に来て飲むがよい」。
 人は満たされている時、「潤っている」と感じます。逆に欠乏している時、「渇いている」と感じます。もし人が渇いたら、主イエスに行くことができます。どのようにしたら主イエスに行って飲むことができるのでしょうか?また何を飲むのでしょうか?
 続く38節はこう言います、「私の中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から生ける水の川々が流れ出る」。