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日々雑感「点ノ記」

備忘録(心の軌跡)

六花鏡の出土

2012年08月24日 | インポート
3日ほど前から、大村市竹松遺跡の発掘現場で、鏡の一部が掘り出されつつあるという話を聞いていた。

現場で見たら、現代の鏡の様に私には思えた。

その鏡の表の面は、昨日までに全貌を現していた。

梅の花の6枚の花びらをかたどったような形状で、普通に光っていた。

その鏡の裏側には、もしかしたら紋様や文字が彫りこまれているかもしれないと調査員の方が言っておられた。

2日ほど前に、その鏡の近くで会話をされていた調査員の方たちの話し声が耳に入った。

おひとりの調査員の方が、鏡に緑青が付いていないので比較的新しい年代のものではなかろうかという見解を述べられて、それに対して別の調査員の方は、緑青が付いていなくても古い年代だった鏡の出土例もあるというような見解を述べられていた。

それぞれの調査員の方の蓄積された知識に基づく、いろいろな用語や地名が会話の中に登場して興味深い。

いろいろな学問の基礎は、基本的な事柄の記憶から始まるのだと思うが、考古学の基本はまさに膨大な記憶の蓄積なのだろうなと思った。

他の場所では若い調査員の方が、ピットから出てきたオレンジ色の土の塊に付いている溝状のものを見て、壁土などを補強するために土の中に組み込んでいた竹か木の痕跡であろうという事を言っておられた。

アマカワという言葉を20年以上前の長崎市興善町遺跡の発掘現場で教えてもらった事がある。

土管などの継ぎ目などの水漏れを防止する為に、そのアマカワを塗って固めるのだという。

オレンジ色のしっくいのような、現在のコンクリートのような役目のもので、竹松遺跡のピットのひとつから出てきたものとよく似ていた。

柱跡と推定される穴から出てきたので、柱の基礎を安定させて、土中の木材の腐食を予防するために用いられていたアマカワではなかろうかと思った。

また、掘っ立て柱建物跡の柱が立っていたと推定されるピットからは、土の年代測定のための試料(サンプル)を少しだけ掘り出してビニール袋に入れておられた。

私たちは指示されて、そこの位置の三次元座標を取得するための測量を行なった。

本日は、その六枚の花びらをかたどったような鏡を掘り出すという事だった。

作業が終了する4時半頃にその掘り出し作業は始まった。

調査員と作業員の合計10名ほどが見守る中でその作業は行われた。

調査員の方が、鏡の本体を慎重に土からはずし、その鏡の裏側になっていた土を、小さなバールを金槌代わりに使い、平コテでその土を器用に剥ぎ取って、崩れないようにして慎重に、底に綿のような物を敷き詰めたプラスチック製のタッパーに保管されていた。

正確かどうかは判らないが、聞く所によるとその鏡は13世紀ごろのものではないかということだ。

終礼の時に県の方から、その鏡を来週には展示して見せてくれるという説明があった。

六花鏡(ろっかきょう)というらしいが、県の方がかなり喜んでおられたようなので、出土物としてはかなり貴重な物なのだろう。

来週の現場での楽しみが出来た。



豊田一喜













通り雨のために退避

2012年08月23日 | インポート
大村市竹松遺跡の発掘現場では、昨日も今日も、午後4時より少し前から雲行きが怪しくなり、間もなくしてから土砂降りの雨が降った。

昨日は大雨の前兆として雷の音が聞こえ出したので、大雨になる事態を見越して早目に退避し、早めに休憩棟の中での終礼があって解散という事になった。

作業員の方々が各自の通勤車に乗り込んで車の出番を待っていたら、その直後から大雨が降り出したので、車通勤の作業員の方々は雨に濡れることも無く帰路につく事が出来た。

作業員の帰路の通勤車輌の誘導をしていた調査員の方々の中には、雨にぬれながら誘導をしていた方もおられたようだった。

自転車やバイクで通勤されている作業員の方々は、タイミングが悪く、帰路につき始めた頃から大雨になり、びしょ濡れになられたはずだ。

昨日は、雇用主の適確な判断で、土砂降りの通り雨を、作業現場では回避できた。

本日も3時の休憩時間のあと頃から、西の空の雲行きがあやしくなり、早めの現場からの退避の指示があったが、退避の準備をしていた時に、南の方角からの雨雲が急接近して、発掘現場はまたたく間に土砂降りの大雨に包まれた。

休憩棟へ荷物などを運んでいた作業員のほとんどはびしょ濡れになっていたが、休憩棟に戻ってしばらくしたら通り雨は通過し、お日様が見えるようになっていた。

全員そろっての終礼は行なわれず、外や休憩棟でハンドマイクによる解散の指示があり、それぞれの作業員がが帰路についていた。

調査員や作業員の中の一部の人たちは、通り雨に全然濡れてはいなかったが、その人たちは現場の中の休憩用テントの中に一時退避していた人たちだった。

通り雨のために、早めに現場を退避した2日間だったが、それぞれの結果は違った形になった。

この季節だから、びしょ濡れになっても健康上への影響はさほど無かったことと思うが、このような事象が冬などの寒い季節にあったならば、結構きついだろうと思った。

一時的ではあったが、少しまとまった雨が降った地域もあった様で、恵みの雨に感じられた人もいたものと思う。

このような事を繰り返しながら、季節は秋に染まって行くのだろう。

もう少しすれば、炎天下での作業を懐かしく思い出すような気候になって行くのだろう。



豊田一喜







「幻の芋 くりまさり」焼酎

2012年08月22日 | インポート
昨日、姉の家族4人と妹の家族3人の合計7人で、関東の方から、墓参りなどを兼ねて尋ねてきてくれた。

昼間は大村市竹松遺跡の発掘アルバイト作業員の仕事をやらせてもらっているので、墓参りに同行する事はできなかったが、夜の食事は共にする事が出来た。

妹の息子と娘に会うのは、かなりの年数ぶりで、特に甥の方は身長が私よりもずっと大きくなっていて、顔立ちは若かった頃の妹にそっくりで、勤めから帰ってきた妻などは、久し振りに見る甥を私の妹かと思ったというほど妹に似ている。

産直品売り場のアルバイトをしながら通信制の高校3年生をやっている18歳の彼が、そのアルバイトで稼いだお金で、「幻の芋 くりまさり」焼酎という720ml入りの焼酎を、私にお土産として持って来てくれた。

その甥の心遣いが、何よりも嬉しかった。

「幻の芋 くりまさり」焼酎の説明書きには以下の様な表示になっている。

「栗より味が勝る」とされることから「くりまさり」と称され、江戸時代から神奈川県平塚市大野地区で栽培されてきましたが、栽培が難しく生産量が減少しました。

市場にはほとんど出回る事の無い幻の芋を絶えさせてはいけないーーーーそんな想いが詰まった深みのある幻の芋焼酎「くりまさり」をご賞味下さい。

となっている。

販売元が平塚酒販協同組合となっており、製造元は長野県佐久市の芙蓉酒造協同組合となっている。

今度の金曜日の夜には、甥の心遣いをじっくりと味合わせてもらおうと思っている。

その甥が、小学生の頃に家族で我家に遊びに来てくれた事がある。

家の裏の千鳥川で、ふたりで鮒釣りをして遊んだ時に、甥の竿に大きい鮒がかかった。

小さかった甥は、その大きい鮒に水中で程よく遊んでもらい、一生懸命に取り込もうとしたが、竿のしなりと鮒の重さで上げる事が出来ない。

「おじさん、僕には無理です」と言って私に竿を渡して、その鮒を釣り上げた時の情景が、今でも記憶に残っている。

甥は訳あって通信制高校で勉強する事になったが、その18歳の甥が私よりも大きくなって、自分で働いて稼いだお金で、私にと、お土産を買って来るという心遣いができるようになっている事がとても嬉しくもあり、そのように成長してくれていることに安心もした。

妹の娘である21歳の姪は、お人形さんのような長い付けまつげをしていた。

その長い付けまつげをしないと人前に出る事はできないといっていた。

自まつげでも普通の人よりも長めのまつげで可愛いので、22歳になるまでにその付けまつげをしないでも人前に出られる事が出来るように努力しようねと約束をした。

お酒好きだった義兄は、糖が出ているという事で、元看護婦の厳しい姉の食事制限の管理下にあり、お酒は一滴も飲まなかったが、妻が朝の出勤前に作っておいた手作りの饅頭を3個も食べたと嬉しそうに語っていた。

姉と妹は、我が家の母親の血統を忠実に引き継いでいるらしく、2人とも私と同じように、会うたびに横方向に寸法が伸びている。

お互いに気をつけようねというしか言葉が見つからない。

姉の娘である姪は、看護士の仕事をしており、カロリーゼロという表示の炭酸飲料などの表示について説明してくれた。

5キロカロリー未満のカロリーの含有量であれば「カロリーゼロ」という表示が許されているのだという事を教えてくれた。

姉の息子である甥は、今回はレンタカーの運転手役で、大村空港から長崎市内のホテルや義兄の実家の諫早市や私たちが住んでいる雲仙市などに移動する際に、7人分の命を預かる大役を引き受けていた。

姉の家族は、私たちの家族と違って、色々な海外暮らしの経験がある。

甥も、イギリスでしばらく1人暮らしをしていた事がある。

義兄の仕事の関係で、家族でインドネシアに暮らしていたこともあるし、義兄はフィリピンで、姉はネパールで暮らしていたこともある。

私はといえば、海外旅行など一度も行った事がないし、行こうとも全く思わない。

若い頃に、航空写真測量の仕事で、サウジアラビア、フィリピン、インドネシア、ペルー、インドの国の基本地図となる縮尺2万5千分の1の地形図の作成作業の末端で働かせてもらったこともある。

日本国の開発途上国に対する国際援助の一環としての政府開発援助により、日本の国内の大手航空写真測量会社が受注した、それぞれの国における基本地図作りの作業として、現地での基準点測量、対空標識の設置、簡易水準測量、現地調査、測量用の航空写真撮影などの現場作業の成果を使い、日本の国内で地図化する仕事をやらせてもらった事がある。

航空写真とその現地関連資料により、航空写真測量用の精密立体図化機の中で、海外の地理や地形を三次元の立体空間として認識する事が出来る。

そのような三次元空間の投影像を見ながら仕事をしていると、あたかも自分がその地へ行った事がある様な心持になる。

そのせいかどうかは分からないが、金銭的に余裕がないこともあり、海外旅行をしてみたいなどと思った事は一度も無い。

日本の中でも、四国と沖縄には行った事が無い。

狭い行動範囲の中で暮らせていれば、それで充分だと思える。

本日の夜の8時頃には、姉の家族と妹の家族は、無事に東京の八王子市と神奈川県の平塚市に着いたという連絡があった。

貰ったお土産のお返しは、諫早市森山町の草野菓子屋さんで作っている「あげまきもなか」と「まるぼーろ」にした。



豊田一喜














夜明け前のオリオン座

2012年08月21日 | インポート
夜明け前の午前3時頃に、東の方角の空を眺めると、雲仙普賢岳の上空の、比較的低い所にオリオン座が輝いている。

周辺の4つの大きめに輝いている星と、その中央付近に、丁度地面に対して垂直に見えるような配列で、縦に3個の小さめの星が輝いている。

オリオン座は、ギリシア神話の優秀な狩人オリオンの姿を表したものだそうだが、今頃の夜中の3時頃には、横に置いた鼓(つづみ)のように私には見える。

地球から見れば無限遠と見做してもよいような位置に、それぞれの星は存在しているのであろうし、またそれぞれの星相互の位置関係も、気の遠くなるように離れた位置関係にあるはずだ。

だけれども地球から見れば、地球の自転によって、ほぼ北極星を中心にして回転しているようには見えるが、その星たちの相互関係はいつ見ても変わりはしない。

大昔の人たちは、そのような星たちの配列の星座に、人の形や動物の形や物の形などを当てはめて親しんできた。

そのような星座の中で、私が知っていてすぐに見つける事が出来るのは、オリオン座と、Wの形をしたカシオペア座と、ひしゃくの形をした大熊座の北斗七星と、そのカシオペア座と北斗七星との相互関係から見つける事が出来る北極星ぐらいなものだ。

その中でも北極星は、地球から見れば、ほぼ極北の無限遠と見做してもよいような位置に存在するので、地球の自転や公転によってもほぼ動くことも無く、ほとんど同じ場所にいるように見える特異な星である。

正確に言えば、地球の南極から北極を結ぶ延長線に対して、視半径で1度ぐらいの角度は動いているということ。

北極星を望遠鏡で捉えて、その望遠鏡を固定していれば、1点(極北方向)に固定している星ではなくて、時々刻々と北極星の位置が少しずつ動いている事を確認できる。

また、北極星と一般に呼ばれている星は、1つの星に対する呼称ではなくて、5000年とか1万年とかいう時間のうちに、極北方向に一番近くなる異なる星に対する呼称である事が調べてみてわかった。

以下はインターネットで公開していた北極星に関する知見。

北極星(今は、こぐま座のポラリス星)は、季節に関係なく昼でも夜でも地軸の北方向延長線上にあって北半球で夜になれば街中でも(たぶん)見つけることができます!

これはポラリス星が約400光年も離れたところにあって、地球が公転し太陽の周囲程度の位置ではほとんど角度が変わらないほど離れているからです!

車などで走っていて道沿いの景色は流れていくほど変わるのに遠くの山が見えなくなるには相当の距離を移動しなければいけないのと一緒です。

ただ、地球にも歳差運動(首ふり運動やコマ現象)というのがあって、徐々に北極星の位置は変わって行きます。

約五千年前は「りゅう座のトゥバーン」でしたし、今後一万年以上経てば「こと座のベガ」が天の北極に近いです!

まぁ今は「こぐま座のポラリス星」にメッチャ近い方向を地軸が向いていますので、よほどの天文現象がない限り今地球上の人達が北極星の位置が変わっていく様子は見れることなく死んでしまうでしょうから確かめようがないですが…

ということのようだ。

北極星は、特殊な測量で使うこともある。

以下は、測量専門学校国土建設学院で天文測量を教えて頂いた恩師安藤五郎先生が、天文測量の授業用に執筆された「天文測量」という冊子に記載されている文章の一部抜粋。

視通障害が多く又その除去が困難になった最近の平地部で多角測量のための与方向角が得られないことはしばしば経験することである。

このようなとき、トランシットと腕時計・ラジオがあれば簡単に方向角を得ることができる。
(方向角=方位角+真北方向角)

以上は一部抜粋した説明文章。

その冊子が作られたのは1971年3月となっている。
50年以上前に書かれたものだ。

要するに測量では、未知点(基準点)の座標値を求めるための基準点測量である多角測量の与点となる基準点において、方向の基準となる基準点が必要であるが、そのような基準点が多角測量の出発基準点や終着基準点において視通できない場合に、北極星の方位角観測という天文測量によって、出発基準点や終着基準点の方向角を求める事が出来るということである。

測量専門学校に通っていた秋頃の季節の夜に、学校に集まって、北極星の方位角観測の実習があった。

各班別に、JJYというラジオの時報を聞きながら、トランシット(測角儀)の望遠鏡の十字線の交点で、北極星を捉えた瞬間の時刻や方向取り付け点との水平角等の必要観測数値を記録する。

そのようにして記録した数値を基にして方位角を計算し、提出成果品としたものが、卒業時に各自に返却され、その返却されたおよそ40年近く前の実習成果品が今でも手元にある。

測量士の国家試験に合格するまでは、実家の長崎には帰らないという誓いを立てて、18歳の時に東京の測量専門学校に旅立って、一生懸命に勉学に励んでいた頃の記録品でもある。

16歳の高校2年生の時に、測量士補の国家試験には合格していたが、測量士の国家試験は17歳の時から毎年受験し、4回目の挑戦である20歳の時に、やっと合格する事が出来た。

測量専門学校を卒業してから、公共測量などの実務経験が実質2年以上あれば、国土地理院への申請により測量士の資格を得る事はできる仕組みにはなっていたが、自分としてはそのように安易な方法での資格取得では納得できないと思っていた。

測量士の国家試験の受験資格は、年齢、性別、実務経験などの制限は無く、日本国籍を有していること、禁治産者等ではないことというぐらいで、ほとんど誰にでも受験資格はある。

測量という仕事を、自分の生涯の仕事と決めていたので、もらい物のような資格の取得は本意ではなかった。

だから国家試験による測量士の合格という事にこだわった。

要するに、諸般の事情にて測量専門学校で学ぶ事が出来ない人たちと、同じ土俵の上で測量士になりたかった。

測量士の国家試験に合格したので、田舎を出てから2年半たった頃の秋に、誓い通りに初めて帰省した。

諫早からは島原鉄道に乗り、愛野駅で降りて荷物を下げて徒歩で実家に帰ったが、帰る時刻を父には伝えていた。

自宅が視野に入る頃から、父親が待ち遠しそうに、庭先に出て自分の方を見ているのがわかった。

誇らしくて、嬉しくてたまらない帰省だった。

59歳で他界した父親が49歳の頃の出来事。

夜明け前のオリオン座から、38年前の出来事まで連想してしまった。



豊田一喜













炎天下を好む理由

2012年08月20日 | インポート
炎天下で作業をさせてもらえる事がとても楽しく思える。

理由は簡単である。

お金を貰いながら日光浴が出来るから。

ずっと以前に体の調子が芳しくなくて、病院に行ってレントゲンを撮られた事がある。

体のどこの具合が芳しくなかったのかは忘れてしまった。

若かりし頃は、パンチパーマをかけて、着る物といえばどこに出かける時もブルゾン風の作業服の上下を着ていた。

一般的には、絶対に肉体労働者だと思われるような風体をいつもしていた。

そのような頃に医者に行った。

そのレントゲン写真を見て、医者としての経験が豊富と思われるような医師は私に言った。

「あなたは部屋の中の仕事を長くしているでしょう」と。

どうして分かるのですかと尋ねると、「骨がスカスカで女性の骨のようですよ」と言われた。

男性がそのような骨になるのは、日光にあまり当たらない仕事をしている場合が多いのだと言う。

見事に言い当てられてしまった。

その当時は、自宅の別棟の事務所まで、歩いて10秒もかからないような距離を歩き、仕事は部屋の中にこもりっきりで、航空写真測量の精密立体図化機で、自治体などが使う地図の原図を図化する仕事を生業としていた。

ほとんどお日様に当たる事の無いような毎日だった。

熟練した医者の眼力に、感心してしまった。

その時に、毎日20分間の日光浴をするように心がければ、スカスカの骨の密度は改善されて健康体になれるというアドバイスを受けた。

その頃より、生活の中で、極力お日様に当たる時間をとるように努めた。

今の大村市竹松遺跡のアルバイト作業では、お金を貰いながら、日光浴が長時間できている。

楽しくないわけが無い。

また、お日様に当たりながら仕事をさせてもらっているので、体のあちこちにまとわり付いている脂分を燃焼できているような気分にもなれる。

炎天下で動き回ると、熱中症になる可能性があるというが、充分な睡眠と、適度な水分補給と、塩分補給を心がけていれば、ほとんど心配しなくてもよいような体に生んでもらっている。

私にとっては、作業をさせてもらいながら、日光浴もさせてもらっているという感覚で臨んでいる。

体重も減らす事が出来て、骨も丈夫になれて、お金ももらえる。

縁あって、こんな素敵な仕事に就く事が出来て、幸せに思える日々を送らせて貰っている。

直前の他社の面接試験で、落としてくれた面接官にも感謝したい。



豊田一喜








夏休み

2012年08月19日 | インポート
9日間という、大村市竹松遺跡発掘アルバイト作業員としてのお盆休みが過ぎようとしている。

過ぎてみれば、あっという間の9日間だったように思える。

大人になってから初めて、夏休みのような日々を過ごさせて貰う事が出来た。

小学生の頃の夏休みには、お寺の庭に集っての朝のラジオ体操から始まり、セミ採り、カブトムシ・クワガタムシ採り、川遊び、ムツゴロウかけ、ハゼ釣り、アゲマキ採り、シシ貝採りなどの遊びで毎日が忙しかった。

宿題の夏休みの友などは、そのうちにやればいいさというぐらいの気持ちで、ほとんど手付かずのままで8月の下旬を迎えるのが毎年のことだった。

油蝉の鳴き声が聞こえるようになる頃の夕方には、夏休みの友もやってない、夏休みの作品も作っていないことにあせりを感じ始め、「よし、あしたから取り組もう」と思いはするのだが、その日になるとまた、「よし、あしたから取り組もう」という風に考える、自分に非常に甘い自分がいた。

そのようにして、40日間近くはまたたく間に過ぎて行っていたように思う。

そしていよいよ8月の30日や31日になると、泣きべそをかきたい様な気持ちで夏休みの友などの宿題と向き合い、親に手伝ってもらって何等かの夏休みの作品を作っていた。

9月1日の登校日が、金曜日や土曜日の場合には、学校の先生も心得たもので、そのような夏休みの宿題の提出期限を翌週の月曜日までという事にしてくれていた。

そのような時には、土曜日の午後や日曜日に、必死になって宿題をしなければならないような子供時代だった。

今回の9日間の「夏休み」の間にも、しておきたい事が山の様にあった。

事務所や自宅の壁のペンキ塗りもそのひとつで、休みの前に愛野町のナフコに行って、1斗缶入りのペンキと塗装用具を購入していた。

子どもの頃の自分と同じ自分がいた。

「明日からしよう」という自分に非常に甘い自分がいて、諸般の用事(昼寝なども含む)に時間を取られてペンキ塗りは出来なかった。

9日間のうちの1日は、魚釣りにも行きたかったが、それも出来なかった。

2ヶ月に1回の、病院での診察と薬もらいには行って来たので、とりあえず健康管理の面の準備は出来た。

そのようにして、大人の「夏休み」は、あっという間に終わってしまった。

明日からはまた、炎天下での楽しいアルバイト作業が始まる。



豊田一喜







久し振りの裁縫

2012年08月18日 | インポート
久し振りという言葉が頭に付くタイトルの日記が2日間も続くと、大村市竹松遺跡のアルバイト発掘作業員の中の約1名は、そろそろかなという思いでおられたかもしれない。

そうです。

やっと、そのそろそろという事になりました。

この事は、私とその人にしか分からない話。

諸般の事情で忙しくて、なかなか裁縫をする時間が取れなかったが、先週の木曜日にほころびた作業ズボンを繕うために、きょう久し振りの裁縫をした。

6月の初めに、腰に下げる携帯用のお茶入れケースを作るために、安全帯のフックを入れる袋にマジックテープを縫い付けて、そのケースからお茶のペットボトルが落ちないような加工を施した。

その時に裁縫をしたが、そのとき以来の裁縫だった。

作業ズボンの右足の内側が、20cm程度ほころびていたので、その部分を本返し縫いで縫う事にした。

最初の関門は、針穴に糸を通すことだった。

一回目と二回目は不通で、三回目にやっと通す事が出来た。

高校生の時にやっていたスポーツのせいで、太ももが普通の人よりも少し大きめで、ズボンがほころびやすいので、サイズが大き目のズボンを購入するようにはしている。

典型的な胴長、短足の体型なので、長さがかなり余り、ズボンの丈を合わせる時にカットする分量がかなり多い。

それでも、両手も両足も普通に動くので、そのような健康体で生んでくれた親には感謝している。

ズボンの太ももの内側は、しゃがんだりすると突っ張ってほころびやすい。

だから、二重糸で縫う事にした。

小学校の高学年の頃の家庭科の時間に、裁縫と調理の事を少しだけ学んだ。

裁縫では、ミシンの使い方や色々な手縫いでの縫い方や刺繍の仕方を教えてもらった。

私たちの組の担任教師は男性だったので、その当時、独身で気性が荒いといわれていた隣の組の担任の女性教諭O先生が家庭科は教えてくれた。

うわさでは厳しい先生だというように聞いてはいたが、家庭科の授業では優しい先生だった。

布の縫い方の基礎を習った後には、暖簾(のれん)を各自で作る事になった。

布地の購入から各自でしなければならなかった。

当時の愛野町には三軒の呉服屋さんがあったが、そのうちの一軒は同級生の女の子の家だったので、その店で布地を購入する事にした。

暖簾にクレヨンで絵を描いて、それをアイロンの熱で定着させるという方法で仕上げるという事になっていた。

だから、暖簾にどのような絵を描くのかという事から決めておかねば、どのような色の布地にするのかは決められない。

夏の季節に合うように、涼しげな海の海藻の間を、熱帯魚が泳いでいる絵にしようと決めていたので、青に近い水色の布地を購入した。

暖簾として裁断し、必要部分を手縫いしてからクレヨンで熱帯魚と海藻の絵を描き入れた。

それをO先生の所に持って行くと、アイロンを先生が当ててくれて、描いた絵を布地に定着させてくれた。

そして描いている絵をほめてくれた。

調理実習では、ほうれん草のバターいためを作り、味噌汁も作り、ご飯も炊いた。

そしてそれをみんなで食べた。

多分おいしかったと思う。

そのようにして教えてもらった事柄が、その後の自分には非常に役に立っている。

中学生の頃からの農繁期における夕飯の準備係の時に役に立ったし、東京の測量専門学校に通う時の自炊の時にも役立った。

今思えば、義務教育の期間に教えてもらったことや高校生の時に教えてもらったことは、もっと真剣に貪欲に学んでおけばよかったとつくづく思う。

英語などがその典型例である。

単語のスペルと発音と意味を覚えているだけでも、役に立つ場面が、かなり多く現れる。

今からでも遅くは無いとは思うが、残念ながら記憶力の箱のフタが少し開いているらしく、覚えた事はその箱の中から次々に蒸発して流出して行くように忘れて行く現状である。

家庭科や技術家庭の授業には、比較的真剣に臨んでいたので、その後の人生の色々な場面で役に立っている。

作業ズボンのほころびを、小学生の頃に習った本返し縫いで丁寧に繕いながら少し楽しめた、久し振りの裁縫だった。

8月20日から再開される、竹松遺跡発掘アルバイト作業員としての作業用ズボンの準備はできたが、少し油断していたら減り始めていた体重が元に戻りつつある。

明日は、お日様の下で体を慣らしておこう。




豊田一喜














久し振りの役場

2012年08月17日 | インポート
久し振りに雲仙市役所愛野総合支所(旧愛野町役場)に行った。

愛野町と書いて、正しくは「あいのまち」と読む。

近隣自治体と県に騙されて合併した雲仙市愛野町ではあるが、ここに生まれ、ここで育ち、ここに帰ってきた者としてはここで暮らして行くしかない。

ド田舎の役所ゆえ、ちょっとした書類を取るのにも平日にしか処理してもらえない。

都市域の役所では休日でも処理できる事が、雲仙市役所では平日にしか処理できない。

その処理できない理由をうまく考えている。

前もって伝えてもらっていれば郵送にて処理することも出来ますよという。

明らかに首長と役場職員と、議会議員の、公的機関とはなんぞやという意識の希薄さに起因するものと思われる。

自分たちの休日を基準にして公共的なサービス業務を考えている。

そこには、公共的なサービスを受ける勤労者世帯の一般住民の生活スタイルに関する配慮は皆無である。

市内で徴収できる税金のほとんどが、役所職員の給料として消費されている。

既得権益という言葉があるが、それを最も日常的に享受しているのは役所職員と議会議員である。

明治維新の近代的な国家建設時から連綿と続いている官僚主導の政治によって、じわじわと巧妙に、形式的な議会というフィルターを通すことによって引き上げてきた公務員の給与体系によって、高額の報酬という既得権益を享受し続けている。

役所職員のやっている仕事に対する対価が高額すぎる。

民間企業では業績が低迷して企業の収入が減ると、給料を引き下げたり、人員整理をするなどして組織体としての企業の存続を図る。

役所や議会議員は全く違う。

どのように自治体の財政状況が悪かろうとも、職員や議員の報酬を引き下げようとはしない自治体が一般的である。

極論ではあるかもしれないが、全国の自治体が夕張市のような財政再建団体になってしまわなければ、この国の公務員天国は解消されないのかもしれない。

公務員改革を真剣に考えて実行できる政治組織が政権を取らなければ、何も変える事は出来はしない。

きょう、雲仙市役所愛野総合支所の庁舎に入ってまず感じた。

薄暗い。

節電をしているのだろう。

末端の役所職員の方々は、そのようにして節約を心がけている。

そのような経費の節約はしないよりはした方が良い。

しかし、根本的には給料そのものの受給体系を変えて行かなければ何も変わりはしない。

生活スタイルも物価も違う中央の公務員の給与体系に、何でド田舎の役所職員や議会議員までもが合わせる必要があるのだろうか。

その必然性は全く無い。

合併特例債という巧妙な借金を使わせる事によって、合併した自治体の財政状況を悪化させ、その行き着く果てはさらに大きな地域での合併をしなければ自治体が立ち行かなくなるという流れを作りあげて行くのであろう事は容易に推測できる。

たまたま平日に、アルバイト作業が休みだったから必要な処理が出来た。

普通に生活する空間としては、ド田舎の雲仙市は非常に良いところではあるが、こと役所の公共的サービス業務に関しては、都市域と比べてド田舎そのものであり不便である。

このようなことも、役所職員の既得権益のうちのひとつであるといえる。

くそ熱い夏の夜の、アルバイト作業員のひとりごと。



豊田一喜








久し振りのマイクロステーション

2012年08月16日 | インポート
本当に久し振りに「マイクロステーション」を使ってみた。

マイクロステーションといっても、「超微細な駅」という意味ではない。

三次元データが扱えるCADソフトの名称である。

よんどころなき事情により、DXFという形式のCADデータを預かって、そのデータに少しだけ情報を加えて扱いやすいデータにするという作業を、趣味ですることになった。

DXFやDWGという拡張子が付くCADデータは、オートキャドというソフトで開く事が出来るし加工することもできる。

自分のパソコンにはオートキャド2000というソフトが入っているので、預かったデータを開いてみた。

開けた。

しかし、英語版なのでその後のデータ加工の操作手順がさっぱり分からない。

そこで、久し振りの「マイクロステーションJ」の登場となる。

マイクロステーションの日本語バージョンである。

データの拡張子は.dgn(ディージーエヌ)である。

説明書も表示も日本語なので、私にも理解できるし、実作業の仕事で使っていたので、ある程度は習熟できていた。

マイクロステーションで基本的なシードファイル(種ファイル)を指定して、作業単位などを設定し、ファイルを開けば作業環境が整った状態となる。

保有している写真測量のデジタルステレオ図化機が、マイクロステーションバージョンなので、必要に迫られて使いこなしていた。

ただし、そのソフトの豊富な機能のうちのほんの一部だけの、マッピング(地図作成)に必要な機能に関してのみである。

マイクロステーションの機能のほとんどを理解して使いこなせるようになるには、残された私の人生の時間を全てつぎ込んでも、私の能力では無理だと思う。

それほど多岐にわたる、いろいろなすばらしい機能を有しているソフトである。

マイクロステーションに限らず、キャドソフトには、様々な形式(拡張子)のデータがインポートできたりエクスポートできたり出来るようになっている。

マイクロステーションには、DXF形式のデータもインポートできるようになっている。

シードファイルを指定し、作業環境などを設定して、必要範囲の方眼線を座標値から描入した.dgnファイルを開き、預かっている.dxf形式のファイルを指定してインポートしてみた。

開いていた.dgnファイルの中に、そのデータは表示された。

線のウエイトやスタイルに関する情報は、一部において互換がうまくいっては無かったが、それはマイクロステーションの要素の属性の変更機能を使えば修復できた。

かくして、久し振りのマイクロステーションによる趣味の作業は、記憶を手繰り寄せながら、なんとなく楽しみながら行う事が出来た。

頭も体の一部も、使わないと退化する。



豊田一喜







終戦記念日

2012年08月15日 | インポート
敗戦という形での終戦を迎えた67回目の記念日だ。

その戦争のせいで、多くの人が戦死された。

国策による無謀な、戦争という大量の殺人行為によって、数え切れないほどの不幸の種をばらまいた。

若くして、国家と自分の郷土や家族を守るためという教育を受けて、純粋に戦地に赴き、戦死された多くの方々がおられる。

そのような方々の御霊が靖国神社に祀られている。

国策により国家の犠牲になられた方々を英霊として崇める事に異議を唱える人達がいる。

もしも戦争で命を無くす事が無かったならば、ノーベル賞をもらえるような研究をした、学徒動員されて戦地に赴いた優秀な人もいたかもしれない。

もしも戦争で命を無くす事が無かったならば、普通に結婚して幸せな家庭を築き、平穏な人生を過ごせたかもしれない。

もしも戦争で命を無くす事が無かったならば、親に孝行をして、親は息子に感謝しながらその一生を閉じたかもしれない。

そのようなたくさんの「もしも」が思い浮かぶが、そのような全てを国策による戦死という形で奪い去ってしまった。

我が家の墓石にも、ビルマ方面で戦死と刻まれている顔も知らない伯父がいる。

末っ子である私の父を、とても可愛がっていた人だと聞いている。

戦争という国家を挙げての愚かな行為を肯定はしないが、国家のために強制的に戦争にかりだされ、そして戦死された方々を祀る事を私は否定はしない。

むしろ国家として丁重に扱うべきであると思う。

靖国神社に英霊として帰ってくるのだと信じて戦死なさった方々を、その場所で祀るという事は当然の事ではあるまいか。

A級戦犯云々、分祀云々という議論もあるが、それとは別次元の問題の様に思える。

誰も好き好んで戦争に赴いたわけではないだろう。

国家による強制によって戦争に赴き、白木の箱に石ころひとつで帰された人々の御霊に、後世の者たちが思いを馳せて鎮魂するという事に私は違和感を感じない。

日本という国家は、そのように異国の地で戦死なさった方々の遺骨をその地に放置したままで、本格的な国家としての遺骨の収集もすることもなく、67年間も放置している特異な国家である。

現在の科学技術を持ってすれば、DNA鑑定などで遺骨の身元確認も可能である。

国策によって異国の地で戦死なさった方々の遺骨は、国策によって収集して遺族の元に帰してあげるというのが筋であろう。

無駄な箱物を作って、国民から集めた年金の原資を使い込んでいた厚生労働省にこそ本腰を入れて取り組んでもらいたいものであると、終戦記念日に際して思った。


豊田一喜






同窓会

2012年08月14日 | インポート
昭和44年4月に、諫早農業高等学校農業土木科に入学した同窓生の同窓会が、諫早市内の店であった。

展示する思い出の引き伸ばし写真や、それを画鋲で貼り付けるための木の桟を運び込まなければならなかったので、息子の車で送ってもらい、11時10分ごろには店に着いた。

他にはまだ誰も来てはいなかった。

木の桟を壁ぎわにぶら下げて、思い出の引き伸ばし写真を画鋲で止めていたら、ひとりが部屋に入ってきた。

2秒間ぐらいお互いに顔を見合わせた。

次の瞬間に、40年ぶりに会う事が出来た、飯盛町出身のN君だという事が分かった。

彼も私の事が分かり、「久しぶり」とお互いに言った。

髪の毛に白い物が増えた程度で、高校生の頃の彼の顔と同じ顔がそこにはあった。

高校を卒業してから40年が過ぎた。

12時(正午)からの開始である旨の通知を出していたが、11時50分になっても全部で5名しか集まっていない。

予定では15名が出席する事になっているが、集まりが遅い。

15名のうちの3名は、到着が遅くなる旨の連絡が入っていた。

12時10分ごろには13名が集まったので同窓会を開始した。

それから30分ぐらいのうちに全員がそろった。

対馬市から本日の朝の飛行機便できてくれたS君や、宮城県から今朝の飛行機で福岡まで来て、それから鉄道で諫早まで来てくれたM君、広島県から40年ぶりに同窓会に来てくれたN君、福岡県から来てくれたT君、S君、Y君など、遠い所から同窓会に参加してくれた同窓生もいる。

全員がそろった時に、忘れないように記念撮影をした。

デジタルカメラでのタイマー撮影の手順を、家を出る前に息子に教えて貰ってから出かけてきたので、その手順どおりにカメラをセットして、自分も端の方に入り、10秒後にシャッターが切れるのを待つ。

シャッターが切れた後で、念のためにもう1枚タイマー撮影をしておいた。

記念撮影は、同窓会の重要な記録なので、その撮影には神経を使う。

58歳と59歳の年齢になると、飲み方もゆっくりで人間的にも丸みが出てくるようで、あちこちで笑い声が聞こえる。

2時までが飲み放題の時間だったが、泥酔する人は一人もいない。

和やかに楽しく語らいの時間は過ぎてゆく。

3時までが、計画していた一応の同窓会の時間だったので、一度会を閉じた。

会場は午後5時まで貸してもらえる事になっている。

1人だけが仕事関係の用事があるという事で帰ったが、残った14名はそのままそこで二次会をする事になった。

笑い声の絶えない、和やかな時間は続く。

次の同窓会をいつ頃開こうかという話になり、とりあえず来年の5月頃に対馬市で、一昨年に亡くなった同窓生S君の墓参りを兼ねて、60歳の還暦の時の同窓会をどのように実施するかの打合せの会を開こういうことになった。

旧日本道路公団から、最近関連会社に勤務が変わったという同窓生に、「天下り先があるけんよかたい」という同窓生がいた。

言われた本人は、「天下りではなく雨宿りと言ってくれ」と返した。

なるほど、柔らかい言い回しで適確な表現だなと同調した。

公的年金を受給できるまで、一時的に軒先を貸してもらう「雨宿り」という言葉は、なかなか的を射ている言葉であると思う。

これから先は、「天下り」という代わりに「雨宿り」という言葉を使うようにしよう。

対馬市から来てくれていたS君が、5時40分頃の飛行機で対馬市に帰らなければならないという事で、4時ごろに帰って行った。

残った13名は、午後5時ごろまで、目いっぱい同窓会を楽しんだ。

会場の店に支払った金額は、午後2時以降の追加飲物の分も合わせて合計で65,500円だった。

飲み放題の時間帯の料理と飲物で、一人当たり4,000円でお願いしていたので、午後5時までの追加の分の飲物代は5,500円ですんでいる。

5,000円会費だったので、9,500円が残っているから、文書発送の際の切手代や記念撮影した写真の送料なども捻出できる。

徴収した会費の範囲内で、二次会の費用までまかなう事が出来た。

店の名前は、諫早市の本名川の右岸にある5階建てのビルの、「割烹 利休」という。

帰りはJR諫早駅まで、愛野町出身のT君の奥様が迎えに来てくれたので、森山町に住んでいるH君と共にその車で自宅まで送ってもらった。

思い出の引き伸ばし写真や、それを貼り付けるための木の桟などの荷物があったので、非常に助かった。

楽しい楽しい有意義な同窓会で、お盆の一日は過ぎて行った。



豊田一喜













初盆のお参り

2012年08月13日 | インポート
98歳で昨年の10月に御浄土に旅立った、諫早市森山町の伯父の初盆の法要に招かれていた。

午後2時半頃に、お坊さんがお経をあげに来るという事だったので、午前中はゆっくり出来ると思っていた。

10時過ぎに来客があった。

大分県から、98歳で亡くなった伯父の弟であり、私の母の兄である伯父とその息子であるいとこが尋ねてきてくれた。

伯父の初盆のお参りに来たのだという。

朝の6時半頃に大分の家を出発したのだそうだ。

90歳になる伯父は、腰がだいぶ曲がってはいたが元気だった。

佐世保市の方で警察官をしていたが、縁あって大分県の日出町に養子に入る形で結婚し、農家だったその奥さんの両親に仕えてその両親を看取り、やっと落ち着く事が出来るようになったと、以前に会った時に話していた。

つい最近、自動車の運転免許証の更新をしたのだという。

近くの畑に行く時、散髪に行く時、年金を受け取りに行く時にしか自動車の運転はしないが、免許証が無いと不便なので更新をしたのだそうだ。

自分たちにも近い将来、そのように考える時期が訪れるのだろうかとも思ったが、果たしてそのように思うようになるまで健康体でいられるかが心配になる。

昼食をうちでとってもらい、しばらくしてから、初盆に招待されている森山町のいとこの家まで行った。

2時半より少し早目にお坊さんがみえて、読経が始まった。

15分ぐらいでその読経は終わり、お坊さんは帰られた。

その後に車で2分ぐらいの所にある、地域の公民館の駐車場のすぐ近くにあるお墓にお参りした。

大分から来ていた伯父といとこは、その足で大分に戻った。

いとこの家に戻ってから、亡くなった伯父が映っているDVDを観賞させてもらいながら食事をさせてもらった。

亡くなった伯父は、宝の海諫早湾に関するテレビ取材などを何回も受けた事があり、その声と映像がたくさん残っている。

在りし日のおじさんの声と姿を確認できた、おじさんの初盆だった。



豊田一喜














墓掃除と庭木の剪定

2012年08月12日 | インポート
墓掃除と庭木の剪定で1日が過ぎた。

2週間ほど前に、刈払い機で膝丈ほどに伸びていた墓の周りの草を刈り倒して片付けていたが、また10cmぐらいに伸びていた。

墓に行く前に竹山に寄って竹を切り出し、線香立てを6本、花立てを2本作ってから墓掃除に行った。

妻と2人で2時間ほどかけて盆前の墓掃除を済ませた。

家に帰ってから遅めの昼食をとり、しばらく休憩してから、おえかぶっている庭木の剪定を始める。

剪定といっても、実質的には伐採に近く、私が庭木の剪定をした後は、ほとんどの庭木が丸坊主のようになってしまう。

切り出すと、ついでだからもう少し切ってスッキリした方が良いのではと思ってしまう。

結局、薄暗くなるような時刻まで庭木の剪定(伐採)は続いた。

お日様の下での作業だったので、竹松遺跡発掘アルバイト作業員としての体調の維持には有益だったかもしれない。

本日の夜に、娘も福岡から帰ってきた。

心置きなくお盆を迎える事が出来る。



豊田一喜


過去との再会

2012年08月11日 | インポート
数日前に、長崎市内で測量業を営んでいる尊敬できる知人から電話があった。

事務所を整理するので、一部の機材や測量成果の控えや資料を、私のところに置かせてもらいたいのだがという話だった。

小屋の中や事務所には充分なスペースがあるし、以前には仕事上の関わりで楽しい思いをさせていただいた恩義のある人なので、もちろん快諾した。

荷物の仕分けや梱包が済んだら、また電話を入れるという事だった。

気付かずにいたが、携帯電話の昨日の通話履歴の中に彼からの電話の履歴があった。

今朝、電話してみたら、荷物の整理が出来たから本日の午後に伺いたいという事だった。

久し振りに見る彼は、だいぶ痩せていた。

病気をして100日間ぐらい入院していたとのこと。

車に積み込まれていた荷物を、小屋に運び入れる分と事務所に運び入れる分とに分けて2人で運び込む。

それから事務所にはいって楽しい話をした。

20年以上ぐらい前に、知人を通して知り合い、それから2人で知恵を出し合いながら、新しい方式の測量形式を作り上げて、測量成果品を残してきた。

最初の出会いは、長崎市内の興善町の一角の遺跡発掘調査を、私の持っている航空写真測量技術を使って実施できないだろうかという相談からだった。

生命保険会社のビルを建てる予定になっている興善町のその敷地の底には、八尾宅跡という近代の遺跡が眠っているので、その遺跡の調査を済ませなければ、ビルの建設が進められないのだという。

必然的に何らかの方法にて測量調査をして、遺跡の調査記録を残さなければならない。

主に石組などで構成される遺跡なので、実測で全ての記録を残すには膨大な時間を要する。

そこで、写真測量技術を使って、なんとか調査図面を作成する事はできないものだろうかという相談だった。

20年前といえば、航空写真測量も、アナログ式の精密立体図化機による細部図化方式が全盛の頃であった。

そのビル建設予定地は、3方向に建物が建っており、1方向が道路に面している現況だった。

当時は、低空における測量用空中写真の撮影用プラットホームとしては、飛行船のような形態をした、フォトバルーンという商品名の装置がはやっていた。

フォトバルーンは、ヘリュウムガスを充填して空中に浮揚させた気球に、地上からの制御が可能なカメラを装着して、ロープの操作によって撮影予定地点の鉛直上空の撮影予定高度まで移動させてから、カメラのシャッターを切るという方法を用いる空中写真撮影用の装置だ。

彼はその装置を購入していたが、長崎市興善町の八尾宅跡の遺跡の撮影に使う事は不可能だという事を、実験して分かっていた。

その現場では、建物が密集していること、電線が通っていること、風の影響でフォトバルーンの地上からの適切な制御が困難であるという事などから、使う事は不可能であるという事を分かっていた。

そこで私に相談に来た。

空中写真測量によって、その遺跡の各層ごとの平面図を作成したいのだが、方法は無いものだろうかと。

現場の状況を説明してもらって考えてみた。

隣接しているビルの屋上から、特殊な撮影装置に撮影用のカメラを取り付けて、その屋上から突き出すようyな状態で60パーセントの重複度を持ち、水平に対する傾きが5度以内の空中写真が撮影できれば、不完全モデルにはなるが、私のところにあるアナログ式精密立体図化機「ステレオメトログラフG型」にて理論上は標定が可能であり、細部図化が可能になると彼に伝えた。

すると彼は、そのような撮影装置を自分で製作して、そのような撮影をすると言った。

彼はホームセンターからアルミニュームの必要部材を購入して、ボール盤などを使い、私が計算して提示した撮影装置の寸法のものを製作した。

そしてその撮影装置にハッセルブラッドSWC-40という高性能カメラを装着し、目的どおりの測量用空中写真の撮影を実施して、その精密拡大したポジフィルムを私のところに持って来た。

そのポジフィルムを、精密立体図化機「ステレオメトログラフG型」にセットして、内部定位、相互標定、対地標定の手順で撮影時の立体模像を復元した。

射影幾何学上では、2枚の重複撮影した写真の重複範囲において、対応する光線群の中の5組の対応光線が交われば、他の全ての光線も交わっているという原理がある。

内部定位とは、撮影写真ポジフィルムの指標と、精密立体図化機の投影カメラ架台の指標を合致させて圧締する操作のこと。

相互標定とは、射影幾何学の原理に従って、立体模像としての精密立体図化機の中の投影像の中で、適度に分布した5つの点での縦視差を消去して、ステレオモデルの中の全ての点で縦視差が無い状態にしていく操作のこと。

1923年に、ドイツ人のグルーバーという先人が案出したグルーバー法という、計算によらない写真の標定法の手順に従って各点での縦視差を消去していけば相互標定は完了して、ステレオモデル上のどの地点においても縦視差が無い状態が復元できる。

対地標定とは、相互標定によって復元されているステレオモデルを、地上基準点に正確に関係付けるために、縮尺、方位、水準面の調整を図るための操作のこと。

以上のような手順にて、撮影写真カメラ相互の相対的な位置と姿勢ならびに対地に関する絶対的な位置と姿勢を復元して、縮尺化されたステレオモデルを生成する。

要するに、精密に縮尺化された三次元的な現場を、精密立体図化機の中で復元し、その中で精密な測量をして地形図などを作製する技術が写真測量である。

別の表現をすれば、三次元の空間後方交会法的手法にて撮影カメラの位置、姿勢関係を決定して正確な三次元的な立体模像を復元し、その後はそれらの決定された2つの投影中心からの三次元空間的前方交会法にて未知点の三次元座標を求める技術が写真測量であるとも言える。

長崎市興善町の八尾宅跡の空中写真測量においては、その撮影写真の制約により、不完全モデルとなり、相互標定や対地標定が難しい状態ではあったが、理論的には地上基準点の適切な配置により可能だったので、その理論を実証するような手順にてステレオモデルを復元する事が出来た。

地上に設けた検証点の座標値を、対地標定が完了したステレオモデルの中で計測してみたら、1cm以内におさまっていた。

発掘時の撮影時の瞬間を写真画像の中に記録する事が出来るので、時系列的な記録性という観点からも写真測量は有益である。

長崎市興善町の八尾宅跡の遺跡は、建物の基礎石などの石積の遺構が主で、細部図化に際しては、その正射影の形状を分かりやすく表現するために、それぞれの石の稜線や谷線などを適切に把握しながら図化するように心がけた。

そのようにして描画した測量の原図である図化素図や、それを編集した物を製図した清絵原図やそれをポリエステル製の用紙に密着焼付けした第二原図などの測量成果品が今、自分の手元に戻ってきた。

平成2年から平成3年にかけて撮影して測量したという日付と、長崎市教育委員会という文字と、使用図化機がステレオメトログラフGという文字と、撮影に使用したカメラがハッセルブラッドSWC-40であるという文字がそれらの測量成果品に記されている。

第一層から第三層までの、各層の発掘時点における平面図の成果がある。

数え切れないほどの石を図面化した成果品もある。

30台後半の自分が考えて、彼がそのような装置を具体化して製作した装置にて写真撮影をし、その撮影写真を試行錯誤しながら標定してステレオモデルを復元し、徹夜しながら図化処理した仕事の歴史が、それらの成果品に刻み込まれている。

自分と彼との過去との再会ができた、涙が滲むような出来事だった。



豊田一喜


















肌があらわに

2012年08月09日 | インポート
休憩時間にトイレに行って、終わってから用水路の流水で手を洗おうとして足を踏ん張って体をかがめた時に、バリッと音がした。

ズボンの右足の太ももの内側が20cmほどほころびて、日焼けしていない太ももの内側の肌があらわになった。

自分としては、そのままの状態で作業を続けても別に何ともないのだが、見たくないものを見せられる周りの人にとっては迷惑なことであろうと思い、急遽応急的に繕う事にした。

テントの下で休憩中の2班のSさんが、安全ピンを何本か使って作業の服装を整えておられる事を知っていたので、そのうちの2本を貸してもらって、とりあえずほころびたズボンを繕った。

Sさんの作業時の、アルカイダの兵士を連想させるような、目元だけを露出させた完全防備の服装の訳を、6月の最初頃の発掘作業が始まった頃に尋ねた事があった。

長年の農業の作業における蓄積された経験から、なるべく肌が直射日光に当たらないようにする方が、熱さに対する適切な対処法であり、体の疲労を和らげるのだという事だった。

昼休みの終わりごろの休憩棟で、そのような完全防備の服装の準備をされるSさんが、何本かの安全ピンを使っておられる事を見ていたので、ズボンがほころびた時にすぐにSさんの安全ピンを貸してもらおうと思いついた。

Sさんの安全ピンのおかげで、その後の作業もつつがなく続ける事が出来た。

つつがなくという言葉は、ツツガムシにかまれてツツガムシ病にかかることも無く平穏な様子というところから、何事も無くという意味で使われるようになった言葉だというように思っていた。

しかし、これは間違っていたようだ。

以下は、ウィキぺディアによる「ツツガムシ」の説明文。

手紙などで、相手の安否などを確認する為の常套句として使われる『つつがなくお過ごしでしょうか…』の『つつがなく』とは、ツツガムシに刺されずお元気でしょうかという意味から来ているとする説が広く信じられているが、これは誤りである。

もともと「恙」(つつが)は病気や災難という意味であり、そうでない状態として「つつがない」という慣用句ができた。これと別に正体不明の虫さされのあとに発症する原因不明の致死的な病気があり、それは「恙虫」(つつがむし)という妖怪に刺されて発症すると信じられていた。これをツツガムシ病と呼んだ訳だが、後に微細なダニの一種に媒介される感染症であることが判明し、そこからこのダニをツツガムシと命名したものである。

以上は「ツツガムシ」に関するウィキぺディアの説明文の一部。

長崎に原爆が投下された11時2分にサイレンが鳴り、黙祷を捧げた。

その後に、大村市竹松遺跡の、ラジコンヘリコプターによる空中写真撮影が実施された。

撮影状況を見ていたら、計測に使うための撮影では無いように見受けられた。

2班のKさんは、親戚にご不幸があったという事で午前中で早退された。

一時的に雨も降ったが、終業時刻まで勤務できた一日だった。

洗濯した作業ズボンが乾いたら、明日の晩には、ほころびたズボンを繕うために、久し振りに裁縫をしなければと思っている。

本返し縫いにしようか、半返し縫いにしようかと迷っている。


豊田一喜