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三国志 曹操 魏はなぜ滅びたのか?

2014年09月08日 09時49分26秒 | アート・文化
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今回は三国志の魏について、その滅亡原因を考えて行きます。
※ちなみに私は歴史学者では無いので、間違った視点が多々あることをご容赦ください。

早速、魏が滅びた理由をまとめます。

【独裁政治 君主(皇帝)に権力集中させすぎた】
君主に絶大な影響力があり続ければ、これでも良かったのでしょうが、
影響力の薄い者が君主になれば、簡単に権力が奪われやすかったとも言えます。
そして影響力が薄い幼帝(曹芳)が即位した頃から綻びが見え始めます。

【二代目曹丕、三代目曹叡の早過ぎる死】
三代目の曹叡は後継者を遺せず、一族の曹芳(当時8才)を養子にして皇帝を継がせます。
もう権力を奪って下さいと言ってる感じですね。
逆にこの二人の内のどちらかが長生きし、後継者を遺せていれば司馬懿の簒奪は無かったかも?

【皇族を冷遇した】
魏は血筋よりも実力を重視したので、使えない皇族は冷遇しました。
有能であっても、曹植のように跡目争いをしたものも冷遇されてます。
上記の独裁と併せて、曹一族の権力基盤は非常に脆かったのです。
※逆に司馬懿の孫司馬炎が建てた晋王朝は、魏を反面教師に皇族を優遇し各地の王にしましたが、
権力を持ちすぎた皇族が反乱を起こし(八王の乱)、その後滅亡します。

【名門貴族、清流派の儒者との対立】
魏は外に蜀、呉、異民族、内に貴族や儒者とも戦ってました。
曹操は宦官と呼ばれる下賎な人の孫であったので、
とりわけ、名門貴族、儒者から嫌われてました。
また血筋よりも実力重視だったので、後漢王朝時に権力を持っていた(無能な)貴族、儒者から反感を買いました。
儒者達の反曹操の気は英雄【劉備玄徳】の虚像を作ったとも。
曹操は始皇帝のように儒教は弾圧してませんが、
孔子の子孫の孔 融をはじめ、多くの儒者を処刑してます。
魏から権力を簒奪した司馬懿は、名門貴族や儒者を取り込み徐々に力を蓄えていきました。
そして幼帝が即位し、曹一族の権力基盤が弱まると、かれらは一気に牙を剥きました。
司馬一族は魏の時代に冷遇された人々の期待を受けて権力を簒奪します。
各地で反乱は起き、魏皇帝を追放殺害しますが、割とすんなり権力移譲がなされました。

歴史にifは禁句ですが、どうすれば魏は天下を取れてたか?

【軍師 郭嘉が長生きしていればどうか?】
早過ぎる郭嘉の死に際し曹操は
哀哉奉孝、痛哉奉孝、惜哉奉孝(哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝)
と歌うくらい大変悲しんだそうです。
郭嘉は先々を読む先見の明があり、主君の曹操に対して臆すること無く苦言を言うことができたそうな。
人一人の力で戦がどこまで変わるか分かりませんが、
彼が生きていれば赤壁の敗戦は無かったかも?

【二代目曹丕、三代目曹叡どちらかが長生きしてればどうか?】
曹一族の権力が安定化し、司馬懿の簒奪は防げたはず。
天下統一できても、虐げられた名士や儒者の爆発はいずれ起こる?
異民族対策を誤れば、永嘉の乱で晋と同じように異民族に滅ぼされるか。

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