神奈川台場跡。1859年(安政6年)5月、幕府が伊予松山藩に命じ、勝海舟の設計で構築した海防砲台。海に突き出た扇形。1860年(萬栄元年)6月に竣工。一度も実戦で使われることなく、明治以降は諸外国の外交団や貴賓が港に到着した時の祝砲を放つ砲台として活躍。
一度も実戦で使われることなく、明治以降は諸外国の外交団や貴賓が港に到着した時の祝砲を放つ砲台として活躍。1899年(明治32年)に廃止、1921年(大正10年)ごろから埋め立てられました。
現在では一部の石垣を残すのみとなっています。Y150を契機に発掘調査が行われ、記念碑等ができています。
最寄り駅はJR・東神奈川駅、京急・仲木戸駅から徒歩15分
神奈川区神奈川1丁目にある台場公園。公園入口は、昔の水路になって、奥の公園部分は船溜まり、木がある盛土部分は「西取渡り道」で台場に渡る西側の道だったそうです。
台場公園の説明パネル。「神奈川台場図」
「改正 銅版横浜地図」
象の鼻も描かれています。台場は当時礼砲を放っていましたが、明治天皇が「明治丸」で安着された時も放たれたのか?
「明治30年代の神奈川台場」(いずれも横浜開港資料館蔵)。
「史跡 神奈川台場跡」の石碑。案内板がないとそれと分からないくらいにひっそりと在ります。奥は当時はまだ海だった所にあるコットンハーバーの高層マンション。
コットンハーバー手前のヒストリアレジデンス勝舟1階にある神奈川台場石垣遺構の資料館。土曜に行ったときは閉まっていました。隣にある神奈川台場の現存する石垣は建物の中からも見ることができるそうです。
神奈川区星野町にある星野町公園の神奈川台場遺構の記念碑と説明パネル、現存する石垣。3枚目の石は加工跡がありますが特に説明はなし。この奥にも現存する石垣があるそうですが、普段は立ち入り禁止。
1882年(明治15年)に旧陸軍の陸地測量部の測量。国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスより。
一度も実戦で使われることなく、明治以降は諸外国の外交団や貴賓が港に到着した時の祝砲を放つ砲台として活躍。1899年(明治32年)に廃止、1921年(大正10年)ごろから埋め立てられました。
現在では一部の石垣を残すのみとなっています。Y150を契機に発掘調査が行われ、記念碑等ができています。
最寄り駅はJR・東神奈川駅、京急・仲木戸駅から徒歩15分
神奈川区神奈川1丁目にある台場公園。公園入口は、昔の水路になって、奥の公園部分は船溜まり、木がある盛土部分は「西取渡り道」で台場に渡る西側の道だったそうです。
台場公園の説明パネル。「神奈川台場図」
「改正 銅版横浜地図」
象の鼻も描かれています。台場は当時礼砲を放っていましたが、明治天皇が「明治丸」で安着された時も放たれたのか?
「明治30年代の神奈川台場」(いずれも横浜開港資料館蔵)。
「史跡 神奈川台場跡」の石碑。案内板がないとそれと分からないくらいにひっそりと在ります。奥は当時はまだ海だった所にあるコットンハーバーの高層マンション。
コットンハーバー手前のヒストリアレジデンス勝舟1階にある神奈川台場石垣遺構の資料館。土曜に行ったときは閉まっていました。隣にある神奈川台場の現存する石垣は建物の中からも見ることができるそうです。
神奈川区星野町にある星野町公園の神奈川台場遺構の記念碑と説明パネル、現存する石垣。3枚目の石は加工跡がありますが特に説明はなし。この奥にも現存する石垣があるそうですが、普段は立ち入り禁止。
1882年(明治15年)に旧陸軍の陸地測量部の測量。国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスより。
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