錦鯉とカメラ

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今日のカメラは AIRESFLEX YⅢです

2018-02-17 20:04:39 | 趣味

2018年2月17日


 

AIRESFLEX YⅢカメラヤフオク!
アイレス写真機の前身は1949年に設立され東京都港区芝新桜田町(現西新橋)6番地にあったヤルー光学です。
三橋剛社長は機構がシンプルで製作が容易な6×6cm判二眼レフカメラこそが進むべき道だと考え社員の小寺桂次氏を起用し田村町の事務所でローライコードの部品を図面に写し何度かの試作を経てアイレス写真機製作所を1950年8月に創立、1950年9月に最初のカメラとして6×6cm判二眼レフカメラのアイレスフレックスYIを発売しました。
折から日本では二眼レフカメラのブームが始まりこの波に乗ってアイレスフレックスシリーズの販売は好調なすべり出しをみせた。
二眼レフカメラの売れ行きは好調だったが三橋剛社長以下カメラ開発スタッフの決断で1954年6月にアイレス35を発売した。
その切っ掛けは1954年4月のライカM3発表にあたり昔造兵廠で「11S」と呼ばれていた戦闘機機関砲用照準具と同じ機構であることに着目しその光学系を利用したブライトフレームを持つ二重像合致式距離計ファインダーを設計してアイレス35IIとして発売しこのファインダーは「トリミングファインダー」と呼ばれて好評を博し35mmカメラの分野でもアイレスの地位が確立していった。
不運にも1956年2月カメラ組立部門であった第一工場で若い工員が溶剤を持ったままダルマストーブのそばで転倒し火災となって第一工場は全焼した。
すぐに代替地を検討し新宿区西大久保1丁目にあった4階建ての元倉庫兼工場に1956年7月に移転し生産ラインはベルトコンベアを導入して生産能力も完全に復活して幸いアイレス35シリーズの販売は好調であった。
1957年2月に三橋剛社長と小寺桂次氏は次のステップとしてレンズ交換式カメラを考えアイレス35Vの設計を始めた。
その後レチナが念頭にあったのではないかと推測されるが当時のユーザーの要求をすべて具現化したが売れ行きは良くなくその後次々新製品を出すが事業継続不能に陥り1960年7月に倒産し会社更生法の適用を受けた。
『AIRESFLEX YⅢ (画像)』



 


錦鯉(youtube)
5t池に83㎝を頭に15匹泳いでます。



 

STEKYカメラ(youtube)
1947年理研光学(現リコー) 坂田秀雄さんの設計により製作された16ミリフィルムを使用するカメラです。
敗戦後突如日本に現れて進駐軍兵士の人気をさらっていたのが「豆カメラ」という画面サイズ14×14ミリのカメラでしたがこれらのカメラは大半が玩具的な域を脱しておらず作りも粗悪なものが少なくなかったようです。
そんな時本格的な写真がとれるカメラを目指して作られたのが「ステキー」だったのです。他の豆カメラが幅17.5ミリで裏紙付きのフィルムを使用していたのに対しステキーは16ミリ幅のフィルムを裸で巻いたものをカセットに入れて使う方法を採用しています。 また画面寸法は、16ミリ映画フィルムのパーフォレーションを考慮してか10×14ミリとなっています。
ボディ横のフィルムカウンターには24まで目盛りが刻まれていますが、実際は45センチ程の長さのフィルムを使用して20枚撮りとしていたようです。


 

小千谷市錦鯉の里オーナー鯉