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妄想寝台特急

夢と現の境界は意外にあいまい。深い森へのいざない。

装う

2010年01月22日 | Weblog
女装をしている人を見かけた。


ちょうど電車の座席の対面に
「彼女」は座っていて、自分の最寄りの
手前の駅まで乗っていた。


白っぽいブラウスにショールのようなものを羽織り、
フリルがついた黒いスカートにタイツを履いて
ロングブーツにピンクのバッグ。
肩までおろした髪に
手にはマニキュアが施されていた。


思えばこういう装いが許容されるのも、
人口が多く匿名性が高い
都市部特有の現象なのかもしれない。


山の中で女装をしている人を
見かけたことは無いし、
田舎だと人の絶対数が限られてしまい
人物が特定できてしまうリスクが高いだろう。


自分の周囲に話を聞いてみると
皆、意外によくそういう光景に
出くわしているようだ。


実はもっと多くの人と日常すれ違っていて
単に自分が気づいていなかったのかもしれない。
そう思うと女装人口というのは
いったいどれくらいのものなのか。


女装をする人は
趣として女性の装いをすることを専らとして
基本は男性がベースにある。
この点においていわゆる「女性を志す人」とは
一線を画しているようだ。


しかし、今回なぜ女装であることに
気がついたかというと、
その顔である。


着けまつげをして
ファンデーションでひげを上手に隠し
きれいに口紅を引いているのに
なぜか出来上がっているのは
微妙におじさんの顔なのだ。


女装も世間に認知されてきているようだし、
今ではネットを通じて愛好の士が
情報交換をしているだろうから
もう少し化粧の技術向上がなされていても
おかしくない。


化粧が下手だった、と
思えば済む話かもしれないが、
ふと、待てよ。


むしろ、それは
わざとなのかもしれない。


あまりに完璧に女装が施されてしまうと
却って気づく人は少なくなる。
街のありふれた風景の一部に同化してしまう。


一方で本来の素性は知られたくない。


自己の存在は気づいてもらいたい。
だけど、個としての自分は知られて欲しくない。


何か裏腹なものを抱えた、
微妙なバランスの上に
成り立っているものがあると思うと、
なかなか隅に置けない心理のような気がする。



抗う

2010年01月13日 | Weblog
最近ニガテなもの、抗菌。


それは電車の駅構内にあった。


エスカレーターの手すりのベルトに
「手すりにおつかまりください」と白文字で書かれ
一緒に黄色い円で小さく「抗菌」と。


まぁ意図としてはわかる。


エスカレーターで
滑ったり転んだりする事故が多いので、
ベルトに掴まらせるための一計を案じたのが
その表示。


言わんとするところは
恐らく「汚くないです。だから掴んでください」
みたいなものだろう。


しかし、どうかね。


その言葉が示すところの「抗菌」は
あくまでも「菌」に「抗う」だけ。
「殺菌」でも「滅菌」でもなんでもない。


鉄がさびにくい、だからステンレスです、
と言っているようなもので
その本質である素材は変わりが無い。
何かをごまかしているように思えるのは
考えすぎだろうか。


そういえばしばらく前だが
『サルでもできる弁護士業』という本が出ていたのを
思い出した。


内容は読んでいないのでよくわからないが、
そのタイトルを見て、へぇ、と感心した。


サルに何かさせるのはかなり難しい所業だ。
例えば猿まわし。


そもそも芸事をすることとは無縁の、
本能で生きているサルを
人間の鑑賞に堪えうるものにするのだから
猿まわし師がかける努力は並大抵のものではないだろう。


複雑で深い知識と判断を要する
法曹の世界おいても、
サルに弁護士業をさせるというのは
かなり高度な技術といえよう。


弁護士となるために
どれほど多くの人がそれを難関として
挑んでいることか。
それをサルにさせようというのであるから
よっぽどの秘術が書かれているに違いない。


しかし、ふと考えてみると
それは本当だろうか。
必ずしも「サルでも取れる弁護士資格」とまでは
書いていない。
あくまでも「弁護士業」としかない。


総体的に組織として「業」が成り立てばよいので
サルは「弁護士のアシスタント」であってもいい。
そうすればかなり難易度は下がるのではないか。
例えば手紙の開封とか。


しかし、であれば何故ゆえにそこまでして
サルに弁護士業に参加させるのだろうか。


人間ではなくサルである特別な理由。


やはりよっぽどの秘術が書かれていると思うのは
考えすぎだろうか。



カラート・アル・ホスン

2009年12月29日 | Weblog
ホムスの街のバスターミナルは
雑然としていた。


今日の目的地、
「クラック・デ・シュヴァリエ」と
フランス語っぽいその読みを
伝えてもどうやら通じない。


四苦八苦していると
男の子が「ホスン・キャッスル!」と言いながら
こっちだと手を引っ張った。


ミニバスに押し込まれ、
手柄に何か物売りをするのかと思ったら
握手をしてそのままさっさと立ち去った。
疑った自分が少し恥ずかしかった。


満員になると間もなく出発し、
街はずれからスピードを上げた。
その時初めてバスの中に
一種の緊張感があるのに気がついた。


それをもたらす主は自分だった。
皆、直視はしないが
意識が向いているのがわかる。


東のほうの国から来たらしい、
明らかに違う顔立ちをした者に
興味津津なのだ。


緊張を破ったのは
となりに座った男性からだった。


中国人?


いえ…日本人です。


どこに住んでいる?


東京です。


どこに行こうとしている?


ホスンの城です。


一人か?家族は?兄弟は?
なぜシリアに来たのか?
いつまでいるのか?


一通りの「尋問」が
都度アラビア語で周りに訳され、
バスに乗る全員に自分の素性が知れ渡る。
その度ごとに緊張が少しずつ解けていく。


ホスンの城は自分の家の近くだから
案内してあげるよ。


男性の名前はアルさんといった。


ホスン城はその昔、
十字軍がエルサレム攻略のために
構築した要塞だ。その後、イスラムに征服され
そして遺跡となった、立派な砦である。


城の屋上からは
荒涼とした濃いベージュ色の丘が広がり
遠く地中海まで見渡せそうなくらいだった。


反対側に回ると
すぐ下に小さな集落が見下ろせた。


ほら、あれはキリスト教の教会、あっちはモスク。
アルさんが指さす。
十字の尖塔が集落に2つ3つ見えたのと同時に
モスクのドームようなものも垣間みれた。


その光景に強い衝撃を受けた。


小さく身を寄せ合っているような建物の間に
キリスト教の教会とモスクが混在し、
まるでモザイクのようになっている。


イスラムとキリスト教、その争いの歴史は
教科書にもしっかり書かれている。
この遺跡自体も十字軍といういわば宗教戦争の産物。


自分の知っていたことはほんの一つの断片。
何か勝手な思い違いをしていたような気がした。


アルさんはさも当然のように自分の家へ招き、
さも当たり前のように泊まっていけという。
食事の時間になると、
彼の両親や姉、妹を紹介され、
その後は親戚やら、かわるがわる来訪者があり、
最後は歌と踊りでもてなしてくださった。


アルさんは三男で、上の兄たちは
どこかのアラブの国に
出稼ぎに行っているらしい。
彼だけ髪が金色に近く、
眼は少し青みがかっていた。


地図を広げながら
シリアの各地のことを説明してくれた。
そしてエルサレムの場所に指をあて
「君はこの土地のことをどう思う」と尋ねてきた。


ええと…。


言葉に詰まった。
自分はそのことを意見する立場には全くなかった。


翌朝、仕事があるからと、
アルさんは余計な感傷もなく
さっと出かけて行った。


妹さんやご両親にあいさつをして
ホムス行のミニバスを待つ。


それにしても明るく乾いたいい天気だ。
なだらかに波打った大きな丘をゆっくりと越え、
バスは東へ東へと進んでいった。



何がジェーンに起こったか

2009年12月19日 | Weblog
怖い映画を観た。


『何がジェーンに起こったか』という
もう40年以上前に作られた
サスペンス映画で、しかもモノクロ。


怖かった。本当に怖かった。


何がって?


主演のジェーン役だった
べディ・デイヴィスという女優が。


主な登場人物は
ジェーンと姉のブランチのほぼ二人だけ。
ほとんど彼女らの家の中で
話が進む。


筋書きはさておき、
ベティの演じるジェーンは
まぁそれはもう狂う、狂う。
常軌を逸した狂いっぷり。


あのジェーンの大きなギョロっとした目と、
モノクロでさえもよくわかる肌の白さが
とんでもない対比になって
要所要所のシーンで見せる彼女の形相が
しっかりと焼きついて離れない。


あれが夢に出てきたら悪夢だ。
いや、絶対に出てきて欲しくない。


あの演技は本当に「演技」なのだろうか。


姉役のブランチを演じた
ジョーン・クロフォードという女優とともに、
当時既に50を過ぎ、
二人は女優として再起をかけた
作品であったらしい。


しかしそんな事情を入れなくても
何か真実に鬼気迫るものがあった。


実は本当に彼女は実生活でも
そんな感じなのではないか。
そう言われてもまったく納得がいく。


その昔、死んだ祖母が
テレビを見ながら
いつも嫌味な役を演じる杉村春子に向かって
「この人、キライよ」とつぶやいていたのを
思い出した。


あぁ、それと一緒なんだな。
妙に合点がいった。


俳優のスキャンダルやゴシップが
いつも世間を賑わすのは
「テレビや映画の枠の外ではきっと違う人格だ」という
暗黙の前提があるからだろう。


言い方を変えれば
「演じる姿はかりそめであり、本当の姿は別にある」という
人々の勝手な思い込み。
その姿を知りたい、もしくは
知ったときの意外性が人の興味を引く。


一方で、観る人に
そういう疑いの余地を与えてしまっているのは
その役者のせいでもあるともいえる。


きっと祖母は杉村春子が悪女であると
信じたまま世を去ったのだろう。


観る人にそう思い込ませるくらい
その役柄を演じ切れたのであれば
女優としての冥利に尽きる。


ベティ・デイヴィスも
そういう女優だったのかもしれない。


しかし、それにしても
怖い映画だった。


しばらくしたら、きっとまた観ると思う。
間違いない。



孤独を知る

2009年09月17日 | Weblog
朝の通勤電車で泣いている男の人を見た。


普通にサラリーマン風の
30代くらいの人で
ドアにもたれて
嗚咽もせず、静かに涙を流していた。


ほとんどの人が気づかないくらいだっただろう。


車内に涙を誘う光景は
特に見当たらない。


通勤途上というなかで、
なおかつ男の人が朝っぱらから涙を流しているのは
明らかに違和感があった。


きっとこの方は「何か」を
思い出していたに違いない。


ところで思い出すといえば、
学生のころ、友人に
何気なく問いかけてみたことがあった。


大人になるってどういうことなんだろうね。


孤独を知る、ってことじゃない?


いともあっさりと、
思いもかけない答えだったので
そのときは「へぇ、上手いことを言うね」
と、わかったようなふりをしていた。


しかし、大人になって孤独を知るということ自体が
本当にどのようなことを意味しているのか。
うまく自分の中で消化しないまま
なんとなくやり過ごして来てしまった。


思えば人は子供から大人になるにつれ
いろんな「顔」を持つようになる。


周囲の誰もが知る子供としての顔から始まり、
小学校に入れば、生徒としての顔、
習い事、部活、大学、サークル、
そして社会に出れば
同僚・上司・部下、恋人、夫・妻、親・・。


さまざまな場面に接するごとに
その関わりがある人たちに
見合った「顔」をつくっていく。


まるで岩が削れて
ごつごつした多面体になるように。


人はそうやっていわば
環境や組織に適合していく
社会性というようなものを
獲得していくのだろう。


ただ、もしかしたら
そうしていくうちに、
誰も知らない、誰にも見せていない
その人自身だけが知りえる顔も
できてくるのかもしれない。


だとしたら、
あの車中で泣いていたあの彼は
その「誰にも見せていない顔」を
見せていたのだろうか。


大人になるってどういうことなんだろう。


「誰も知らない自分の顔」があることを
自分自身が知ってしまったこと。
それが何か物哀しい孤独のように
思えてならなかった。



キャバクラ考

2009年08月23日 | Weblog
駅前の南口の商店街は
夜のとばりが降りると
急にいかがわしくなる。


キャバクラの呼び込み、
いわゆるキャッチが通りに
はびこって行きかう人に声をかける。


自分はなぜだか声を掛けられる。
駅前通りを抜けるまでの2~300mに
少なくとも3、4人には。


「キャバクラァ~♪」と軽々しく声を掛けられ、
「オレはそんな名前じゃない」など心で叫んでも
彼らには通じない。


もの欲しそうな顔をしているのか。
自分の意図とは反する結果に
悩みは深い。


しかし、思うに彼らの呼び込みは
本当に効率がいい営業手法なのかどうか疑わしい。
実際、どの程度あれらのキャッチに
「掛かる」客がいるものか。


新宿クラスの繁華街でもないなか、
数軒がしのぎを削るあの激戦区で
少なくとも1時間やって1組確保できたら
御の字だろう。


であれば、彼らの報酬体型は
どうなっているのか。


おそらく、1件獲得すれば
それなりのインセンティブがついて
店がそれを払うはずだ。


しかし当然店もキャバ嬢の給与や店の光熱費、場所代など
養うべきものは他にもあるはずだろうから
呼び込みにそんなに高い報酬を支払えるとは思えない。


もしキャッチの報酬が「割りがいい」となると、
その転嫁先はどこか。
それは客である消費者だ。


3000円ポッキリとか言っておきながら、
フルーツ盛り合わせなど適当につまみを頼んだら
巨額の支払いになった、
などと容易に想像できる。


一方で、キャッチに声を掛けられて
店に行く客というのも
これまたすごいと思う。


そもそもキャバクラといえば
キャバ嬢との談笑を目的にするのだろうが、
キャッチの時点では
どんな店で、どんな従業員がいるのか
わからない。


要は、キャッチを見て
将来の店を決めるわけである。


それは新築マンションを
図面だけでモデルルームすら見ずに
キャッシュで買ってしまうくらいの
勇気が必要なのではないだろうか。


もちろん、店に入ってから
雰囲気が合わなければやめればいい、ともいえる。


だが、席に座っておしぼりを出された後に
「やっぱりやめる」というのも
これまた勇気と勢いが必要な行為である。
もしそれを狙っているのであれば
断るのがニガテな日本人気質を
よく突いた商法ともいえよう。


彼らはいまだに生息し続けている確固たる事実。
それはその営みが
しっかりと成立している証なのかもしれない。


しかし、それにしても
彼らの声がけは止まない。



物語る

2009年07月14日 | Weblog
『嗚呼 満蒙開拓団』という映画を観た。


日本の国策によって旧満州に開拓移民をした人たちが
なぜ入植し、そしてどのように引き揚げてきたのかを
綴ったドキュメンタリーである。


満州に興味がある。


それは私の祖母がその地で青春を生き、
私の父がその地で生まれ、
そしてすべてを失って引き揚げてきた地だから。


祖母から聞いて覚えている満州の話は
新京という街の官舎に住み、
冬はとても寒かったこと。


そして、引き揚げのとき、
濁った河を渡るくだり。


祖母は幼かった父の手を引いて
河を渡るのだが、水深があまりに深く
父の背丈をはるかに越して
おぼれてしまったのではないかと
はらはらした話。


それから、祖母の娘、
つまり私からすれば叔母となった人を
その途上で失ってしまったこと。
しかし、それはあまり多く話してくれなかった。
仏壇に飾られた小さな位牌が
その理由に思えてならなかった。


そんな断片の話だけでも
その悲惨さを物語るには
十分だった。


物語る。


そういえば、映画でインタビューを受けていた
女性は自らの凄惨な体験を
物語っていた。


もう既に60年も前の話のはずなのに、
その語りはまるでつい最近起こったことのように。
そして聞く人に鮮烈に場面を
想起させるような力があった。


しかし、私の祖母や父が体験したことを
物語れる人は残念ながら
既に居ない。


なぜ、もっと早くにその語りを
たくさん聞かなかったのだろう。
今頃悔いても遅すぎるのだが。


だから何か満州に関わることがあれば
見聞きしておきたいと思ってしまう。
今回の映画を観た動機もそうなのだ。


おそらく自分のしていることは
広大な川原で形のわからないパズルの石を
拾っているようなことなのかもしれない。


しかも集めた石が
たとえどんなに揃っていたとしても
それを語る力、いわば語り部がいなければ
きっと人に何かを伝えきれないだろう。


しかし、結果がどうであろうと
知りたい気持ちは変わらない。


祖母や父が体験した時代が
何であったのか、
ひとつでも多く知れるのであれば、
遠くかなたに行ってしまった彼らに
少しでも近づけるような。


それは
そう衝き動かされずには
いられないくらいの、
物語りなのだ。



ゆかし

2009年06月20日 | Weblog
ゆかし。


枕草子にもあったことば。
見たい、知りたい、なんとなく心ひかれるという意味だが、
どうやらもともとの起こりとしては
「行く」が変化したものらしい。


そちらに行きたくなるくらい
惹かれる何か・・。


惹かれるものは何か、と問われたら
自分は迷わず「山の端」と答えるだろう。
それも街から望む、
山々の稜線である。


とりわけ空と稜線とを区切る、
あのラインが好きだ。
あれを見ると
ついいつまでも眺めていたくなってしまう。
そして、そこに近づきたいという
思いをはせてしまうのだ。


自分でもどうしてそれが好きなのか、
理由ははっきりとは答えられない。


しかし、それにしても
東京は山の端を眺めるには不便だ。


晴れた日には奥多摩や
丹沢の山々が望めるはずなのだが
高い建物がひしめき合っているので
それもままならない。
電車が高架を走るとき、
窓越しにちらりと一瞬見えるくらいだ。


あぁ、東京には空が無い。


それに比べて
盆地の街は自分にとって魅力的だ。


埼玉の秩父や
北海道の旭川、大分の日田・・挙げ始めたら
きりが無いが、
とにかく街から毎日山の端が望めるなんて
自分の身からすれば
うらやましい限りだ。


山々には神が住むといった
言い伝えをよく耳にする。


あの山の端の、遠く広がる
美しく広がる線を見れば
きっとこことは違う「何か」があると
思わせるものがある。
それが「神」だといわれても
けっして不思議ではない。


すぐに行きたくても行けない、
しかしだからといって全く遠い存在ではない。
あのちょうど手が届きそうで届かなさそうな
距離感がいい。


神は近すぎても遠すぎても
いけないような気がする。


であれば
自分たちが暮らす街から
その山の端が見えていることが
きっと大切なのかもしれない。


こちらからも見え、
そして山からも街が見渡せる。


それは日々暮らすなかで
見守られているような、
何か安心に近いようなもの
与えてくれているのではないだろうか。




放浪者

2009年05月31日 | Weblog
金星は惑星である。
そして惑星はその名の通り
「人を惑わす星」だそうだ。


どうして人を惑わすのかというと
すべての星は北極星を中心に、
東から西に移動するのだが、
惑星だけはその動きに同調しない。


つまり、
ときどき西から東に移動したり、
はたまた東から西に動いたりと。
だから「人を惑わす」らしい。


科学的に見てしまうと
太陽系の星の自転と公転によって
見え方の角度が異なることから
生じる現象だったりするのだが。


いにしえの人々は
ちょうど天空を自由に動いてさまよい歩くように、
それらの星を「放浪者」と名づけたそうだ。


あぁ放浪者。


それは一度はそういう境遇に
身を置いてみたいと
思わせる響きがある。


束縛されず、自由で、干渉されない生き方…。


しかし、そうやすやすと
憧れてしまうのは
自分は放浪者が何であるのか、
きっとよく知らないからであろう。


数日の山行の帰り道、
遠く離れた地方のターミナル駅で
ひとり夜行列車を待っていたことを
思い出す。


夜行の発車時刻まで
まだ数時間あるのだが、
特にやることもなく、
待合で座りながら時間をつぶす。


夕方、駅の改札から降りる人たちは
足早にどこかへどんどん去っていく。
そう、みな帰る家があるのだ。


一方で、自分はこの町に
何をするわけでもなく、帰る家もない。


それをそこにいる人たちは誰も知らない。
まるで雑踏の川の流れに
一人ぽつんと残されているような。


自分の存在さえ意識されない、
その寂寞とした感覚は
いったい何なのだろう。
それが放浪というのであれば、
何とも堪えられない孤独だろう。


自分はそれを長く続けることは
きっとできない。


しかし、金星はかれこれ今までもう
何十億年と天空をさまよい続け、
これから先、自分が生きた後も
それを続けるのだろう。


それは逃れることのできない
物悲しいさだめを
背負っているような。


宵と明け方にしばし見せるその輝きは
そう思わせるのに
十分な明るさのように
思えてならないのだ。



やんごとない

2009年05月19日 | Weblog
少し前だったが、
新聞の三面記事を読んだときのこと。


離陸した飛行機が
機長の命令に従わない乗客がいたために
成田空港に引き返したそうだ。


どうやらその乗客は
シートベルトの着用を拒否したためだったらしい。


着用拒否?


ベルトの着用サインが出るのは
離陸して水平飛行に移る間、
だいたい時間にすれば
ものの30分程度ではなかろうか。


もちろんそのときの状況によって
違いはあるだろうが、
いずれは解除のサインが出るはずのもの。


この飛行機が
東京からアメリカに向かう便ということだったので
その時間からすれば
ベルトを着用しなければならない時間は
わずかだといってもいいだろう。


であれば何故。


しかも、その人物が
米国籍の老夫婦だったということのようだ。
それであればさすがに飛行機に乗った経験は
一度くらいはあるだろう。
また、機内で機長の命令に従わなければ
他の乗客にも迷惑が掛かるという常識も
持ち合わせていただろうに。


よほどこの老夫婦にとって
シートベルトの着用を拒絶させる
やんごとない理由があったに
違いない。


ベルトを締めると
身体が苦しくなる。


ベルトを締めると
何か不吉なことが起こる。


ベルトを締めると・・。


理由は想像もつかない。
新聞は一番肝心なことを
語ってくれない。


しかし、一つの出来事を
やんごとないと思うか否か。
それは人によってそれぞれだ。


そういえば、
自分も子供の頃、プラネタリウムを知らず、
親に大泣きをして
入場を拒んだことがあった。


暗闇に連れて行かれる、そして
何か自分にとってよからぬことが起こる、と。
そのときの自分にとって
それが世界における全ての理由だった。


その老夫婦にとって
ベルトが着けられなかったのは
周囲の人間を巻き込み、
そして自分たちの旅行も中断させても
なお余りあることだったのだろうか。


その後、この記事の顛末を知りたいと思い、
ネットでいくつか検索をかけてみた。
しかし、そんなに月日も経過していないはずなのに
これといった記事が一切引っかかってこなかった。


そもそもこの出来事自体が
本当だったのかどうか。


それすらも疑わしくなるほど
彼らのやんごとなさは
自分にとって確かだった。




4月29日

2009年04月29日 | Weblog
今日は雲ひとつなく晴れていた。
5年前の今日と同じように。


この日の早朝、父は息を引き取った。


なきがらを病院から引き取り、
帰宅させて安置した。
午後には葬儀屋さんが
斎場へ運んでくれる段取りになっている。
それまではしばらく時間がある。


息をしていないというだけで、
眠っているようにも見える。
本当に死んでいるのかどうか
不思議な感覚になりさえもする。


沈黙だけがこの場を支配し、
どうしてもいたたまれない。
近くの大きな公園までしばし散歩することにした。


湿度も少なく穏やかな気候。
雲ひとつ無い空から注ぐ陽光で、
冬を越えた木々は
これからの季節を待ち望んでいたかのように
生き生きと輝いていた。


そんな無邪気さが
自分の身のまわりに起こった出来事の
そらぞらしさを際立たせているようだった。


家に戻ると、まだ何も変わらずに
布団に横たわっていた。
しかし、よく見ると、父の顎のあたりのひげが
うっすらと伸びているのに気がついた。


あぁ、死とは決して心臓が止まることではないんだ、
そう思った。


死はもちろん医学的に
何らかの定義がなされているだろう。
たとえば瞳孔が開いているとか、
呼吸が停止しているとか。


しかし、今起こっていることは
それとは違う。
それはまるで炭火が灰になるように
じわりと全身に及んでいくような。


井上靖さんの小説「星と祭」は
「殯(もがり)」がテーマだった。
殯とは古来、生と死の間に死者の魂が浮遊している
期間のことを言うらしい。


娘を突然失った主人公が、
最初はどうしても娘の死を受け入れられなかった状態から、
長い時間をかけて受け入れていくさまを描き、
それを殯になぞらえている。


死は自分自身に対するものではなく、
その周囲にいる人のための
ことばなのかもしれない。


その周りにいる人たちが
その人の死をどう感じ、どう向き合っていくか。


自分にとっての殯はどうであっただろう。
殯はもう終わっているのかどうか。
主を失ったことを気づいていない、
あの伸びたひげを思うたびに
そう考えるのである。




触れる

2009年04月11日 | Weblog
駅前のスーパーがつぶれてもう半年近くなる。


店の明かりが消え、
いつもと雰囲気が違うなと思っていたら
入り口に小さな白い張り紙がしてあった。
小難しく破産をした云々、といったことが
弁護士の名前で書かれていた。


遅くまでやっているスーパーが
無くなったのは不便だが、
それよりも何よりも
ここのスーパーで働いていた
レジ係のおばちゃんの消息が気になる。


レジはあまりにもありふれた光景なので
ほとんど記憶に残ることはない。
が、そのおばちゃんの接客態度は
ものすごく印象的だった。


会計の際、おつりを渡すとき
小銭はひとかたまりにして渡されるだろうが
このおばちゃんはちょっと違った。
わざわざ100円玉、10円・・1円と
硬貨の種類ごとにきちんと整えて
渡してくれるのだ。


まぁ、だからどう、ってことではない。


おつりは小銭入れに入れてしまえば
混ざってしまうし。


しかし、その小銭すら丁寧に扱う行為が
買い物客に対し
お礼の気持ちがしっかりと伝わってくるようで
ならなかったのだ。


買い物がえりの道が
なんかよかったな、と思えるように。


しかし、それは自分が
毎日いかに空虚な言葉や行為に
晒されているのかの
裏返しなのかもしれない。


いらっしゃいませ、ありがとうございます。
またお越しくださいませ。


コンビニやファストフードに行けば
必ず言われるこの言葉。


でも、本当に心からそう思える言葉を
投げかけているかというと別にそうでもない。


それは、客の顔を一度たりとも見ずに
ただ、ただ「流れ作業」をしているのだから
当たり前なのかもしれない。


そういえば
福岡の友達に変わったラーメン屋に
連れて行ってもらったことがある。


このラーメン屋は
カウンターと席のあいだに
暖簾のようなものでさえぎられていて
厨房がほとんど見えないようになっていた。


食券を買い、カウンターに置くと
しばらくして、暖簾から手だけが出てきて
ラーメンが出てくる。
なんだか薄気味悪い。


しかしこの店にはこんな説明書きがしてあった。


ラーメンに集中していただくために
できる限り顔を合わせないようにしております。


はぁ、なるほど。
しかしその妙な無機質っぽさが
かえってラーメンの味すら
集中できない自分がいたりして。


どこのスーパーでもほとんど同じものが買える。
それであれば、なおさら
気持ちがきちんと触れるところで
買い物をしたほうがよっぽど楽しくなる。


あのおばちゃんは
次の職場で元気にしているだろうか。


できればその店で買い物をしたいものだ。



春の痛み

2009年04月06日 | Weblog
毎年、3月から4月にかけて
ほんの一瞬だけ現れる、春の訪れの穏やかな日が来ると
いつもきまって十数年前のことを思い出す。


ネパールのカトマンズの気候と
出会ったトレッキングのガイドのことを。


彼の名はラム。
カトマンズから離れた
ポカラという町に住む人である。


彼とは偶然に出会い、
そして1週間のトレッキングのガイドをお願いし、
その間、寝食をともにした。


トレッキングも無事に終わり、
日本に帰る日が近づいてきたころ、
彼の家に招かれた。


夕食どき、突然、彼は言葉を口にした。


私は不幸な結婚をした。


トレッキングの最中、
誰に対してもフレンドリーで
陽気に人を笑わせ、歌も得意で、
いつも周囲を明るくさせる。


字が読めない彼は
日本語も英語もその他の言葉も、
ガイドをしながら、
すべて口頭でマスターしていた。


彼の努力は日本で何年も学校で
英語を学んだくせに、まともな会話すらできない
この自分の怠慢を理解させるには十分すぎた。


そんな彼から
思いもかけない言葉が出てきたので、
その性格や努力さえ
何か偽りのものだったのではないかと
思えてしまうくらいだった。


彼の結婚が不幸だと思っている理由は
よくわからなかった。


自分の意思ではない、あらかじめ決まった
結婚相手と一緒になったことなのだろうか。


しかし、君はもう既に2人も子供がいるのに。


いったい何故。


何をどのようにすれば
その混乱が解けるのか全くわからなかった。
ただ、ただ、言葉にできない
もどかしさだけがのどに詰まって
息苦しい思いだけがつのるだけだった。


ポカラを発つ日、
カトマンズ行きのバスを見送る彼は
これから次のガイドする客を探しに行かなければならない、と。
いつもの元気はいったいどこへ行ってしまったのか、
言葉少なに、肩を落としながら。


そしてバスに6~7時間揺られながらカトマンズに戻る。


最初にネパールを訪れた日から、
この日までの数週間、まるで何事も無かったような
春ののんきな暖かさと街の喧騒があった。


一方でさびしいのか、悲しいのか、
どうにもならない憂いのような、
モヤモヤしたものが自分にはあった。


今でも、春のこの一瞬が訪れると、
この鈍く刺さるようなものを感じてしまう。


彼は今どこで、何をしているのか。
残念ながらそれを知る術はない。


だからこそ
この痛みが癒えない理由なのかもしれない。



ヒッチハイク

2009年03月28日 | Weblog
学生時代、山から帰るときに
ヒッチハイクをよくやっていた。


親指を突き立てて手を伸ばして
ドライバーに訴えかける。
簡単なものだ。


最初はあれほど
気恥ずかしいものは無かった。


しかし人間の慣れは怖いもの。
そんな恥ずかしいなどという感情の回路は
回数を重ねてしまえば鈍くなる。


また、この便利な世の中、
そんな思いまでしてヒッチハイクする
必然性があるのかと問われれば無い。


あのときもそうだった。


山形の山の帰りに
無理してローカル線を乗り継げば
決して帰れない場所でもない。
でも無性にヒッチがしたくなった。


その日は細切れに2回の車にお世話になったあと、
やっと新潟につながる幹線国道に出た。


ヒッチをするにも経験則があって
社用の車やトラック、カップルに加え、
高級すぎる車はたいてい乗せてくれない。
こんな汚い輩たちを乗せると
あとで掃除が大変だ。


行きかう車が少なく、
何度も空しく期待だけが通り過ぎていった。
なので、一台のセダンが止まってくれたのは
意外だった。


車はセドリック。型落ち。
側面に会社名のシールこそ貼られていないが
内装は白いレースのカバーとかが掛けられていて
どうも社用っぽい。


止めてくれたドライバーはMさん。
年の頃は40代後半といったところか。
いささか着古した背広が目立つ。


昼下がりの時間からして
仕事の途中のようだったが、
途中で買ったという玉ネギの束が
車とMさんとをとても不釣合いにさせていた。


車中では
決まって自分何者なのかを紹介する。
京都の学生であることを伝えると
どうもとてつもなく遠くからの来訪だと思われるらしく、
遠路はるばる何しに来た、と問われる。
いつものことだ。


自分の紹介が途切れると
今度はMさんから新潟の話から
最近の経済の話、世の中のあるべき話。


社会で働いたことの無い身にしてみれば
Mさんがいる世界は
またこれほどなく自分とは違う、
無関係な世界に思える。
のち数年もすれば
自分も同じ社会の世界に入るのに。


Mさんの話はとりとめもなく、
新潟に近づいた頃、
腹は減ったか、という話になった。


バイパスのインターチェンジの
近くに奥さんが喫茶店を営んでいるらしい。
今日の夜行まで時間を持て余している
自分に断る理由は無い。


喫茶店に着くと
旦那が連れてきたこの汚い身なりの輩を
奥さんはこれまた驚きもせず、
さも当然に手料理を振舞ってくれた。


新潟駅では
Mさんは車越しに名刺を一枚を手渡し、
これまた、さも当たり前のように
余計な感傷もなく、じゃ、とそのまま去っていった。


そのとき初めて彼の名前と会社がわかったが
結局どんな事業の会社なのかは
学生の身にはわからずじまいだった。


しかし、なぜ見ず知らずの者に
あそこまでしてくれたのか。
あれから10年以上経った今でも
不思議に思う。
Mさんとはそれきりだったが
記憶にはしっかりと刻まれ消すことはできない。


これから自分は何をしていくべきなのか。


そう問われたら、
きっとMさんがしてくれたようなことを、
これから出会う人たちにもすることが
少なくともできることのひとつなのではないか。


そう思わずにはいられない。



鉛色の空

2009年03月13日 | Weblog
鉛色の空。


魯迅の短編小説「故郷」。
昔を誇った旧家を引き払いに
主人公であるわたしが舟で故郷に戻る
冒頭のシーン。


故郷の寂寥とした風景と
主人公の心象、そしてこの物語の先行きを
その言葉がそのまま語っていて
それだけでこの作品世界に引き込まれてしまう。


しかし、この短編は
どうしても厄介だ。


物語の中盤、幼馴染のルントウに
再会するくだりに差し掛かると
いつもいたたまれなくなり、その先が読めなくなる。


もう少し正確に言えば、
どうしようもなく涙があふれてしまって
落ち着いて続きが読めないのだ。
文庫本のほんの一章くらいの短い短い物語なのに。


だから、この物語を通して読めたのは
もしかしたら中学の授業の
ときだけだったのかもしれない。


残念ながら自分は中国語の原文を読んでいない。
訳者である竹内好さんの訳文を通じて
魯迅の世界に触れている。


しかしながら、この訳文自体が
感動を与えてくれている。


訳文はすでに50年以上は経過しているはずなのに
今、読み返しても
全く古さを感じさせず、
読むたびに生き生きとその世界が
紡ぎだされるのだ。


あの鉛色の空ももしかしたら
竹内さんが生み出した言葉なのではないかと
思ってしまうくらい自然と日本語にマッチしている。


あぁ、あの鉛色の空はいったいどんなものなのだろう。


自分で旅先に行って
曇天を目にするたびに
思いを馳せるのだが、
まだ一向にお目にかかれていない。


道北の稚内、猿払の原野のなかに
それに近しいものを見かけた。


もちろん荒漠とした風景に
寂寥を感じさせるものがあったのだが、
何かが足りないというか、
あの物語の迫力には
及ばないと思ってしまった。


もしかしたら
自分の心境とそのときの風景が
ぴったりと一致しないと
現れない光景なのかもしれない。


そうだとするならば、
自分はまだ経験が
足りていない。
きっとそういう言い方もできると思う。