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【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第7章)

2022-09-04 15:28:07 | 日記
【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第2部・第7章)

第七章 愛の生活とキリスト教的完徳

〈愛と聖化〉

すべての信者は、キリストの神秘体の一員として、完徳に召されている。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者になりなさい。」(マタイ5-48)神が私たちの聖化を要求していられるなら、それに要するお恵みを確かに賜わるはずである。私たちのためにイエズスがなしたもうこと、与えたもうものすべては、救霊を目標としているだけでなく、聖化をめざしている。だから私たちの聖化こそまさにイエズスの望み、喜び、名誉なのである。

─イエズス─「霊魂を聖化することがどんなに私の喜びであるか、あなたが知ったならば! その喜びを私に与えるため、すべての者は聖とならねはならない!」

信者は完徳に達するため、聖化について正しく知らねばならぬ。聖化において、神よりの特別の賜もの、例外的な普通でない苦業を、あまりに強調しすぎるのは誤りである。それらよりも、愛によって神と一致すること、愛によってすべての善業も善徳も生き、成長し、完成することを強調しなければならぬ。

─イエズス─「コンソラータ、私がいつも慈悲に満ちていることを忘れてはいけない。この事実を決して、まちがえてはいけない! あなたも知っているとおり人々は、苦業、鞭打ち、鎖などを描き出して聖徳を説明する。……けれども聖徳はそんなものではない。もしひとりの聖人の生涯に犠牲や苦業が見られたとしても、それだけが聖人の生活のすべてではない。」

べトレヘムにおける天使たちの喜びあふれる告知に始まり、イエズスが復活して、からになった墓における天使たちの勝利のことばで終わる聖福音は、悲しみのたよりでなく、喜びのたよりである。イエズスは愛によって主に従う弟子たちの道に、悲しみにまぜて、純粋素朴な生の喜びをまき散してくださる。イエズスは決して無邪気な喜びを味わうことを禁じたまわず、私たちの生涯が十字架の道であっても、イエズスの御愛と、キリスト教的希望徳の光を豊かにそそいで、その道を美しく喜ばしいものに変えてくださるのである。

十字架上で、人間としての生涯を終え、死んでゆくイエズスは、三十年間、自分の家族の中ですべての人々と全く同じ人間生活を送り、また説教をして歩かれた公生活の三年間人々とともに食事し、時々宴会にも出席されたのである。人間と同じ生活を送られたイエズスは、日常生活の中でいつも聖であった。日常生活において、イエズスの御愛に、愛でこたえること、それこそはまことの聖化である。

ある日、コンソラータは重い流行性感冒にかかり、ふらふらしていたために、聖堂の席の所へからだをささえていたが、やがてすわりこんでしまった。そんなことは普通の時なら決してやらなかったことである。あとでそれを悔やんで、イエズスにゆるしを願った。イエズスは仰せられた。

「コンソラータ、安心なさい。私をきびしい者だと考えてはならない! あなたの師父聖フランシスコを起こすため毎朝鳥を送った私は、ある朝、フランシスコが夜ほとんど眠らなかったから、おそくまで烏を送らなかった。同じようにあなたはインフルエンザにかかっているのだから、すわりこんでもゆるします。イエズスが親切、慈愛、寛大そのものであることはもうわかっているね?」

〈イエズスとの親しい愛の生活〉

愛の生活の目的と、結実は、完徳に達するためにイエズスと一致することである。それは聖福音に「ある男が発見した宝」として語られているもので、その宝のため、彼は持ち物を全部売って、宝の隠されている畑を買ったのである。この宝の隠されている畑とは主の平安で、それをうるためには、どうしても精神と五官のきびしい内的外的浄化により、あらゆるものから自分を離し、精神を神への愛に集中しなければならない。それを実行することは簡単ではない。神にささげられた人も、必要な自己放棄をする意志がないため、平凡にとどまり、愛の完成に達しない。

イエズスのコンソラータに対する教えの目的は、絶え間ない、生き生きとした非常に親密な一致に導くことだった。だからイエズスは、御自らコンソラータを指導し、主から注意をそらすことを禁じ、次第に、非常にきびしく、遂には、少しでも自由に主から心を散らすことを禁じた。

─イエズス─「たとえどんな理由があっても、イエズスから目を離さないようにしなさい。そうすれば、永遠の岸にもっと早く着くだろう!」(一九三五年八月八日)

イエズスはコンソラータを他の人々から引き離さず、いつも共同生活の中において、休憩時間に加わること、その他あらゆることを共同でするよう命じた。けれどもコンソラータは、いつでも、どこでも、イエズスから心と精神を離さぬよう注意せねばならなかった。

─イエズス─「私はあなたに何を望んでいるか? それはほんの一瞬間も気をそらすことのない、絶え間なき一致である。人と会話せねばならぬ時ですら、いつも私と一致していなさい。」(一九三六年八月五日)

─イエズス─「さあ、いつもあなたと私とたった二人きりで親密に生きよう。目や耳からいらない考えが心にはいるのを防ぎなさい。」(一九三五年十月二九日)

考え、口、目を慎み、イエズスの隣人愛、犠牲精神、従順へのお招きにすぐこたえて、愛の道の実行に努力してゆくと、イエズスはだんだん成聖の次の段階へ導き、無限に完全なご自分の善徳を心に注ぎ入れてくださる。

─イエズス─「私はいつも約束を守る! もしあなたが常に私のうちにとどまるならば、あなたは決心し約束したことを守るだろう。ぶどうの木に見いだされるものは、その枝にも見いだされるはずだから。」

 ─イエズス─「もしあなたが私のうちにあり、私たちが一致してひとつのものであれば、あなたは善い実をたくさん結び、強くなるだろう。あなたは大海の一滴の水のように消えてしまうから。私の沈黙はあなたの中に入り込み、私の謙遜、潔さ、慈愛、寛容、忍耐、苦しみへのかわき、どんな犠牲を払っても救いたいと望む救霊への熱心も、あなたのものになるだろう。」
(一九三五年八月二二日)

心が完全に一致すると、イエズスの恵みと宝がその霊魂のものとなり、救霊への熱望へと導かれるのである。完徳と使徒職はわかつことのできぬものである。

─イエズス─「あなたが私を愛し、私のために多くの霊魂を救いたいと渇望するならば、いつも私のうちに住みなさい。仕事の時も休憩の時も、……片時も私を離れないように! そうすれば多くの実を結ぶだろう。聖ペトロをごらん。ペトロは一晩じゅう漁をしていたが、何もとることができなかった。それが私といっしょに網を下すやいなや、網が裂けそうなほど魚がとれた。もし決して一瞬間でも私から離れなければペトロと同じになる。あなたが自己浄化への勧めに従うたびごとにそれはあなたにとって網を下すことだ。それによって多くの霊魂が網にかかるだろう。その裂けそうな網を私が引こう。天国であなたは網にかかった霊魂に会うだろう。」(一九三四年十一月十九日)

この教えは修道院の霊魂にも世間の霊魂にも価値がある。イエズスとの一致が成聖の土台であるように、成聖は使徒職の土台である。

─イエズス─「神は愛である。愛にとどまるものは神にとどまり、神は彼にとどまりたもう。(ヨハネ第1 4-16)私は愛である。そしてあなたが愛にとどまるかぎり、あなたは私にとどまり、私もまたあなたにとどまる。だから私が沈黙して、もう私の声が聞えなくとも、あなたが私を愛するかぎり、私はあなたのうちにあり、あなたは私のうちにいる! このことを忘れてはいけない。あなたはいつも私だけを愛したいと望んでいる。だから私はいつもあなたのうちにとどまり、あなたは私のうちにとどまっている!」

〈完全な愛に達する精神の慎み〉

完全な愛、完全なイエズスとの一致に達するには、精神とことばと心の童貞的純粋さを保ち、一、考えの慎み、二、口の慎み、三、目の慎みを実行せねばならぬ。「独身の人はどうして主によみせられようかと主のことを思い、……結婚しない女と処女とは身体と心とを聖とするために主のことを思い……」(第一コリント7-33〜34)  この聖パウロのことばによれば、童貞であることは心が神と婚姻し、神のみを愛し、神のことだけ考え、神への愛と一致に反することをすべて遠ざけることである。その純粋な童貞性を精神と舌と目において実行するのである。

─イエズス─「あなたは祈る時、沈黙に包まれる必要を感ずる。そのように、私と一致するには深い沈黙が精神の最奥の実存を支配する必要がある。どんなちょっとした騒がしさも祈りを妨げるように、あなたの気をそらすどんな些細なことも一致を妨げる。常に全くの童貞的純粋さが必要である!」

この童貞的純粋さとは、絶えず完全にイエズスにささげきっている状態である。

─イエズス─「愛に反するものを遠ざけるばかりでなく、神に自分を完全にささげるのに、紡げとなるものは、すべて除かなけれはならない。」

まず考えの沈黙を通して、精神の童貞的純粋さを保つ考えの慎みについて。

「心を尽くし、霊魂を尽くし、精神を尽くして、主なる神を愛しなさい。」(マタイ22-37)  神を完全に愛するために、考えの慎みに励むということは、すべての人に与えられたおきてである。この考えの慎みについて、イエズスは最高の完全さを求めていられる。

─イエズス─「私の心は、あなたの愛とともにあなたのあらゆる考えを渇望している。……私はあなたのすべて、最も小さいことまでよくしてあげるから、あなたの考えを全部私に向けなさい。あなたはただ私のことだけを考えていなければならない! 他のことを考えれば、私の頭を刺す茨のとげのように私を苦しめるだろう!」(一九三四年三月二四日)

霊魂が、自由に、無益な考えに奪われれば、イエズスの頭の茨のとげになることがわかっても、あらゆる無益な考えを退けることは猛烈な心戦を要し、それによって無数の克己のわざの機会をうることになる。そしてイエズスの頭に茨のとげを刺し込みたくないと望めば、そのとげは霊魂自身を刺し、苦しめるのである。

─イエズス─「茨の冠をかぶったイエズスをごらん! あなたもイエズスにならって、心にいらない考えがひとつもはいらないようにがんばりなさい。そうすれば愛のために妨げがなくなり、多くの霊魂が救われるだろう。」(一九三五年八月二日)

もし精神の純粋性を保ち、絶えず自分の考えをすベてイエズスに向けたいと望むなら、一生涯茨の冠をかぶらなけれはならない。

─イエズス─「頭に茨の冠をかぶらせられた瞬間から、私はもう二度とそれを脱ごうとしなかった。あなたも私と同じようにしなければならない。あなたの唯一の考えは、イエズスを愛することでなければならない。どんな時、茨の冠を脱いでしまうかわかりますか? それは無益な考えを自由に霊魂に入れて、外へ追い出さない時だ!」

この無益な考えに対する戦いが難事ちゅうの難事であることをコンソラータは、全生涯ちゅういつも経験した。しかもこの戦いを賢明な戦術を用い、落ち着いて、根気強く、常に、臨終まで続けねばならなかったのである。精神が完全に純粋であるとは決してみなしてはならぬ。多少無益な考えはいつでも自然に浮かんでくるのである。その考えに気づいて、自由に心に止めておかぬよう、死ぬまで戦わねばならなかった。完全に純粋な精神は所詮この世のものではないから。

─イエズス─「コンソラータ、あなたが望まないのに、自由に霊魂へはいってくる考えは、不忠実のしるしとならない。」(一九三五年十月五日)

霊魂を聖化するため、神がこの戦いを計画されたのだが、無益な考えは、不忠実でないばかりでなく、多くの功徳と恵みの泉となり、不滅の霊魂を救う源となる。

─イエズス─「私はあなたを苦しめるこの激戦を取り除かない。この戦いは私に光栄をもたらし、多くの霊魂をかち得させるから。朝から晩まで霊魂にはいりこんで、愛を妨げる無益な考えが、入り込もうとするたびごとに、『あなたと多くの霊魂のために!』と祈って、ささげなさい。そうすればその考えを、多くの霊魂への恵みと祝福に変えよう。」(一九三五年十月二十日)

現代のマス・コミ時代において、私たちの霊魂は、ラジオ、テレビ、新聞雑誌、新刊書、ポスター、ネオンサインなどによって、無益な考え、つまらない空想の洪水に取り囲まれている。完全な愛に達するため、それらを節制することはもちろん、たびたび犠牲にする必要がある。度を過ごすことによって、内部的外部的沈黙がむずかしくなるからである。

生きているかぎり、完全にすべての無益な考えを遠ざけることは不可能である。しかし神を愛するため、遠ざける努力をすることは、必要で、イエズスはこの弱い人間の努力だけを望み、それで満足していられる。努力の多少に、愛の完成がかかっているのである。

〈完全な愛に達する口の慎み〉

口を慎まずに考えを慎むことはほとんど不可能である。イエズスはコンソラータに考えの慎みとともに口の慎みを要求された。あらゆる無益なことばは、常に考えを散らし、イエズスとの一致を破る。信心生活に熱心に励む人はすべて沈黙を愛した。例えば小さい聖テレジアは沈黙の効力をよく経験し尊重した。「私はいう。人が話した無益なことばは、すべて審判の日にさばかれるだろう。」(マタイ12-36)このことばによれば、口の慎みはあらゆる人に必要である。

─イエズス─「もうあなたの考えは全部私のものだから、今度はあなたのことばが全部ほしい。あなたが全く私のものになるため、絶え間なく沈黙をしてほしい。少しも恐れてはならない。私に信頼しなさい。」

イエズスがコンソラータに要求したもうた沈黙とは、会則によって定められた沈黙だけでなく、愛徳のため必要な時以外、話しかけられないかぎり話さないという沈黙の決心を含んでいる。のちにそれを誓うよう命令し、それを確かに守ることができると約束したもうた。

─イエズス─「あなたはただ私のことだけ考え、話しかけられないかぎり決して話さないでほしい。あなたが話しかけられたら私が返事を与えよう。あなたは自分の口から出る答えに驚いてはいけない。その答えを与えたのは私だから。」(一九三五年七月十四日)

沈黙についてのこの教訓と規則はすべての霊魂にあてはまるわけではない。特に休憩時間にそれを守れば、休憩ができなくなる。

─イエズス─「休憩時間の時は、会話が有害な方面に傾いていった時だけ話しなさい。そして会話の主題を変えなさい。」

カプチン修道会の休憩時間は三十分ほどだったが、沈黙の規則が免除される大祝日にも、コンソラータは相変わらずこの規則を守るように要求された。このような非常にきびしい沈黙を要求されたのは、コンソラータを絶え間ない愛の完成に導き、愛のいけにえとするため、霊的に人々から離し、自分と一致させたいと望まれたからである。だが普通の霊魂も無益な考えとことばをはらいのけるため、絶えず精神力を集中して努力しなければ、真に熱烈にイエズスを愛するようになれないことは確かである。

─イエズス─「常に沈黙を守りなさい。必要なことばすら最少限に慎みなさい。その代わりすべての人々にほほえみでこたえなさい。そしてそのほほえみをいつも続けなさい。」(一九三五年八月二日)

─イエズス─「あなたが二つの仕事のうち、どちらを選ぶか迷ったときは、よりひとりでいられるほう、より沈黙を守れるほう、より愛することができるほうをいつも選びな
 さい。」
(一九三六年八月二二日)

 コンソラータは単純率直で、自分をも人をも、ごまかすことができなかった。いつも自分が感じたことをそのまま表わしたので、何度も言いすぎたり、人と衝突したりして、痛悔と謙遜の材料となった。あまりに恥じ痛悔するので、ある日勇気づけるためイエズスは仰せられた。「ほんとうに私に属して、私の所有である霊魂は、ちょうど酢や水と、正反対の油が溶け合わないように、真理にそむき、単純率直、従順と正反対のものに溶け合わなくなる。悪魔が誘惑して愛徳にそむく考えを入れるのに成功しても、長くとどまることができずに、すぐ逃げ出してしまうのはそのためだ。だから恥じることばかりせず、こんな機会に、将来もっと注意深く警戒するよう自分を強めなさい。」

─イエズス─「話しかけられねば決して話さぬという誓いを断固として守り抜きなさい。そうすれば、すべての欠点、慎みのない軽率な行ないを避けることができるだろう。そして確かにあなたの答えは常に私が望み祝福するものとなろう。」(一九三五年九月十四日)

イエズスは、欠点だけでなく、慎みのない軽率な行ないを避けるように言われたが、コンソラータの霊魂の中で働きたもう神のみわざを見破られぬよう、非常な注意を払わねばならなかった。会話がたいてい霊的な問題に傾きやすい修道院では、それは容易でなかった。たったひと言でも言ったが最後、秘密を表わすに十分だった! コンソラータはそれをよく理解していた。指導司祭に書いている。

「神父様、たとえ休憩時間でも話しかけられねば決して話さぬことは、私にとってこのうえなく必要です。私の考えや感情を表わすことはどんなに危険でしょう。他の細かいこと同様、このことの中にも神の御手を見ます。イエズスは、私が全く主のものとなることを望まれますので、休憩時間にも、私は自分の寂しい小室に魅きつけられます。」

これによってわかるように、考えの慎み同様、口の慎みも、一瞬の中に習得したのでなく、全生涯かかって、自我と絶えず戦い、何度も新しく出発し直しては英雄的な努力をかさねたのである。コンソラータは書いている。「被昇天の大祝日に、私は負けて沈黙を破り、霊魂がずたずたに引き裂かれる思いをしました。主は同情して、小さい子どもは汚れやすいが、そのたび母は服をかえ、顔を洗って、どうせきれいになっているのがほんのちょっとの間だとわかっても、きちんとしてやることを思い出させてくださいました。私も朝、英雄的な生活を送ろうと決心しますが、みんなだめになってしまいます! でも何度も繰り返しまた新しくきびしい沈黙を始めます。」

「無益なただひとつの考えのはいるのも許さず、話しかけられねば決して話さぬことを、私は全力を尽くして決心します。決心します。堅く決心します。」

「イエズスは天の御父に、ただひとつの考え、ことば、行ないも拒まずすべてをささげられた。私もそれにならい、真にすべてのもの、あらゆる考えと絶えざる沈黙をささげねばならない。」

「ゲッセマニの園でのご労苦は、御汗を血に変えるほどでした。私もどんな犠牲を払っても、無益な考えを断固として入り込ませず、厳密に必要な時以外、絶対にひと言も言わぬ決心です。」

「このころ休憩時間は大分よくなったけれど、まだ私の本性は完全に打ち倒されたわけではなく、すぐ話す楽しみにひき込まれそうになる。でも今は話しかけられぬかぎり話すまいと努めるより、ほんとうに必要なことだけ答えるように注意せねばならない。私たち、女というものが話すことを好むとはなんと真実でしょう!」

これと同じ告白と決心を引用すれば何ページあっても足りない。コンソラータは絶えず善い意向を新たにし、どんな困難、失敗にあっても決して沈黙の武器を取りはずさなかった。

コンソラータは臨終の時、請われるままに遺言として次のように答えた。

「沈黙をお守りください! 私自身の経験から、修院における多くの欠点が、規定された沈黙を守らぬことからきているとわかるからでございます。」

〈完全な愛に達する心の慎み〉

考えとことばの慎みは、心の慎みによって補われ、完成される。心の慎みは、修道者たちに、実際上、世間から超脱することを強く求めるのみでなく、修院という小さい内的世界からも超脱することを要求し、ことに他人の事柄に対する不健全な興味をいっさい禁じる。他人のことに対する干渉はコンソラータの本性に根ざしていただけに、これに関し、最も苦戦しなければならなかった。考えとことばの慎みに関する欠点は、ほとんど常に、他人の事柄への興味から離脱していないことに原因していた。コンソラータは書いている。

「主への完全な愛を妨げた第一のものは舌でした。修練期に最も努力したのは沈黙の徳でしたが、それが守れるようになるまで、どんなに一ぱい失敗を繰り返したでしょう!何度も決心し、戦い、勝利をうるかと思う瞬間に思わずロからことばが洩れるのでした。九日間の祈りをしていた時、イエズスが仰せられました。

『コンソラータ、私への愛を妨げるものはなんだろうか?それは無益な考えと、他人の事柄に対する興味だよ!』

私はだれに対しても興味をもたぬことを約束いたしました。けれども数日間戦い、数えきれぬほど、『あのことは興味がない。これは私に関係がない。』と自分に言い聞かせたあとで、何度もぐっと抑え、のみ込んでいたことばが、ひょいと口から洩れるのでした。

神の光に照らされて、私の舌が私を地獄へつれて行くことを明らかに悟りました。また決心を新たにしては、また失敗して、私の弱さは限りがなく、たいへん恥ずかしいことになるのでした。食事の時、私は激しい戦いを経験しました。『母様、どうなさるおつもりですか。私だったら、特別の苦業ばかりしたがる修道者から、絶対的な従順を要求するでしょう。』という私のことばがすべてを語っているでしょう。でもイエズスは私のこの傾向と戦うことを要求なさいました。

『コンソラータ、あなたがじっと空を見上げて黙想する時、目を隣の家の窓に転じれば、目の窓から、死が心にはいるだろう。同じように、あなたが私を愛する代わりに目を他人のすることに向ければ、死刑だ!』 これは十分な教訓でした!」

─イエズス─「私に従いなさい。他の修道女のことがあなたになんの関係があろうか? あなたはただ私に従うことだけ考えなさい!」

これは修道院で修道者たちはお互いに全然かまわず助け合わないという意味でなく、正しい世話に見えても、時としてその中へ自己心に満ちた好奇心、自惚、誤れる世話好き、より大切な義務を怠る態度、牽制欲などが入りがちなので、他の人のことは神の御導きに任せ、まず第一に自分で神に対する完全な愛の道を歩まなければならないという意味である。

─イエズス─「コンソラータ、天国では、各階級の天使たちが各自の役を果たしながら、決して他の階級の天使の役をうらやんだり、ねたんだりしない。そのように修院でも、各自、他の霊魂に与えられたものをうらやんだり、ねたんだりせず、各々の使命に励まねばならない。あなたの修道院でも、聖堂でも、他のどこでも、あなたは、私の小さな熾天使でなければならない。だから他の修道女の使命をうらんだりねたんだりせず、ただ愛することに励みなさい!わかりましたか?」

ある日コンソラータが、ある修道女について沈黙を守ろうか、話そうかについて決しかねていた時、聖母マリアが解決してくださった。

「他の修院に起こっていることについて、心を煩わす必要はありません。あなたはただひとつ、愛するという義務を持ってこの世をさすらう巡礼者、他国者だと考えなさい!」

これを限りに、きっぱりと、他人の事柄に関する無益な興味を入れる悪魔を拒絶するため、戦いに全精神を打ち込むコンソラータは、指導司祭の許可を得て、誓約によって意志を強めることとした。

「黙想の間、悪魔は、他人のことをかまうのは霊魂を救う熱心だとうそをついて、私の考えをイエズスから散らせようと誘惑してきました。私は他人のことにかまうのが私の道の大きな妨げであることを認め、雄々しく妨げを退けようと努めました。その時神は新しい誓いを立てることを勧め、誘惑されるたびごとに、その誓いを新たにすれば、いつも勝利をうるだろうと知らせてくださいました。指導司祭のお許しをいただいて誓いを立てました。

『私はこの修院に起こるどんなこと、どんな人にも決して関心を持ちません。』」(一九三六年五月二六日)

この誓いは非常に役にたった。この外界に対する興味との戦いは、生涯の終わりまで熱烈に続けられ、絶え間ない英雄的な意志の努力を要した。

この考えとことばと心の慎みは、そのものが目的ではなく、愛の完成に到達する手段である。イエズスは仰せられた。

「すべてのこと、すべての人を忘れ、ただ私をもっと愛することだけを考えなさい! この愛することだけに、考えとことばと心の慎みのあらゆる努力を集中しなさい。」
(一九三四年六月十七日)

「私を愛すること、愛の限りを尽くして苦しむこと以外は、なにも、なにも考えてはいけない。それで十分!」(一九三六年八月十八日)

「コンソラータ、もしあなたが断固として、他のあらゆる考えを追い払い、きびしくあらゆることばを抑えれば、まざまざとイエズスを体験するだろう!」(一九三四年十一月六日)

まざまざとイエズスを体験するとは、イエズスと非常に親密に一致するようになると、ほとんどその人は存在せず、イエズスに変わって、同一人となり、イエズスの神性にあずかるようになるという意味である。それは聖パウロが、「もはや私が生きるのではなく、私のうちにキリストが生きたもうのである。」(ガラテヤ書2-20)といったところである。イエズスは仰せられた。

「もしあなたが自分を消してどんな考えも外からはいるのを許さぬなら、私があなたのうちで考えるようになる。もしあなたが話さないなら、私があなたのうちで話す。もしあなたが自分の意志に従わないなら、私があなたのうちで働く。もはや生きるのはあなたでなく、あなたのうちで私が生きるようになるだろう。」(一九三四年十一月六日)

「永久にあらゆる考えとことばに別れを告げなさい。他の人々はその人のやりたいようにやらせておきなさい。あなたは私のうちにとどまっていなければならない! あなたは多くの実を結ぶだろう。私があなたのうちで働くから。」(一九三五年六月ニ三日)

「豊かな実を結びたいと熱望するなら次のことをよく覚えておきなさい。聖福音のなかで私は『もしあなたが特別の苦業をすれば多くの実を結ぶだろう。』とは言わず、『もしあなたがわたしのうちにとどまるならば、多くの実を結ぶだろう。』と言っている。だからぶどうの木である私としっかり一致して離れぬようにあらゆる努力をしなさい。ただひとつの考え、無益なことばで、『イエズスのみ!』という考えから離れてはならない。私があらゆることを考えてあげよう!」

〈愛によって、すべてを、イエズスに〉

聖パウロは、第1コリント13章に愛の賛歌を歌っている。その最初の部分を聞こう。

「たとい私が人間と天使のことばを話しても、愛がなければ鳴る青銅と響きわたる銅鑼に等しい。たとい私が預言の賜ものを持ち、すべての奥義と学問に通じ、山を動かすほどの充ちた信仰をもっていても、愛がなければ無に等しい。たとい私が持っているすべてのものを施し、私のからだを焼かれるために与えても、愛がなければ益するところがない。」

あらゆるよいわざ──学問、信仰、施し、犠牲、殉教すらも、愛がなくては、無価値で、無に等しいなら、ただ愛のみが重要で、真にすべてである。だから偉大なわざに召されていず、それを遂行できぬ霊魂でも、もし心のかぎりを尽くし、精神のかぎりを尽くし、全力をあげて神を愛するなら、すべてをささげることになるのである。これこそ小さい聖テレジアとコンソラータが進んだ「愛の道」の出発点であった。

─イエズス─「私を愛しなさい。コンソラータ、私だけを愛しなさい! 愛はすべてだから、私を愛すれば、あなたは私にすべてを与えるのだ。」(一九三五年八月七日)

─イエズス─「あなたが私を愛する時、イエズスがその被造物から望むすべてをささげているのだ──愛を!」(一九三五年九月二十日)

イエズスは、コンソラータが決心をつけられないで精神力を散らすことを望まなかった。この愛するというひとつの決心が他のすべての決心を含んでいるから。

─イエズス─「愛はすべてである! もしあなたがこの決心にだけ集中すれば、あなたは私にすべてを与えるのだ!」(一九三五年十二月一日)

─イエズス─「私は、人々が愛の心から私に仕えてくれることを切望している。だから罰を受けるのを恐れて、人々が罪を避けることを望まない。私を愛すれば、もう罪を犯して私を怒らせることもなくなるだろう。二人の人たちがほんとうに愛し合っている時、お互いに相手を怒らせることがないように。」(一九三五年十一月十六日)

ある日コンソラータは黙想の時、聞いたことばに深く感動し、イエズスに尋ねた。

「イエズスよ、もしある人が仕事に不熱心な時、非難されるなら、熱心に励んだなら祝福されるはずでしょうか。」

─イエズス─「熱心に励むよりも、多くの愛をもってするように努力しなさい。あなたは働くにも食べるにも、飲み、眠るにも、すべてのことを多くの愛をもってやりなさい。私は愛にかわいている。愛こそあらゆる仕事の中に私が求めているものである。」(一九三五年十一月二九日)

「あなたのするわざは、愛に進歩すればするほど、その愛に比例して価値を増すだろう。」(一九三五年十一月十六日)

「あなたが生涯に出会うあらゆるいやなことをばらの花に変えなさい。その花を愛をもって集め、私にささげなさい。」(一九三五年十一月十四日)

「私はできうるかぎりの愛を尽くしてささげられた贈り物を喜ぶ。その時どんなつまらないものも私にとって貴重なものとなる。」(一九三五年十二月三日)

「いや、コンソラータ、違う! 私はあなたに大きなわざではなく、小さなわざを求めているのだ。でもその小さなわざを愛のかぎりを尽くしてささげなさい!」(一九三五年十一月二四日)

ある朝、コンソラータは聖母マリアのために、花束を作っていた。だがその花束はかなりしおれていたので、嘆いていたら、優雅なお声がした。

「常に美しい徳の花を神にささげられるとはかぎりません。でもその花に愛をそえることならいつもできます。……イエズスは花をながめず、それにそえられた愛をごらんになります。」

私たちが神を純粋に愛するように特に努力すれば、善徳の足りないところは、神の御目に見えなくなる。

「あなたは欠点だらけだ。でも欠点がなくとも、私だけを愛さず、私と人とに愛を分けている者より、欠点だらけでも、全く私のものになった心のほうが私は好きだ。」(一九三五年十一月十日)

欠点は愛によってゆるされ、だんだん消えてゆくのである。そして神に近づき、ますます完全となる。

「私を最も熱愛する霊魂を、私は最も愛している。」

〈愛によって、イエズスから、すべてを〉

心を尽くし、精神を尽くしてイエズスを愛する霊魂は、すべてをイエズスに与えるのみでなく、自己の成聖と救霊のために、イエズスからすべてを受ける。イエズスを愛する霊魂は、愛の感情がちょっと起きた時だけ、何度も愛します愛しますということで満足せず、自分の愛を完全な自己献身によって証明したいと望んでいる。その霊魂は、自分のわざが愛によらねば、功徳と恵みの実を結ばず、愛のみが、善徳のわざを勧め、生かし、完成させることを、経験によって知っている。つまりいろいろな善業のわざによって完全な愛に到達するのではなく、愛によって善徳のわざをしうるようになる。イエズスは仰せられた。「私はぶどうの木である。あなたたちはその枝である。私にとどまる人、また私がとどまる人は多くの実を結ぶだろう。」(ヨハネ15-5)では、イエズスが私たちのうちに住みたもうように、どうしたらイエズスのうちにとどまれるだろうか?

「神は愛である。愛をもつ者は、神にとどまり、神は彼にとどまりたもう。」(第1ヨハネ4-16)

犯した罪も愛によってゆるされ、償われるのである。「この女の罪、その多くの罪は、ゆるされた。多く愛したために。少なくゆるされる者は、また少ししか愛さない。」(ルカ7-47)

─イエズス─「あなたは罪の償いがしたいなら、私を愛しなさい! 愛によって償いなさい!」(一九三五年十一月二二日)

他の人の罪を償いたい時も同じようにすればよい。一九三六年の枝の主日に、コンソラータはご苦難のところを読んでいたが、ユダの裏切りのところでじっと黙想し、「すべての汚聖の罪を償うことができたら!」 その時御声を聞いた。

「ええ、できるとも! 愛によって、最もひどい汚聖の罪も償うことができる。愛によって、苦しみ、自分をささげ犠牲を果たすことができる! すべては愛をとおして! ただ愛をとおしてのみ!」

愛は償いであるばかりでなく聖化をもなしとげる。事実愛は霊魂の美をそこなう最も小さい欠点をもはっきり見せる光である。愛は欠点を根こそぎ引き抜くに必要なエネルギーを与える力である。愛は私たちのうちで抜いても抜いても生えてくる有害な雑草を焼き尽くす火である。小さい聖テレジア(リジュの聖テレーズ)も言っている。「愛の火は煉獄の火よりも、もっと浄化力があることを私は知っております。」

一九三五年十一月十一日の夜、コンソラータが聖櫃(せいひつ)の前で祈っていると、イエズスは仰せられた。

「コンソラータ、きょう犯した罪を、私に差し出しなさい。」
「イエズス、私は思い出すことができません。」
「私もまたみな忘れた。」
「それでは?」
「あなたは私を愛するといって、安心して行きなさい。もう罪はなくなったから。」

一九三五年の黙想会の準備として指導司祭はコンソラータに手紙を書いた。その中で謙遜を深めるため、気がついたコンソラータの欠点をならべた。手紙とともに、イエズスがかわいい小羊を抱きしめているよき牧者の絵も入れた。イエズスは仰せられた。

「コンソラータ、この小羊のように、あなたは黙想会の間、私の心に抱きしめられて私を愛し続けなさい。他のことは全部私がよくしてあげよう。あなたが愛し続けている間に、私はあなたの欠点、指導司祭が見つけた自己心、ごう慢、極端、単純さの欠如などを消してあげよう。すべて焼き尽くしてあげよう。」

また、他の日コンソラータが、自分は欠点だらけだと告白したとき、イエズスは仰せられた。

「私を愛しなさい!愛はすべての欠点を消すだろう。」(一九三六年八月十九日)

イエズスは、コンソラータが、自分の悪かったことについてくよくよ思い煩うことを望まなかった。

─イエズス─「いつも自分のこと、自分がしたことを振り返ってばかりいてはいけない。自分のあわれな状態を越えた上をごらんなさい。いつもただ愛しなさい!」(一九三四年七月九日)

愛による償いと苦業で新たにされ清められた霊魂は、すぐに完徳に達しないでも、すべての善徳を行なうよう励まされてくる。だから絶え間ない努力によって、その恵みの働きに忠実にこたえなけれはならない。

─イエズス─「あなたは与えられた使命に生きたい? それではただ私だけを愛しなさい。いつも私を愛しなさい。そうすれば私の計画に完全に従うだろう。」(一九三五年八月三十日)

これは当然善徳の実行を要求する。それでまずコンソラータはキリスト信者の完徳の土台である謙遜を実行せねばならなかった。

─イエズス─「ただ私だけを愛しなさい! 私はあなたがいつも謙遜であるようにみていてあげよう。あなたが私にとどまれば、ぶどうの木の中にあるものは枝の中にもはいっている。」(一九三五年七月四日)

─イエズス─「あなたが私に生きていればいるほど、あなたは私の謙遜で満たされる。」(一九三五年八月二二日)

また善徳の女王である隣人愛への道もやはり愛である。

─イエズス─「私を愛することだけ励みなさい。そうすれば愛深い人になるよう、私がみてあげよう。」(一九三五年七月二日)

他のすべての善徳への道も愛である。

─イエズス─「愛は成聖である。私を愛すれば愛するほど聖人となる!」(一九三五年八月二十日)

─イエズス─「愛によってのみ完徳の最高段階へ上げられることを覚えなさい!」(一九三五年十一月八日)

御父神も同時に保証したもうた。

「コンソラータ、ただ愛のみが、戦いの勝利へ、あらゆる成聖の極致へ導くだろう!」(一九三五年九月十九日)

〈愛の生活の結実〉

 愛の生活から収穫できる特別な果実はなんであろうか?すでに述べたもの以外の二、三をあげると、第一(の果実)に心の深い喜びである。神を所有し、神に所有されていることを知る霊魂は、自分の生涯を、神の光栄のため、自分のため、救霊のため有効に使う。愛の道を堅く守ってゆけば、その無尽蔵の宝を何ものも、何人も奪い得ないことを知っているから、「だれがわれわれをキリストの愛から離れさせ得ようか?」(ロ―マ8-35)との使徒のことばを自分のものにすることができる。もし神がすべてを取っても、愛はすべてだから、すべてを有して、完全に幸福である。

─イエズス─「私を愛しなさい。そうすればあなたは幸福になる。あなたが愛すれば愛するほどますます幸福になる! 全くの暗やみに落とされた時も、愛はすべての戦い、すべての試練において、光、力、喜びをもたらすだろう!」(一九三四年三月十五日)

─イエズス─「もし私の許嫁が全部私を愛すなら、まだ地上にいる間に、その心へ天国を注ぎ入れよう。天国とは私を愛することによって楽しむところだから!」(一九三五年八月二十日)

すべての霊魂がこの真実を理解したら! キリストから離れたため真実で唯一の幸福への道を誤っているあわれな世界がこれを理解したら!

─イエズス─「ああ、人々がただ私を愛するなら、この不幸な世界を、至上の幸福が支配するだろうに!」(一九三五年十月十三日)

 愛の生活の第二の果実はキリストの御苦しみに参加することである。苦しみは全人類の世襲財産だが、完徳に達する非常に有効な手段である。愛は犠牲によってこそ養われるのである。カルワリオは犠牲の極致である。愛の最頂点だから。

─イエズス─「愛はあなたを苦しみの極致へつれて行くだろう。」(一九三六年五月二七日)

しかし実際にはただ苦しむだけでは十分でない。単に苦しむのでなく、よく苦しまねばならない。このむずかしい学問は愛の学校でのみ学ばれる。

─イエズス─「よく苦しむためにあなたは絶え間なく愛さねばならない。熱烈に愛さねばならない!」(一九三五年十一月十一日)

─イエズス─「愛は苦しみよりずっと偉大なものだ。あなたの愛が強まれば強まるほど苦しみは完全になる。」

第三の果実は、愛によってのみ、苦しみを深い喜びに変え得ることである。「私はどんな試練の中にあっても喜びにあふれている。」(第2コリント7-4)

─イエズス─「愛をもって苦しみを受ければ、もう苦しみでなく喜びに変わる。」(一九三五年十二月一日)

─御父─「コンソラータ、私はあなたに苦しみの喜び、苦しみの最中にも喜ぶことのできる恵みを与えよう。」(一九三五年十月十八日)

これは霊魂が苦しみを感じないのでも、また完全に苦しもうとする努力を免除されるのでもない。愛が苦しみに耐えるに必要な力を与えるのである。霊魂は愛によって神の全能の力に参加するので、事実愛は死より強いのである。

コンソラータはある日自分のあやまちを嘆き痛悔の涙にくれていた。

「イエズス、私は全く臆病で勇気が足りません!」
「では、私の全能の力に参加しなさい。」
「どうしたらよろしいのでしょうか。」
「愛にとどまりなさい。愛にとどまることによって、全能のカに参加すればどんな強者よりもずっと強くなる!」(一九三六年二月二六日)

第四の果実は深い、動かしがたい霊魂の平安である。霊魂が、自分のすべてを全く永遠の御愛に任せれば、不安から解放されて、平安に満ちてくる。不安の原因は、いつも新しい道、新しい手段、新しい信心を捜したり、達し得ない願望や種々の偏見をもつことからくるから、ただひとつの道、望み、仕事、目的、すなわち「愛」に専念することによって信心生活は全く簡単になる。そして他のすべては愛によって自然に加えられてくる。

愛の生活を生きるとは、すべてを愛に集中して最高度に神と一致して生きることであるから、怠けて他力にだけ頼んで自分を使わぬことではなく、自力と他力をこれ以上完全に合わせることはできないのである。イエズスがコンソラータに最もたびたび繰り返したもうた教えは次のことであった。

「あなたはただ私を愛することだけ考えなさい!他のすべては、最も細かい事柄まで私がよくしてあげよう!」

このようにしていれば、無益な考えや不安などは霊魂に入り得ないのである。

─イエズス─「コンソラータ、あなたもわかるとおり、私はすべてのことをよくしてあげている。どんな細かいことまで考えてあげるから、ただひとつの考え、心配も心に入れぬようにしなさい。……恐れてはいけない! 私があなたのことを、全部心配しているから!」(一九三六年七月三一日)

最後の暗やみが始まって、イエズスをもう心に感じなくなった時、コンソラータは書いた。

「イエズスは私の最も細かいことまで全部考えておられます。イエズスが私のうちに働いておられるので、コンソラータは、イエズスを愛することだけ考えていれば十分です。日常生活のことは、もう私の興味をひいてはならぬことで、天上のことだけを心に入れましょう。天国の生活は愛することのうちにあるので、愛だけに生きましょう。」

地上において、愛する霊魂は天国を味わうが、地上の愛は戦う愛であり、天国の愛は永遠に栄える勝利の愛である。ある日、コンソラータは、自分は何もしていないから、永遠の幸福をうる価値がないといった。しかしイエズスは仰せられた。

「何もしていないから永遠の喜びにふさわしくないって? 教理はなんと教えているか言ってごらん。私を知り、私を愛し、私に仕え、それによって永遠の喜びにはいるために、あなたは創られたと書いてあるだろう。で、あなたは私を愛していない? 仕えていない? そう、ではあなたは天国の光栄と喜びを得る資格があるではないか! 愛のためでなく、あなたには、それをうる権利があるから、天国を与える。」(一九三五年十一月十五日)

では天国とはなんであろうか? コンソラータの日記を見よう。

 「……きょうの夕方、私は他の姉妹のために、洗濯場で働いていました。仕事をしていますとお恵みによって、心の中に甘美な、愛にあふれる思いが静かに満ちてきて、イエズスがささやきました。『あなたは、いつか見るだろう。私がコンソラータのために考え、してあげたいことを! あなたは私を愛している。だから私はあなたに光栄の全部を与えよう!』『イエズスよ、私にあらゆる苦しみも与えてくださいますね。』『そう、すべての苦しみ、すべての愛、すべての光栄を。あなたは私を愛しているから!』……」

愛は私たちのもっている能力や働きに、何か外面的な飾りをはり付けるものでなく、内部から全存在に生命をふきいれ、私たちの生活に、恵みによって高められた新しい暮らし方と働き方を与え、全く新しい完徳へと導く。これはお恵みであって、恵みのつぼみが、光栄の花となって咲くのである。このように愛は現在の生活と来世の生活を変化変容させるので、苦しみと愛と光栄はひとつになる。すなわち愛だけになるのである。

愛はすべてであり、愛はすべてをイエズスにささげ、すべてをイエズスから受けるのである。愛を信じ、愛に希望し、愛に信頼し、愛を愛したコンソラータの熾天使的熱愛の歌を聞こう。

「ああイエズス、私も愛の歌を歌いましょう。いつも歌いましょう。戦うときも、愛するときも、喜ぶときも、苦しむときも。歌いながら、愛しながら、犠牲となりながら、私の生命(いのち)が燃え尽きてゆきますように。そうすれば、愛の賛歌が、またささやかな犠牲が、聖心を通して、永遠の価値をもちましょう。そして、それが、愛と慰めと尽きない慈悲の雨となって、天国の、地上の、煉獄の霊魂たちの上に降りそそぐでしょう。ああ、コンソラータはいつも、永遠に至るまで聖心と御慈愛の使徒でございます!

 イエズスよ、あなたがそう仰せられましたね? ああ、私のイエズス、私は信じます。あなたを信じ、あなたに信頼いたします! 私のイエズス、あなたを愛します!


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