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【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第3部・第17章)

2022-09-04 15:06:54 | 日記
【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第3部・第17章)

第十七章 完全な克己(こっき)

〈心の抑制〉

心を世間的なことに奪われてしまうことは、明らかに「心を尽くして神を愛せよ」(マタイ22-37)とのおきてにそむくことになる。修道者は世間を捨てた者だから、世間との糸をすべて切ることが必要である。しかし、くもが巣の糸が少しでもいたむとすぐ直すように、人間の心の糸も複雑にからみあって無数に世間とつながっていて、おまけに敏感症であるので、断ち切るのはなかなかむずかしく、切るよりむしろどんどん新しい糸を作ってゆくものである。イエズスは、全く自己献身したい霊魂からすべてを要求する。そのご苦難の時、御衣と御皮膚、名誉、御いのちまですべてをはぎ取られたように、神の恵みは、とうとい乱暴さで心のすべてをはぎ取るのである。いけにえとなるため、羊は屠殺されねばならない。イエズスは心のいけにえの司祭として、御父と共に、「実を結ぶぶどうの木の枝を、なお多く実を結ばすため、これを切り透かしたもう」のである。(ヨハネ15-2)  イエズスはコンソラータの心を清めるため、きびしく扱い、世間的なことに対する好奇心、いらない心配、不必要な考えを心にいれぬよう要求された。もちろんコンソラータも世間の人々の要求、ことに戦争による困難、悲嘆などを心にいれたが、イエズスに導かれて、できるかぎりイエズスに対する愛にすべてを集中し、常にイエズスの立場から霊魂の世界を見るようになった。

もちろん修道院にあっても世間にいる家族、恩人を忘れてはならない。それはとうとい義務だが、それを果たすために、適当な控え目が必要である。イエズスはそれに関し、非常に苦しい克己を要求された。一九三四年十月コンソラータは書いた。

 「イエズスが『コンソラータ、私はあなたからすべてを要求する。院長様が希望し命令をなさらぬうちは、あなたの家族へもその他へも手紙を書くことはすべて断念してください。』と仰せられた時、心の中で何かがこわれるような感じがして『はい、イエズス、かしこまりました。』と答えながらも、私の哀れな心はすすり泣いていました。手紙を書くことを放棄するのがそんなに苦しいことを知って、いかにそれに執着していたかがわかりました。

更にイエズスは『放棄するだけでなく、これから自分で一度も許可を求めず、ただ従順のためにだけ書く誓いがほしい』と。泣きながらその誓いを立てました。その晩から命じられた時だけ手紙を書きましたので、心の中に平安がはいり、悪魔が私の激しい性格を悪い目的のため乱用して、ひき起こした心配から解放されました。」

世間と家庭を放棄しても、修道院は自然に修道家庭のようになり、そこにも争い、ねたみのような原罪の個人的社会的結果が表われる。また自然的な愛着と違うが、お互いの愛のつなぎも、恵みによってますます清められ、犠牲によって変化されねばならぬ。神のみが心を所有なさるためにやはり放棄が必要である。特に修道女は母性的精神を持っているので、母性的な愛を実行したくなるのは当然だからである。

─イエズス─「前に家庭を放棄したように、今から修道院をも放棄しなさい。私がすべてをよくしてあげるから、いろいろなことを心配して気を散らさぬよう、それらのことの上に忘却のベールをかけなさい!」(一九三五年十一月五日)

完全な絶えざる愛の心へ導くため、イエズスは英雄的な口の慎みを望み、沈黙のきびしい命令によって、コンソラータを周囲の世界からはずし、神の愛の豊かさと一致を与えたもうた。

─イエズス─「コンソラータ、心を広くしてイエズスのみと暮らしなさい!さあ深い沈黙を守り、すべての人を離れてずっと沖へ出なさい! そこで、霊魂のふしぎな漁りのために準備するイエズスに会うだろう。」(一九三五年十月)

 惜しみなくささげる霊魂に対してイエズスは際限なく要求する。イエズスは、その自己献身を文字どおり本気に受け取り、文字どおり霊魂を取り扱う。ある日、コンソラータはイエズスに、今まで仲のよかったある姉妹がなぜこのごろ誤解しているのかと尋ねると「私はあなたを完全に被造物からはずし、あなたを完全に浄化するためそれを許した。」と答えられた。コンソラータは放棄に放棄を重ねても、姉妹たちに冷たい態度をとったことはなかった。例えばある姉妹と時々相談して、その祈りの助けを願ったが、イエズスは「いいえ、コンソラータ、その姉妹と話さないでください。その代わり私が十分助けてあげるから!」と禁じられたので、最後にはイエズスとコンソラータだけになった。

そのように次第にイエズスはコンソラータを修道家庭からもはずしてくださったが、コンソラータの心は一枚一枚はぎ取られていくことを苦しく感じた。一九三五年十月八日書いている。

「きのう、私たちは聖堂のじゅうたんをたたきながら皆元気に冗談を言っては笑っておりました。しあわせな者よ!私は微笑していましたが、問われぬうちは話さぬという誓いにしばられ、また、愛の心を起こすことを怠ったため良心の苛責を感じていましたので、皆のおしゃべりに参加できませんでした。その瞬間、イエズスがどこまで私を周囲からはずしたかに気づきました。イエズスのほかだれもいない! その孤独が深く私の心に浸み透りました。」

姉妹たちと親しくすることを犠牲にせねばならなかったのみでなく、愛する院長にも従順以外には心を打ち明けることを禁じられた。コンソラータは修院にいれてくださった院長を非常に信用し、院長も賢明、親切に指導したので、コンソラータは感謝と孝愛の心を尽くしていた。だがイエズスは一九三四年十二月はじめてこの苦しい要求をされた。

「コンソラータ、これから院長様となれなれしく話してはいけない! あなたの犯したあやまちを告げ、院長様から優しい戒めを聞くだけ!それ以上はいけない。」


それから10カ月後の一九三五年十月八日、指導司祭を定めたあとでイエズスは仰せられた。

「今から院長様に対しすべてについて沈黙を守りなさい!私たちは院長様に何も隠さなかった。あなたの使命を知っておられる。それで十分だ。あなたの霊魂を安全な手に任せたので、もう安心して自分の道を進みなさい!院長様に対しいつも黙ってただにこにこと微笑しなさい!」

院長との親密によって与えられた慰めを犠牲にした時、神への愛と信頼は増加した。

─イエズス─「院長様に対して、最も必要なことだけしか話さないことを恐れてはいけない。あなたのひとつの愛の祈りは、それより無限にまさっている。」

 ─イエズス─「私はあなたを教会の『信頼そのもの』にしたいと思う。あなたはすべてについて私に信頼を示しなさい!私以外だれも信頼する者がないように!」
(一九三五年十月十七日)

─イエズス─「私は深い静けさの中で、あなたのうちにすべてを行なう。だれも気づく者はないだろう。私がかって、自分の母を十字架の足もとで見たように、あなたは臨終のもだえの時、院長様をあなたの足もとで見るだろう。」

 目に見える指導者としては、指導司祭だけが残されたが、イエズスは彼をも放棄するよう要求されたので、全くの孤独を、苦しく覚悟した。イエズスは「指導司祭に従いなさい。安心しなさい。あなたの放棄は完全だった!」と仰せられ、その完全な放棄の結果、聖化の極致、救霊の極致へ導かれたのである。

〈心戦〉

神に完全に自己献身しうるためには、談話、通信による人々との交際をやめてもなお引き続き、罪や欠点ではないにしろ、他人に対するほんのわずかな愛や関心にも十分注意しなければ、神に対する愛はすぐに冷えてくる。霊魂が聖化の高みに登れば登るほど、その高さに応じて悪魔に乗じられ、だまされて絶壁から深淵に落ちる危険も強まるからである。この点について特に聖職者たちは火遊びを少しもしないように絶えず警戒していなければならない。抑制の熱心さには段階があるのだが、この点について絶対的に心を抑えるべきである。

コンソラータのような全く清い、熾天使(セラフィム)のように神への愛に燃えていた霊魂すら絶えずその戦いを重ねたのであり、戦いは非常に長くかかり、そのうえ悪魔の狡猾さと巧妙さによって困難をきわめた。しかしその戦いは霊魂にとって損害ではなく、かえって成聖への励ましとなりうるのである。

もし心がそういう糸を断ち切らないならば、神を完全に自由に愛することができなくなり、愛は冷えるとともに、信心の燃ゆる火も消えはじめ、微温的となって、ついには力と勇気を落としてその火は全く消え失せてしまう。ちょうどいい時機に心を抑えず、痛いが不可欠だったこの断ち切りをいとってしなかったため、高い聖化への召し出しを失って後悔し、嘆く聖職者は非常に多い。また神と被造物の間をよろめきながら、軽々しく妥協しつつ、貴重な時間を費やし、自己の成聖をむだにする者は、それよりももっと多数に達している。

コンソラータはこれらのことをはっきり見通して次のように祈った。「イエズスよ、サムソンの力はその髪の毛にかかっていましたが、コンソラータの強さは、私の心が全くイエズスのものであるかないかにかかっています。ある人に対する愛着が心にはいるのを許すなら、たとえその人が聖人のような者であっても、私は災いな者であります。その瞬間、私の心はふしぎな力を失って、不潔な豚より早く罪の泥に沈んでしまうでしょう! イエズスよ、どうぞ容赦なく私をあなたの完全ないけにえにしてください!」

コンソラータが願ったこの苦しい心戦は始まった。一九三八年一月十九日指導司祭に書いた。「このごろ、シスターⅩのために戦いが始まりました。このシスターに向かって微笑すると、何か悪いことをしたように感じます。それで私は真面目な顔をしています。悪魔が私の中に働いていて、この姉妹に向かって無邪気に微笑できないのです。どうしたらいいでしょうか? 自分の心がこわくなってきました。そこに人間的なことが含まれていて欲望に導きうる危険を直感しています。」 

指導司祭の返事に、すぐ従った。「目をあけてくださいまして心の底から感謝いたします。
神の御助けを盲目的に信頼しながら、私はおっしゃったことばどおりにいたします。すなわち、シスターⅩが私にとって全然存在しないようにいたします。」

その決心にもかかわらず困難は続いた。「私は自分の心についてほんとうに警戒しなければなりません。自分の中にシスターⅩの視線を得たいというたまらないほどの傾きを感じます。けれども決してシスターⅩをながめまいと決心して、私の不幸な『兄弟たち』のことを考え、悪魔との戦いを続けます。どんなことがあろうとも、神のみを愛します!」(一九三八年三月八日)

ようやく十月の末ごろいくらか落ち着き、勝利を得たことを指導司祭に告げた。「シスターⅩについて、神は私に心の自由を与えてくださいました。ただ、神のみ!神以外にはだれも!」

この点について非常に注意深かったので、生涯の終わりごろ次のように証言した。「今、来世にはいるに当たって、イエズスの聖心に光栄を帰しながら、次のことを証言します。イエズスの聖心はコンソラータの心を常にご自身のみの所有とし、被造物への愛着から守ってくださいました。」

〈肉身的苦業〉

心の克己によって被造物から解放され、次いでからだの苦業によって自己から解放され、神とますます一致して、神と共に、また神のために暮らすようになる。「愛の最も小さい道」とは、すべて、ことをするに当たって、いつも自然に思いのままに自分が便利なほうへ行く軽々しい道ではなく、むしろいけにえの道である。絶え間なく愛の心を起こすには、内的感覚と考えとを全部神へ集中しなければならない。肉体的五感は、すべてにおいて神のおぼしめしに、「はい」と答えねばならず、したがっていけにえの道にはいるのである。だがここでいけにえの道といっても、決して普通でない苦業を、実行することではないことを人々に教えるのが、コンソラータの使命だった。

自分をたいへんいためつける特別な、すなわち修道会則を越えた、またわざわざ自分でえらんだ英雄的な苦業は、わずかな人しかできない。日常生活に要求されぬそのような英雄的苦業も、神のおぼしめしによって、神と隣人に対する愛が動機で行なうならば、愛を完成させ霊魂を聖化させるに役だつだろう。だがあらゆる人に必要で、またなしうる苦業は、克己心(こっきしん)によって多くの小さながまんと犠牲をささげることである。だから、修道会則によって命ぜられた苦業、小斎、大斎、また従順によって定められた断食、節制、禁制、我慢、控え目などは明らかに神のおぼしめしだから、聖化への効果がある。

─イエズス─「修道院の苦業をありったけの力で行ないなさい。私が鞭打たれたことを思い出しなさい! その時、私はどこまでも打たれた。私にならいなさい!」(一九三五年十月十日)

一九三五年の布教の日の準備として、一週間普通の断食以上のきびしい断食を命じられたため、コンソラータは少し病気になった。その時イエズスは激励された。

「この断食が健康をそこねることを恐れてはならない!私がカルワリオに登る時、元気で健康だったろうか?……あなたは健康のことを心配せず、私に信頼しなさい! あなたの頭痛のことは私が考えてあげる。」

イエズスは会則以外にきびしい苦業を命じないで、あとでははっきり禁じられた。

「苦業鎖、苦業服、鞭打ちなどを望むことは、私から出た望みでなく悪魔から出たものであることを常に覚えなさい! それは私があなたに教えた特別の使命への道に迷うことだから、私はあなたにそれを望まない。」(一九三五年十一月七日)

─イエズス─「コンソラータ、私はあなたに英雄的な苦業を要求しない。それは損を与えるから。毎日一、二回それを行なえば、イエズスのことを考えることから気をそらし、何か偉いことをしたように自慢するだろう。そして私の望まぬ英雄的苦業によって、あなたは恵みを得ず、むしろ私から離れるだろう。それによって勇気はなくなり、ついにすべての努力をやめてしまうだろう。あなたは小さな霊魂だから、目だたない小さなものを私にささげることで満足しなさい! けれどもその小さなものを、最も大きな愛、あなたの心のすべての愛をもってささげなさい! そうすれば、それのみを望む私は満足する。」(一九三五年十一月二六日)

一九三五年十一月十八日、イエズスは無原罪の御やどりの祝日の準備として、苦業の意味で、食事の時コップ一杯だけの水を飲むよう勧められた。コンソラータは絶えず病的にのどがかわいていたが、食事の時以外全然飲まなかった。それにもかかわらず、イエズスのお勧めを承知したが、少したって、「どうぞ私の臆病な心を変えて、惜しみなくささげられる雅量ある心にするため、聖霊の熱火をお与えください! ごらんのとおり、私はたった一杯の水で満足することもできません。」と祈った。

 イエズスは答えて、「私はあなたを試して、英雄的な苦業を行なうだけの霊魂の力が欠けていることをよく経験させたかった。だから簡単な方法でやりなさい。例えば一息でコップの水を飲んでしまわず、一口ずつ飲んで犠牲をささげなさい! そのやり方はより多くの苦業であり、またそのやり方によって、小さなやさしい苦業をよりゆたかな愛をもって行なうだろう。食事の時以外飲まないことは、多くの苦業の機会を提供する。あなたはいつものどが渇いているからだ。その苦業によって、あなたは私に光栄と愛と多くの霊魂をささげてくれる。」

イエズスは自己放棄の意味ですべての人に克己心を要求しておられるが、各人のキリストの神秘体における使命と位に応じて、苦業の義務は多くなったり少なくなったりする。

幼きイエズスの聖テレジアが在世中に集めた苦業のばらの花びらを今天から降らしているように、コンソラータにも、ばらの花をたくさん集めるようにイエズスは勧められた。それは自己聖化のためのみでなく「キリストの御苦しみの欠けているところを、その御からだである教会のために自分の肉身において補うため」(コロサイ1-24)であった。この犠牲は、神のみ前に決して小さなものではなかった。

─イエズス─「コンソラータ、私はあなたのすべてを取り上げた。今から私は、あなた自身をあなたから取る。」(一九三五年十月八日)

─イエズス─「ね、コンソラータ、私たち二人で、私のあわれみがすべての人にひとり残らずそそがれるように、ほんとうの苦業生活を送ろう。」(一九三五年十月十四日)

これまで許されていた無邪気な気晴らし、小さな愉快なども犠牲にするようイエズスは頼まれた。

─イエズス─「コンソラータ、あとで、天国で永遠に至るまで送る愛の生活を今から始めなさい! たとえ大祝日でも五感を満足させないでください。」(一九三五年十二月六日)

具体的にまず目を慎むことを勧められた。

─イエズス─「修道院で、仕事の間も食事の時も常に目を下へ伏せていなさい! 絶えず私に、心を集中し、他の姉妹のやることを見ないように! 私から離れないように!」

次いで飲食の慎みについて、

─イエズス─「食事の時はほんとうに必要な量だけ!いつでもより小さいほう、より粗末なほうを選びなさい。」(一九三五年十月十五日)

─イエズス─「食事の時以外飲まないことによって、あなたは私ののどのかわきを体験することができる。私のかわきをいやすため、あなたが水を飲むことを犠牲にしてくれることは、私にとってなんという大きな喜びだろう!」(一九三八年八月二日)

コンソラータは真夜中十二時の朝課を唱えるとき、あまりくちびるが燃えているようだったからいつも少し水を飲んだ。イエズスはそれも放棄するよう頼んだ。「はい、イエズス、愛を尽くしながら喜んで放棄いたします。詩編を唱えるためちょっと水でくちびるをぬらすだけで満足します。」

このようにしてコンソラータはすべての五感を苦業のために使った。例えば聖堂で腰かけないこと、食堂のいすの背に背中をかけぬことなど。イエズスは昼過ぎの一時間の休憩時間にも働くこと、また睡眠時間を減らすことを命じたので、日課表によれば睡眠は八時から十一時半まで、朝課後一時から五時までだったが、コンソラータは、九時と一時半寝につき、その間十字架の道行をしたり、秘書としての手紙を書いた。

「昼の仕事でたいへん疲れていましたので、夜一時間長く起きていることは、時に冬、ほんとうに克己を要しました。けれどもイエズスがになっていられる十字架を落とさないように、私もそれと同じにしなければなりません。悪に傾いている生来の傾きを抑えれば抑えるほどイエズスは恵みを与えてくださいます。」

─イエズス─「飲食と睡眠を減らすことは、そのこと自体が目的ではなく、睡眠、飲食によって感ずる自然的な満足を犠牲にすることがほしい。よくわかってください。神の愛はしっと深く、人間の心、その愛のすべてを少しも残さずほしいのだ。」(一九三五年十一月二五日)

コンソラータの生活は五感の生来の望みを満足させないことによって根本的な絶えざる苦業となった。

「食事の時、豆のはいったなべが回ってくると私は皿を出してスープよりも豆がほしいと合図しました。それで豆をたくさんいただいたが、自分の特別の望みを表わさず、与えられるものを、そのまま受け取ったほうが完全であることがわかってきました。神の御助けをもってそれを完全に守る決心をしました。」

「聖堂で、そばの姉妹がやかましくする時、耳をおおうことをやめます。隣人愛をもって各瞬間すべてがまんしなければなりませんから。聖堂で、他のかたといっしょに歌うほかは、歌を口ずさむことをやめます。生来の気持ちを満足させることができますから。 私の歩き方は私の気質にふさわしいものですが、今から、よい童貞様(修道女)のようにゆっくり落ち着いて歩いたほうが完全ではないでしょうか? イエズスの御助けにより、今から廊下をとんだり早足で走ったりしないことを約束いたします。」

このように常に自分の生来の望みに負けまいとする絶えざる無数の苦業は、一、二度普通でない英雄的な苦業をすることよりもはるかに大きな犠牲精神を要するのである。絶え間ない愛の心には、愛の心からの絶え間ない犠牲が伴っている。

 「ある日のご聖体拝領の時、イエズスは『コンソラータ、これは十字架につけられた生活だね』と仰せられました。『はい、イエズス、そうです。』 けれどもイエズスの聖心と、聖母の御心の愛にあわせ、私の心のできるかぎりの愛をもって、この十字架につけられた生活をあなたにおささげいたします。」

〈意志の抑制〉

「私は修道生活の始めごろ、次のことを告解しました。『姉妹たちの意志に服従することがむずかしく、皆とけんかしたいと思うほどです。ことにサンダルを直すことが大きらいで、助修女たちは自分で直してもよいと考えました。』けれどもイエズスと私だけの間で、こっそり小さな戦いを繰り返しているうちに、今ではサンダルを直す時間が一番幸福になり、臨終まで靴屋でいたいと思っています。」コンソラータは戦う時、中途半端なことが大きらいでいつでも全力を尽くした。

「イエズスよ、聖母マリアの御手によって、私は『兄弟姉妹』のため、また愛のみ国の来たらんため、私の意志をおささげします。あなたは被造物をとおして、私が自分の意志に逆らい、意志を破壊し、各瞬間、意志に勝つことを望んでいられます。そのことを黙々として少しもつぶやかず、常ににこにこしながら忍ぶことを約束します。」

これほど大きな意志の抑制を可能にした秘密は、イエズスご自身の模範であった。

─イエズス─「イエズスはしばられて、意志の自由を奪われたが、羊のように柔和に、人々の思いのままに動いた。黙って服従した。すべての刑吏たちの命令のうちに、永遠の御父のおぼしめしをみて、従った。イエズスはすべての人の中に神を見たのだ。コンソラータ、そこにあなたの模範がある!」

そこでコンソラータは次のように決心した。「私に対する日常の命令の中に、神の道具にすぎない人々の意志を見ず、イエズスのおぼしめしを見ること。……」

コンソラータの意志は、一滴の水が海に溶け込むように、神のご意志に溶けて一致した。

─イエズス─「コンソラータ、イエズスはご苦難の時、盲目的に服従したばかりではなく、はずかしめられて自分をなくした。あなたも、考え、望み、ことば、行ないにおいて完全な自己放棄をしなさい。ペンが手の中で全然反対しないように、あなたも私の手の中の従いやすい道具になりなさい。」(一九三五年十月十五日)

コンソラータは全力を尽くしたあとで「今では私は自分の意志を一度もとおさないように感じる。」と言った。

─イエズス─「コンソラータ、あなたはほんとうにもう自分の意志をもっていない。全く私のものになった。あなたという木は、今全く私の所有(もの)だから、私の望む実を結び、それを収獲するため、私はあなたに私自身を接木しよう。」(一九三五年十月二十日)

ある日院長は、コンソラータが毎日過度に働いているのを見て、仕事をいくらか軽減した。コンソラータは、そのため夜おそくまで悲しんでいた。そして、病気の人や、望んでも仕事のできない人の心が、自分で体験することによって、よくわかった。その時、イエズスは慰めて、次のように教えられた。

「かわいそうなコンソラータ、私があなたのように働かないからといって、私の聖櫃の中の生活は無駄だと思うか。働いているあなたより役にたっている。ごらん、コンソラータ、あなたは毎日せかせか働いて夜になると『一日の仕事は終った。たくさんの仕事をして一瞬間もむだにしなかった』と満足して喜ぶだろう。今この満足も犠牲にすることを要求する。

続いてあなたを働かせるが、決して満足させない。その仕事はつまらないだれも気がつかない仕事だろう。その仕事をねたみうらやむ者はひとりもなく、修道院の中であなたは沈められたように人々から見えなくなるだろう。人々の目には何も仕事をしていないように見える時、あなたの霊魂は、神と救霊のため、より一生懸命働くようになるだろう。満足を与えない仕事こそ、私にとって真に大きな価値あるものになる。

 仕事が成功して、満足し喜ぶことを放棄しさない。仕事のない時はいつも聖堂へ行って聖櫃を眺め愛の歌を続けなさい。貴重な時間を一分間でも人々とのおしゃべりで費やさないように。いつも聖堂か自分の個室で過ごしなさい。もし個室で仕事がなくとも満足して、ますます愛を強めなさい。」
(一九三五年十一月十七日)

コンソラータはどんなに仕事が多くとも、以前よりも落ち着いてそれに着手した。イエズスは仰せられた。

「安心なさい、イエズスとコンソラータ二人で、生活の適当な方法を見つけるだろう。あなたの、ペトロのように憤慨しやすい本性は変わって、なくなるだろう。……私がみなよくしてあげるから私の働きに反対しないように。私の小さなホスチアは、愛と救霊の豊かな実を結ぶだろう。」


〈精神の抑制( 謙遜)〉

コンソラータは謙遜の善徳を得たいと努力したわけでなかったが、イエズスの指導によって「愛の道」に進むうち謙遜になっていった。コンソラータは非常に恵まれていたが、神の光において、(ルカ1-48~49)聖母にならい「イエズスの御助けなしにはルチフェルより悪くなったでしょう。イエズスよ、すべての善はあなたから、すべての悪は私からです。どうぞ御恵みによって善を増し、悪を焼き尽くしてください。」と言った。その手紙と自伝には心の深い謙遜を表わす箇所がいっぱいある。例えば「私の汚れた霊魂に対するご指導をどうもありがとうございました。私の汚れによって汚されることを神父様はおそれていらっしゃらないでしょうか。」

「あなたが私に何を書いてくださっても、私はイエズスのみ前に道の泥にしかすぎませんでしたし、これからも常に泥であります。」

コンソラータは「兄弟姉妹たち」の罪を償うため、傲慢の誘惑を激しく受けたが、自分を完全に放棄していたため心をそこなわれることはなかった。

修道院で全然目だたなかったことも、コンソラータの謙遜の証明となるだろう。恵まれた人は、自然に他の人を助け指導したいと思って、いただいた恵みについて話しがちなものだが、コンソラータは繰り返し、「イエズスよ、あなたの小さなコンソラータを聖心の底に隠してください。目だつことがどうしても必要ならば救霊のためのいけにえとなることだけにしてください」と祈り、イエズスもその望みをいれて約束してくださった。

「私があなたの中で働いていることにだれも気づかぬようべールで隠してあげよう。」 そのべールとは人々の目から自分が欠点だらけに見えることであった。他の修道会同様カプチン会にも公に自分の悪かったことを報告する集会があった。コンソラータは謙遜になるこの機会を有効に使った。例えば、「口答えをして感情的な鋭いことばを言いました。」「叱言を言いました。」

それらのまちがいを犯すとすぐに、あるいは修道院の慣例の方法である謙遜の行ないによって償うようがんばったり、あるいはひざまずいてお詑びしたりして請求書を払い、また絶え間ない愛の祈りを続けるのだった。

「イエズスよ、私を自分から、また私の周囲からはずしてください。自分に勝つことはなんという深い平安を与えるでしょう。はずかしめによって、私は飛ぶように早く進みます。」

 ある日、ヨハネ聖福音書8章50節、「私は自らの光栄を求めない。これを求め、かつ裁きたもう者がある。」の朗読があった。イエズスはそのことばをコンソラータに繰り返したのち仰せられた。「コンソラータ、あなたは、ただの一度もどんな場合でも、絶対に自己弁護してはいけない。イエズスは、そこにいる、そこであなたのことを考えている。」(一九三五年十二月十一日)  

人間には自愛心があるので、自己弁護しないことはむずかしい。

─イエズス─「天国において、私はあなたを偉大な者にしてあげる。だが地上では、あなたはいつでもすべての人が踏みつぶして、その目的のために自由に用いることのできる全く小さい者になりなさい!」

このイエズスの御ことばに従ってコンソラータは次の決心をした。「中庭の小さな砂粒のように皆が私を踏むことを許そう。黙って感謝して微笑しながら。私はすべての注意、叱言、戒め、姉妹たち、修練女たちの非難をそのまま受けいれよう。」 しかしこの決心の実行も非常にむずかしいことを経験して、指導司祭へ次のように報告した。

「私はあるシスターの小言についてがまんができません。そのかたがまだ修練女で私より十二も若いからでしょうか。これは傲慢です。そのかたも他の姉妹たちも全部愛しておりますのに……」 この手紙は突然ここできれている。だが続けて「これを書くことによって、今悪魔的な恨みに勝つことができました。深い平安が心にはいってきて、そのかたにおいてイエズスを見ることができます。イエズスは続いて私を清め、戒め、豊かに恵んでくださいます。」

コンソラータは、イエズスに少しも拒まないという決心を、絶えず起こる犠牲の機会ごとに実行した。コンソラータはいろいろな才能を持っていたが、それらを訓練して有効に使いたいと考えていた。例えば絵を描くのが大好きだったが、修練長の許可を得て練習していると、イエズスは放棄を要求して、院長から「あなたはからだがじょうぶだから、弱い姉妹たちに絵を描くことを任せて、働いてください。」と言われた。それ以来コンソラータは絵の具と筆に一度も手を触れず、サンダル直しに励んだ。

またフランス語がうまかったが「傲慢にならぬため、イエズスはフランス語で書くことを望まない」と悟ってきた。また美しい声を持っていたが、ある日聖堂で聖歌の前唱をしている時、突然声が消え、歌い続けられなくなった。この恥ずかしめによって、これも放棄することが要求されていることを悟った。またある日ある姉妹に注射してやる時、針が太すぎて痛いのでその姉妹は他の姉妹の所へ行ってしまった。看護婦としても落第したので、結局残ったのは靴屋だけだった。

自分の仕事の大きさについても言わないことを決心した。「先ほど母様の部屋にいて話しているうちに自分の仕事のことを語ってしまいました。あとで虚栄心が含まれていたことに気づき、黙想の時、隠れた陰で働いて、将来だれにも仕事について言わないことを決心しました。仕事の良き香りがすべてイエズスのためのみとなりますように。」

犠牲を果たすことによって満足を感ずることもはぎとられた。「私は犠牲したい熱望を感じても外部的には何も犠牲できません。熱望を感じ、しかもできないこと、それが私の克己(こっき)です。」

「きょうイエズスは私にひとつのよい考えをくださいました。私は自分の個室にご死去なさるイエズスのご絵を飾り、そのふちに書きました。『自己放棄によって十字架を担い、われに従え』 完全に自己放棄しないなら十字架をになってイエズスに従うことができないと深く悟っています。」(一九三六年五日一日)

 一九三六年九月コンソラータは絶え間ない愛の祈りのため、すべてからはずしてくださるよう願ったが、イエズスは答えて、「もはや、あなたからすべてを奪いとった。」と仰せられた。

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