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【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第3部・第16章)

2022-09-04 15:06:35 | 日記
【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第3部・第16章)

第十六章 会則のすべてに対する完全な「はい」

〈修道共同生活〉

コンソラータの生涯は、修道者が修道共同生活の会則、規則をすべて不動な忠実をもって守れば、完徳に達しうるという証明である。

─イエズス─「共同生活のすべてに忠実に参加することは、修道院の隣人愛の基礎である。」(一九三五年十一月三日)

─イエズス─「私はあなたが共同生活のすべてを常に完全に守るように、あなたを、共同生活のすべての中へ沈めるだろう。それによってあなたは人々から忘れられて、生涯の最後の晩まで沈黙に囲まれているだろう。朝の起床の時も、共同生活を守って、鈴が鳴らないうちは一分でも早く起きないように。昼の間も鐘が鳴ったらすぐに、しかけた仕事もそのままに、立ち上がりなさい。」(一九三五年十二月十日)

共同生活のすべてを守ることによって、会則を完全に守る恵みをいただくのである。

コンソラータは特に食事と、真夜中の朝課(聖堂で聖務日祷を唱えること)について一度でも例外をしたくないと思って、病気の時でも免除されることをきらった。時々病人食を摂るよう命じられるたびごとに、コンソラータにとって、それは非常に苦しい従順と克己の犠牲となった。その犠牲は心の完全な浄化のため必要で、十字架上のイエズスの、最高位の従順の力によってのみ、その犠牲を果たすことができるのだった。それほど共同生活の例外となることをきらった。苦業についても同様で、会則にない、いろいろ特別な苦業を遠ざけ、完全に上長に従った。だからコンソラータの死後まで、姉妹たちはその偉大な聖化にほとんど気づかなかった。

共同生活において目だたないように、イエズスは苦業について次のように指導してくださった。

「苦業をする時、量を減らすことによって、目だたぬ犠牲をしなさい。おいしいものをとらないことをせず、少しとりなさい。例えば朝食の時のコーヒーも苦いままでなく、少し砂糖を入れなさい。ほんの少し。いつでもそのようにしなさい。」(一九三五年十二月八日)

食事だけでなく、共同的祈祷に正確に参加することについても模範的であるよう非常な努力をした。

─イエズス─「ミサ聖祭、聖体訪問、共同聖務日課、黙想など怠りがちになることはよくないことで、私がそれを勧めたことはない。」

〈会則〉

修道者にとって会則は、聖福音の次に神のおぼしめしを表わすもので、最も守るべきものである。会則を守らなくとも罪にはならないが、自由にそれを守ることを誓い、意志を強めるため、愛の心からそれを心の支えとすることを自由に選んだのだから、十戒同様忠実に守らなければならない。

コンソラータのプログラムは、「義務、会則、愛」で、会則を完全に守る模範によって姉妹たちにも忠実に会則を守らせようと思っていた。

コンソラータは聖福音、会則、ディレクトリゥム(会則を具体的に説明する指導書)、ミサ典書のほか熟読する本を持たなかった。

ディレクトリゥムも会則同様修道者をしばるものではないが、コンソラータは神のおぼしめしとして両方とも、忠実に守るよう努めた。イエズスもディレクトリゥムにある規則と慣例をよく守るよう勧められた。

「夜鐘が鳴ったあとでは、大切な理由なしに各々の個室を出てはならないとディレクトリゥムに書いてあります。昨夜、私のランプの油がなくなりました。『イエズスの御ために書くことがある』という口実をつくって台所へ油を取りに行きました。心は不安でしたが、恵みの勧めを無視しました。台所へ行きますと、油のびんはからでした。『隣人愛として、みなさんが使うためびんの中へ油を入れよう』と自分をだましてびんに油をいれましたが、ほとんどいっぱいになった時、へたなことをしていっぱい石油のはいっていたじょうごを落とし、中の油を全部床に流してしまいました。こぼした油をできるだけすくって床を掃除しましたが、その時イエズスは心の中に教えてくださいました。

『コンソラータ、今の経験で十分だろう。会則やディレクトリゥムを少しでも守らないことは自分をだますことで、私はそうするように全然勧めないということをよく覚えておきなさい。』」

霊魂が自分をだまして、イエズスの御ために少し務めを怠ってもよいといっても、それを明らかに誘惑だと認めなければならない。一九三五年九月二十七日書いている。

 「きょう、私は昼食後の休憩時間ちゅう個室で針仕事をやっていました。ちょっと沈思してイエズスと一致したいと考え、顔を両手で隠そうとすると、イエズスは『コンソラータ、働きなさい。』と仰せられました。すぐにまた針を取り、ほんの一瞬間でも仕事から気をそらして好きな祈りのために時間を使ってはいけないとよく悟りました。」

 ディレクトリゥムの細かい規則まできちんと守れるよう、コンソラータは具体的な決心を小さな紙に書いて個室の机の上に置き時々ながめた。「この決心は、私に力と新しい励ましを常に与えます。」 姉妹たちに会則を守らせたいと熱心に望むあまり、沈黙の決心にそむくことがあった。イエズスは慰めてくださった。「姉妹たちが会則にそむくことを残念に思うのは、他人をさばくことではない。安心しなさい。」

〈清貧〉

三つの修道誓願の中でも、清貧はカプチン会の特徴である。そこでコンソラータは完全に清貧を実行するようイエズスに勧められて、あくまでも努力した。「イエズスは持ち物に対する執着を全然ゆるしませんでした。ある日究明の時、着衣式の日、母がくれたきれいなサンダルに愛着していることに気づきました。そこでイエズスに『私をこのサンダルから解放してください。』と祈りました。その日の午後、ある姉妹がサンダルを求めに来て、私のものがちょうど合ったので、私は自分に対して小さな勝利を得ました。上げたサンダルの代わりに古いサンダルをじょうずに修繕しました。ようやくできあがった時それもあきらめるようにイエズスが要求なさったので、他の姉妹に上げました。

イエズスは私の個室の中にいらないものを持つこと、例えば錠剤一個すらおくことを許しませんでした。信心生活用のもの、いらない御絵や、本すらだめでした。私はたいへん美しいロザリオを持っていましたが、イエズスはそれを家にもどる志願者だった人に上げるよう要求なさいました。それで私には、家にいたころ最初に買った古ぼけたロザリオが一本だけ残りました。

 またイエズスは一度も人の手伝いを借りることを許しませんでした。スカプラリオ(肩布)を直す時、イエズスに『シスター・マリアは仕立て屋ですからちょっとこれを頼むことをお許しください。』と言いますと、『私は仕えられるために来たのではない。』と仰せられました。『でもその代わりにシスター・マリアのサンダルを直してあげますよ。』

─イエズス─『私は仕えられるためでなく仕えるために来たのだ。(マルコ10-45)  あなたがスカプラリオを直す暇をみつけられるよう助けてあげるから自分でしなさい。自分に人を仕えさせてはいけない。』」

〈貞潔〉

コンソラータは貞潔の徳をたいへん愛しましたが、そのため激しく戦わねばならなかった。「兄弟姉妹たち」をイエズスの聖心へ呼びもどすため、貞潔について猛烈な精神的殉教を繰り返した。

一九三四年四月二十二日ご聖体の前にひざまずき、純白のホスチアを仰いで、完全な清さにあこがれていたコンソラータは、死ぬまで絶えず貞潔のために戦わねばならないが、一度もその罪を犯さないという特別の恵みをいただく御約束を賜わった。またのちに(一九三五年十月二六日)イエズスは「あなたのからだの血よりも、あなたの精神的屈辱を望んでいる。なぜならあなたの兄弟はごう慢と反抗の罪を犯すので、彼らの代わりにあなたを容赦しないのだ。」と仰せられて、からだの殉教よりも精神的殉教の責め苦を好みたもうたことを示された。

ご聖体に対する司祭と人々のひどい侮辱を贖罪するため、コンソラータは、特にごミサの聖変化と聖体拝領の時、貞潔の誘惑の台風に取り囲まれた。それで一番愛する時が一番苦しむ時になった。

─イエズス─「あなたは自分を小さなホスチア(いけにえ)としてささげたので、私はあなたを受け取りホスチアのように罪なく守る。だが私が聖変化されたホスチアの姿となってさらされているように、私はあなたを小さなホスチアとして、すべての侮辱にさらす。」(一九三五年十月十九日)この貞潔との戦いは、本人にとって、清純化、聖化の源となるばかりではなく、他の人々の罪のあがないにもなるのである。

─イエズス─「コンソラータ、私がご聖体拝領において罪だらけの、不潔な欲望に満ちた心に下り、無限の清さである私が、そんな汚れに触れねばならないのだから、私への汚聖の償いとして、あなたも贖罪と改心とのために、貞潔の誘惑のはずかしめを忍んでくれないか。コンソラータ、私と彼らを愛しながら、彼らの救霊のため、生涯の最後まで、この戦いを戦ってくれないか。」(一九三五年十月二八日)

─イエズス─「ご聖体にいる私に対する、人々の悪魔的な恨みがすべて、私の小さなホスチアであるあなたにも浴びせられることを許す。彼らのためにあなたは自分を犠牲としてささげたので、ご聖体拝領、告解、愛徳、イエズスさえも、すべてのものがあなたの苦しみの源となるだろう。」(一九三五年十月二九日)

コンソラータは日記の中で、その苦しみと貞潔の誘惑などについて完全に沈黙しているが、何度も襲ったサタンの攻撃は猛烈なものだったに相違ない。

─イエズス─「あなたの心の中に私がまだ感じられる間に、貞潔の誘惑は最高に達するだろう。今それに直面して慣れておかないなら、私を心に感じなくなった時、失望するほかはないだろう。だがもしよく経験して慣れていれば、その時思い出せるだろう。」(一九三五年十月二六日)

─イエズス─「勇気を出しなさい! どんなに汚い思い、貞潔をそこなう空想、悪い欲望を強く感じても、意志がその誘惑に反対すれば、全然罪ではないことをよく覚えなさい! 落ち着いて、平安、沈静、愛の心のうちに、イエズスと全く一致していれば、敵に勝つことができるだろう!」(一九三五年十一月二日)

─イエズス─「貞潔の戦いにおいて、危いから、決して自分により頼んではいけない。神に対する信頼という武器のみを用いて、誘惑と戦い、耐え忍び、『兄弟姉妹たち』に悪いことをやめさせる恵みを、私が与えるよう、その誘惑との戦いをささげなさい!」


一九三五年十月二十日、ご聖体拝領後に、コンソラータが激しく誘惑された時、イエズスは慰めてくださった。「修道生活のはじめ、あなたが自分をささげた時の願いは、清さと愛だった。私の清浄潔白をあなたの中に注ぎいれてあげよう。あなたのどんな小さな行ないもすべて清浄の輝きの印を押されているように。秘密結社(フリーメイソン)の集会所で、ご聖体がどんな不潔物で汚されても、そのとうとい輝きを失うと思うか? いいえ、決して! ホスチアは、常に清く、汚れなく輝いている。あなたもそうであろう。」

─イエズス─「コンソラータ、悪魔に一度でも返事をしてはいけない。どんな攻撃をしてきても耐え忍び、神に対する愛にとどまりなさい! 貞潔の戦いの最中でも、あなたの愛の祈りは汚れなく私に達する。ホスチアのイエズスのように、汚されても愛の歌を続けなさい! 愛し、償い贖罪し、あなたの不幸な『兄弟』にゆるしと改心の恵みを請い求めなさい!」(一九三五年十月十六日)

コンソラータは自分の経験を語っている。

「肉欲の嵐の時、信頼に満ちて神にわが身をゆだね、イエズス、マリアに依り頼みつつ、天使祝詞を一度唱えました。貞潔の戦いは絶え間なく続きますが、神の御助けは強く、時にサタンのへつらいや悪い欲望、汚い空想に狼狽して、最もいとうべき悪の泥沼に落とされたように感じても、愛の祈りによって、防弾チョッキを着たように少しも傷つけられない者となります。落ち着いて、神の愛にとどまれば、自然に、戦いのすベては消えてしまいます。」

この戦いによってコンソラータは、愛の極致、貞潔の極致へ向かった。イエズスの御ことばによれば、コンソラータは愛と清浄潔白の使命をもって、そのことばと模範とにより、情欲の泥沼にあえぐ人々を、道徳的改心へと導くのである。生涯の終わりごろコンソラータは書いている。

「進め! 善徳の山へ向かって! 近い将来、情欲に沈んでいる『兄弟姉妹』のみならず、情欲を拝んでいる不幸な全人類が『愛の最も小さい道』によって、清浄潔白に導かれますように!」(一九四二年十二月二五日)

また同じく一九四二年十二月二十七日、書いている。「使徒聖ヨハネの祝日であるけさ、黙想の時次の朗読がありました。『全く清い人の象徴である聖福音史家ヨハネのような、死ぬまで清浄潔白を守った霊魂のみ、イエズスの聖心にやすむことを許されている(最後の晩さんの時)。しかし痛悔者の象徴である聖マリア・マグダレナには、十字架の足もとの場所だけが残っていた。』 これはたいへんなまちがいです。そういう考え方は霊魂に不信頼をもたらします。私は汚れた世界に向かってこう呼びかけることができます。『汚れた世界よ。あなたを待っていられるイエズスの聖心を仰ぎなさい! 全能なるイエズスは、堆肥の中から百合の花を咲かせることができます。イエズスはご苦難によって、あなたを清め、いま、その聖心の中で休ませたいと思ってらっしゃいます。イエズスは、このコンソラータすらあわれんでくださったのですから、ましてや、善意に満ちて、彼の全能なる愛を信じ、彼に帰る霊魂のために、多くのあわれみをかけてくださらないことがありましょうか?』」

〈従順〉

コンソラータは生涯のプログラムをきめる主義についてしるしている。「ある晩、イエズスがいけにえの羊とは何かをよく理解させてくださるため、死に至るまで従順であられたご自身をお示しになりましたので、私は従順をたいへん好んでおります。私の生涯についても『死に至るまで従順だった』と書かれますように!」

この従順の徳も簡単に得られたものではなく、長い間苦労して悪魔の猛烈な攻撃と戦わねばならなかった。自分を『兄弟』のいけにえとしてささげた時、貞潔とともに、従順の、永続的な戦いをも覚悟しなければならなかったのである。その二、三の例をあげよう。

「聖堂で母様のことを思い出すたびごとに心はいらいらとして悪魔のように怒り、いやな気持ちになりました。そしてそのことに気づくとこわくなってきました。でも貞潔の誘惑の時、不安になったでしょうか? いいえ、やっぱり落ち着いて愛することを続けます。だから、この反抗の考えに対しても同じようにしてみようと考えたら安心してきました。イエズスに向かい『私が母様をたいへん愛していることをご存じですね!』と祈るとすぐいらいらした考えは消えました。神よ、母様の心を一度も悲しませないように! いつでも母様に対してにこにこしますように! どうぞこの完全な従順と絶えざるほほえみの恵みをくださいませ!」

「母様をいとう気持ちをひとつの天使祝詞によってすぐ直すことができました。私の心の中のことを少しもご存じなく、そのあとすぐに何か願いごとのために近寄っておいでになりました。母様のことばは私の心に平安と喜びを新たに与えました。わが神よ、母様は修道女にとってなんという貴重な宝でしょう! 皆がこの平安と安全な道を悟りますように!」

のちに、イエズスは、コンソラータが院長に、自分の心の中のイエズスの御働きなどについて語ることを禁じたが、その他のことについてはすベて従順に院長に従った。

「母様に対して私はいつも開いた本のような態度をとっていますが、私という本のどのページを母様がお読みになるかについては、イエズスにお任せしています。イエズスは私に対するおぼしめしを、母様を通して実行なさいますので、私は従順な道具になりたいのです。イエズスと母様はすべての命令においてふしぎなほど一致しています。」

コンソラータは、悪魔が心の中に反感をいれても、院長のやり方を是非しない決心をしていた。時々その決心にそむくことがあると深く痛悔して償うように努めた。

「ある日、母様に言いすぎたことがありました。私はご聖体の前で自分の悪かったことをお詫びし、それを償うように助けてください、と祈りました。慈悲深いイエズスはその方法を教えてくださいました。母様の部屋にはいると洗濯をしていらっしゃいました。『まあ、母様、お忙しいのにそれもなさるのですか……』というが早いかすぐ洗濯もののはいった洗面器を取って洗濯場へ出かけました。

──イエズスのためいま洗濯をいたします! 心に平安がもどるためにはそれで十分でした。」 信仰の目をもって上長を神の代理者とみなすことは、たびたびたいへんむずかしい
ことだった。秘書としての役を果たすにも、何度も戦いを経験した。「せっかくていねいに書いた手紙を書き直すことは、最高の克己(こっき:自分の欲や悪い考えをおさえること)を要しました。心の中に大きな戦いが起こって涙が浮かんできましたが、命令どおりもう一度書き直しました。このごろ(一九三六年)いつも多くの手紙を書く仕事があります。神は多くの仕事よりも、愛のみを好みたもうことがわかりましたので、愛の心をもって手紙を書き、やはり愛の心をもって、直します。」

─イエズス─「便箋を余計使う責任は院長様に任せなさい。清貧のための熱中よりも、あなたの心の中の隠れた克己、盲目的な従順、人の命令や希望に『はい』ということ、会則を守らせる熱心のあまり買った反感に対する戦いなどが私は大好きだ。すべての人とすべてのことのうちに神のおぼしめしを悟って、『はい』ということを全然例外なしに実行しなさい。」(一九三五年十二月十三日聖ルチアの記念日)

院長のみでなく姉妹たちにも従順に従うよう努力した。修道生活の始めごろの助任コック時代のことだった。

「台所の仕事について相手の姉妹と意見が違い、いやだと思いました。しかしイエズスはそれを聖化のために利用してくださいました。いっしょに働いている姉妹は聖人のようなかたで、よく克己して朝から晩までにこにこと沈黙の中に働いていました。そのかたに感心しても、なかなかまねすることができませんでした。

ある日、私たちが魚を焼く前の処理をしていた時、もう四匹で終わるという時、台所の姉妹が来て『さあ焼き始めますから、できたものをすぐ持っていらっしゃい。』と言いました。相手のかたがきっと『ちょっと待ってください。二、三分で残った魚のうろこをとりますから。』というだろうと思いました。ところが『はい、すぐ』というと四匹はそのままに、洗いおけを洗い、きれいな水を入れて、切り分けるためにまないたを用意しました。私は負けずぎらいのため、わずか四匹のためにまた同じ手間を始めから繰り返さねばならぬと考え『あの、あなたがその魚を用意なさる間、私は四匹のうろことはらわたをとりましょうか?』と聞きました。しかし落ち着いた微笑を浮べて『だめです、コンソラータ、従順したほうがいいですよ。』と私の手から四匹の魚を取りました。その時、私の心の中は、火山が爆発したように激昂(げきこう:怒って興奮すること)してきました。しかたなく魚を洗って焼く準備をしたあとで、四匹のためまた全部はじめからやり直しました。この無邪気な四匹の魚は、私に対して血を流すまで鞭打たれるより以上の克己を要求しました。イエズスが私に要求なさる苦業とはそういうことでしたが、各瞬間、苦業の機会にはことかきませんでした。

個室で靴を直している時、突然急な手紙を書くよう頼まれたり、手紙を書いている最中、靴を直してくれと言われたり、そのたびごと、私のような者にとっては、非常に大きながまんが必要なのでした。イエズスが私のうちに働き、次のことがだんだんわかってきました。院長様や姉妹たちをとおして、イエズスがお頼みになったことを簡単に『はい』と答えてやり、自分の義務や、受け持った、頼まれ仕事を果たすことについては心配せず、イエズスの御働きに反対しないこと。」

コンソラータは決して生まれながらの聖人ではなかった。私たちと同じ弱さにみち満ちた人間で、善徳をうるため不断に戦わねばならなかったのである。聖人になるとは、真に、戦いではなかろうか?

コンソラータにとって指導司祭に対する従順も決して簡単ではなかった。指導司祭に書いている。

「従順によって光と力をいただく今の状態にあって、もしイエズスの代理者である指導司祭を持たないなら自分の使命を守れず、道を踏み迷う危険があります。私は従順についてイエズスと競争したいのです。やるべきこととやめるべきことについてちょっと合い図してください。それで十分です。」

 この霊的指導は、くわしいものではなく、ほんのわずかなものだったが、イエズスのお恵みに次いで、この指導に対する完全な従順によって、コンソラータは聖化の頂上へ到達することができた。

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