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【シスター・コンソラータ ー 愛の最も小さい道 ー】(第4部・第23章)

2022-09-04 15:16:51 | 日記
第二十三章 心のカルワリオ

〈イエズスと二人のみ〉

イエズスがコンソラータを「兄弟たち」のいけにえとしてお選びになった時、「私の責め苦はあなたの責め苦、私の最も深い苦悶はあなたの苦悶、私のきわめて甚大な殉難はあなたの殉難となるだろう。あなたの心はそれらのすべてを体験するのだ!」と仰せられたが、その御ことばは、文字どおり成就された。イエズスがご苦難の時、弟子たちも奪われて全くひとりで敵の手に落ちたように、コンソラータも絶対的にすべての人からはずされて、全くひとりとなった。

心の暗やみの最中で、指導司祭の霊的指導は、コンソラータの心のささえであったが、今はそれをも犠牲にするようにイエズスは命じた。モリオンドヘひっこししてから四年間ぐらい、コンソラータは指導司祭に直接会うことができなくなった。毎週告解を聞く司祭は、罪のゆるしは与えられたが、霊的指導と励ましを与えることはできなかった。

一九三九年十一月書いた。「サタンはひどく攻撃してきて、告解に対して最もひどい嫌悪を私の中に起こしました。けれども、私は神の恩恵に強められて、人々が告解する時、汚聖をしないために、毎週の告解のカルワリオから絶対におりず、甘んじて告解をいたします。」

コンソラータは少なくとも通信によって、暗やみを案内してくれる指導者がほしかったであろう。だがイエズスは、指導司祭に完全に服従するという誓約を、イエズスの御勧めに完全に服従するという誓約に改めるよう命じた。一九四〇年五月、院長は命令なしに指導司祭と通信しあうことを禁止した。長い最も困難に満ちた四年間、コンソラータのことばを借りれば、全く隠れてはおられるけれどもましましたもう神の御あわれみにゆだねられて、第二世界大戦の大波のゆらいでいる、狂ったまっくらな海を、まだ生まれて幾月も経たぬ赤んぼうが、小さなかごにたったひとり入れられて、よろめきながら、進んでいったのである。

〈コンソラータと第二次世界大戦〉

一九三九年ドイツがポーランドと戦争を開始するや、英仏はドイツに宣戦布告し、戦争の大火が全世界に広がった。

コンソラータは、十字架にくぎづけられながらも、平和のため、特に祖国イタリアが参戦しないよう夢中で祈り、何度もその目的のため自分の命を神にささげたが、遂に一九四〇年六月十一日イタリアも第二世界大戦に参戦した。それによっていけにえであるコンソラータは、日増しにいけにえの殉難と苦悶を増し加えていったのである。

「イエズスは血の春が来ると預言されました。けれども私は愛するイタリアは決して戦争にはいらぬと思って──いいえ、堅く信じて、わが国を救うため、どんな犠牲をも覚悟しました。イタリアが戦争になるという苦難のカリスに対して、私の全体はひどく反対し、一生懸命に祈り、犠牲を果たして、何度も『イエズスよ、あなたの望みたもうあるゆる殉難を私にふりそそいでください。けれども決して、決して、決してイタリアを戦争になさらないでください。』とお願いしました。一九一四年から一九一八年までの第一次世界大戦の苦しい思い出はまだ心に生き生きとしていますのに……」

イタリアが参戦したため、コンソラータの十字架の殉難は数倍になってきた。
「一九四〇年六月十一日の夜、私たちは機関銃の音と飛行機のとどろきによって目ざめました。私は病気で熱があったため防空壕から個室へ帰され、空から敵の来襲と攻撃を見ました。火事を見、爆弾の命中するのを聞いてもまだ、単なる演習だと思っておりました。それで一心に『イエズスよ、望みたもうすべての殉難を! 戦争を防ぎたまえ!』と祈り、聞き入れてくださらないことを心配して神の御母にもお助けを願いました。憂き人の慰め手(コンソラータ)なる聖母に対する九日間の信心を始めたのです。

眠れないその夜、聖母が私の上にかがみ、私をその御心にいだいて『勇気を出しなさい。コンソラータ』と仰せになり、その御涙が一滴、私の額に落ちたのを感じました。なぜ聖母は泣かれたのでしょうか!……もうお姿は消えました。その御涙は私をひどい失望に準備させるためのものでした。四時ごろ眠りにはいり、信仰のみによってご聖体拝領し、八時ごろ、事の真実、すなわちイタリアの参戦を知りました。私は一時間イエズスと戦いましたが、カリスをその滓まで飲みました。その時、神は悪からさえも善を引き出しうるという確信を得、また心は平安となりました。けれども苦しさのあまり熱が非常に高くなり、また眠りました。イエズスよ、おゆるしください! 私はあなたが私やトリノ市、イタリア、全世界を愛したもうことを堅く信じます。私を清め、救いたまえ。」

コンソラータは、贖罪と、とりなしのため、全世界の見渡されぬほど広大な苦難の海を自分の心で抱擁するいけにえとして神から任命された。

一九四〇年十二月八日無原罪の御やどりの祝日に書いている。「朝課の時、ほんのわずかの間聖マリアは、私の心痛に沈むあわれな霊魂にイエズスを見せてくださいました。ほんの瞬間だけでした。けれども十分でした。……私は霊魂の目で十字架上でご死去なさるイエズスが人々の愛にかわいて無限に悲しいご様子をしておられるのを見ました。だれが臨終の聖心の御もだえを言い表わすことができましょうか! ああもし人々が、国同士の殺し合いを見る聖心の苦悶、また全世界の人々のすべての殉難が潮のように慈悲なる聖心に上ってゆくことを知ったならば! 神のご苦悶、ご難儀のすべてを考え尽くすことはだれにもできません。」

イエズスはエルザレムの運命と来たるべき全滅について泣きたもうた(ルカ19-41)。けれどもイエズスの御涙は、エルザレムについてだけではなく、すべての世紀のすべての国、すべての民の上に来る災いと不幸のために泣かれたのである。同様にコンソラータは、トリノのため、祖国のために泣いたが、同時に世界のために泣き、自分のいけにえとしての使命が増加するにつれて、ますます凄惨になってゆく戦争の苦しみに参加した。一九四五年十一月コンソラータは書いた。

「イエズスは国々を罰して、のちに人々の心を愛へと励ましてくださるでしょう。『愛の最も小さい道』によって。そこで私たちはまずイタリア、そしてだんだん全世界に『イエズス、マリア、あなたを愛します。霊魂を救ってください!』を広めるため、一生懸命運動しましょう。」

トリノ市はじめ、イタリア全土はますますひどく爆撃されたため、コンソラータの心はますます激しく苦しんだ。そして一心にトリノと祖国のために祈った。疎開が始まり、トリノの修道院の修道女たちは皆モリオンドの修道院に疎開した。

戦争の後半にはいるとイタリアの十字架の道はカルワリオに近づき、無残をきわめた。一九四三年七月二十六日ムッソリーニが退職、同年九月八日にイタリアは英米と休戦したので、ドイツと戦争することになった。南方からは英米、北方からはドイツが攻めて来て、イタリアの遊撃兵と戦った。イタリア全国は同胞相撃つ混沌たる激しい遊撃戦の場となり、その残虐、乱暴、拷問、また飛行機の絶え間ない来襲によって一九四三年九月から一九四五年五月まで筆舌に絶する殉難に沈められた。そのころ書かれたコンソラータの日記は、涙と血で書かれた戦争日記のようになっている。

「私がカプチン修道者として過ごした十五年間で流した涙のうち、最も苦しかったものは、国のために流した涙でした。神のみ摂理によって今、イタリアは非常に苦しんでいるので、将来神は、イタリアに多くの恩恵を与えてくださると確信しています。ああ、今、私の生活は、どんな無残な殺され方よりも苦しいものです。私が知り、愛していた若い人たちが、同胞の手によって殺されたことを思い、きょう私は言い表わされぬ悩み、果てしない悲しみに満ちて、早くこの虐殺を終わらせてくださいますよう、私の祈りを神にささげました。しかし私の祈りはききめがないことを感じています。天はまだお許しにならず、神の御目は他のほうへ向いておられるようです。私は今の生活を承知するほうが、命をささげるよりも、堪えられぬほどむずかしいことを今まざまざと経験しています。……神は私に死ぬことを要求なさらず、絶え間ない愛の心だけを要求しておいでになります。ああ、同胞の恨み、虐殺、全滅などを見ても、全然助けることはできないのです。」(一九四四年二月二二日)

「私は十字架の足もとにたたずんでおられた聖母の悲しみを深く理解してきました。こう思います。十字架の上で無残に苦しんでおられる御子を見ても少しも助けることができず、そのとうといご生命を自分の生命と交換することを望んでもできなかったのは、どんなに名状しがたい苦痛だったでしょう。私の同胞が苦しむのを見て何もできないこと、自分のからだをずたずたに引き裂いて平和のためにささげたくともできないことは、私にとってきわめてにがい苦しみのカリスです。」──「私を純化させ、み国がこの世のものでないことを悟らせるために、イエズスはたいへん苦労しておいでになります。おかわいそうなイエズス、私はもう泣くことをやめます。霊魂を救うため、私は苦しい涙をおさえてカリスを飲み、その滓までも飲みほします。聖母マリアは仰せられました。『命をささげることと比べものにならないほど大きな苦痛があります。』」(一九四四年四月二九日)

コンソラータは恵みに導かれて、トリノとイタリアについての苦悶からイエズスの立場に高められ、全世界のすべての悩める人々、遂には全世界のすべての霊魂を抱擁するようになった。「私の国は世界であり、私の家庭は哀れな全人類です!」と。コンソラータの生活は世界のすべての霊魂のための絶えざる祈り、絶えざる犠牲、絶えざる愛となったのである。

前には教会の祝日を喜びに満ちて祝ったが、今ではその喜びを犠牲にしてただ霊魂を救いたいというあこがれのみで、自分は完全な犠牲となってすべてを黙々と忍んだ。例えば一九四二年の待降節は全部、収容所に悩む捕虜、戦場で戦死する兵隊、満員の野戦病院で寝ている負傷兵、牢獄に苦しむ囚人、その他地上の至る所にいる哀れな人、絶望者などの心に幼きイエズスが新たにお生まれになるようにと祈ることにささげた。

人間の心にとって絶望ほど苦しいものがあろうかということに気づくと、コンソラータは、すべての絶望者を助けるため、彼らの苦難を自分の上に願った。

「全世界の苦しみの海に沈められながら、私は絶望と戦うことによって、哀れな絶望者たちの絶望を少しでも和らげることができると思いました。」 彼らの絶望にはたびたび圧制者に対する恨みが混じっている。

「ひどい残虐、ものすごい乱暴さ、無罪者の死刑などの話を聞き、私の霊魂は圧倒されて、聖櫃の前で、『イエズスよ、この重罪人をすべて追い払ってください!』と祈りました。けれども、あとで十字架の道行をしてすべての霊魂のために祈っている時、かの残虐乱暴な重罪人たちも私の祈りにはいっていることを悟り、『父よ、彼らは何をしているか知らないから、彼らをおゆるしください。』(ルカ24-34)とのイエズスの祈りが、私の心に響いてきました。それで犠牲者のためばかりではなく、刑吏たちのためにも祈りました。迫害する者のために祈るかと思うと憤慨の念も禁じ得ませんでしたけれども。」

コンソラータはこの第二次大戦ちゅう年々ここに記載した以外に、戦時のいけにえとしての生活を記録したが、全ぺージどこにも、同じ深い同情と、名状しがたい心の苦痛がにじみ出ている。

「私は家のだれかが戦争の犠牲になることを心配していましたが、今、私の家庭は、全世界であることがわかってきました。」(一九四二年十一月)

「もうすぐ私は慰め手(コンソラータ)になります。そしてため息をつき、絶望し、恨み、のろっている霊魂に愛を尽くすでしょう。祖国のための苦悩は、今、全世界のための苦悩となりました。私は今、全世界の霊魂のための使命を担っていることを感じます。」

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