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ニケア・コンスタンチノープル信条を唱える意味

2022-09-05 13:13:25 | 日記
【ニケア・コンスタンチノープル信条を唱える意味】

日本の教会ではミサ中に、洗礼式のときに唱える略式の信仰宣言を
唱えていたが、本来ミサ中には、ニケア・コンスタンチノープル信条を
唱えるようになっているらしい。

また「信仰年」開催ミサの式文でも、使徒信条のところでこの信条を
唱えるように書かれていた。

なぜか? 

ニケア・コンスタンチノープル信条を唱えてみてはっきり分かるのは、
使徒信条と違って、「キリストの神性」が非常に明確にされている、
ということだ。

 「神よりの神、光よりの光、
まことの神よりのまことの神
 造られずして生まれ、父と一体なり。
すべては主によりて造られたり。」

 近年、キリストの神性はくらまされている。それはいろいろな理由による。

 「下からのキリスト論」と言われるものは、キリストの人間としての
側面を照らしてくれるのでそれなりに意味が大きかったと思う。
しかし人間性を強調すれば神性が見過ごされがちになることが
過去にもたびたびあったように、現代にもある。

キリストは人間であって神ではない、とどこかで思っている
神学者、司祭、信徒も増えている。世界的な現象だ。
何となくあいまいな空気が生まれているのは確かだ。

そんな空気の中で、ニケア・コンスタンチノープル信条をミサ中に
唱えるようにとの勧めは、大変意味あることのように思える。

ニケア・コンスタンチノープル信条とは何か。

 信徒が神の教えを大事な点で間違えることがないように、ニケア公会議
(325年)で教義決定された内容を簡潔に信条に盛り込み(ニケア信条)、
第1コンスタンチノープル公会議(381年)によって僅かに補足され
(ニケア・コンスタンチノープル信条)、カルケドン公会議(451年)
にて満場一致で承認されたものだ。

ニケア公会議(325年)では特に、「キリストは優れた人間以上の
ものではなく、神ではない」という異端と対決したものだ。
その異端とは当時教会を二分するほどの猛威を振るっていた
アレイオス派(アリウス派)。

これに対して公会議は使徒からの教えを忠実に展開し、
「キリストは神である」ことを確認した。

 「キリストは神ではない」とは、現代あいまいな表現をもって
キリスト信者の間に入り込んで来ているものであるが、
ニケア公会議によってすでに答えが示されているものなのだ。
しかし教会史上、何度もこの異端は繰り返された。
現代ではキリスト教系新興宗教の中で再現されている。

この信条をミサ中に唱えることを、見直したいものだ。

(「神父の放言」より掲載)


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