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ハマの街から 

日々の暮らしや自然、民俗、世相などを見つめています。

大切な人を思い、懸命に生きる人々を描いた重松清著『送り火』を読んで

2008年04月18日 | 
 人は誰しも歴史をもっている。どんな町の片隅の陋巷に住む「庶民」といわれる者でも、その人なりの歴史をもっている。それはささやかなものであるかもしれない。誰にも顧みられず、ただ時の流れに消え去るものであるかもしれない。しかし、その人なりの歴史、個人史は、当人にとってはかけがいのない”生きた証し”であり、無限の想い出を秘めた喜怒哀楽の足跡なのである。―この足跡を軽んずる資格をもつ人間など、誰ひとり存在しない。〔色川大吉著『ある昭和史―自分史の試み』より〕

 私が最近読んだ重松清氏の短編集『送り火』のなかに収録されているその表題作は、もちろん創作の世界だが、そこで繰り広げられている”人間模様”は会社や地域での人間関係以上に家族や家庭という最低の単位の世界における営みこそ、まさにかけがいのない、無限の想い出を秘めた喜怒哀楽の足跡であり、ドラマであるということを改めて端的に証明しているということを実感させてくれる作品だった。同時にまるで優れた「テレビドラマ」でも見ているような感慨にとらわれた。

 ヒロインの弥生子の父は彼女が小学四年生の時に、つまり、それは分譲されたばかりのドリーム団地に引越して来た三年後に亡くなっている。その後、弥生子はいわゆる”母子家庭”の生活を余儀なくされる。この父親の喪失が弥生子のその後の人生にもたらした「影の部分」は一種、トラウマとなっていまだ尾を引いていた。こうした幼くして親を亡くした人生体験を持たぬ私にはそのことの言葉では言い表せぬほどの悲しみや憎しみなどの心理については想像で補うしかない。

 その辺の独特な心理描写については、重松氏は「あまりにも突然だった父親の死に、悲しむよりもただ呆然とするだけだった弥生子は、そのとき初めて泣いた。声を出さずに、涙をぽろぽろ流した。悲しみの涙だったのか悔し涙だったのかは、いまでも、わからない」「日曜日の寂しさは、どんなにしても消せない。遊園地がにぎやかすぎる。家族連れの声が、窓を閉め切っていても部屋に流れ込んでくる。引っ越してしまいたかった。父親と一緒にいる子供たちを見ると寂しさがつのってしまうのもわかっていたからいつも断った」と弥生子の視点でリアリテイを持って表現している。

 弥生子の父に対する屈折した思い。その思いが母との対話によって、少しずつ変化を見せて行く。「昔の親は、家族の幸せを思うとき、なぜか自分自身は勘定に入ってなかったんだよね…」という言葉は実に重い。年老いた母を新たな自分たちの家に同居させようと説得する思惑を抱いて、一晩、弥生子は母子のふたりきりになる。そこで初めて母から聞かされた父の弥生子に対する思い、そしてその夜に体験する「家族三人の遊園地での出来事」。家族といえども、不条理的な展開や行き違いから誤解や心理的に屈折した感情を長らく引きずることがあるだろう。ましてや、理由は何であれ、幼くして親を亡くした子供たちはその後、どのようにして生きていけばよいか。

 時間がかかっても、弥生子が「お父さん、こっちだよ、わかる?」と父に向けて発するくらいにようやく受け入れる心境になったラストは感動的だ。”送り火”は一般的には祖先の精霊を送るために焚く火のことだが、この作品ではいまだ”成仏”出来ずにいた弥生子の子供時代の「やえちゃん」の魂〔あるいはトラウマ〕に対する行為として私は読んだ。いずれにしても、家族こそ、かけがいのない存在だということを改めて実感させてくれる作品だった。

 

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6 コメント

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こんにちは (きてぃ)
2008-04-21 14:25:36
 さっき間違ったURLを貼ってしまった気がするので、さっきのコメントは削除してください!

 改めて。表題作含む“送り火”という短編集は「アーバンホラー」と銘打たれていますが、ホラーというよりむしろヒューマンドラマ色が強い気がします。私は最初の猫の話なんかも好きですね。よければ重松清さんの「きよしこ」なんかも読んでみてください。
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『きよしこ』も期待していますよ! (片山)
2008-04-22 18:19:42
 きてぃさん、こんにちは。
 正直に言って、私はこの"アンバーホラー"という語句を今回初めて目にしました。ホラー小説にも更に幾つかのジャンルがあるみたいですね。でも、ネットで調べてみたけど、アンバーホラーに関したサイトは無かったのが残念でした。現代が舞台という点では"モダン・ホラー"の側面もあるようだし、亡くなったおばあちゃんたちと猫が登場するあたりは"カルトホラー"の要素もあるようだし。まぁ、これは余談ですが…。

 ところで、私はまだ「送り火」と「フジミ荘奇譚」の2作しか読んでいないけど、その印象からすれば、きてぃさんの指摘に同感ですね。確かに、怖い部分もあるけど、どこにも居そうな市井の人びとを主人公に仕立てて展開するその人間くさいドラマはまさに"感動系"そのものという感じです。恐らく重松さんは架空の私鉄路線の富士見線をキーワードにして、ホラーという黒地を背景に人間のハイライトの部分を浮かび上がらせる手法としてそれをたくみに使っているのかも知れませんね。

 「文庫版のためのあとがき」に見られる重松さんの文体や感性やはたまた人生観などにも強い共感を覚えました。『送り火』の次には『きよしこ』を予定に入れるつもりです〔笑〕


 
 
 
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こんばんは (きてぃ)
2008-04-22 23:32:49
 「アーバンホラー」というのは、たぶん出版社側の造語ではないでしょうか。私が買ったハードカバー版の帯には「アーバンホラー」と銘打たれていましたが、たぶん、町を舞台にしたホラーっていう意味だと思いますよ。
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アーバンホラーについて (片山)
2008-04-23 15:08:57
 きてぃさん、こんにちは。
 アーバンホラーと書いたつもりが"アンバーホラー"になっていました。単純なポカミスですね〔泣〕

 「アーバンホラー」についての意味を教えてくれてお礼を言います。「町を舞台にしたホラー」と「出版社による造語」というきてぃさんの解釈・推理はなかなか説得力がありますね。
 
 ちなみにアーバンという単語を調べたら、琥珀あるいは琥珀色と説明されていました。琥珀には良く地質時代の昆虫などが樹脂のなかに閉じ込められて化石になっているケースがあるそうですね。なんか、町の舞台が琥珀で、そのなかに閉じ込められている昆虫類が色々なドラマを演じる人間というイメージと重なり、妙に納得しています。かなり強引な自分勝手な解釈ですが〔笑〕

 ところで、書店に行ったら『きよしこ』の在庫が無く、予約をしてきましたよ。楽しみです。
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こんばんは (きてぃ)
2008-04-24 22:09:20
 この場合のアーバンは英語のurbanで「都市の」という意味ですね。富士宮線(でしたよね?)沿線の人々の生活を描いたホラーということでしょう。
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アーバンについて (片山)
2008-04-25 18:46:29
 きてぃさん、こんばんは。
 この間の二度に渡る"アーバン"についての説明でようやく納得です。改めて、お礼を言います。辞書で調べてみたら、確かに「都市の。都会ふうの」と書いてありました。その逆が"ルーラル"とも。従って、琥珀を意味する"アンバー"はこの場合は、全く意味を成さないことも判りました〔恥〕
 ところで、架空の私鉄路線は富士宮線ではなく、富士見線ですよ。これはちゃんと確認済みだから、きてぃさんの勘違いだと思います。
 これまで、この間、更に「ハードラック・ウーマン」と「かげぜん」に2作を読みました。「送り火」「フジミ荘奇譚」を含めて4作読んで思うことは、どれも完成度が高く、いずれも読み応え充分という印象を強く持ちましたよ。手を抜いたようなものや、駄作が無い。こういう短編集も珍しいのではないでしょうか。重松氏の筆力にはただただ脱帽という感じです。
 
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