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仏道

SRKWブッダによる内容を主になぞるものとなります。

(19)HP(理法【011】智慧)

2020-03-13 05:48:50 | 日記
理法【011】 智慧


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初めてSRKWブッダのホームページを見る方などを想定し、ブログを初め、その全ては、令和2年1月2日から9日にかけて書いた5回分となります。(^^)
1回目
https://blog.goo.ne.jp/kassii/e/75047f9bda8af97e353ade6cdc27745b
その上で、それ以外のブログに興味をお持ちいただき御覧いただければ、幸いです。m(_ _)m
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⭕ホームページの引用始まり⭕

「それ」を正しく理解するならば、直ちに覚りの境地に至るその知見を<智慧>と名づける。 この摩訶不思議なる働きこそが智慧の本質でありすべてである。 したがって、人をして覚りの境地に至らしめることの無いあらゆる知見、(哲学的)見解、知識、見識などは智慧ではないと知らねばならない。

智慧は、人をして一気に覚りの境地に至らしめるものである。 したがって、人をして段階的な精神的境界へも導くものであると世人が見なし信じているものは智慧ではない。 すべからく、覚りは頓悟であって漸悟ではないと知られるからである。

智慧の余韻は、完全な後味のよさを有している。 敢えて説明すれば、智慧を用いるときにはそれを用いる前も喜ばしく、用いている最中も喜ばしく、用いた後も喜ばしいという確かな認識が起こる。 また、智慧は、それを用いた本人にとっても喜ばしく、相手にとっても喜ばしく、それを目撃した人々(ギャラリー)にとっても喜ばしく、またその顛末を聞き及んだ現在の人々、および未来の人々にとっても喜ばしいものとなる。

智慧が顕わになったとき、人は生まれて初めての〈特殊な感動〉を味わう。 この特殊な感動は、世間で知られる種々さまざまな感動とは明らかに違っている。 具体的には、絵画、音楽、文学、映画、芸能、食事、飲料、香料、マッサージなどの接触、ダンスやスポーツのハイ、祭りなどの一体感などから得られる感動や情動とは違うのでそれと分かるのである。 また、この特殊な感動は、それを知る人がふと想い起こしたとき、褪せることなく何度でも繰り返し味わうことが出来るものであり、その味わいは時を経ても損なわれることがない。 それゆえに、これを〈特殊な感動〉と呼ぶのである。

智慧は、それが現出した苦の状況(シチュエーション)における唯一の完全な解決法である。 したがって、智慧よりすぐれた答えはあり得ない。 すなわち、智慧は、その状況についての一意で、一義で、最勝で、完璧で、完全なただ一つの答えである。 したがって、そうでないもの、すなわち繰り返される性質のものや使い廻しできるものは智慧ではないと知られるのである。

智慧は、対象についてのあらゆる思惟・考研の埒外にある。 したがって、何をどのように分析したり、綜合したり、統合したり、実践したり、理論づけしたりしても智慧を得ることはできない。 智慧は、科学的にも、哲学的にも、法学的にも、神学的にも導き出すことはできないものである。 すなわち、智慧は生まれてこの方、見たり、聞いたり、考えたり、想像したり、経験したり、議論したり、あるいは思い込んだりしたあらゆることがらの総体を超えている。

智慧は、あらゆる分別を超越した所から出てくるものであり、それゆえに無分別智とも名づけられる。 言い換えるならば、智慧を出すために、何かを勉強したり、話し合ったり、考えたり、経験したり、想像したり、見聞を広めたりする必要は何も無い。 なぜならば、智慧はそのようなこととは無関係に突如として人の身に顕現するものであるからである。 すなわち、智慧は人類が作為したものでは無く、人類のあらゆる経験要素を超越し、さらに集合的要素さえも超越したものであり、いわばそれらとは無関係に存在する”何か”である。

智慧は、もしそれを一つでも得れば完備(コンプリート)なる無限の智慧すべてを得ることができる。 それは、例えば赤色という色をたった一つでも知ったならば、それと同時に無数の赤色をすべて知ったことになることに似ている。 すなわち、赤色という色をすでに知った人は、(生まれて初めて見る)別の赤色を見てもそれが赤色であると正しく認識できるようになるからである。 完備なる智慧を得ることも現象論的にはそれと同じであると言って差し支えない。 すなわち、ある人がもしもたった一つでも智慧を得たならば、かれは他の状況(シチュエーション)において生まれて初めて思い浮かんだ他の知見(智慧)が、まさしく智慧であることがはっきりと分かるようになるからである。 このように、ひとたび智慧が顕現するとき、完備された智慧のすべてを漏らさず理解できるようになるゆえに、智慧を<無漏智>とも呼びならわす。 また、智慧は完備されていて何一つ付け加えるべきものが無く、逆に何一つ取り外すべきものも無いという意味で、<不増不減>とも言われる。

智慧が顕わになったとき、智慧を生じたという正しい認識(=智)が起こる。 この認識の一つは、すでに上で述べた智慧の味わい(金剛般若経に言う「応無所住而生其心」)のことであるが、それとは別にはっきりとした認識を生じるのである。 それは、自らの身に間違いなく智慧を生じたのだという直なる認識である。 人は智慧を生じたとき、智慧を生じたという疑う余地のない確信を得るのである。 それは例えば、大人には自分が間違いなく大人であるというはっきりとした直なる認識と疑う余地のない確信があるようなものである。 大人は、自分がもう子供じみたいかなる行為も出来なくなっているという事実の認識がある。 智慧を生じたという認識・確信も同様なものである。 それは、他の誰かに認定してもらう必要もないものであり、かれにとってそれは自明のこととして認知されるものである。


[補足説明]
智慧は働きであり、その根元は法華経に言う「諸仏の誓願」に他ならない。 このことを詳しく知りたい人は、法華経・方便品第二を参照するとよいであろう。

  → 諸仏の誓願(法華経 方便品第二から引用)


⭕ホームページの引用終わり⭕


ポイントを整理してみます。もっとも、文章全体がポイントであり、完備されたものなので、元の文章の方をきちんと見る必要がありますが。


○正しく理解するならば、直ちに覚りの境地に至る知見を<智慧>と名づける。 

○智慧の余韻は、完全な後味のよさを有している。(智慧を用いる者にとって、智慧を用いるときにはそれを用いる前も喜ばしく、用いている最中も喜ばしく、用いた後も喜ばしいという確かな認識が起こる。 また、相手にとっても喜ばしく、それを目撃した人々(ギャラリー)にとっても喜ばしく、またその顛末を聞き及んだ現在の人々、および未来の人々にとっても喜ばしいものとなる。)


○智慧が顕わになったとき、人は生まれて初めての〈特殊な感動〉を味わう。 


○智慧は、それが現出した苦の状況(シチュエーション)における唯一の完全な解決法である。

○智慧は、もしそれを一つでも得れば完備(コンプリート)なる無限の智慧すべてを得ることができる。ひとたび智慧が顕現するとき、完備された智慧のすべてを漏らさず理解できるようになる。

○智慧は働きであり、その根元は法華経に言う「諸仏の誓願」に他ならない。 


もう少しまとめてみます。


その根元が「諸仏の誓願」である智慧を正しく理解し、一つでも得れば智慧が顕現し、無限の智慧すべてを得、直ちに覚りの境地に至ることになる。


ここで顕現の意味をネットで検索すると、「はっきりと姿が現れること」とありました。





(18)HP(理法【010】見事に説かれた言葉)

2020-03-10 05:52:52 | 日記
理法【010】見事に説かれた言葉


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⭕ホームページの引用始まり⭕


およそ世の中において、見事に説かれた言葉は四種ある。 これら四種の言葉は、それぞれの因縁によってときとして世に現れ出て、この世を清浄ならしめんとするのである。

 見事に説かれた言葉(法の句)
 正しい理を語った言葉(理法)
 耳に好ましい言葉(思いやる言葉)
 真実を指摘する言葉(虚妄ならざる言葉,真理)


[見事に説かれた言葉]
見事に説かれた言葉とは、(法身たる)諸仏が人の口を借りて世に発した「法の句」。 すなわち、「善知識の言葉(善知識)」である。 人は、この言葉を聞きそれを正しく理解することによって、覚りに至るのである。 これが、四種の中で最上の言葉である。

[正しい理を語った言葉]
ブッダ(覚者)が語る正しい理(ことわり)、すなわち理法である。 人は、理法を聞いて覚りの境地の虚妄ならざることを知るのである。 ところで、ブッダ は、必ずしも「法の句」を語る人ではない。 ブッダは、かつて「法の句」を聞き、その意味するところを正しく理解した経験を有する人であるが、だからと 言って「法の句」を語るとは限らないからである。

例えば、プロポーズの言葉は「愛の告白」であり、それを相手が受け入れてくれるならば結婚して愛を得ることができる。 しかしながら、夫になった男性はもう愛の告白をすることはない。 夫はすでに愛を知っている人であり、愛を体現している人ではあるが、愛する人に向かってふたたび愛の告白をする人ではないからである。 夫が愛を語ることはあるであろうが、「愛の告白」は一生に一度の言葉であり、繰り返し発せられる言葉では無いからである。 そのような意味で、必ずしもブッダは法の句を語る善知識とはならないのである。(例外はある)

[耳に好ましい言葉]
人生には多くの悲しみがあることを知って、相手をこころから思いやった結果発せられる言葉である。 相手に言いたいことはいろいろとあるけれども、敢えてそれらの多くを捨て去って、注意深く選んだ耳に好ましい言葉のみを語るのである。

[真実を指摘する言葉,真理]
それを言えば相手に嫌われるかも知れないことを承知の上で、敢えて語られる虚妄ならざる言葉である。 相手に対する慈しみの思いから発せられる言葉である。 相手の、悪しき癖を(良かれと思って)指摘する真実の言葉である。 自分のことを棚に上げ、非難を覚悟の上で敢えて発する真実の言葉である。


[補足説明]
たとえば、子供達が大人になるのは大人の説教を聞いたからではない。 子供達が大人になるのは、子供達どうしのやりとりの中においてである。 子供達が大人になるときに本当に必要なのは、信頼できる友達が放つ本気の一言である。 かれはたとえば次のように言うであろう。

 『いつまでもこんな子供じみたことやってられねェよ!』

法の句は、いわばこのようなものとして世に出現する。

⭕ホームページの引用終わり⭕


【スッタニパータ】450

立派な人々は説いた──

[Ⅰ]最上の善いことばを語れ。 (これが第一である。) 

[Ⅱ]正しい理を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。 

[Ⅲ]好ましいことばを語れ。 好ましからぬことばを語るな。これが第三である。 

[Ⅳ]真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である。


せっかくのブログですから、何かコメントをと考えていたのですが、できませんでした。


(17)HP(理法【009】覚りのプロセス)

2020-03-04 05:58:39 | 日記
理法【009】覚りのプロセス

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⭕ホームページの引用始まり⭕


人が覚りに至るプロセスは、因縁によるものであって、世間的に言うところの学問、努力、誓戒、見解などによるものではありません。 なぜならば、覚りに至るプロセスは、決まった道筋に従って順次進めていく性質のものでは無く、いわばそのときが来ればそのようになるという性質のものであるからです。(頓悟)  したがって、それを体系的に説明することは不可能です。 表題では敢えてプロセスという表現を用いましたが、プロセスという言い方は厳密に言えばふさわしいものではありません。 このような事情から、覚りの境地に至る道筋を言葉で説明しようとすること自体が本来的に困難なことですが、以下ではその道筋を譬喩の形で説明することを試みています。

最初に逆説的例示を行いますが、そこで例示したプロセスや修行方法がまったくの無駄なやり方であるということではありません。 しかしながら、それらの方法自体およびそれらのいかなる発展形であっても、それを覚りに至る直接のプロセスとして位置づけることはできないのです。

次に、覚りに至る正攻法的プロセスの説明を行いますが、そこで述べたことも、それをそのまま実行しても何ら意味はありません。 なぜならば、それらは元々覚りのプロセスと何ら関係無いことを、あくまでも覚りの境地に至ることについての譬喩として引用する形で述べたものに過ぎないからです(方便の説)。 したがって、人がそれらをそのままに、あるいはそれらの様々な発展形を模索して実行したとしても、覚りに至るプロセスが見いだされることはあり得ません。

なぜ本項を設けたのか? その理由は、覚りのプロセスが(人が敢えて作為せざるところの)因縁によるということの真実について、せめてそれがどのようなものであるかの雰囲気なりを知らせることなのです。


[○○ではありません:逆説的例示]
■ 例えば、どこか行きたい場所があるとしたとき、実際にそこに行ったことがある人にそこに行き着くまでの道筋や目印を聞き、地図を描いてもらうことでしょう。 その地図を注意深く見ながら、そして聞き覚えた目印を確認しつつ目的地へと順次向かって行くならば、途中で間違えさえしない限り目的地に到達することでしょう。 しかしながら、覚りのプロセスはそのようなものではありません。 覚りの体現者が経験したことはあくまでも本人にのみ通用するユニークな体験であって、人にそれをそのまま伝えても意味を為しませんし、何らの目印にもならないからです。 また、地図を描こうにも人々(衆生)の出発点は皆違っていて、地図の起点を特定することができないのです。

■ 例えば、スポーツなどの技能を身につけたいと欲するとき、適当なスポーツジムに通い、コーチの指導を受けることでしょう。 そのように努力している中に、きっと最初に考えていた技能を身につけるに至ることでしょう。 場合によっては、当初考えていた以上の技能を身につけることもあるでしょう。 しかしながら、覚りのプロセスはそのようなものではありません。 覚りの境地には決まった形がある訳では無いために、それを誰かがコーチする訳にはいかないからです。

■ 例えば、書道を究めて書家になりたいと欲したとき、適切な先生について指導を仰ぐだけでなく、素晴らしい墨跡を沢山臨書することでしょう。 そのように努力している中に、良い字とは何かが自然と分かるようになり、自分でも独自の書法を編み出してついには書家になるであろうことが期待され得ます。  同様に、覚れる人の動作や行為を真似することによって、それを吸収し、自分のものとすることができるのでしょうか? しかし、それは叶わないことです。 覚りの境地は、覚れる人(ブッダ)の行為を真似することで得られるものではないからです。 それは、例えば子供がいかに大人の真似をしても、決してそれだけによって大人になる訳では無いようなものです。 また、このような努力は、書道であれば書家になれずにただ癖字になってしまう恐れがあるように、そのルーチンが望みのところに辿り着くことを約束してくれる訳では無いからです。 悲惨なことですが、努力すればするほど癖字になってしまう人があるように、努力すればするほど覚りの境地から遠ざかってしまう人もあるからです。

■ 例えば、健康を願う人が、毎日の食事の内容を細かく科学的に分析し、不足している栄養素が無いようにと気を配り、毎日の献立を注意深く計算して食事をとったとしても、それだけで健康が得られるとは限りません。 健康であるとは、何を食べても美味しく頂くことができ、毎日の献立は決して計画的なものでは無いにも関わらず自然と得られるもの、それが健康であるからです。 健康とは、健康を意識せずに得られるべきものであるからです。 覚りの境地も同様であって、覚りを得ようと計らって得られるものでは無いのです。 自分の行為に、ある部分が欠けていると知って、それを意識的に補おうとしても補うことは出来ないのです。 それは、健康な生活と同様に期せずして達成されるものであるからです。(一大事因縁による) また、不摂生な生活をしている人が、必ずしも健康を損ねている訳ではないように、不誠実な生活をしている人は絶対に覚れないという訳でもありません。 そのような人であっても、その後覚りを正しく熱望するならば、きっと覚りの境地に至るであろうからです。

■ 例えば、アレルギー体質の人が、自分の食事の中にアレルゲン(アレルギー物質)が絶対に入り込まないように配慮しようとするならば、普通の社会生活は営めなくなってしまうことでしょう。 覚りを願う人が、覚りの邪魔になると思われる環境要因や社会的要因などを恣意的に排除し、煩いの無い生活を努力によって演出しようとしても、それは覚りの境地とは違っています。 覚りの境地とは、健康な人が臆することなく何でも食べられるようなものであって、アレルギー体質の人は自分自身の体質を改善しない限りそれを得ることは出来ないようなものです。 つまり、覚りの境地は(正法によって)到達すべきものであって、演出するものでは無いからです。


[○○の如きものです:譬喩としての例示]
● 覚りのプロセスを説明することは、知恵の輪を解き方を如何にして伝授すれば良いのかということに似ています。 つまり、もし知恵の輪の解き方を懇切丁寧に順序よく教えてしまうならば、教えられた人はもう二度とその知恵の輪は解けなくなってしまうからです。 勿論、その場合でも物理的には知恵の輪は分離されるでしょうが、独力で知恵の輪を解いたときに得られる筈の感動が根こそぎ無くなってしまうのは明らかです。 それと同様に、覚りの境地もそこに至るま での道筋を知識として詳細に教えてしまうならば、教えられた人は今生で覚りに至ることは無くなってしまうと考えられるのです。(一来となる) したがっ て、それはその人に対する最も冷たい行為であると言えるでしょう。 ところで、知恵の輪の場合、解き方をまったく説明しなくても、「この知恵の輪は本当に解けるのだ」という結果だけを目の前に示すことで、その人は自力で解けるようになります。 不可思議ですが、「それが本当に解けるものなのだ」とその人が心から納得した瞬間に、自力で解けてしまうのです。 そして、その人は知恵の輪が解けたという感動と達成感を心ゆくまで味わうことができるのです。 それ と同時に、誰かに解き方を教えてもらわなくて本当に良かったと思います。 知恵の輪の答えを知っていて、敢えてその答えを教えてくれなかった友達の行為 は、実はこの感動を自分にも味わって欲しいという好意であったことが今やはっきりと分かります。 ついさっきまで意地悪に見えた友達が、実はやさしい人であったのだと分かります。 友達が、知恵の輪を解く過程を一切隠して「解ける!」という事実だけを示してくれたことに感謝します。 もしそうでなければ、 自分は知恵の輪を解くことによる本当の感動を味わうことはできなかったであろうことを理解するからです。 このような事実から、私は覚りのプロセスの説明もこれと同様に行うべきであると思っています。 覚りの境地に至った人は、自分の境地の何たるかをくどくど説明するのではなく、覚りの境地を行為として示すに留めることによって、むしろその目的をよく達成できるであろうと思うからです。 もしそれ以上のことをするならば、それは知恵の輪の答えを逐一教えてしまうような冷酷な行為だと思うからです。

[○○の如きものです(2)]
● 覚りの道とは、癖字を直してかつ書道家の芸術的な字が書けるようになることを目指すようなものです。 一旦癖字になった人は、まともな字を書けるよう になるだけでも大変なことですが、それをさらに書道家にまでしようと言うのです。 一体、どのように努力すれば本人はこの目的を達成できるのでしょうか。  一体、どのような指導や教示が先達にできるというのでしょうか。 先達が善かれと思って何を指摘したとしても、癖字になった人はその言葉を批判のための 批判(非難)だと受け止めてしまうことでしょう。 そのようにひねくれなくても、癖字をどのように直せば良いのか見当もつかないことでしょう。 書けば書くほど、さらに癖字になってしまう気さえすることでしょう。 まして、どうやれば書道家になれると言うのでしょうか。 当人は、きっとそのように思い途方に暮れてしまうことでしょう。 指導にあたる先達の書道家も、自分の字は自分だけのものであって、それをそのまま真似しても書道家になれないということは 自明のことであると考えるでしょう。 「とにかく臨書せよ!」と言うしかないのですが、臨書した結果が癖字なのか芸術的字に近いのかを癖字の当人自身は判 断できないのです。 したがって、癖字の当人は、最後まで自分の字に自信が持てないことでしょう。 この苦境を打開する道は、限られているでしょう。 それを一言で言うならば、当人が自分がいつかは書道家になれるのだと信じ切ることだと思います。 さらに一歩進んで、自分は書道家になるのだと決心することだと思います。 そして、その決心は、根拠のない独りよがりなものであってはならないのです。 ブッダになろうと言う決心も、そのようにあるべきです。  (正しい観においての)絶望のただ中で、自ら証する確信をもってブッダになろうと決心すべきです。 (正しい観においての)無力感のただ中で、そのように決心すべきです。 元々癖字だった人がついに書道家になったとき、自分が修業時代に書いたあまたの字がすべて下手くそな字だとはっきり理解するように、覚りの境地に至った人は、それ以前にかかえていたあらゆる(哲学的)見解や、信仰の形、慈悲喜捨の行為などがすべて見当違いであったことを理解するのです。  しかし、そのようになったとき、その人は間違いなくブッダの境地に到達しているはずです。


[要約]
覚りの境地に至るプロセスを敢えて大胆に要約するならば、それは次の四つにまとめられます。

 正しく発心すること(発菩提心)
 気をつけること(精励)
 第二の気をつけること(観自在,熱望)
 最後の気をつけること(観照)

なお、「最後の気をつけること」は覚りの境地に至った後で行うべきことです。

また、覚りの境地に至るプロセスを一つの文章表現にまとめるならば、次のようになります。

● 人をして安穏の境地に至らせ、そこに安住せしめる不滅の法(ダルマ)の存在とその威力についての正しい信仰があり、その法を知って自らがブッダになろうと決心する正しい発心を起こした人が、徳行において精励し、聡明であって、真実の教えを聞こうと熱望し、善知識が発する法の句を聞いてそれが正法そのものであることに気づき理解し、諸仏の智慧を一つでも自らのものとするならば、ついに覚りの境地に至る。


[補足説明]
知恵の輪が本当に解ける、ということを示してくれるのは良き友達です。 それと同様に、覚りについてのきっかけを与えてくれるのは善知識です。 覚りの境地を目指す人にとって、善知識は知恵の輪の答えをどうしても教えてくれない意地悪そうに見える(が実はやさしい)友達のような存在です。 善知識は、真実のやさしさを心の奥に秘めながらも善知識自身もそれとは気づかずに、ただ相手(友)に対して最高のやさしさを無意識的に示し与えてくれる存在です。 その ような人(善知識)が現実にこの世にいて、自分のことを気遣っているのだと(気づきでは無くして)気づくならば、その人は覚りに至る道をすでに歩いていると言ってよいでしょう。

[補足説明(2)]
書道家が書いた字は、素人が書く字とはまったく次元が違っているのだと一目で分かるものです。 なぜならば、書道家の書いた字には、独特の感動を呼び起こ したり人をとりこにしたりする力があるからです。 その感動ゆえに、癖字では無い、また個性的なだけの字でも無い、芸術的な字というべきものがあるのだと人は知り、そして書に啓蒙されるということが起こるのです。 ところで、書道についてそのような啓蒙を与えてくれるのは書道家ですが、覚りについての啓蒙を与えてくれるのは他の人が見せてくれる発心です。 人は、他の人が起こす覚りに向かう発心や、他の人が起こすブッダに帰依しようとする発心を見て、ついに自らも発心を起こすに至るからです。 そして、この発心の終着点として、覚りの境地が確かにあるのだということをその人は最初から確信するのです。 すなわち、発心こそが、人が覚りの境地に至ることを確約してくれるものに他なりません。 そして、ある人が覚りの境地に至ったとき、「あれこそがすべての始まりであった」と、その人自身が自らの発心を振り返ることは間違いありません。

⭕ホームページの引用終わり⭕


少し極端な例となりますが、私がSRKWブッダから教えてもらった覚るための方法に次のようなものがあります。


ゴータマブッダが解脱した木の下で瞑想し、乳がゆを持った女性が通り過ぎるのを待つ!!


当然、こんなことしてもしょうがないですよね。という意味での例え話として教えてもらったものですが、定まった方法がないということかと考えます。


(16)HP(理法【008】公案)

2020-03-03 06:22:29 | 日記
理法【008】公案


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⭕ホームページの引用始まり⭕


<観(止観)>を具体的にどのように行えばよいのかが分からない人は、公案に取り組むとよい。以下に、観と等価な公案を記す。

ただし、この公案を解きさえすれば周到に覚りの境地に至るのであるとは断定的には言えない。なんとなれば、公案を援用して覚りの境地に至る場合、公案を解 いた後でそれが平等観と等価であることを領解できるかどうかによってそれが覚りに役立ったかどうかの分かれ目となるからである。そして、その領解が為され 解脱が実際に起きたとき、そのときはじめて一大事因縁が現れたのであると認められるのである。

[平等観と等価な公案]

 『どうしてもいけなければどうするか』 :久松真一氏の基本的公案といわれる


[補足説明]
久松真一氏による注釈:

どういう在り方でも、われわれの現実の在り方は、特定の在り方であり、何かである。何かである限り、何かに限定され繋縛された自己である。何ものにも繋縛されない自己、それをまずわれわれは自覚しなければならない。

「立ってもいけなければ、坐ってもいけない。感じてもいけなければ、考えてもいけない。死んでもいけなければ、生きてもいけないとしたら、その時どうするか」

ここに窮して変じ、変じて通ずる最後的な一関があるのである。禅には、古来千七百どころか無数の古則公案があるが、それらは結局この一関に帰するであろう。

『絶対危機と復活』(著作集第2巻、法蔵館)より(p.191) 

注記) 上記は、FAS協会のホームページから引用。


⭕ホームページの引用終わり⭕


SRKWブッダはこの公案を解き、無分別智を生じブッダとなられたようです。

その後に、ブッダとなられた4方は、この公案を解き、ブッダとなられたのではないようです。しかしながら、4方全てかは分かりませんが、この公案を含め、他の公案にトライされていた方もいらっしゃいます。

公案を解かなかったとしても、トライしていることが、モチベーションを保つのに役立ち、もしくは、本当の自分の解脱への道に辿り着くきっかけに、知らずのうちになる方も今後いらっしゃるかもしれません。

もちろん、この公案を解くことをきっかけにブッダとなられる方も出てくるかもしれません。

この公案に縁ある方がこの公案によってブッダとなり、今後もそのようにブッダとなられるものと思われます。


(15)HP(理法【007】解脱)

2020-03-03 05:56:39 | 日記
理法【007】解脱


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⭕ホームページの引用始まり⭕


解脱とは、煩悩苦(本能にもとづく心の動揺という苦)から脱れることを指す言葉である。 平易な表現をとるならば、解脱とはいろいろな形でこの身に現れるあらゆる種類の煩いからこころが永遠に解放されることに他ならない。 解脱は、この世の最上のことがらである。 なお、本節で言う”解脱”とは智慧の解脱のことを指している。

ところで、煩いとは何であろうか。 すでに解脱した覚者にとって、煩いには大きく二つの要因があることが知られるのである。 その一つは名称(nama)作用にもとづく煩いであり、もう一つは形態(rupa)作用にもとづく煩いである。

名称作用にもとづく煩いは、個人的要因(個人的無意識を源とする)によって生起する煩いであり、その原因を理性的に認識するなどして知的に克服できるかあるいは軽減することができる性質のものである。 一方、形態作用にもとづく煩いは、集合的要因(集合的無意識を源とする)によって生起する煩いであり、その本当の原因は特定することができず、それを知的に(意識的に,意思によって)克服することはできない性質のものである。

また、名称作用にもとづく煩いは、先ず対象の認知があってその後に恐れや嫌悪などの煩わしい感情が生起する性質を持っている。 一方、形態作用にもとづく煩いは、対象を認知すると同時に恐れや嫌悪などの煩わしい情動が待ったなしに認識される性質のものである。 すなわち、形態作用にもとづく煩いとは、やや強引に例えるならばいわば「錯覚」のようなものであり、それはあらゆる経験要素を排し、知識や見識とは関係なく、無条件に認識される根本的錯誤である。 このため、形態作用にもとづく煩いを、意思や哲学的見解などの解脱以外の方法によって克服することは不可能である。

さて、解脱したならば、上記で述べた二種類の煩いから脱れることができる。 なぜ煩いから脱れることができるのかというそのメカニズムそのものは説明できない。 ただ、具体的には次のようなことが体現されることになるのは本当である。

○ 事前の予想無しに突然起こった衝撃音や衝撃的映像に対して、まったく動揺しなくなる。 まるで、それが起こることを予め知っていたかのように、それどころかそれを予め知っていた以上に平静に、当たり前のようにそれらの現象を動揺無く受け止めている自分を発見することになる。(一切智) そして、このとき実際に何が起こったのかについて具体的に知りたくなった場合には、現象が起きた直後に対象物に意識を向けることでそれを正しく識別できる。(後得智)

○ 人間不信と自己嫌悪がともに無くなった自分自身を発見する。 世の中にいるすべての人々について、誰一人として嫌いな人がいないと実感され、人間関係についての煩いが消滅する。 つまり、如何様なる誰を見ても、その人に嫌うべき相を発見することができなくなるのである。

○ 目の前で何があろうとも、他の人に対して怒ること、争うこと、疑うことが無くなる。 世界中の人々が、家族や親族になったような気持ちに安住するのである。

○ いわゆる欲望の燃え盛ることが無くなる。 生理的欲求は残るが、それはいずれも一時的なものであり、特定の対象を執拗に繰り返し求めるような貪りとしての欲求(=欲望)が無くなった自分自身を発見するのである。

○ 迷妄と妄執がともに無くなる。 何に対しても、意識的にせよ無意識的にせよ、あれこれと勝手な想いをめぐらすことが無くなった自分自身を発見することになる。 世の中のあらゆる対象物や様々な現象は、一意の「相」として認識される。 具体的な例として人の表情について述べるならば、如何なる人においても喜怒哀楽の表情は見えずその人の人相のみが認識されるのである。 すなわち、相手が今現在どのような感情状態や情動状態にいるかを認識するのでは無く、相手がどのような境涯(境遇)にあるのかが認識されることになる。

このように、解脱は円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)をもたらすものである。 もろもろの如来は、その安らけく境地を知って、人々に解脱することを勧めるのである。

⭕ホームページの引用終わり⭕


解脱とはいろいろな形でこの身に現れるあらゆる種類の煩いからこころが永遠に解放されることに他ならない。解脱は、この世の最上のことがらである。

この部分だけで、十分、解脱を目指すべきである、目指したいと思うことができます。