1月30日という日

2007-01-31 | いろいろ
今日で1月も終了~あっという間の1ヵ月でした~
このままだと1年、またすぐに過ぎちゃうんだろうな
そして昨日は祖母の命日でした。
祖母が口から血を流し、体を震わしていたのはkarinanが今の会社に入社して程なくのこと。救急車を呼ぶのを嫌がる祖母に、掛り付けの病院に連絡を入れ、あわてて車で連れていったのはkarinanでした。
祖母は数年前、肺のそれも特殊な場所の癌だと診断され、余命半年と言われた身でしたが、その時まで何事もなく過ごしていました。本人に告知しなかったのと、高齢だったというのが半年を何年にものばしたのでしょう。正直医師も驚いていましたよ。
勿論即入院!!その日からkarinanの病院がよいの日々が始まりました。
休みの日も雪の日も一日たりとも欠かさず約半年近く病院に通い、時には病院食がまずいという祖母のために大好きなセブンイレブンのタマゴサンドやらプリンやらを差し入れ、励まし続けました。
癌だと言うことは最後まで言わず、よくなるからと嘘をいい続けたんです。
最後のお正月は一時退院し、自宅で過ごすことに…
弱り切った体では自宅で過ごすのは辛いだろ…が、コレが最後かもしれないとの思いからの決断でした。
帰ってこれたことを、大好きなおそばやお粥とはいえ食べ慣れたおいしいお米が食べられ、家族、親戚揃って自宅でお正月を迎えられることを喜んでいました。
『おいしい』 満面の笑みを浮かべた祖母の顔も声も忘れられません。
でもどんなに気を遣ってもやっぱりなかなかうまくいかないで、祖母は日に日に体調を崩し、一緒の部屋で寝起きしていたkarinanは夜も眠れないぐらいに…そして病院に戻ることに…
できることなら家にいさせてあげたかったけど、それで祖母が苦しむのは嫌だったんですが、その判断はどうだったのでしょうか…今でも分かりません。
薬のせいか、はたまた病気のせいか『家に帰る』と徘徊し、外に出る一歩手前で発見されるという事件がおきました。
その一報が一番に入ってきたのは病院側が勘違いしたせいで自宅ではなくkarinanの携帯(2番目のはずが、1番目の緊急連絡先に…)で、散歩の途中のこと!あわててママと病院に駆け付けると祖母は車椅子に手足を拘束され、私たちをみると『ほどいて』と訴えてきました。泣きそうに…泣いていたかもしれません。病院側としては仕方がない対処だったと思います。季節は冬!!外に出てしまっていたら凍死しかねません。
夜間付き添いが必要になり、そのうち昼間も…人より沢山いる子供たちが代わる代わる付き添うことに。
たぶんこの頃のkarinanは一番忙しかったかな~仕事では1月いっぱいで退社する人からの引継ぎ、新しく作りはじめた書類、病院がよい。朝、ママを病院まで送っていくとも多々ありました。
そして30日。いつもどおり病院にいくと家族と親戚が勢揃い。祖母の容態が急変したとのことでした。
もうほとんど意識はなく、それでもkarinanのこえに答えてくれて…それが最後でした。
とりあえず2人が付き添いに残り、karinan達は帰宅。その夜、連日の疲れから早くに床に。
しかしふと目が覚めてしまい、きちんと布団をかぶっているにも関わらず背中が冷たくなり、廊下になんとな~く人気配を感じたかと思うとガラスに白い影が…あまりの恐さに体を丸め布団に潜り込み、昔金縛りにあったときのように眠ってしまおうと思いました。
あとでそのことを話すと、数年前に先立った祖父が祖母を迎えに来たのではないかと…なら怖がったkarinanは間抜け(苦笑)
そしてどのくらいたったかな…いつの間にか眠ってしまったようで、枕元で鳴る携帯音に慌てて飛び起きると(あまりの忙しさに自宅の電話機の留守電機能を解除するのを忘れていた模様)真っ暗の中通話ボタンを押すと…、再びの容態の急変を知らせるものでしたが、電話越しの声はもう泣いていました。全員飛び起きるとあわてて病院に!
この日が病院に通いの最後でした。
その日から数日間で、一生分ぐらいの勢いで泣いたけど、涙腺がよわいkarinanはいくらでも泣けるようで、亡くなった祖父母や猫のことを思い出しては夜な夜なこっそりと涙を流しています。
祖父がいた頃は祖父母と一緒に、祖父が亡くなってからは祖母と、祖母が亡くなってからはkarinanの1人部屋となった場所が『広い』と感じなくなったぐらいに時はたったのにね…
不老不死なんてお伽話の中の話。人はいつかは最後が訪れます。
限りある時間だからこそ、懸命に生きないとならないし生きれるのかな?
笑顔で見送られるのもいいけど泣いてももらいたい!
誰かに思い出してもらえる、そんな人生をおくりたいです。