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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

中神田十三ヶ町連合 須田町一丁目南部町会

2013-05-12 15:47:39 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

中神田十三ヶ町連合 須田町一丁目南部町会の宮入です。

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江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とほぼ同じ範囲でした。

江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具や仏具を売る店など、さまざまな商品を扱う店があったと言われています。
現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が数多く営業しています。

かつて、須田町交差点の一角で、銀座線の入口近くには「立花亭」という寄席がありました。
この寄席は震災では焼けましたが、戦災はまぬがれて、昭和29年に幕をおろすまで、書物にもよく取り上げられるほどの東京でも有数の寄席の一つでした。

町会の該当区域は須田町一丁目5・7番地及び16~34番地までの偶数番地となっています。

【神輿の特徴】

須田町一丁目南部町会の神輿の大きさは他の町会と比べると小ぶりですが、彫刻の手の凝りようではどこにも負けないと思います。
当町内には、老人病院があり、病院前で神輿を練るときは入院患者のご老人の方々をはじめ、病院スタッフにも大変喜ばれています。


中神田十三ヶ町連合 内神田旭町々会

2013-05-12 15:32:04 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

中神田十三ヶ町連合 内神田旭町々会の宮入です。

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江戸時代、この辺りは出羽 秋田藩藩主佐竹 義宣及び能楽師幸若太夫の屋敷地でした。

天和2年(1682)の大火でこの付近一帯が焼失した後、佐竹氏は下谷三味線掘(現台東区)に移転し、跡地は町人地となり永富町二~四丁目、新革屋町代地、元乗物町代地の一部となりました。

明治2年(1869)、これらの地域は「旭町」と改名されました。
「旭町」の由来は佐竹氏の家紋「扇に日の丸」に因んでいます。

町内にある『佐竹稲荷神社』は寛永12年(1635)に創られました。
同町の鎮護の神として丑寅の一隅【に安置されていましたが、大震災後の区画整理の際に現在地(内神田三丁目10番地)に移されました。

昭和41年に住居表示が実施されると、内神田二丁目と三丁目の一部となり、旭町の名前は地図から消えてしまいましたが、昔を語り継ぐように町会の名前として今でも存続しています。

町会の該当区域は内神田二丁目8・9・13・14・16番地、内神田三丁目5・6・8~11・15・16・24番地となっています。

【神輿の特徴】

旭町の旧町である、永富町では天下祭の神田祭では竜神の山車を出していました。
その故事にちなんで、内神田旭町々会の神輿は神田明神、竜神山車、花笠の町衆が彫刻されている、非常に珍しいものです。
昭和27年、宮本重義作です。


中神田十三ヶ町連合 淡路町二丁目町会

2013-05-12 15:05:38 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

中神田十三ヶ町連合 淡路町二丁目町会の宮入です。

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江戸時代、この界隈は、武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。
永井信濃守の屋敷が松平伊豆守の屋敷となり、のちに若狭小浜藩酒井家の上屋敷となりました。

明治5年(1872)、ここに神田淡路町二丁目という名前が正式に付けられました。
町名の由来とされる淡路坂は、鈴木淡路守の屋敷があったためと言われています。

明治初期、現在の淡路公園の場所に、明治後期の日本を代表する知識人を輩出した共立学校(後の開成【かいせい】学園)が創設されました。ここでは正岡 子規や南方 熊楠などが学びました。
また町内には一時期、『たけくらべ』などで知られる女流作家で、歌人でもあった樋口 一葉も住んでいました。

淡路町は文化の町となり、その新進の気風は町並みにも表れていました。
大正末期から昭和初期にかけては、昌平橋近くに活動常設館(映画館)の名門である神田シネマパレスがあり、多くの人で賑わっていました。

町会の該当区域は淡路町二丁目1~29番地までの奇数番地となっています。

【神輿の特徴】

淡路町二丁目町会の神輿は、昭和52年の宮本重義の手によるものです。
神田明神氏子町会のどこにも負けないような担ぎをします。


中神田十三ヶ町連合 内神田美土代町会

2013-05-12 15:04:12 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

中神田十三ヶ町連合 内神田美土代町会の宮入です。

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内神田美土代町会は、江戸時代は武家地と町人地でした。
武家屋敷としては五代将軍徳川綱吉の側近として活躍した柳沢吉保が屋敷を構えていました。
その他、老中や若年寄を輩出した由緒正しい武家の屋敷が軒を連ねていたと言われています。

一方、武家屋敷だけではなく、商人や職人が住む町屋もありました。江戸時代の美土代町周辺は重要な武家屋敷地でありつつも、新たな風俗・流行を生み出すこともできる、懐の深い町でした。

町名の由来は、この周辺に伊勢神宮に捧げるための稲を育てる水田、「みとしろ」があったことに因んで生まれたものであるとも、「神田」を訓読みすると「みとしろ」になるため「美土代町【みとしろちょう】」としたとも言われています。

昭和10年(1935年)の区画整理により、周辺が「美土代町」となりました。
明治期の美土代町は、一~四丁目まである広大な町域を持っていましたが、時代を経るに従い、その範囲は狭くなっていきました。
現在の千代田区神田美土代町が誕生したのは昭和22年(1947)のことです。

町会の該当区域は神田美土代町及び内神田一丁目2~4・12~15番地となっています。

【神輿の特徴】

宮入は総勢300名の担ぎ手により、賑やかに、楽しく担ぎ上げます。見物人の方々にも和気あいあいとした雰囲気が伝わると思います。
屋根唐破風型神輿の大神輿は、昭和28年、宮本 重義の手により生まれました。特徴のあるデザインが魅力です。


中神田十三ヶ町連合 須田町北部町会

2013-05-12 14:46:10 | 平成25年 神田祭 神輿宮入

中神田十三ヶ町連合 須田町北部町会の宮入です。

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須田町北部町会は昭和8年に設立しました。

この辺りには、かつて、甲武鉄道(現中央線)の始発駅である、万世橋駅(現交通博物館)があり、東京で一番交通の便利な場所でした。

須田町交差点の雑踏ぶりは「親知らず子知らず」と称されるほどで、大正初年(1912)に、交通巡査が日本で初めて立ったのもこの須田町交差点であったと言われています。

また、須田町北部町会には出世稲荷神社という、誰もがあやかりたい名前を持つ神社があります。
創立の頃より、町内の鎮守神であったと言われています。
現在の社殿は昭和3年に完成したもので、毎年9月15日に祭祀を行っています。

町会の該当区域は須田町一丁目1・3・9~25番地までの奇数番地と、淡路町一丁目2・4番地、淡路町【あわじちょう】二丁目2~12までの偶数番地となっています。

【神輿の特徴】

須田町北部町会の神輿は、昭和16年に製作されました。
伝統を重ねてきた神輿同様、我々担ぎ手も強い気持ちで担ぎ続けます。