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神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

須田町一丁目南部町会

2009-05-10 15:41:35 | 平成21年 神田祭
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江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とほぼ同じ範囲でした。
江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具や仏具を売る店など、さまざまな商品を扱う店があったと言われています。
現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が数多く営業しています。
 
かつて、須田町交差点の一角で、銀座線の入口近くには「立花亭」という寄席がありました。
この寄席は震災では焼けましたが、戦災はまぬがれて、昭和29年に幕をおろすまで、書物にもよく取り上げられるほどの東京でも有数の寄席の一つでした。
 
町会の該当区域は須田町一丁目5・7番地及び16~34番地までの偶数番地となっています。

当町会の神輿の大きさは他の町会と比べると小ぶりですが、彫刻の手の凝りようではどこにも負けないと思います。中神田十三ケ町連合の一員として宮入りします。当町内には、老人病院があります。病院前で神輿を練るときは入院患者のご老人の方々をはじめ、病院スタッフにも大変喜ばれています。



多町二丁目町会

2009-05-10 15:29:49 | 平成21年 神田祭
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多町二丁目は神田青物市場、別名神田田町市場として有名です。

明暦の大火(1657)の前には、青物問屋の数は80軒以上にも増えたと言われています。大火後に連雀町、佐柄木町の問屋は多町に合併され、神田多町市場と呼ばれるようになりました。

多町一、二丁目の起立時の町の形は昭和8年の住居表示変更まで約330年続きました。以前は、「田んぼ」の「田」の「田町」でしたが、いつ頃に「多い」の「多」の「多町」へ変わったのかは定かではありません。
多町市場に住む人や出入りする人が多くなったこと、また流通する品物や物資が多くなったことなど、町の繁栄とともに「多町」と呼ばれるようになったと言われています。 
 
町内には歴史のある神社と稲荷が祀られています。松尾神社は江戸時代初期の頃から、この地にあり、多町市場の発展とともにその歴史を刻んできたと言われています。
もう一つの一八稲荷は徳川三代将軍家光が眼病を患ったときに、乳母の春日局が湧き水を汲みに来たと伝えられています。
 
町会の該当区域は多町二丁目全域になります。


当町会の現在の神輿は、昭和54年に新しく作り直されました。
旧神輿は大正9年に製作したものでした。
現在は、東京国立博物館に展示されています。
大きさは2尺8寸になり、胴が締り、大きな作りとなっています。



須田町中部町会

2009-05-10 15:20:15 | 平成21年 神田祭
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須田町中部町会は「神田青物市場」発祥の地として有名です。
水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から荷揚げされた青物が、15,000坪(約4万9500㎡)におよぶ広大なこの青物市場で商われていました。

江戸、そして東京の食生活を支え続けたこの市場は、昭和3年には秋葉原西北に、平成2年には大田区へと移転しました。
それでも、現在の須田町町内には、東京都の歴史的建造物に指定されるような老舗商店が数多く営業しています。
須田町は江戸から続く、活気あふれる商いの伝統が今だに息づく町です。
 
町会の該当区域は須田町一丁目2~14番地までの偶数番地となっています。


当町会の神輿は元祖女神輿です。
昭和52年より女性のみの女神輿を続けてきました。
女性ならではのきらびやかな神輿担ぎをどうぞ、御覧下さい。



司町二丁目町会

2009-05-10 15:06:06 | 平成21年 神田祭
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司町二丁目は、「新銀町、雉子町、関口町」等が合併し、昭和10年に設立しました。

新銀町は江戸時代に銀細工を扱う者が住んでいたことに由来し、明治5年に設立しました。

このうち雉子町には、『江戸名所図会』を親子三代にわたって完成させたことや、『東都歳事記』『武江年表』などで有名な、斎藤 月岑が住んでいました。斎藤家は代々、雉子町の名主を務めていました。

関口町は江戸時代に開かれた町屋で、関口弥太郎という人物が草創名主だったので、それに因んで名付けられました。
 
町会の守護神として、「真徳稲荷神社」が祀られており、五穀豊穣、悪疫鎮護、商売繁盛の神様として現在に伝えられています。

昭和22年、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、司町二丁目は神田司町二丁目となりました。その後、「神田」が無くなり、司町二丁目となり、現在に至っています。

町会の該当区域は司町二丁目全域となっています。


当町会の神輿は昭和27年、宮本重義の手により作られました。大きさは2尺5寸で、二重台座になっています。本塗の屋下総金箔押で彩られています。台輪の四方には四神彫刻が入っています。総勢400名の担ぎ手で、750キロの神輿を担ぎます。平成13年に大補修をしました。丈は低いですが、重厚な神輿となっています。連合の中でも一番の神輿であると自負しています。



神田鍛治三会町会

2009-05-10 14:52:40 | 平成21年 神田祭
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昭和8年に「鍋町北の大部分・鍛冶町北の一部・鍋町西横町の内の一部」等が統合して「神田鍛冶町三丁目」となりました。

この界隈が鍋町と呼ばれていた理由は、江戸幕府の御用鋳物師(ごよういもじ)を務めていた、椎名山城(しいなやましろ)が屋敷を構えていたためであると言われています。
鋳物師とは、鍋や釜をつくる職人のことです。他にも御腰物金具師(おこしものかなぐし)や御印判師(ごいんばんし)なども住んでいました。

鍋町に住んでいたのは、このような御用職人ばかりではありません。紅や白粉などの化粧品、傘、菓子、釘や打物などを扱う各種の問屋をはじめ、馬具や武具をつくる職人まで店を構えて住んでいました。
江戸時代、この界隈は鍋のような日用品から馬具や武器まで、多種多様な商品が揃う町でした。

町会の該当区域は神田鍛冶町三丁目・内神田三丁目19~21番地となっています。


当町会の神輿は浅草岡田屋製です。総勢250名の担ぎ手により宮入を行います。
宮入時の神輿振りに御注目下さい。
大興奮間違いなしです。