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朝の光(聖書の言葉)

ヨハネの福音書 抜粋 解説  C 2021.4.22

ヨハネの福音書 抜粋 解説  C


口語訳




言は神であった

(ヨハネ1:1)
「初めに言があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。」


「初めに」が,

創世記1:1の「初めに」を受けています。




カナでの婚礼


(ヨハネ2:11)
「イエスはこのことを最初のしるしとして
ガリラヤのカナで行ない,
ご自分の栄光を現わされた。
それで,弟子たちはイエスを信じた。」


イエスはカナの婚礼で,

水をぶどう酒に変えました。


(ヨハネ2:4)
イエスは母に言われた。
「あなたは
わたしと何の関係があるのでしょう。
女の方。
わたしの時はまだ来ていません。」


ここでの「時」とは,

終わりの時の裁きと救いのときですが,

ここでの「わたしの時」とは,

イエスが

十字架につけられる時を現しています。


母とは関係なく,父なる神の御心の時です。


「しるし」は,ギリシャ語では

「セメイオン」で

奇跡の意味で使われています。


イエスが神の子であることを示しています。


(ヨハネ2:1-12)
それから三日目に,
ガリラヤのカナで婚礼があって,
そこにイエスの母がいた。
イエスも,また弟子たちも,
その婚礼に招かれた。
ぶどう酒がなくなったとき,
母がイエスに向かって
「ぶどう酒がありません。」と言った。
すると,イエスは母に言われた。
「あなたはわたしと
何の関係があるのでしょう。
女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
母は手伝いの人たちに言った。
「あの方が言われることを,
何でもしてあげてください。」
さて,そこには,
ユダヤ人のきよめのしきたりによって,
それぞれ八十リットルから
百二十リットル入りの
石の水がめが六つ置いてあった。
イエスは彼らに言われた。
「水がめに水を満たしなさい。」
彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。
「さあ,今くみなさい。
そして宴会の世話役のところに
持って行きなさい。」
彼らは持って行った。
宴会の世話役は
ぶどう酒になったその水を味わってみた。
それがどこから来たのか,
知らなかったので,
・・しかし,
水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。
・・
彼は,花婿を呼んで,言った。
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し,
人々が十分飲んだころになると,
悪いのを出すものだが,
あなたは良いぶどう酒を
よくも今まで取っておきました。」
イエスはこのことを
最初のしるしとして
ガリラヤのカナで行ない,
ご自分の栄光を現わされた。
それで,弟子たちはイエスを信じた。
その後,
イエスは母や兄弟たちや
弟子たちといっしょに,
カペナウムに下って行き,
長い日数ではなかったが,
そこに滞在された。





新しく生れる

(ヨハネ3:3)
イエスは答えて言われた,
「よくよくあなたに言っておく。
だれでも新しく生れなければ,
神の国を見ることはできない」


ニコデモの対する答えです。

新しく生まれるためには,

聖霊によって

新しく生まれることを教えています。



(ヨハネ3:3-8)
イエスは答えて言われた,
「よくよくあなたに言っておく。
だれでも新しく生れなければ,
神の国を見ることはできない」。
ニコデモは言った,
「人は年をとってから生れることが,
どうしてできますか。
もう一度,
母の胎にはいって
生れることができましょうか」。
イエスは答えられた,
「よくよくあなたに言っておく。
だれでも,水と霊とから生れなければ,
神の国にはいることはできない。
肉から生れる者は肉であり,
霊から生れる者は霊である。
あなたがたは
新しく生れなければならないと,
わたしが言ったからとて,
不思議に思うには及ばない。
風は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞くが,
それがどこからきて,
どこへ行くかは知らない。
霊から生れる者もみな,
それと同じである」。




永遠の命

(ヨハネ3:16)
「神はそのひとり子を賜わったほどに,
この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者が
ひとりも滅びないで,
永遠の命を得るためである。」



ルターはこの言葉を聖書の縮図,

また「小さな福音書」といいます。


神は私たちを愛し,

イエスを信じる者に

永遠のいのちを与えます。




永遠の命に至る水

(ヨハネ4:13,14)
「イエスは女に答えて言われた,
『この水を飲む者はだれでも,
またかわくであろう。
しかし,
わたしが与える水を飲む者は,
いつまでも,
かわくことがないばかりか,
わたしが与える水は,
その人のうちで泉となり,
永遠の命に至る水が,
わきあがるであろう』」。


「私が与える水」とは,聖霊のことです。




礼拝

(ヨハネ4:24)
「神は霊であるから,
礼拝をする者も,
霊とまこととをもって礼拝すべきである」。


神は形式による礼拝ではなく,

霊なる神は,

霊によって礼拝することを求めています。




父なる神

(ヨハネ5:17)
「イエスは彼らに答えられた。
『わたしの父は今に至るまで
働いておられます。
ですからわたしも働いているのです。』」


イエスは神を父と呼びます。


安息日は人にとっては安息ですが,

神はその日も働いていると

ユダヤ人たちは考えています。


この言葉は,

イエスがご自身を

神と等しい者としているのです。


(ヨハネ5:18)
「このためユダヤ人たちは,
ますます
イエスを殺そうとするようになった。
イエスが安息日を
破っておられただけでなく,
ご自身を神と等しくして,
神を自分の父と
呼んでおられたからである。」


ユダヤ人の指導者は,

イエスが神と等しいと主張するとして,

イエスは律法に違反していると考えました。


イエスを「父なる神」と

等しいとしたことが,

イエスが十字架にかけられた理由です。




5千人に食べ物を与える

(ヨハネ6:11)
「そこで,イエスはパンを取り,
感謝をささげてから,
すわっている人々に分けてやられた。
また,小さい魚も同じようにして,
彼らにほしいだけ分けられた。」


旧約時代において,

シナイの荒涼とした砂漠は,

神はイスラエルの民に

天からのパン(マナ)を与えました。


神が出エジプトの後に

荒野で民を天からのパンで養ったように,

イエスが天からのまことの

パンであることを示しています。


イエスは「いのちのパン」であり,

イエスを信じる者が

神にある命を与えらるといいいます。


この「しるし」とは,

「いのちのパン」であるイエスが,

イエスを信じる者に

神にあるいのち(永遠のいのち)を

与える方だというものです。




生きた水の流れ

(ヨハネ7:37)
「だれでも渇いているなら,
わたしのもとに来て飲みなさい。」


仮庵の祭りの7日間,毎日,

祭司たちがシロアムアムの池で水を汲み,

神殿に水を持ち帰りました。


イエスは,

御自身が「生きる水」

の源であると言いました。


(ヨハネ7:37-39)
「祭りの終わりの大いなる日に,
イエスは立って,大声で言われた。
『だれでも渇いているなら,
わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は,
聖書が言っているとおりに,
その人の心の奥底から,
生ける水の川が流れ出るようになる。』
これは,イエスを信じる者が
後になってから受ける御霊のことを
言われたのである。
イエスはまだ栄光を
受けておられなかったので,
御霊はまだ注がれて
いなかったからである。」




姦淫の女

(ヨハネ8:10,11)
そこでイエスは身を起して女に言われた,
「女よ,みんなはどこにいるか。
あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った,
「主よ,だれもございません」。
イエスは言われた,
「わたしもあなたを罰しない。
お帰りなさい。
今後はもう罪を犯さないように」。


すべての人に捨てられたこの女に,

イエスは深く愛され,罪を赦しました。


(ヨハネ8:3-11)
すると,律法学者たちやパリサイ人たちが,
姦淫をしている時に
つかまえられた女をひっぱってきて,
中に立たせた上,イエスに言った,
「先生,
この女は姦淫の場でつかまえられました。
モーセは律法の中で,
こういう女を石で打ち殺せと命じましたが,
あなたはどう思いますか」。
彼らがそう言ったのは,
イエスをためして,
訴える口実を得るためであった。
しかし,イエスは身をかがめて,
指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので,
イエスは身を起して彼らに言われた,
「あなたがたの中で罪のない者が,
まずこの女に石を投げつけるがよい」。
そしてまた身をかがめて,
地面に物を書きつづけられた。
これを聞くと,
彼らは年寄から始めて,
ひとりびとり出て行き,
ついに,イエスだけになり,
女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起して女に言われた,
「女よ,みんなはどこにいるか。
あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った,
「主よ,だれもございません」。
イエスは言われた,
「わたしもあなたを罰しない。
お帰りなさい。
今後はもう罪を犯さないように」。




世の光

(ヨハネ8:12)
「イエスはまた彼らに語って言われた。
『わたしは,世の光です。
わたしに従う者は,
決してやみの中を歩むことがなく,
いのちの光を持つのです。』」


「やみの中を歩む」とは

「罪の生活」を示し,

「いのちの光を持つ」とは

「聖なる生活」をすることでしょう。




真理

(ヨハネ8:32)
「あなたがたは真理を知り,
真理はあなたがたを自由にします。」


真理とは,イエス・キリストご自身です。

真理とは,イエスの意志に従って,

行動することです。




生まれつきの盲人をいやす

(ヨハネ9:3)
「イエスは答えられた。
『この人が罪を犯したのでもなく,
両親でもありません。
神のわざがこの人に現われるためです。』」


イエスは不幸の原因を答えず,

神の業を現すためだと言います。


神の業を現すとは,

この後,この盲人の目を開けたのです。


わたしたちがイエス・キリストに会うと,

私たちの不幸は変えられます。


(ヨハネ9:1-7)
またイエスは道の途中で,
生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは
彼についてイエスに質問して言った。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは,
だれが罪を犯したからですか。
この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。
「この人が罪を犯したのでもなく,
両親でもありません。
神のわざがこの人に現われるためです。
わたしたちは,
わたしを遣わした方のわざを,
昼の間に行なわなければなりません。
だれも働くことのできない夜が来ます。
わたしが世にいる間,
わたしは世の光です。」
イエスは,こう言ってから,
地面につばきをして,
そのつばきで泥を作られた。
そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
「行って,シロアム
(訳して言えば,遣わされた者)
の池で洗いなさい。」
そこで,彼は行って,洗った。
すると,見えるようになって,
帰って行った。
近所の人たちや,
前に彼がこじきをしていたのを
見ていた人たちが言った。
「これはすわって
物ごいをしていた人ではないか。」
ほかの人は,
「これはその人だ。」と言い,
またほかの人は,
「そうではない。
ただその人に似ているだけだ。」
と言った。
当人は,「私がその人です。」と言った。
そこで,彼らは言った。
「それでは,
あなたの目はどのようにして
あいたのですか。」
彼は答えた。
「イエスという方が,
泥を作って,私の目に塗り,
『シロアムの池に行って洗いなさい。』
と私に言われました。
それで,行って洗うと,
見えるようになりました。」
また彼らは彼に言った。
「その人はどこにいるのですか。」
彼は「私は知りません。」と言った。






よい羊飼

(ヨハネ10:11)
「わたしはよい羊飼である。
よい羊飼は,羊のために命を捨てる。」


イエスは「よい羊飼い」として,

わたしたちを愛して下さいます。


イエスを信じる者は,神に守られています。




よみがえりであり,命である

(ヨハネ11:25)
イエスは彼女に言われた,
「わたしはよみがえりであり,
命である。
わたしを信じる者は,
たとい死んでも生きる。
また,生きていて,
わたしを信じる者は,
いつまでも死なない。
あなたはこれを信じるか」。


人間は死によって肉体は死にますが,

魂はイエスを信じることによって

永遠に生きることになります。




一粒の麦

(ヨハネ12:24)
「よくよくあなたがたに言っておく。
一粒の麦が地に落ちて死ななければ,
それはただ一粒のままである。
しかし,もし死んだなら,
豊かに実を結ぶようになる。」


イエス・キリストは十字架で死にましたが,

復活しました。


わたしたちも

イエス・キリストを信じるなら,

わたしたちも「一粒の麦」となり,

「豊かな実」を結ぶことが出来ます。




互に足を洗い合う

(ヨハネ13:14)
「主であり,
また教師であるわたしが,
あなたがたの足を洗ったからには,
あなたがたもまた,
互に足を洗い合うべきである。」


イエスの謙遜と奉仕を見ることが出来ます。


わたしたちも

このイエス・キリストを見倣うべきです。



互に愛し合いなさい

(ヨハネ13:34)
「わたしは,
新しいいましめをあなたがたに与える,
互に愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように,
あなたがたも互に愛し合いなさい。」


弟子たちは互いに愛することによって,

イエスが彼らの内にいることになります。




父の家

(ヨハネ14:2)
「わたしの父の家には,
すまいがたくさんある。
もしなかったならば,
わたしはそう言っておいたであろう。
あなたがたのために,
場所を用意しに行くのだから。」


イエス・キリストは昇天の後,

もう一度来られます。


そのとき,信じる者は

イエスの元に行くことになります。




まことのぶどうの木

(ヨハネ15:1,2)
「わたしはまことのぶどうの木,
わたしの父は農夫である。
わたしにつながっている枝で
実を結ばないものは,
父がすべてこれをとりのぞき,
実を結ぶものは,
もっと豊かに実らせるために,
手入れし」


(ヨハネ15:5)
「わたしはぶどうの木,
あなたがたはその枝である。
もし人がわたしにつながっており,
またわたしがその人とつながっておれば,
その人は実を豊かに結ぶようになる。
わたしから離れては,
あなたがたは何一つできないからである。」


イエス・キリストと信じる者は

一つとなっています。



大きな愛

(ヨハネ15:13)
「人がその友のために
自分の命を捨てること,
これよりも大きな愛はない。」


この愛はイエスの死の時に

見ることが出来ます。


神と人を愛し,

自分自身を犠牲とするところに

神の愛があります。




すでに世に勝っている

(ヨハネ16:33)
「これらのことをあなたがたに話したのは,
わたしにあって平安を得るためである。
あなたがたは,この世ではなやみがある。
しかし,勇気を出しなさい。
わたしはすでに世に勝っている。」


イエスは,十字架に架かりましたが,

復活しました。


イエスはこの世に勝ったのです。


わたしたちも信じることによって,

この世に勝ち,平安が与えられるのです。




弟子たちへの祈り

(ヨハネ17:11)
「たしはもう世にいなくなります。
彼らは世におりますが,
わたしはあなたのみもとにまいります。
聖なる父。
あなたがわたしに下さっている
あなたの御名の中に,
彼らを保ってください。
それはわたしたちと同様に,
彼らが一つとなるためです。」


イエス・キリストの

弟子たちのための祈りです。




ピラト

(ヨハネ18:37)
そこでピラトが,
「それでは,やはり王なのか」と言うと,
イエスはお答えになった。
「わたしが王だとは,
あなたが言っていることです。
わたしは真理について
証しをするために生まれ,
そのためにこの世に来た。
真理に属する人は皆,
わたしの声を聞く。」


イエスは,ピラトの質問に,

ご自身が王であり,

真理を明かすために生まれたといいます。


ピラトの提案に,

民衆はイエスを

「十字架につけろ」といいます。




十字架につけろ

(ヨハネ19:6,7)
祭司長たちや下役たちは,
イエスを見ると,
「十字架につけろ。
十字架につけろ」
と叫んだ。
ピラトは言った。
「あなたたちが引き取って,
十字架につけるがよい。
わたしはこの男に罪を見いだせない。」
ユダヤ人たちは答えた。
「わたしたちには律法があります。
律法によれば,
この男は死罪に当たります。
神の子と自称したからです。」


ピラトは十字架の前に

大切なイエスの証言と,

民衆の訴えを引き出します。


ピラトがこのとき,

大きな役をしました。




「完了した。」

(ヨハネ19:30)
「イエスは,酸いぶどう酒を受けられると,
『完了した。』と言われた。
そして,頭を垂れて,
霊をお渡しになった。」


イエスの業が完了した。


それは私たちの救いの業が完了し,

すべての罪が赦されるということです。


私たちの負債は,すべて払われました。


イエス・キリストが

わたしたちの

のろいとなってくださいました。



(ガラテヤ3:13)
「キリストは,
わたしたちのためにのろいとなって,
わたしたちを律法ののろいから
あがない出して下さった。
聖書に,
『木にかけられる者は,
すべてのろわれる』と書いてある。」




復活

(ヨハネ20:29)
「イエスは彼に言われた,
『あなたはわたしを見たので信じたのか。
見ないで信ずる者は,
さいわいである』」。


私たちは,

イエス・キリストを見ないが信じています。


聖書の言葉が

真実であると信じているのです。



2021-04-22


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