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素直なきもちで・・・ありがとう!

思うまま、日々感じたこと、写真の画像加工をupしています。
ハンドルネーム :Kaigowearと申します。

母のことば

2023-09-25 09:20:52 | 日記

2023年9月25日になりました・・・

前回から、約二週間位過ぎてしまったので、もう一度前回を読み直して 

      

       ※ 私の部屋ではなくて・・・いつも行く ”美容院” の風景です。

        ステキな写真集とか、デザインに関する本が並べてあります。

        無造作に置いてあるようで、計算されて置いてあります

私は、運がよくて・・・念願の既製服業界に、入社しました。

 

(株)34の、М・М課には、企画室・営業部・生産課がありましたが、

私は、企画室のデザイナー (名前ばかりで、何も出来ませんでした・・・)の一員になった訳ですが、

生地をあてがわれるわけでもなく、

先輩の、アッシー的な存在 (当時はそんな言葉なんてなく、使い走りのような❔❓)

  生地をあてがわれるという事は・・・

  量産する生地はMDが手配し、それぞれのデザイナーに

  「この生地に会うデザイン画を描いて、自分に提出するように・・・いついつまでに・・」と、

  生地を渡すシステムです。

  多く採用されて、多く売れるデザインを起こすことが、デザイナーとして評価されます。

 

たまに、デザイン画が採用されても、パターンは各自自分で起こす決まりです

デザイナーでも、サンプル商品 (量産化される前の商品のこと) のパターンは

自分で作らなければいけないのです・・・

立体裁断なんて経験ないので、かと言って先輩たちに時間をさいて教えてもらう訳にもいきません

       

       ※ “ソウル ・ライター” というカメラマン・・・美容室に写真集で知りました。

        印象的なカメラマンですね・・・

 

朝早く出社して、先輩の組んでいったボディを眺めて

「ああ~~こういう風に、すれば出来るのかな

あとは、それを平面化してパターンにすればいいのか・・・

    全くいい加減なパターンでしたが、一応被服科卒業なので、

    パターンを作り、サンプル工場にだしていました・・・

でも、見よう見まねで・・・会社に行って、仕事らしき事、していましたね

今では、恥ずかしくて、机の下に隠れたいくらい

    

      ※ 机の下のオブジェ❓ 枝ものがさり気なく置いてありますが、良い雰囲気

 

そんなある日、父からだったか❔ 母からだったか ❓ 電話が入りました・・・

母の体が良くないから、大きな病院で検査をして、手術するかもしれないと・・・

       

そして、手術後に、

逸る気持ちで、病院に向かいました・・・   

結局、母は入院して手術室に入ったもの、

手遅れで、切開後閉じてしまったと 連絡を受けました。(2月でした・・・)

    そして・・・

    余命半年・・・

  手術には、父と伯母 (後に養母になります。) 大学生だった妹が立ち会ったそうです。

  母の手術した病院は、自宅から離れた場所にあるため、妹は

  母のベットの下に布団を敷いて看病していました・・・

そういう連絡を受けて、私は即、母の入院先へ・・・

          

母には病状を伝えてないから、くれぐれも涙を見せないようにと言われていました。

待合室のテレビで、『赤軍派の浅間山荘事件』が放映されていた日でした。

  私:「お母さん手術に立ち会えなくて、ごめんね 」(必死でも、涙声だったと思います)

  母:「ええよ あんたの念願だった会社を、大切にしたらええよ~~・・・」

  母:「お母さんは、大丈夫じゃけ~~ 退院するまで、N江に付き添ってもらうけ~ね。」

そう言われて、私は病院から再び東京へ・・・

 

     

        

私を応援してくれる母・・・

(当時はそんなに深く感謝していなかったけれども・・・)

頑張らなきゃ と、山口を後にしました。

     

       ※ 現在の新山口駅

        当時とは全く違います・・・なにせ、50年も過ぎていますから・・・

 

 

パターンの出来ない私でしたが、

(株)34 は、素晴らしい会社でした。

会社の社長は二代目の方でしたが、パターン技術に重点を置く方で

当時としては、珍しいくらい、人を大切にする会社でした。

 

デザイナーと、パタンナーは

1年に二回、ニューヨークから帰国する【大野順之助】さんの講習を受けさせてもらえるのです。

しかも、就業時間に・・・・

          

当時の大野先生・・・まだ若くて、シーチングをボディに当ててハサミで形にする姿

すごくてね

自分でも人並みに努力はしましたが、(株)34に入社出来たことが

この後の仕事人生を大きく変えてくれました・・・

そして、(株)34に、感謝しています。

      

       ※ 母と一緒の写真・・・二人とも幸せそうな雰囲気です。

         妹が撮ったのだと思うけれども、ピンボケ

         今日は、母の51回目の命日です。

        

         


売れてなんぼ の世界

2023-09-12 11:46:46 | 日記

何か・が、きっかけになり、新しい道が始まる・・・

       

       ※ 新山口駅近の地下道の出口

          地下道を上がり出口をでると、左右に”ウエディングホール”と、“ホテル”があります。

          後に新幹線の線路が見えます。

          右に行くか❓ 左に行くか❔ 

    こういうのを、【ターニングポイント】というのですね

 

私は、その時は、〇工房 〇〇 〇アトリエ を、退社することを選択しました。

   そして、

当時は、オーダーメードが普通で、いっぽう 朝陽の勢いだった、既製服産業  がありました。

  私は、『既製服』の道をえらんだのですが、

  選んでも、雇ってくれる会社がなくては

 

その頃は、ファッションデザイナーを目指す人は、パリへ   

 

既製服企業の有名メーカーは、パリを目指して、退社したデザイナーを見送り

改に、企業デザイナーを探していた頃だったと思います。

 

      

         

        ※ 新山口駅の地下道を出た場所 ウエディングホールのチャペル

          ここの風景が好きで、よく写真を撮りにいきます。

          上の写真・・・ミニトルソーがすてき!

私は、先輩のつてを辿って、(今は、無くなってしまいましたが・・・) 当時では

わりと有名だった『既製服』の会社・(株)34へ入社出来ました

デザイン画も上手ではないし、立体裁断なんて見たこともないのに・・・

       

        ※ こういうヌードボディに 、シーチングという、布をのせて立体裁断して

           デザイン画の形をパターン化します。

           短大の被服科ではもちろん、〇工房 〇〇 〇アトリエでも見たことなかった

       

    ※ これは、最近の私の作品です。テーラードジャケットのドレーピングです。

      形が決まったら、布を外して、平面パターンにします。

      ちなみに、出来上がった作品は・・・

           

 

そんな、私を採用してくれた (株)34の、М・М課のMDのTさん・・・

同郷のよしみで、採用してくださったとか

本当に   縁は異なもの味なもの ですね・・・

Tさんと、私が同郷でなかったら、違った人生だったかも

                 

      ※ 何に焦点が当たっているのか❔  でも、それなりにまとまっているような❓❔

      誰が主役でもない・・・そんな構図が好きです。

   ところが・・・

〇工房 〇〇 〇アトリエ を退社して、(株)34М・М課に採用されるまでの

一年間あまりの間、自分を見つめ直す出会いがありました・・・

  〇工房 〇〇 〇アトリエ を辞めたはいいけれども、

生活していかなくてはなりません

そのために、老舗のファッションブティックの、バイヤーだった人が立ち上げた会社に行きました。

       

      ※ 同じウエディングホールを撮ったのですが、

        主役のガス灯は同じ位置にいますが、回りの風景で主役が変わって見える・・・

        写真の切り取りで変化して見える・・・

        人間社会みたいです!!

       

老舗のファッションブティックの、バイヤーの中では、優秀な人材だったのでしょう・・・

大きな会社が投資して、アパレル会社を立ち上げた程の人物だから・・・

    でも、

バイヤーとしてはよくても、社長としては❓❔の人でした。

 

      そんなある日

❓❔の社長が、本社ビルに私と、他のデザイナー2名を連れて挨拶に行きました。

 

 そこには、本社の社長と、占い師を兼ねているというデザイナーがいました。

 占い師を兼ねているというのは、

 そのデザイナーのデザイン作業ぶりが

 まるで、占い師の様だし、必ずヒット(売れる)というところから、

 きているみたいでした。

 既製服のデザイナーは、売れてなんぼの世界です。

 売れなくては、評価されないし、そのうち契約破棄されます・・・

     

       

彼は、私を含んだ三人のデザイナーを紹介しました。

 (私が一番年下で、そのうちの一人はかなりのキャリアの持ち主でした・・・

 だから、その方はひるむことなく本社の社長とも、

 顧問のデザイナーとも会話されていました。)

 

❓❔の社長・・・おとなしい私をかばってくれたのか・・

「まだ若いから、あまりしゃべらないけれども・・・おとなしくていい娘ですよ

       ※一つの写真を、イメージを変化させるために・・・

         色彩を変えてみました。

       

        ※優しいイメージが色彩を変えると、冷たくなったり、少し怖くなります・・・

       

 

すると、

本社顧問のデザイナー:「何を言ってるの  この娘が一番手に負えないんだよ

         (ひとを見る目がないんだね~~とは言わなかったけれども・・・)」

     

❓❔の社長 :「そうですか~❔どこがですか❔」   

 

本社顧問のデザイナー:「人をみて判断できないのはダメだね・・・

            私なんか、生地をみて生地と会話するんだよ」

❓❔の社長 : 「なんてするのですか

本社顧問のデザイナー :「生地に向かってね・・・あなたはどうしたら嬉しい❔」

   すると、生地が答えてくれるらしいです・・・こうして欲しいと

   生地の言う事をちゃんと聞いてあげると、売れる服が出来るらしいです。

       「この娘は生地と同じでね・・・きちんと聞いて理解させる人のことは聞くけれども、

        ほかの理解できない人には絶対いう事をきかない頑固者だよ

        あんたも社長業をするのなら、そのくらいのことはね・・・」

      ※ 何故か・・・3に縁のある私 私のk川3本川・・・

      

 

さすが・・・占い師も出来る顧問デザイナー

一目私を見て、性格を当てられた

   でも、その方 (占い師も出来る顧問デザイナー) と出会ってから、

   素材を見ながら、会話しながら服のデザインする私が誕生しました

そして、良い人かもしれないけれども、❓❔の社長の会社を去って

   (株)34М・М課の面接を受けて、同郷のよしみで

   採用されたのです。

 

この会社で、デザイナーとしての知識を学ぶことが出来ました。

短大の被服科や、〇工房 〇〇 〇アトリエ で得た知識とは全く別世界の服作り

とまどいの、『既製服』の会社での仕事が始まりました。

       ※ 主人が、運転を止めれれる様になり、最近はもっぱら“バス”利用

          地方は、バスの走っている本数が少なくて・・・

          でも、一時間に一本でもありがたいです

          乗客数も少ないのに・・・・

          よく、廃車路線のことが報道されているのは納得できます。

          もちろん、利用者としてはあって欲しいけれども、人件費とかガソリン代、

          メンテナンス料金、保険料どこから捻出しているのだろう❓

          と、考えながら、乗っています。

          山口県庁前のバス停

          日中でも、ベンチに腰掛けて待っている人は、ほとんどいません・・・

       


何が、きっかけになるのか・・・

2023-09-03 12:19:44 | 日記

9月に入りましたね・・・

この間の 今年最大の【スーパームーン】あいにくの曇り空で

見る事が出来ませんでした・・・山口では

     

     ※ ウェディングホールのディスプレー ピンクの濃淡で、リフレクション風に加工しました。

前回の、¨サンドバック代用¨ の日々に続きます ― ― ― ― ―

 

 ― アトリエ勤務になると、デスクがあって、そこでデザインの仕事が出来る ― 

 

そんな事は、全くなくて

とりあえず、タイムカードは定時前に押して、掃除は終えるのですが、

その日の仕事は、チーフデザイナーと、事務責任者の指示を

控室 (モデルが着替えをする場所のような所) で待ちます。

    ◆ ある日は、先生の側にいて、指示された生地を運ぶ・・・数メータ巻なので重くて 

    ◆ ある日は、デパートのプレタポルテコーナーの応援

    ◆ ある日は、オーダーメード室のお手伝い・・・切じつけがほとんどでした。

    ◆ ある日は、収録のためにテレビ局に向かう先生の荷物持ち (これは、楽しかった)

    ◆ ある日は、ショーの手順の張り紙作り

        ショーの時モデルが着て登場する服、アクセサリー、バック、クツ etcを

        モデル別に一番おおきな紙に表にします。

        登場順に記入するから、何かの都合で、登場順変更になると、初めからやり直し

        パソコンのない時代だから、すべて手書きでね

デザイナーの仕事は、丁稚奉公のようなもので、

教えてくれることもなければ、きちんとした指示もないのです・・・

自分で、仕事を見つけることができないと、いつも叱られるし

      あと・・・

クリスマスパーティーの時は正装をと言われるのに、そんなお金の余裕もなく、

作る時間もないし・・・ 

それでも、自分でミモレ丈のワンピースを作りました。

参加した方々は

先生の服を着た、政界の奥さま、有名な芸能人・・・

私のミモレ丈のワンピースにターバン姿は (雑誌annannの表紙をまねたつもり・・・)

完全に浮いていた❓❔❓

     

      ※ 萩焼のコーナーの展示でした・・・

       壺は萩焼だけれども、壁のパーツもそうなのでしょうか❓

その日の仕事終了時間は、先生の仕事が終了するまで・・・

先生の、仕事モードにスィッチが入るのは

午後のおやつ時間後  

   だから、終了時間はいつも十時前後でした・・・

   夕方になると

お腹はすくけれども、我慢の子です。

出前をとったり、駅までの途中で食事する人もいたけれども、

そんな余裕もなくて・・・

     

       

      ※ オシャレな雰囲気のレストランとか喫茶店も

        その頃は東京と言えど、少なかった・・・

        先輩に連れて行ってもらった、赤坂の“ニコラス”や、“ザクロ”etc

        始めて食べた、ピザには、ビックリ

        「世の中には、こんなに美味しいものがあるんだ!!」

        「和食でも、何だか始めて食べたし、盛り付けがなんてステキ!!」

 

そんなある日のこと・・・先生のご機嫌が良かったのでしょうか❓

「君は、不思議なだね~~  僕があんなにひどいことを言っても、いつもニコニコしてるね

 

   ほめられたのか❓

   ばかにされたのか❔

ひどいことば・・・

そうです! 今では、差別用語みたいなことばを、よく言われた気がします。

     

 

でも、そんなことは全く気にもならなかった私

     そんなことより、もっと気になっていた事がありました

 

それは・・・

   ― ― プレタポルテコーナーでも、切じつけをしていても、舶来素材がほとんど  ― ―

   従って、値段が高い

  私の回りには買える人はいません

 

   私が、休日には良く行っていた、渋谷西武の “タイムカプセルコーナー”とか、

(新進デザイナーの商品が置いてあり、高田賢三さん、コシノジュンコさん、三宅一生さんなど、後に有名になった方々)

   新宿の “鈴屋” とか “タカノ” とは、違う服ばかり・・・

もっと、自分の生活の中にある服を作りたい

 

それに、食費を削っても買っていた、流行の私の服を先生は

「おぅいいね~~ 若い人はこういうの着てるんだね」と褒めてくれる。

 〇〇先生は、頑固でも、認めることはちゃんとお認めになる方でした。

 

買えない時は、夜な夜な型紙をおこし、ミシンを踏んで服を縫って着ていると、

知らない人から声をかけられる・・・

「ステキな服ですね どこで買われたのですか ❓」

田舎者の私の感覚も、もしかしたら活かせる場所があるかもしれない・・・

      

    

 ― ―自分の生活の中にある服 ― ―

それを作りたいな~~

毎日、雑用に追われて、家に帰ってデザイン画を描いている日々を

何とかしないと・・・

たまたま、デパートのプレタポルテコーナーに立っていたら、

以前 〇工房 〇〇 〇アトリエ にいたという先輩が様子を見に来られたのです。

 

いろいろアドバイスを頂きました。

 

それと、その頃、妹が東京の大学に入学するのに

入学金を納めに、その大学に私が持っていくから遅刻させて欲しいと

事務担当者に申し出たら、

「私用で、遅刻はなりません 」と、言われました。

山口から、入学金を納めに、家族をこさせるのでしょうかね❔❓

   さすがに、

 こころが、〇工房 〇〇 〇アトリエ から離れたきっかけです

 

 

     ※ 以前と同じ最近の私の写真

      加工を変えて・・・

      

   

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 


個性の大切さ・・・今でこそ分かりますが・・・

2023-08-31 11:12:32 | 日記

今日で八月も終わりです

まだまだ、残暑は続きそうですが、暦の夏は過ぎていきますね・・・

       

       ※ 山口は回りを、低い山々に囲まれた筒の底のような盆地です。

         そんなせいで、青天の日はほとんどないのですが・・・

         ─ 今年の夏も昨年以上の暑さでした。山口県庁前の街路灯と青空 ─

さて、前回の続きのお話しです

 

   〇工房 〇〇 〇アトリエ 入社した頃のことです。

その年にデザイナーとして採用された人は3名でした・・・

偶然だとは思いますが、3名とも「川」のつく苗字

Y川S川・そして私 k川 の3名

      

        ※ ショップのネームプレート・・・構図、アングル、色彩で違って見えます・・・

Y川S川さん達は、デザイン科卒業なので、私より2つ年上でした。

 

新米デザイナーは、入社後はしばらくの間はデパートにある 〇〇 〇プレタポルテコーナー で、

お客様と、直接応対し、お客様の好みや、市場の流れをつかむための、経験をします。

そして、週一回はアトリエに行って、電話の応対の仕方、お茶の出し方‥等、先生の秘書さんや

チーフデザイナーから、特訓を受けます。

先生は、皇室の方の、主任デザイナーだったし、顧客さまには政治家の奥さまなど、著名な方が多くて

電話の応対とか、とても厳しかったです

       

       

       ※ 山口市内のお店の写真です。

         今でこそ、オシャレなお店も少しはありますが、私が十代の頃は

         地方と都会(東京がダントツかも❓❔)のオシャレ度の、温度差はすごくあった様な・・・

      

3川の新米デザイナーの内、k川なる私は日本橋高島屋の

”〇〇 〇プレタポルテコーナー”に配属されました。

          

因みに、あとの二人の川さんは

Y川さんは・・・即アトリエ勤務 (長身でスタイル抜群で、先生お気に入りのモデル

        小泉ひとみさんとサイズが同じで、ひとみさんの変わりにフィッティングが

        可能だったせいかもしれません❓)

s川さんは・・・京王デパートの”〇〇 〇プレタポルテコーナー”で、販売実習 でも、直ぐにアトリエ勤務

 

苦痛だった、高島屋での経験が、後々とても役にたったのですが・・・・

      

 

       

       

       ※ レイアウトの概念・・・特に勉強した訳ではありませんが、デパートの上から下を見て回り

       ステキな雰囲気を感じるレイアウトは❓

        いやいや通っていた、日本橋高島屋での経験が

       日々独学出来たように思います。

         

        当時は不愛想な私でした。

        「あなたが仏頂面で立っていると、お客様が逃げていかれるから、ディスプレーを上手くして!!」

        と、”〇〇 〇プレタポルテコーナー”のディスプレーを任されました。

       日本橋高島屋の上から下までの商品を借りて、トルソーやマネキンの側に商品を置いたディスプレーを

       張り切ってしてました。

       

でも、今思うと大変でした

若いから出来たのでしょうね~~

日本橋高島屋の時は、生田から日本橋まで一時間以上かかったし、

一ケ月に一度はデザイン画を提出しなくては、アトリエ勤務にならないし・・・

夜、デザイン画をコツコツと描いていました。

 

ある日、【装苑】のページをめくっていたら、

見たことのあるデザインが

前の方のページに、大好きだった当時の人気モデルが着て、掲載されていました・・・

もちろん、先生の作品として・・・

       それでも、嬉しかったな~~

そうこうしているうちに、やっとアトリエ勤務 一年以上かかりました  

 

    

       

ところが、想像以上に大変な  アトリエ勤務

 

朝8時半 の朝礼に 間に合うように出勤 

生田から、小田急線で明大前で井の頭線に乗り換えて渋谷(30分くらい?)

渋谷から、徒歩でアトリエまで15分以上かな?代官山方向には・・・

 

8時半までには、新米は、掃除を終えてなければならなくて・・・

 

普段の日はそれで良かったのですが、

先生が皇居に出かけられる日は、それに加えて仮縫いの用意

ピンクッションに、シルクピンを放射状にめぃっぱい美しく指すのが私の役目

      

少しでも、放射状が一方方向に向いてなかったら、台風も地震も同時にやってくるのです

 

先生は、感情の起伏の激しい方だったので、

”サンドバック” の代用に、私を採用したのかと思うほど、

良く叱られましたね・・・

     考えてみても、同期生の二人はデザイン科を卒業して四年間学んでいたし、

     東京育ち。

     短大の被服科二年しか勉強してないし、田舎者の私です。

     比較するほうが、おかしいですよね❓  ❔

        

        ※ 個性の大切さ・・・今でこそ分かります。

         当時の私は、コンプレックスの塊・・・都会人に憧れて、必要以上に背伸びしてました 

アトリエ勤務の様子、もう少し残っていますが・・・またの機会に

 

最近の私のことです。

8月27日が甥の誕生日でした。

思い出の写真やプレゼントしてもらったものを加工しました。

       

       

 

 

 

 

 

       


『悲しき雨音』がラジオから

2023-08-24 11:09:14 | 日記

珍しく、短期間の投稿です・・・

前回の投稿から、数日で投稿です 

   理由は

   書く内容を忘れてしまいそうだから・・・

   それと、少し精神的に落ち着いてきたから❓❔ ・ でしょうか

     

      ※ 月一回検診して頂いている、歯科医院の中の絵や、飾ってあるお花です。

        廊下の壁に、ステキな絵が飾ってあります。

        でも、一度撮らせて頂くと、次回は違うもの・・・

        そんなことはないので・・・

        歯医者さんシリーズはおしまいでしょうね・・・

     

 

短大部二年(19才)の、十一月か師走の頃、就職か、デザイン科に進むか決めなくてはなりません。

当時は携帯電話もないし、手紙か固定電話(大家さんからの呼び出し電話) で、田舎の母親と相談したら

経済的な事情もあり、出来れば就職して欲しいと・・・

 

事務局前に、就職案内の張り紙があったのですが、

被服科と言っても、嫁入りの、釣書 のための短大卒には、

デザイナー募集の張り紙は、ほとんどありませんでした。

      

    ※ 田舎風の建物・・・ヨーロッパと日本、他の国の建物

               それぞりに個性があり、生活に密着した工夫がされているように、

               授業内容も、違ったのでしょうか❓

               ほとんどが、事務関係の職種だったような??

               何のための被服科だったのかな❔

               まだ、既製服も少なく、家庭でミシンをふむ母親の姿が普通だったのでしょうね

               やっぱり、花嫁修業の ”〇〇大学短大部” でした・・・

         

それでも、二・三社はありました。

二社願書を提出したと思います。

一社は、(当時はまだ珍しかった既製服でニットメーカー) ここは、年内に受けて、見事に不合格

もう一社は、年が明けてからの試験でした。

最初の 不合格 した会社に、人生で始めての不合格  の悲しみを、味あわせてもらい、

失望のどん底・・・

        

でも、卒業式までは数か月残っているし、

卒業後は就職が出来ないと、田舎に帰らなくてはいけないのは決定している

何のために、東京で二年間過ごさせてもらったのか

 

なんとか、このまま東京で、夢だったデザイナーになるには❓❔❔

        

        

まだ、成人にもなってないし、自力で生活も出来ない・・・

多分かなり悩んだのでしょうね~~

あまり、記憶にはないのですが・・・

      

    そうだ!!

気持ちを切り替えよう・・・と、

        

         ※ これは、最近、そうだ!!気持ちを切り替えよう・・・と、美容院に行った時の写真

           この、美容院に行くと、現実逃避できます。

           内装、美容師さんの技術、センスが良くて、引っ越して六件目にやっと出会えた美容室

           

当時母方の従兄が、『生田』にある大学の大学生で、知り合いのアパートが空いていると勧めてくれました。

とりあえず、『生田』に引っ越すと、気分も変わるかも

 

そのアパートの大家さんは、従兄の母親 (母の姉なので、私の伯母) の知り合いなので、

いろいろ厚遇してもらえる・・・その言葉にもつられて、即引っ越し

        

         ※1969年頃の小田急線 ”生田駅” 何もなかった・・・閑散とした街でした。

          駅から、高台に歩いて、十二・三分の場所でした。

アパートは、六畳と、一畳位の板の間に流し台

そこで、始めて好きな時間に使える台所とトイレ・・・

(トイレは共同でしたが、もう一間の住人はほとんど本宅で過ごしていたため、私一人のアパートのようでした。)

自由に使えるトイレは有難いし、

好きな時間にお湯を沸かせる。

インスタントコーヒーも飲める

       ※ コーヒー豆なんて見たこともなかったと思います。

         喫茶店には行ったことはあっても、豆は知らない・・・

         コーヒーと言えば、ネエッカフェ

         写真は、コーヒー豆専用店の内装

         ステキなので、撮らせてもらいました。

          

 

       

 

          

そして、年が明けてもう一社の面接試験

そこは、渋谷から代官山方向に歩いて、12~13分

鉢山町にある、ステキなアトリエでした。

確か、スケッチブックにデザイン画を数枚描いて持参するのも条件でした。

履歴書と、スケッチブック、そして自作のワンピースを着て面接に行きました。

 

       ※ ↓の写真は卒業制作のワンピース (ウールジョーゼットだったかな?

          ローウエストで、シルクサテンのサッシュベルト)

         このパターン利用して、白黒のプリント(当時は素材名を知らなかったけれども、エターミン素材)

         薄い淡いピンク色のフリンジ付きのストールをサッシュベルト風に巻いて行った記憶があります。

         成人式にも、同じスタイルで出席したので、その写真は残っているから・・・

       

   〇工房 〇〇 〇アトリエ

なんて、ステキなアトリエ

          ※実際とは違いますが、二階にある接客室は、こんな雰囲気でした。

           壁面はすべて鏡張り・・写真の暖炉部分が鏡のような接客室で・・・

         

そんな場所は始めて・・・

ドキドキしながら、面接を受けました。

何を聞かれたか、何と答えたか❓❔

全く覚えてないけれども、最後に先生が

「君の色彩感覚が、僕は好きだな  と、言われた事だけは

今でも、はっきりと覚えています。

    そして、結果は後日と・・・

       

      

結果が出るまでに、私は成人式に出席するために

田舎に帰りました。

    すると、あろうことか❓❔

妹が、急性盲腸炎になって、緊急手術

      

当時は成人の日は、1月15日でした。

久しぶりに会った、同級生と成人式に出席したものの、

就職先は決まってないし、下手をすると、またここ (田舎の山口) で生活しなくてはいけない

こんな時、成人の日を迎え、

しかも、母は妹の手術に付き添って、お祝いどころではない・・・

   わがままな性格が爆発

   私:「なんで、こんな時に盲腸炎になるの

   妹:「そう言っても、好きで盲腸炎になった訳ではないのに・・・」

   母:「そういね~~好きでこの日に盲腸炎になった訳ではないのに・・・

      お姉ちゃんなのに、なんてことを言うの 」と、叱られて、また生田に帰る私。

その時、ラジオから、カスケーズの『悲しき雨音』は、流れていました。

『悲しき雨音』を聞くと、当時のことを思い出します。

    

     ※ 行動も必ず映っているものですね・・・

      効果的に良くなる場合もあるし、逆の場合もある・・・

      そのころは、そんなことは全く考えもしませんでした。

生田に帰って、しばらく経ったある日

学校の事務局から、呼び出され

「k川さん、良かったね  〇工房 〇〇 〇アトリエ から、採用の知らせがあったよ

 

 

   ※ あれから、半世紀経った今・・・現在の私

     地球環境も大きく変化し、私も大きく変わりました・・・

   

次回は、〇工房 〇〇 〇アトリエ での、仕事内容に続きます。

ここまで、お付き合いいただきありがとうございました