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モーツァルト 第二期ピアノ・ソナタ 解説

2011年06月15日 | Weblog

モーツァルトであること  川上哲朗(フルート奏者)

 モーツァルトの時代、宮廷作曲家としてのポストを射止めるための重要な資格は、才能ではなく“イタリア人であること”そして“世渡り上手であること”であった。(考えれば、今もそう変わらない)

 1777年7月、21歳のモーツァルトは出身地、ザルツブルグの大司教、ヒエロニムス・コロレドの館での音楽家を辞職、母親と二人、ミュンヘン、アウグスブルク、マンハイム、パリへの旅に出かける。もちろん目的は、都会の宮廷への就職。しかし、どこへ行っても、散々演奏をさせられた挙句、ご褒美は金時計。 就職はおろか、演奏代さえ払ってもらえず、最後に一言「残念ながら君のポストはうちの宮廷には無い」でさようなら。(モーツァルトを恐れた老いた大家達が締め出しにかかっていたようでもある。)そして、悪いことは立て続けにやってくる。旅に出て10ヶ月、パリでモーツァルトは最愛の母を亡くすことになる。うまくいかない仕事、陽気な母の死。可哀そうなアマデウスはどんなに打ちのめされただろう。


   K.309 - 311

 有名なイ短調K.310のソナタは、“母の死による哀しみが表された”というのが決まり文句になっているが、母の死後に書かれたという証拠はどこにもなく、この悲愴的なソナタの作曲は母の死の前であったという説も濃厚である。こうなってくると、センチメンタルなモーツァルト像は“仕事人”モーツァルトに変わってくる。
 これらのソナタの作曲年月、動機や経緯には不明な点が多く、おそらくは就職活動のお土産に使われたのだろう。



 この頃の彼の手紙には、“当地の人間の趣味に合わせて作曲する”といった趣旨の文章が散見される。たとえば「気取ったマンハイムの様式で作曲する」「パリの聴衆に受けそうなフレーズを」といった様な、ある意味聴き手に媚びる姿勢があったのだ。それは、現代に蔓延る怠惰な“アーティスト気取り”などでは客の心は掴めないことを良く知っている天才の計算であったし、事実その読みは良く受けていたようである。人の求めるものを、より高い次元で結実させる。その経験が、彼の音楽語法をより豊かなものとして、ウィーン時代の傑作群に繋がっていく。(マンハイム楽派の豊かな強弱法やオーケストラ語法がその後の作品に結実しているのは明白である)

 また非常に重要なことは、これら3曲が、今までとは違う楽器の為に作曲されている点にある。旅行中に立ち寄った、父・レオポルトの故郷アウクスブルクで出会ったシュタイン制作のクラヴィーアである。父への手紙で、彼はシュタインの楽器への熱烈な賛辞を綴っている。残念ながらモーツァルトはこの楽器を手に入れられなかったが、この嬉しい衝撃が彼のピアノ語法の発想に一役買ったのは確実だろう。シュタインのピアノを使って開かれたコンサートで、前作デュルニッツソナタk.284の他にハ長調のソナタを即興したと書かれている(おそらくk.309の原型と思われる) 我々は嬉しいことに、本日のコンサートで、このシュタインのモデルのピアノで演奏を聴くことが出来るのである。

使用楽器:ヨハン・アンドレアス・シュタイン1784年モデルのレプリカ
製作:堀榮蔵、栃木市文化会館蔵
(写真は横田誠三氏のウェブサイトからの転載)


  K.330 - 332

 かつては、前3作と同時期の作品と言われていたが、現在では自筆譜の研究によって「1783年ウィーンか、その年のザルツブルク訪問中」に作曲とされている。つまり前作から5年後、モーツァルトがウィーンでフリーの音楽家として活動し始めた頃の作品である。3曲とも作曲の明確な目的は分かっておらず、1784年にはモーツァルトの意思によってウィーンの出版社により「作品6」として出版されている。
   

これらの作品はもともと出版を目的に書かれたようにも見える。非常にチャーミングで技巧的にも内容的にも優しさを讃えたハ長調。型破りで、見ようによっては小品集でもあるイ長調。あらゆる点で立派さを感じさせるヘ長調。と、3つの全くスタイルの違う、ある意味あらゆるニーズに応えたソナタはモーツァルトの多様性、職人気質を充分に感じさせてくれる。最小の面も、その集合体も、どちらも美しく仕上げるのは並大抵のことでは無いのだが、彼は安々とやってのける。       音楽は貴族だけのもでは無いと、モーツァルトに強く実感させたウィーンの町は、もともと百科事典派、啓蒙思想的な彼の作品をもっと普遍的かつ高度なものへと変えさせた。トルコ行進曲の東洋趣味などは良い例だろう。音楽はもはや、あらゆる人々のものであり、美しくて、分かりやすく、それでいて多様な趣味を持ち合わせていなければ見向きもされなかった。フィガロ、ハイドンセット、ジュピター….ウィーン時代の数々の傑作は、もう目の前である。

 ザルツブルグの大司教との完全な決別、ウィーン定住、コンスタンツェとの結婚と、転換期を迎えたモーツァルトの生活は、母の死や就職の失敗などを振り払うかのように派手で、怠惰なものに変貌し始める。
豪華な服を買い、パーティーに参加しては酒を飲む。金が足りなければ借金をする。“陽気で、恐ろしい生活!”とは、ラ・ボエームの原作者ミュルジェの言葉だが、ウィーン時代のモーツァルトは音楽家史上、恐らく初めてのボヘミアンであった。才能以外に自分を助けるものが無いという状況は、若き天才をかえって奮起させたことだろう。
 天にも届く勢いで高まる美しい作品の質とは反比例する地位と健康。静かに伸びる双曲線の音に、アマデウスは気付いていただろうか? 



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