2020/01/11 (土)
19:30 - 21:00(19:00 open)
会場
豊洲シビックセンター
チケット
一般前売り ¥2,000
学生前売り ¥1,000
(当日¥500増)
■チケット購入
https://hip-toyosu.peatix.com
お問合わせ
028-673-4938(一般社団法人HIP / 営業時間10:00-18:00)
演奏曲目
ジョン・ケージ《4分33秒》
モートン・フェルドマン《バニータ・マーカスのために》(約75分)
+++++++++++++++++++++++++++++++++
アメリカ実験主義の新たな魅力を提示する
横山博が織りなす、2つの静謐な時空間
大西 穣
ケージの「沈黙の作品」は、1948年、当時勃興していたBGM配信会社に無音の楽曲を放送させる構想から始まった。無響室で絶対的な沈黙の不可知性を悟り、偶然性の作曲の開始を経て、1952年、コンサートピースの《4’33”》へ変貌した。初演したピアニストのチュードアが回顧するには、そこには偶発的なアンビエンスノイズだけでなく、瞑想的なカタルシスがあったと言う。
一方、抽象的な視覚芸術の影響が色濃いフェルドマンにとって、沈黙とは「対位法の代替物」として曲中に配置されるものだった。後期になると、不規則的でシンメトリックなアナトリア絨毯の模様が反映され、三つの異なる拍子に基づくモジュールを巧みに構成した傑作《For Bunita Marcus》(1985年)が生まれた。約70分にわたってダンパーペダルは踏み続けられ、それは、まるで把捉し切れない広大な絵画のように、聴衆の時間感覚を眩惑する。
アメリカ実験主義を代表する2作品の魅力を 、チェンバロやパイプオルガンに至るまでの鍵盤楽器の歴史と機構を内面化した横山博が、精確なタッチで開示する。
++++++++++++++++++++++++++++++++
●フェルドマンによる作品紹介
私の音楽の中で「バニータ・マーカスのために」は、例外的な作品ですので、どのようにこの曲を書いたのかをお話したいと思います。音符ではなく、音符自身がこの曲を書いたわけではありません。魚釣りや金儲けの才能を持つ人がいるように、私は、音符を書く才能を持っています。音符というものは問題ではありません。ただ、耳から引っ張り出せば良いだけです。
ただ私にとって、リズムというものが存在しません。そこで、リズムという言葉の代わりに「リズミカルにすること”rhythmicize”」という言葉を使いたいと思います。私はメーター(拍子etc.)というものに興味を持ち始めていました。人が「メーター」という用語を使う場合、「どのように小節線を乗り越えるのか?」という問題がそこには含まれています。私はまず4/4拍子を書き込んで、少し多めにスペースを空けておきました。そして小節線を引いた後、その小節線を超えて、音符を書き込んでいきました。「メーターのブラックホール」とでも言いましょう。小節線をまたいで引きつけ合う音楽は他にも沢山ありますし、皆、小節線を気にし過ぎなのです。
「バニータ・マーカスのために」は、主に3/8拍子、5/16拍子、2/2拍子の小節で構成されています。曲の最後のほうでは2/2拍子が、音楽的に重要な役割を持っています。3/8拍子と5/16拍子に左右はさまれた2/2拍子の小節は音を立てません。メーターというものを、リズムではなく、ひとつの作図法として用いたのです。その結果、メーターと時間の関係は、作品の持続時間として現れました。
最後に注目したのが「展開部」です。2/2拍子、3/4拍子、5/8拍子…というふうに、「複合メーター」を使いました。それ相応に、不安定な部分を作るためにメーターを使用したのです。しかし、それは展開部と呼ぶべきものではなく、メーターを展開した、としか表現しようがありません。「グリッドの中で、どのくらい変化を持たせることが可能か?」と作曲家なら皆考えるものですが、私は、加速する、または、減速する、という手段を選びました。しかし、そこまで確定的なプランではありません。以上のような構成要素を受け入れてもらえると、どのような作品なのか分かっていただけるかと思います。https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/for-bunita-marcus-2510
(訳:横山 博)
19:30 - 21:00(19:00 open)
会場
豊洲シビックセンター
チケット
一般前売り ¥2,000
学生前売り ¥1,000
(当日¥500増)
■チケット購入
https://hip-toyosu.peatix.com
お問合わせ
028-673-4938(一般社団法人HIP / 営業時間10:00-18:00)
演奏曲目
ジョン・ケージ《4分33秒》
モートン・フェルドマン《バニータ・マーカスのために》(約75分)
+++++++++++++++++++++++++++++++++
アメリカ実験主義の新たな魅力を提示する
横山博が織りなす、2つの静謐な時空間
大西 穣
ケージの「沈黙の作品」は、1948年、当時勃興していたBGM配信会社に無音の楽曲を放送させる構想から始まった。無響室で絶対的な沈黙の不可知性を悟り、偶然性の作曲の開始を経て、1952年、コンサートピースの《4’33”》へ変貌した。初演したピアニストのチュードアが回顧するには、そこには偶発的なアンビエンスノイズだけでなく、瞑想的なカタルシスがあったと言う。
一方、抽象的な視覚芸術の影響が色濃いフェルドマンにとって、沈黙とは「対位法の代替物」として曲中に配置されるものだった。後期になると、不規則的でシンメトリックなアナトリア絨毯の模様が反映され、三つの異なる拍子に基づくモジュールを巧みに構成した傑作《For Bunita Marcus》(1985年)が生まれた。約70分にわたってダンパーペダルは踏み続けられ、それは、まるで把捉し切れない広大な絵画のように、聴衆の時間感覚を眩惑する。
アメリカ実験主義を代表する2作品の魅力を 、チェンバロやパイプオルガンに至るまでの鍵盤楽器の歴史と機構を内面化した横山博が、精確なタッチで開示する。
++++++++++++++++++++++++++++++++
●フェルドマンによる作品紹介
私の音楽の中で「バニータ・マーカスのために」は、例外的な作品ですので、どのようにこの曲を書いたのかをお話したいと思います。音符ではなく、音符自身がこの曲を書いたわけではありません。魚釣りや金儲けの才能を持つ人がいるように、私は、音符を書く才能を持っています。音符というものは問題ではありません。ただ、耳から引っ張り出せば良いだけです。
ただ私にとって、リズムというものが存在しません。そこで、リズムという言葉の代わりに「リズミカルにすること”rhythmicize”」という言葉を使いたいと思います。私はメーター(拍子etc.)というものに興味を持ち始めていました。人が「メーター」という用語を使う場合、「どのように小節線を乗り越えるのか?」という問題がそこには含まれています。私はまず4/4拍子を書き込んで、少し多めにスペースを空けておきました。そして小節線を引いた後、その小節線を超えて、音符を書き込んでいきました。「メーターのブラックホール」とでも言いましょう。小節線をまたいで引きつけ合う音楽は他にも沢山ありますし、皆、小節線を気にし過ぎなのです。
「バニータ・マーカスのために」は、主に3/8拍子、5/16拍子、2/2拍子の小節で構成されています。曲の最後のほうでは2/2拍子が、音楽的に重要な役割を持っています。3/8拍子と5/16拍子に左右はさまれた2/2拍子の小節は音を立てません。メーターというものを、リズムではなく、ひとつの作図法として用いたのです。その結果、メーターと時間の関係は、作品の持続時間として現れました。
最後に注目したのが「展開部」です。2/2拍子、3/4拍子、5/8拍子…というふうに、「複合メーター」を使いました。それ相応に、不安定な部分を作るためにメーターを使用したのです。しかし、それは展開部と呼ぶべきものではなく、メーターを展開した、としか表現しようがありません。「グリッドの中で、どのくらい変化を持たせることが可能か?」と作曲家なら皆考えるものですが、私は、加速する、または、減速する、という手段を選びました。しかし、そこまで確定的なプランではありません。以上のような構成要素を受け入れてもらえると、どのような作品なのか分かっていただけるかと思います。https://www.universaledition.com/morton-feldman-220/works/for-bunita-marcus-2510
(訳:横山 博)
1949年1月11日、M.アジェミアンによって《ソナタとインターリュード》が初演されて以来、様々なピアニストがこの曲のプリパレーションを研究、熟考し演奏を行なってきた。横山博さんは今回、可能な限り作曲当時に近い形、つまり、ケージが用いた小型スタインウェイ・ピアノでその響きをよみがえらせようとする。これは、バ ロック音楽を演奏する際に原典版楽譜に則り、ピリオド楽器で演奏するということを思い起こさせる。鍵盤楽器の歴史的奏法を学んだチェンバリストでもある横山さんの、独自の観点から実現されていく演奏は興味深い。
井上郷子(ピアニスト、国立音楽大学教授)
2018. 12. 22sat. 16:30open 17:00start
ジョン・ケージ作曲《ソナタとインターリュード》[1948]全20曲
小型スタインウェイピアノ使用東京初公演
古楽でよみがえる、20世紀の音色
主催:一般社団法人HIP、オフィス・ゼロ
助成:公益財団法人朝日新聞文化財団
料金:前売3,000円、当日3,500円 税込・全席自由
公演終了後18:30-19:00、プリペアド・ピアノの無料試奏をして頂けます。
お申込み・お問合せ:一般社団法人HIP
オンライン購入:https://prepared-steinway-piano.peatix.com
TEL&FAX. 028-673-4938
Email. office@cl-hip.org
会場:両国門天ホール
JR両国駅より徒歩5分
http://mercuredesarts.com/2018/11/14/select_concert-2018_12/
++++++++++++++
●当日配布プログラムの解説
ピリオド楽器としてのスタインウェイ
—————————— 横山博
プリペアド・ピアノとは、ボルトやネジ、ゴム等をグランドピアノの弦と弦の間にピアニストが予め挟み込み、ピアノの音を鐘や鈴、太鼓などの音に見立て、ピアノ1台でパーカッション・アンサンブル、ガムランのような様々な音色を出す手法です。
ジョン・ケージは1949年の文書で、「ソナタとインターリュードに好ましいピアノは、Steinway Mです」と述べています。このMというモデルはフルコンサートピアノではなく、スタインウェイが販売するピアノの中では奥行き170cmと、かなり小さなグランドピアノです。両国門天ホール所蔵のピアノはこのSteinway Mです。プリペアド・ピアノでは、ピアノの寸法と、音色、そして音高までもが深く結びついています。大きなグランドピアノ、また、他社のピアノでは、ケージの望んだ音をプリペアすることは実質不可能と言えます。つまり、スタインウェイ以外のピアノにプリペアする場合、弦の長さが足りない、長すぎる、ピアノのフレームが邪魔をして、ケージが指定した位置に挟み込めないという現実的問題が起こります。
私は普段、チェンバロ、クラヴィコードを弾いています。調律、弦の張替えのメンテナンスは日常的なことですので、楽器内部をアレンジする事に対して何の抵抗もありませんでした。クラヴィコードは、金属と金属の接触によって、あの微細で神秘的な音色が現れます。もちろん、それが楽器にとってダメージだと考えたことはありません。
シフトペダル(グランドピアノの左のペダル)について、ケージは、「シフトペダルの動きは、ハンマーが3つ全ての弦ではなく、2番目と3番目の弦を打つように調整してください」と出版後に報告しています。現行の国産ピアノは、工場から出荷される状態では、2本弦を打つようには設定されていないことが多いそうです。ほとんどの場合、シフトペダルはピアノの音色を「ソフト」にするものだと思われています。しかしここでは鳴り響く弦の「数」を変更する装置であり、それはチェンバロやパイプオルガンの音色を操作するメカニズムと似ています。
「私は海辺を歩きながら、自分の気に入った形の貝殻を探すように、プリパレーションの素材(マテリアル)を決めていきました」ジョン・ケージ
ボルトの音色は日本のお寺や教会の鐘の音に似ています。高音域に多く用いられているネジの音色は鉄琴(グロッケンシュピール)のようにキラキラとしています。ポコポコといった弾力性に富むゴムのミュートが作り出す響きは、木魚の音にも似ています。
天然素材を多く含み、一点一点形や音色も異なる古楽器製作家が作る楽器とは違い、工業製品である現代のピアノにおいては、ボルト、ネジといった金属部品は基本素材です。それらをピアノ線に挟み込み、そこから出る音色を変化させるという、コペルニクス的転回は(たとえそれが偶然の産物であったとはいえ)、私たちのピアノという楽器への理解に揺さぶりをかけるものです。1950年代から本格化する古楽器復興運動が似たような原動力を伴っていたように、プリペアド・ピアノの発想は、工業社会が生み出す完璧な楽器に対する「介入」であり「異議申し立て」でもあったのです。
現代のピアノを調律するとき、調律師は、最初にラ(A)の音を440-442ヘルツに合わせます。しかしソナタ第16番終結部の左手親指に表れるラの音はプリペアされていないので、鐘のような音は鳴らずに、普通のピアノのラの音が鳴ります。何度も書き込まれているそのラの音を何回弾くかは、ピアニストに委ねられています。
「教会の鐘のような音はヨーロッパを連想させます。余韻があって太鼓のような音は東洋的です。この曲集の最後のソナタ第16番は、疑いようもなく「西洋人」である私の署名として作曲しました」ジョン・ケージ
●ツイッター感想集
ジョン・ケージ「ソナタとインターリュード」全20曲 小型スタインウェイピアノ使用東京初公演
典雅な演奏を至近距離で聴けた しかもその後事前申込制でプリペアドピアノを弾かせて貰えるという充実した貴重な機会
ケージ「ソナタとインターリュード」の演奏録音は沢山聴いたが生演奏を聴くのは今日が初めて
本日の横山博の至近距離生演奏は典雅で クラヴィコードでバロック以前の曲聴いているような心地良さだった
本日の横山博の演奏は 打楽器アンサンブル的でもガムラン的でもホケット的でもなく クラヴィコード的だった ネジでプリペアドされた高音域が適切なタッチで演奏され特に美しかった
ケージのプリペアドの指定の仕方はダンパーから何インチの位置に何々を挟めというもので ピアノのサイズにより弦分割の割合が変わってしまい音高も変わってしまう筈
本日のピアノはケージが想定したサイズのスタインウェイとのことで復元楽器的なアプローチ
しばてつ
横山博、ジョン・ケージ「プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード」全曲演奏会。50席ほどのこじんまりとした会場で、サロンコンサートの趣き。余計な残響が無い分、プリペアドされた複雑で繊細で多層化された豊かな音響を、直接音で間近に聴き取ることができた。至福の90分間。休憩中も、後半の途中(ソナタ13番の後)にも、ネジなどを再調整。強く打鍵するとネジなどがズレたり外れたりしてしまうので、繊細なコントロールであの複雑な音響を創り出しているのだと改めて認識。小さな会場、小型のスタインウェイMにこだわるのにも納得。
J. Y @j_y_suis
井上郷子(ピアニスト、国立音楽大学教授)
2018. 12. 22sat. 16:30open 17:00start
ジョン・ケージ作曲《ソナタとインターリュード》[1948]全20曲
小型スタインウェイピアノ使用東京初公演
古楽でよみがえる、20世紀の音色
主催:一般社団法人HIP、オフィス・ゼロ
助成:公益財団法人朝日新聞文化財団
料金:前売3,000円、当日3,500円 税込・全席自由
公演終了後18:30-19:00、プリペアド・ピアノの無料試奏をして頂けます。
お申込み・お問合せ:一般社団法人HIP
オンライン購入:https://prepared-steinway-piano.peatix.com
TEL&FAX. 028-673-4938
Email. office@cl-hip.org
会場:両国門天ホール
JR両国駅より徒歩5分
http://mercuredesarts.com/2018/11/14/select_concert-2018_12/
++++++++++++++
●当日配布プログラムの解説
ピリオド楽器としてのスタインウェイ
—————————— 横山博
プリペアド・ピアノとは、ボルトやネジ、ゴム等をグランドピアノの弦と弦の間にピアニストが予め挟み込み、ピアノの音を鐘や鈴、太鼓などの音に見立て、ピアノ1台でパーカッション・アンサンブル、ガムランのような様々な音色を出す手法です。
ジョン・ケージは1949年の文書で、「ソナタとインターリュードに好ましいピアノは、Steinway Mです」と述べています。このMというモデルはフルコンサートピアノではなく、スタインウェイが販売するピアノの中では奥行き170cmと、かなり小さなグランドピアノです。両国門天ホール所蔵のピアノはこのSteinway Mです。プリペアド・ピアノでは、ピアノの寸法と、音色、そして音高までもが深く結びついています。大きなグランドピアノ、また、他社のピアノでは、ケージの望んだ音をプリペアすることは実質不可能と言えます。つまり、スタインウェイ以外のピアノにプリペアする場合、弦の長さが足りない、長すぎる、ピアノのフレームが邪魔をして、ケージが指定した位置に挟み込めないという現実的問題が起こります。
私は普段、チェンバロ、クラヴィコードを弾いています。調律、弦の張替えのメンテナンスは日常的なことですので、楽器内部をアレンジする事に対して何の抵抗もありませんでした。クラヴィコードは、金属と金属の接触によって、あの微細で神秘的な音色が現れます。もちろん、それが楽器にとってダメージだと考えたことはありません。
シフトペダル(グランドピアノの左のペダル)について、ケージは、「シフトペダルの動きは、ハンマーが3つ全ての弦ではなく、2番目と3番目の弦を打つように調整してください」と出版後に報告しています。現行の国産ピアノは、工場から出荷される状態では、2本弦を打つようには設定されていないことが多いそうです。ほとんどの場合、シフトペダルはピアノの音色を「ソフト」にするものだと思われています。しかしここでは鳴り響く弦の「数」を変更する装置であり、それはチェンバロやパイプオルガンの音色を操作するメカニズムと似ています。
「私は海辺を歩きながら、自分の気に入った形の貝殻を探すように、プリパレーションの素材(マテリアル)を決めていきました」ジョン・ケージ
ボルトの音色は日本のお寺や教会の鐘の音に似ています。高音域に多く用いられているネジの音色は鉄琴(グロッケンシュピール)のようにキラキラとしています。ポコポコといった弾力性に富むゴムのミュートが作り出す響きは、木魚の音にも似ています。
天然素材を多く含み、一点一点形や音色も異なる古楽器製作家が作る楽器とは違い、工業製品である現代のピアノにおいては、ボルト、ネジといった金属部品は基本素材です。それらをピアノ線に挟み込み、そこから出る音色を変化させるという、コペルニクス的転回は(たとえそれが偶然の産物であったとはいえ)、私たちのピアノという楽器への理解に揺さぶりをかけるものです。1950年代から本格化する古楽器復興運動が似たような原動力を伴っていたように、プリペアド・ピアノの発想は、工業社会が生み出す完璧な楽器に対する「介入」であり「異議申し立て」でもあったのです。
現代のピアノを調律するとき、調律師は、最初にラ(A)の音を440-442ヘルツに合わせます。しかしソナタ第16番終結部の左手親指に表れるラの音はプリペアされていないので、鐘のような音は鳴らずに、普通のピアノのラの音が鳴ります。何度も書き込まれているそのラの音を何回弾くかは、ピアニストに委ねられています。
「教会の鐘のような音はヨーロッパを連想させます。余韻があって太鼓のような音は東洋的です。この曲集の最後のソナタ第16番は、疑いようもなく「西洋人」である私の署名として作曲しました」ジョン・ケージ
●ツイッター感想集
ジョン・ケージ「ソナタとインターリュード」全20曲 小型スタインウェイピアノ使用東京初公演
典雅な演奏を至近距離で聴けた しかもその後事前申込制でプリペアドピアノを弾かせて貰えるという充実した貴重な機会
ケージ「ソナタとインターリュード」の演奏録音は沢山聴いたが生演奏を聴くのは今日が初めて
本日の横山博の至近距離生演奏は典雅で クラヴィコードでバロック以前の曲聴いているような心地良さだった
本日の横山博の演奏は 打楽器アンサンブル的でもガムラン的でもホケット的でもなく クラヴィコード的だった ネジでプリペアドされた高音域が適切なタッチで演奏され特に美しかった
ケージのプリペアドの指定の仕方はダンパーから何インチの位置に何々を挟めというもので ピアノのサイズにより弦分割の割合が変わってしまい音高も変わってしまう筈
本日のピアノはケージが想定したサイズのスタインウェイとのことで復元楽器的なアプローチ
しばてつ
横山博、ジョン・ケージ「プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード」全曲演奏会。50席ほどのこじんまりとした会場で、サロンコンサートの趣き。余計な残響が無い分、プリペアドされた複雑で繊細で多層化された豊かな音響を、直接音で間近に聴き取ることができた。至福の90分間。休憩中も、後半の途中(ソナタ13番の後)にも、ネジなどを再調整。強く打鍵するとネジなどがズレたり外れたりしてしまうので、繊細なコントロールであの複雑な音響を創り出しているのだと改めて認識。小さな会場、小型のスタインウェイMにこだわるのにも納得。
J. Y @j_y_suis
横山 博 (Hiroshi Yokoyama) ,ピアノ piano
(4手共演: 羽賀 美歩 (Miho Haga) ,ピアノ piano)
クロード・ドビュッシー Claude Debussy[1862-1918]
《ベルガマスク組曲》(1905)Suite bergamasque
前奏曲 Prélude
メヌエット Menuet
月の光 Clair de Lune
パスピエ Passepied
《海》- 管弦楽のための3つの交響的素描(1905)La Mer, trois esquisses symphoniques pour orchestre
(ドビュッシーによる4手ピアノ連弾版 共演:羽賀美歩)
Transcription for Piano 4 hands by Debussy / Primo:Miho Haga
海の夜明けから真昼まで De l'aube à midi sur la mer
波の戯れ Jeux de vagues
風と海の対話 Dialogue du vent et de la mer
《前奏曲集 第2集》(1913)Préludes Deuxième Livre
(... 霧)Brouillards
(... 枯葉)Feuilles mortes
(... ヴィーノの門)La Puerta del Vino
(... 妖精たちはあでやかな踊り子)Les Fées sont d'exquises danseuses
(... ヒースの荒野)Bruyères
(... 奇人ラヴィーヌ将軍)Général Lavine - excentrique
(... 月の光が降り注ぐテラス)La terrasse des audiences du clair de lune
(... 水の精(オンディーヌ))Ondine
(... ピクウィック殿をたたえて)Hommage à S. Pickwick Esq. P.P.M.P.C.
(... カノープ)Canope
(... 交代する三度)Les tierces alternées
(... 花火)Feux d'artifice
夏田昌和[1968-]Masakazu Natsuda
《よく眠るための内気なセレナード(2011)》
■ 2017年6月24日(土)15:30開場 16:00開演
会場:西方音楽館 木洩れ陽ホール
入場料:前売 3,000円 当日 3,500円(全席自由)
● 使用楽器:New York Steinway B(1978年製造)
■ 2017年8月15日(火)19:00開場19:30開演
会場:鶴見区民文化センター・サルビアホール3F音楽ホール
● 使用楽器:YAMAHA S6B 2010年製
【チケット・お問合せ】
西方音楽館 Tel 0282-92-2815 Email clavism@gmail.com
栃木公演の模様を記事にしていただいています
http://aprodite.exblog.jp/25888448/
■ アクセス
西方音楽館 http://wmusic.jp/access.html
鶴見区民文化センター http://www.salvia-hall.jp/about/#access
■ チラシPDFダウンロード
表面 https://app.box.com/s/0poqkzxbju3ovjjkhnwcjv06q5f82sjw
裏面 https://app.box.com/s/xn3uuosbz9ggadf2623d6nrqfe640kqx
曲目は変更になる場合がございます。予めご了承下さい。
■【お知らせ】
予定しておりました6月28日(水)
【横山 博ピアノ リサイタル】sonorium 東京公演は
【横山 博クラヴィコード リサイタル】に変更となりました。
予めご了承ください。
横山博ピアノリサイタル(オール・ドビュッシー・プログラム)は
2017年8月15日(火)19:00開場 19:30開演
鶴見区民文化センター サルビアホール3F 音楽ホールにて開催致します
● ● ●
ドビュッシー、古楽という抜け道
映像(イメージ)と言語の狭間で
横山博が語るドビュッシーから目を背けてはいけない。 現代の我々は長い時間、どうにかしてドビュッシーをお洒落な映画のBGMに貶(おとし)めようとしてきた。今、古楽奏者の横山博の視点を通して、まさに当時のパリ音楽院の教授陣を激怒させた異端児"クロード・ドビュッシー"の真実を聴くことができる。屈指の人気作"月の光"を含む《ベルガマスク組曲》、いよいよ現代音楽の様相を帯びる《前奏曲集第2集》。そして、まるで短編映画を観るような美しい《牧神》を弾いた、フォルテピアノ奏者の羽賀美歩との再共演からも目が離せない。ドビュッシー自身が「演奏不能」と認める大長編《海》4手連弾版、音の陰影を言葉のように扱う古楽奏者2人が1台のピアノに仕掛けるその精密なオーケストレーション、一音たりとも聴き逃すまい。
横山博が「語る」ドビュッシーの“イマージュ”
川上哲朗(フルート奏者)
西洋における音楽会/演奏会は、常に新しい響きの発表の場であり、問題提起の場でもあった。現代を生きる我々はホールに足を向けて、入場料を支払い、一体そこに何を求めるだろうか?ひと時の癒し、お気に入りの曲を生演奏で聴く贅沢。しかし、ホールの椅子に拘束された2時間をただ心地よいだけのものにするのはもったいない。映画のように、新たな驚き、裏切り、戸惑いといった要素にも当然価値があるはずだ。
私は横山博の弾くドビュッシーを聴いて、すっかり面食らってしまった。古楽奏者の視点から行われた様々な試みが、埃(ほこり)を被っていたドビュッシーの音楽をより新しく鮮明な姿に変えたことに感動を覚えたのである。巧みに言語化された演奏によって「イマージュ」がより緻密なものとなる。それは、淡い色調に溶け合っているように見えた点描画に、10センチ前まで近づいて、さらに虫眼鏡で覗いたかのような生々しい体験だった。
今、横山は、フランス近代音楽を演奏するのに慣習的に用いられてきた曖昧なペダリングを見直している。例えば、私は管楽器奏者なので特に気になってしまうのが、スタッカート(点で表される音を切り離すための記号)の奏法だ。スタッカートが書かれている所でピアニストがダンパーペダル(右のペダル、延音ペダル)を踏めば、事実上それはスタッカートにはならず、音は切り離されずに鳴り続けることになる。そして、そこに本来あるべき沈黙も失われる。ドビュッシーは明らかに音が混ざることを嫌っているのに、ドビュッシーの全音階的、そして《前奏曲第2集(1913)》に顕著に現れるクラスター(密集した白い鍵盤と黒い鍵盤が同時に鳴らされる特殊奏法)的音響から、ペダルを踏むと、音が混ざっていてもそれなりに美しく聞こえてしまう現象が起こる。だから多くのピアニストはペダルの「豊かな」響きとともに、その入念に書き込まれたアーティキュレーションを放棄する。
アーティキュレーションとは、旋律において各々の語句、センテンスを明瞭に発音することを指しており、弦楽器で言うところのボウイング(弓使い)、管楽器で言うタンギング(舌使い)に相当する。ピアノ演奏における発音の問題はペダルと密接に関わっている。まやかしのペダルで明瞭さが失われることを横山は嫌い、99.9%のピアニストが当然のようにペダルを使用する箇所ですら、曖昧に溶け合った響きよりも、そこで語られている「細部」を優先する。意外に思われるかもしれないが、特殊な効果を狙った場所以外、ドビュッシーの楽譜にはペダルの指示が全く書かれていない。
本当のところ、ペダルの乱用は、技術の不足を隠すための手段にしかすぎないのだろう。だから、自分が細切れにしている音楽を、誰も聞くことができないように、たくさん騒音をださなければならないのだ。(クロード・ドビュッシー)
ドビュッシーはピアノ曲において、テンポ・ルバートの指示を度々書き込んでいる。19世紀以降、この言葉は「柔軟にテンポを変化させる」という意味で使われている。ルバートを直訳すれば「時間を盗むこと」であり、後(うしろ)の音の長さを奪い、前の音に付け足すという意味だった。これは比率の問題であって、合計される音の長さ(時間)は変化しない。横山によれば「テンポ・ルバートは各々のセンテンスにしたがって、文字通り“ゆっくりから速く”演奏されるべき」である。ドビュッシーは「テンポ・ルバート」と「アドリブ」の言葉を使い分けており、後者はラテン語の「ad libitum(自由に)」が語源である。横山は18世紀以前の、チェンバロ演奏法における本来の意味でのテンポ・ルバートを採用する。ドビュッシーは演奏速度に対してとても厳密だったし、ピアニストの自由な表現を全く信用していなかった。そしてドビュッシーはバロック時代の大作曲家たち(ラモー、スカルラッティ、
バッハ)の熱烈な支持者だった。
月の光の作曲家
《ベルガマスク組曲(1890-1905)》には、ドビュッシーの作品中最も有名な「月の光」が含まれている。実は《ベルガマスク組曲》は、元々一括(ひとくく)りに組曲として作曲されたものではなく、当時名声を高めていたドビュッシーに目をつけた楽譜出版社、フロモン社からの依頼で、1890年頃の小品を1905年、出版用に改訂したものである。楽曲の芸術性よりも楽譜の売れ行きを優先した関係で、曲名と曲想が一致していない曲ばかりである。前奏曲はオーケストラによる序曲のようだ。メヌエットはメヌエットのリズムで書かれていないし、パスピエは、パヴァーヌという全く違う舞曲の名前で作曲されていた。月の光にいたっては《月の光》ですらなく《センチメンタルな散歩道》というタイトルだった。
《ベルガマスク組曲》が名曲であることは間違いない。しかし、ベルガマスク組曲が出版されたのと同じ1905年に、全く新しい境地を切り開いた自信作《海 - 管弦楽のための3つの交響的素描(1905)》がフロモン社ではなくデュラン社から出版されていることを考えれば、お蔵入りになるはずだった若書きの寄せ集めである《ベルガマスク組曲》の出版は、ドビュッシーにとっては魂を売る行為でもあった。
「私はきわめて自発的に、かなり稀な方法を用いました。すなわち沈黙を表現の原動力として!」(ドビュッシーからエルネスト・ショーソン宛1893年の手紙)
これは大作オペラ《ペレアスとメリザンド(1903)》作曲中の言葉だが、正にピアニッシモと沈黙に浮き立つペレアスの世界から抜け出すことは、常々自らに進化し続けることを課していたドビュッシーにとって、容易なことでは無かったようだ。静謐(せいひつ)なオペラ 《ペレアスとメリザンド》とは対照的に《海》にはフォルテやフォルティッシモの指示が多い。ピアノという楽器の本質は打楽器である。オーケストラ曲である《海》を、ドビュッシー自身によるピアノ連弾版で聴くと、パリ万博でドビュッシーが出会ったインドネシアのガムラン音楽の打楽器アンサンブルを彷彿とさせる箇所もあるだろう。また、初版の楽譜の表紙に使われた葛飾北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」をはじめとする浮世絵との出会いも彼の音楽に大きな影響を与えた。浮世絵のぼやけることのない輪郭線に倣(なら)った明確なリズム作法に、ガムランの金属的で多声的な響きが溶け込んでいる。費用のかかるオーケストラよりも連弾によって演奏される回数の方がはるかに多かっただろう。録音技術のない当時、オーケストラ曲を人々が聞くことができたのは、主に連弾版や2台ピアノ版だった。
ドビュッシーは《海》作曲中の長い時間を、海のないブルゴーニュで過ごしていた。
「自前で旅行するすべが無いときは、想像で埋め合わせをするしかありません」(1903年アンドレ・メサジェ宛)
「私は(海に関して)数え切れない記憶を持っています。そのほうが現実よりも私の感覚には良いのです。現実の魅力は、思考に対してあまりに重くのしかかりすぎます」(1903年アンドレ・メサジェ宛)
絶えず変化し続ける光と影、雲や風そして波の動きを表現するのに用いられた全く新しい表現方法は、描写的というよりも殆ど抽象的と言うべきものだ(そこにはバロックダンスのリズムも多用されている)。しかし、初演の評価は散々なものだった。それは聴衆や評論家の期待した《海》の姿がそこには無く、「ペレアスの作曲家」ドビュッシーもそこには居なかったからであろう。この頃からドビュッシーは「先駆者」であるという自覚のもとに仕事を進めていく。
私はますますこう信じるようになっている。音楽はその本質上、厳格で伝統的な形式の中に入り込んで、流れて行けるものでないとね。音楽は、色と、リズムをもった時間とで、出来ています…(1907年 ジャック・デュラン宛)
《海》以降、色と、リズムをもった時間は、より複雑な方法で表現される。1910年から3年を費やして書かれた《前奏曲第2集(1913)》でドビュッシーは《前奏曲第1集(1909)》と似た性格を使って、自らの表現をさらに推し進める。クラスタートーン(隣あった音を使った不協音)の多用、複雑なリズムによって作られる「時間」、それはもはや前衛(アヴァンギャルド)と呼ぶに相応しい。第7曲(... 月の光が降り注ぐテラス)が《月の光》を書いた同一人物の作品とは思えない。ドビュッシーの中でハーモニー、メロディーの解体は、もはや標準の技法となっていた。
夏田昌和 Masakazu Natsuda
よく眠るための内気なセレナード ピアノのための Une sérénade timide pour bien dormir, pour piano
作曲 2011年
演奏時間 約6分
初演 2012年10月21日 公演通りクラシックス (東京) Koen-Dori Classics, Tokyo
大須賀かおり Kaori Osuga
この楽曲はアンサンブルmmm…(フルート間部令子、ヴァイオリン三瀬俊吾、ピアノ大須賀かおり)と世界中の100人の作曲家による、東日本大震災の被災者救済のためのチャリティ・プロジェクト「ヒバリ」のために作曲されたものである。2011年3月11日に起こった震災によって愛する家族を失い、あるいはまた住み慣れた家や故郷を離れざるをえなかった人々の中には不眠に悩まされる人が多かったという事実を知り、聴く人を心地好い眠りへと誘えるような(眠気を喚起することは通常芸術音楽にとってある種の敗北を意味するが…)静かで優しい音楽を書こうと考えた。この音楽の中には、二つの良く知られた古典作品からの仄かな影響を認めることが出来る。一つ目はM.ラヴェルの「水の戯れ」で、主題再現の折に付加されることによってその響きの表情を劇的に変えてしまう洗練された低音(G♯)は、この楽曲の後半42小節以降でようやく鳴らされ始める二つの基音(B♭・E)の遠い祖先である。二つ目はR.シューマンの「子どもの情景」の中の一曲「子どもは眠る」で、彼は楽曲の最後のカデンツを終結させずに中途で終えてしまうことによって眠りにすとんと落ちてしまう子どもの様子を見事に描き出した。音楽が最早「終止」などしないことが当たり前である現代に生きる私としては反対に、楽曲を"例外的に"全終止させることによって現実とは異なるもう一つの世界、安らぎに満ちた夢の世界への穏やかな移行を表現しようと試みた。
横山博クラヴィコードリサイタル
program
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
Johann Sebastian Bach (1685-1750)
《インヴェンションとシンフォニア》より
from Inventions and Sinfonias
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ
Carl Philipp Emanuel Bach (1714-1788)
スペインのフォリアによる12の変奏曲
12 Variations on La folia d'Espagne, Wq. 118/9, H. 263
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791)
「ああ、お母さんきいて」による12の変奏曲
(キラキラ星変奏曲)
12 Variations on Ah, vous dirai-je, maman, K. 265
ヨハン・パッヘルベル
Johann Pachelbel (1653-1706)
アポロンの六弦琴《全6曲》(東京初演)
Hexachordum Apollinis
※使用楽器:Christian Gottlob Hubert 1784 (Berlin) 山野辺暁彦 2015年 製作
■全席自由 税込
一般3,500円(前売3,000円)/学生2,000円(前売1,500円)
終演後にクラヴィコードの試奏をしていただけます
■アクセス
http://www.sonorium.jp/access/index.html
■チケット取り扱い お問い合わせ
オフィス・ゼロ
Tel/Fax 028-673-4938(9:00〜18:00 年中無休)
E-mail: clavism@gmail.com
■【重要なお知らせ】
予定しておりました6月28日(水)
【横山 博ピアノ リサイタル Debussy 波の戯れ】sonorium 東京公演は
【横山 博クラヴィコード リサイタル】に変更となりました。
予めご了承ください。
横山博ピアノリサイタル(オール・ドビュッシー・プログラム)は
2017年8月15日(火)19:00開場 19:30開演
鶴見区民文化センター サルビアホール3F 音楽ホールにて開催致します
● ● ●
消えゆく変奏曲. . . そのざわめきが今、甦る
「良い演奏を修得するためにはクラヴィコードを使わねばならない」とは、C. P. E. Bach (1714-1788)が「正しいクラヴィーア奏法試論 (1753)」に残した言葉だ。金属片が弦を突き上げると、振動して音が出る。強く弦を叩いても音程が上がるだけで音量は増大しない。この楽器にピアノのような華やかさや迫力を求めてはならない。クラヴィコードとは極めて小さい音量の中で微細な表現を可能にする楽器なのだ。そもそも聴衆を視野に入れていないのであろう。演奏している様(さま)はまるで二人で対話をしているようだ。横山氏は昨年のクラヴィコードリサイタル(於 木洩れ陽ホール)で、その繊細な楽器を意のままに操った。我々聴衆は美しき声を聞き逃すまいと、息を潜め、固唾を飲み、耳を澄ませ、隣の部屋から密談を盗み聞くような緊迫と高揚をもって、いつしかその空間の虜となっていた。東京初演となる《アポロンの六弦琴》、横山博はここでも聴衆を思いのままにするであろう。
クラヴィコードで 甦る音楽家たち
出井陽子
クラヴィコードほど歴史的名音楽家に愛された楽器はないだろう。J.S.バッハ、ハイドン 、 モーツァルト、ベートーヴェン、C.P.E. バッハ (J.S バッハの息子)、これら天の才能を授けられた音楽家たちは皆、この小さな楽器を「表現力を磨くための最良の楽器」であると認めていた。
J.S.バッハはクラヴィコードを最も愛していた。チェンバロは確かに多彩な表現を可能にするが、彼の魂を十分に満たすことができなかった。クラヴィコードほどの多様な音質の変化が得られる可能性など、 他の鍵盤楽器からは感じていなかった。
モーツァルトはクラヴィコードを作曲用と旅行用などいくつか所持していた。1781 年、ヴェーバー家 (妻宅)に宿泊している間に、モーツァルトは父親に手紙を書いている。「僕は今クラヴィコードを借りに行っている。それが部屋に来るまで僕はそこには住まない」。彼がクラヴィコードを日常生活の必須アイテムとしてみなしていたことは明らかである。“トロンボーンのような低音”、“ヴァイオリンのような 甘い高音”...様々な音域で個性的な色や性格をもつクラヴィコードをモーツァルトはたいそう気に入っていた。
クラヴィコードについて最も画期的に記した作曲家は C.P.E. バッハの他にいないだろう。クラヴィコ ードは彼のお気に入りの楽器であった。全ての演奏者にチェンバロとクラヴィコードの両方を所有するよう勧めていたけれども、「鍵盤楽器奏者を最も的確に評価するのはクラヴィコードだろう」と記した。
パッヘルベル、J.S.バッハ、C.P.E.バッハ、モーツァルト、親子関係にある J.S.バッハと C.P.E.バッハを除き、一見すると結びつきのない音楽家たちであるが、一本の線で綺麗に繋がっている。パッヘルベルは 1677 年、アイゼナハで J.S.バッハの父に出会い、子息らの家庭教師をした。アイゼナハでの生活はわずか 2 年足らずであっ たが、パッヘルベルの直弟子である長兄ヨハン・クリストフ・バッ ハは、アイゼナハを去ったパッヘルベルの後を追った。その後も師 事しヨハン・クリストフは「卓越した芸術家」と呼ばれるオルガニストになった。両親亡きあと、14 歳年下の幼き弟 J.S.バッハを引き取り、鍵盤楽器を一から教授したの はヨハン・クリストフである。J.S.バッハは兄を通して、いわばパッヘルベルの孫弟子として、優れた作 曲技術を身につけることができたのである。それは J.S.バッハの教育を受けた息子の C.P.E.バッハについ ても然りである。モーツァルトは、父に寄せた手紙で幾度も J.S バッハの息子ヨハン・クリスティアンに ついて言及しており、1782 年にヨハン・クリスティアンが急逝した際には「音楽界にとっての損失」と 述べている。また、J.S.バッハの曲については、「このフーガはそう簡単に弾けない」と評することもあ った。モーツァルトがバッハ一族に尊敬の念を抱いていたことは間違いないだろう。彼らの魂、才能を結びつけているのは彼らの生活の中心にあった『クラヴィコード』なのである。
ヨハン・パッヘルベル アポロンの六弦琴
パッヘルベル(1653-1706)は、神聖ローマ帝国の自由都市ニュルンベルクに生まれた。幼少の頃より 強い知的探究心と並外れた楽才を示し、音楽以外の学才にも優れていた。1669 年、15 歳でアルトドルフ 大学に入学し、またローレンツ教会オルガン奏者も務めるが、経済的理由から一年足らずで退学せざるを えなくなる。しかしながら翌年春、レーゲンブルクのギムナジウム・ポエティクムに奨学生として入学、 文学を学ぶかたわら、学外で音楽を学んだ。1673 年、ウィーンに赴き、聖シュテファン大聖堂の副オル ガン奏者に就任する。同年、ケルルもウィーンを訪れており、パッヘルベルはこのイタリアの様式に精通 した音楽からさまざまな影響を受けた。彼自身はルター派を信仰していたが、カトリックの音楽形式から も学び、その諸要素を自作のなかに取り入れた。パッヘルベルは、当時のドイツにおけるもっとも進歩的 な作曲家の一人に数えられる。南部ドイツの歌唱的な様式と、中部ドイツの定旋律や対位法などの様式を 合わせたオルガン音楽、とりわけコラール変奏曲の様式は J.S バッハに多大な影響を与えた。
パッヘルベルはオルガン奏者として多忙な日々を送っていたにもかかわらず、かなりの多作家であっ た。作品はオルガン曲(典礼用と非典礼用)、オルガン以外の鍵盤作品、室内楽曲、声楽曲に及んでいる。 主な作品には、三つのヴァイオリンと通奏低音のための《カノンとジグ ニ長調》、オルガン・コラール 《前奏のための八つのコラール》、二つのヴァイオリンと通奏低音のための六つの組曲《音楽の愉しみ》 である。われわれ日本人に馴染みの深い「パッヘルベルのカノン」は、《カノンとジグ ニ長調》の前半 部である。
チェンバロのための六つのアリアと変奏《アポロンの六弦琴》(1699)もまた、彼の代表作の一つである。 すべての曲に共通するが、簡潔明快な様式で書かれている。彼の対位法は、明確な方向性をもつ和声進行 とつねに両立しうるもので、転回(応答が主題を上下に転回する)、逆行(応答が主題を逆から模倣する)、 拡大と縮小(応答が主題の音価を長く、または短くする)、ストレット(主題が終結する前に速度を増して緊張感を高める)などを巧妙に用いる手法である。
初版《アポロンの六弦琴》楽譜の表紙中央には、 「オルガンまたはチェンバロで演奏するための六つの アリア。そこに、変奏曲が加えられる。ミューズ(ギ リシャ神話九女神)の楽しみのために」と書かれている。彼が意図した楽器については楽譜の表紙絵に描か れている。二人の天使が描かれているが、一人はパイ プオルガンを、もう一人はチェンバロもしくはクラヴィコードを弾いている。チェンバロとクラヴィコード どちらとも解釈できる絵であるのが面白い。細部を眺 めていると、むしろクラヴィコードと断定して良いほどである。弦は横に張られているし、楽器はデスクの上に置かれているように見える。パッヘルベルは、 この序文の中で彼と交流の深かった偉大なオルガニスト、ディートリッヒ・ブクステフーデ(1637 頃 -1707)とフェルディナンド・トビアス・リヒター(1651-1711)に捧げる曲であると述べている。パッ ヘルベルは息子のヴィルヘルム・ヒエローニムスを溺愛していたため、息子の教材になれば良いとの願いもあったに違いない。それならば、オルガンにもチェンバロにもアクセスできるクラヴィコードを使うよう暗に示唆していたとも言えよう。 表紙の一番上を見てみると、二人の天使が「六 弦琴」を掲げているのがわかる。パッヘルベル は自身を音楽の神である「アポロン」に、ブクステフーデやリヒター、彼らに関わる者たちを、 音楽や舞踏、文芸を司る女神「ミューズ」に例 えているとも解釈できる。「音楽の神」と称す ることができるほど、彼にとって最高の自信作だった。
この作品は果たして本当に「オルガン、チェンバロのための曲」だろうか。オルガンにもチェンバロに も表現することのできない『歌唱的で甘美に響く良い音を持った(C.P.E.バッハ)』魅惑の楽器クラヴィコ ード、《神の曲》を奏でるにはこれが相応しい。
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ スペインのフォリアによる 12 の変奏曲
カール・フィリップ・エマニュエル・バッハ(1714-1788、以下 C.P.E.バッハと略記)は、J.S.バッハの息子として生また。フルートを愛好するフリードリヒ大王にチェンバロ奏者として仕えたのち、ハンブ ルクの音楽監督とカントール(合唱長)を長く務めた。作曲家としてはバロック音楽と古典派音楽の橋渡 し役となった。その作風は、父の J.S バッハや D.スカルラッティの鍵盤作品を規範としつつも、対位法の 要素はあまり強くない。装飾や走句を多用する「ギャラント様式」、唐突な雰囲気の変化や大胆な転調に よって感情を直接に表現しようとする「多感様式」を特徴とする。C.P.E.バッハの代名詞と言える、体系 的で理論的な教則本『正しいクラヴィーア奏法への試論 (1753/1762)』を著し、音楽理論家としても有名 であった。彼の作風や理論は、後輩のハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどに大きな影響を与え ている。カール・ツェルニー(1791-1857)は彼の自伝のなかで、ベードーヴェンの弟子入りとなることが 決まった際に、ベートーヴェンがツェルニーの父親に「正しいクラヴィーア奏法試論」を買い与えるよう 助言したと回顧している。
「フォリア」とは、15 世紀のポルトガルに起こり、17 世紀にスペインで流行した踊りで人々が踊り狂うところからその名が付けられた。17 世紀後半にフランスのルイ 14 世の宮廷に導入されてからは、ゆっくりと荘重な舞曲へと変化した。フォリアは、低音部の進行及び和声進行が定型化されるにつれて、これ をもとに変奏曲形式で演奏することが広まった。このような手法は、シャコンヌやパッサカリアなどの変 奏曲、あるいは「パッヘルベルのカノン」とも共通するものである。 『私の主な関心は、とりわけここ 数年の間は、音が長く続くことのないクラヴィーアで、できるだけ歌唱的に演奏し、そうしたクラヴィー アのために歌唱的に作曲することに向けられている』(C.P.E.バッハ、「正しいクラヴィーア奏法試論」)
優雅に踊るような《“Les Folies d’Espagne” with 12 Variations, スペインのフォリアによる 12 の変奏曲》、クラヴィコードの歌唱的な演奏でいかに踊らずにいられるだろう。横山氏がクラヴィコードに選ばれた演奏家であると、証明してくれる。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト「ああ、お母さんきいて」による 12 の変奏曲
モーツァルト(1756-1791)、彼を「天才」の一人として括ってしまうのは浅はかかもしれない。モーツァルト研究者で音楽学者のアルフレート・アインシュタインは彼のことを、「この地球にちょっと立ち寄 っただけ」と著した。アインシュタインはモーツァルトをもはや「天才」ではなく「神」とみなしていた のだろう。モーツァルトは俗世に降り立ち、何とも人間味溢れる人生を歩んだ。幼少期から神童の名をほしいままにしたモーツァルトであるが、思うような定職には就けず、各地を転々とする。お人好し過ぎる 性格で金銭には無頓着、時に愛に溺れ、父の忠告や警告を無視して親子関係を危うくすることもあった。
1778年フランス、モーツァルトは母と共にいた。当時、モーツァルトは歌手ヴェーバー家の世話になっていたのだが、ヴェーバー家の長女、アロイージアに恋をする(失恋することになるが)。彼女のために曲を書き、ピアノを教え、終いには彼女と共に旅をすると父に手紙を書き、父の逆鱗に触れるのであっ た。モーツァルトの彼女への入れ込みようは母をも不安にさせ、モーツァルトに内緒で夫に追跡の手紙を 送るほどであった。相も変わらず定職に就けない苦境の最中、アロイージアに身を焦がし自分を見失いつ つあるモーツァルトを残し、母はこの世を去る。
《Ah! Vous dirais-je, Maman(ああ、お母さんきいて)による12の変奏曲 ハ長調》は、この 1778 年に作曲された。わが国では「きらきら星」として馴染み深いが、「きらきら星」の歌詞が書かれたのは モーツァルトの死後である。この変奏曲の主題(テーマ)は18世紀当時にフランス流行していたシャンソンだ。この曲にはさまざまな種類のタッチに習熟するための、音階、分散和音、装飾音が散りばめられ ている。教育的要素が強いこの変奏曲は、弟子のために書かれたものに違いない。徐々にリズム変奏をしていくにつれ、もとのメロディーの面影はあるものの、多声的になるなど奥深さも併せ持っている。この 変奏曲では、左右の手の音価を細分化していく手法とは異なり、左右の手が形作るリズムや前進力の変化 等に趣向が凝らされている。
テーマとなった曲は、少女(または少年)が愛について母親に語るものである。絶望させ 罵 られることが目に見えているため父には言い出せなかった愛の思いを、亡き母には語りたかったのであろうか。この歌詞を読めば、まさに当時のモーツァルトを代弁しているといえよう。愛に翻弄されていたモーツァルトを横山氏の演奏を介して覗いてみてほしい。
ああ、話したいのママ
私の悩みのわけを
パパは私にもっと大人らしく分別を持って欲しいみたいだけど
そんなのよりキャンディの方がよっぽどいいわ
(Ah! Vous dirais-je, Maman)
横山 博 (Hiroshi Yokoyama) ,ピアノ piano
(4手共演: 羽賀 美歩 (Miho Haga) ,ピアノ piano)
クロード・ドビュッシー Claude Debussy[1862-1918]
《夢想》(1890)Rêverie
《2つのアラベスク》(1890)2 Arabesques
《子供の領分》(1908)
グラドゥス・アド・パルナッスム博士 Doctor Gradus ad Parnassum
象の子守歌 Jumbo's Lullaby
人形のセレナード Serenade of the Doll
雪は踊っている The Snow is Dancin
小さな羊飼い The Little Shepherd
ゴリウォーグのケークウォーク Golliwogg's Cakewalk
《牧神の午後への前奏曲》(1892)(モーリス・ラヴェルによる連弾版(1910)共演:羽賀美歩)Prélude à "L'après-midi d'un faune" (Transcription a 4 mains par Maurice Ravel)
《前奏曲集第1集》(1910)Préludes pour Piano I er Livre
…デルフィの舞姫 (... Danseuses de Delphes)
…ヴェール(帆)(... Voiles)
…野を渡る風 (... Le vent dans la plaine)
…"夕べの大気に漂う音と香り" (ボードレール) (... Les sons et les parfums tournent dans l'air du soir)(Ch. Bauderaile)
…アナカプリの丘 (... Les collines d'Anacapri)
…雪の上の足跡 (... Des pas sur la neige)
…西風の見たもの (... Ce qu'a vu le vent d'ouest)
…亜麻色の髪の乙女 (... La fille aux cheveux de lin)
…とだえたセレナード (... La sérénade interrompue)
…沈める寺 (... La cathédrale engloutie)
…パックの踊り (...La danse de Puck)
…ミンストレル (... Minstrels)
[栃木公演]
■ 2017年2月19日(日)15:30開場 16:00開演 18:00終演
会場:西方音楽館 木洩れ陽ホール
入場料:前売 3,000円 当日 3,500円(全席自由)
● 使用楽器:ニューヨーク・スタインウェイB(1978年製造)
Piano / New York Steinway B (1978)
■ アクセス
http://wmusic.jp/access.html
[東京公演]
■ 2017年2月28日(火)18:30開場 19:00開演 21:00終演
会場:sonorium
入場料:前売 3,000円 当日 3,500円(全席自由)
● 使用楽器:ハンブルグ・スタインウェイ・フルコンサート・グランドピアノD274 2007年製造
Piano / Full Concert Hamburg Steinway (2007)
■ アクセス
http://www.sonorium.jp/access/index.html
168-0063 東京都杉並区和泉3-53-16
TEL 03-6768-3000 FAX 03-6768-3083
【お問合せ】
西方音楽館 Tel 0282-92-2815 公式HP http://wmusic.jp/
322-0601 栃木県栃木市西方町金崎342-1
ドビュッシーは語る
2005年の秋、私が初めて彼の部屋を訪ねた時、たしか横山氏は《ピアノのために》を弾いていた。12年の時を経て今や横山博は、誰もが認めるチェンバリスト/オルガニストになってしまった。ピアニスト時代の彼とは、シューベルト、リヒャルト・シュトラウス、ラヴェル、プーランクからデュティユーなど様々な曲を一緒に演奏したのだが、彼は常に音楽に対して通り一遍な美しさよりも、真実性(オーセンティシティ)、現実性(リアリティ)を強く求めていた。 彼は古楽の道へ、私はジャズの道へと違う道を歩み始め、暫く共演が途絶えた。彼のモーツァルトのピアノ・ソナタ全曲演奏が終わった後、ヴァイオリン・ソナタ集(パリ・マンハイムソナタ集全6曲)をフルートとピアノで演奏させてもらった。当時彼は、モーツァルト演奏における装飾やアーティキュレーション、即興演奏の歴史的正当性を熱心に調べていた。歴史的情報に基づく演奏を尊重する彼の態度が、それまでの感覚的なものから、もはや確信的なものに進化していたことに私は驚きを隠せなかった。横山博は曖昧表現を塗り重ねるレガート奏法とは早々と縁を切っていた。チェンバロやクラヴィコード、パイプオルガンなどの古楽奏法によって裏付けられた、喋るような音楽、物事を伝えるための明確な意味と情報を持つ、まさに「言語としての音楽」をそこに聞いたのである。
1913年、クロード・ドビュッシー[1862-1918]自作自演による、《夢想》《2つのアラベスク》《子供の領分》《前奏曲集第1集(抜粋)》がウェルテ・ミニョン社製のピアノロールへの収録が行われた。ピアノロールとは、リプロデューシングピアノと呼ばれる自動演奏専用の再生用ピアノのために開発された紙製のロール(巻き紙)にインクによって記録され、その印字された部分に専門の技師が穴を開け、オルゴールの様な仕掛けで再生される。リプロデューシングピアノが再現する演奏の「音量」「テンポ」「ペダリング」の再生能力については信頼できない部分があるものの、ドビュッシー自身が署名をして、発売を許可したそのロールには、ドビュッシーのピアノ奏法による「間合い(息継ぎ)」「ルバート(テンポコントロールのさじ加減)」「アルペジオ(楽譜には書かれていない和音のばらし具合)」がはっきりと刻印されている。今回、横山氏はそこに聞かれるドビュッシー独得の微妙な節まわしを手本として、可能な限りそのニュアンスを自身の演奏に反映したいと語っている。バロック期の作曲家フレスコバルディやフランソワ・クープラン等の記した「譜面に表しきれない細やかな表情は、演奏者の良い趣味に委ねるしかない」といった演奏者への助言(ある種の諦めの文句)に比べれば、ピアノロールに記録された作曲者自身の演奏には、極めて多くの情報が含まれているというわけだ。
ドビュッシーが、フレデリック・ショパン[1810-1849]の孫弟子にあたることも忘れてはならない。彼が若い頃にピアノの指導を受けたのは、ショパンの弟子であったモーテ・ド・フローヴィル夫人である。ドビュッシーは彼女のレッスンを通じて、「ショパンは練習の時にペダルは使わず、人前で演奏する際も最小限にペダルを用いること、ちょうど言葉を話すときの息継ぎとか、文法上の句読点のように扱うことを望んでいた」ことを学び、晩年にいたるまでショパンの残したピアノ演奏技法の伝統を高く評価していた。ダンパーペダル(延音ペダル)という機構を持たないチェンバロ(フランス語ではクラヴサン)という楽器を演奏する者にとって「ペダルでごまかす」という発想は存在しない。その代わりに、微細なアクセント(語調、強調)やアーティキュレーション(発音)の具合、固定された音価にとらわれない柔軟性をもったイントネーション(抑揚)など、語学の発想によって音楽を表現することが求められる。
本当のところ、ペダルの乱用は、技術の不足を隠すための手段にしかすぎないのだろう。だから、自分が細切れにしている音楽を、誰も聞くことができないように、たくさん騒音をださなければならないのだ。(クロード・ドビュッシー)
古楽演奏における重要な要素の一つに音楽修辞学(レトリック)というものがある。これは、古代ギリシャ・ローマにおける雄弁術や弁論術(それは身振り手振り、発声法の技術でもあった)に由来する、様々な具体的意味を持った音型(フィグール)によって音楽表現の効果を高めるための技法である。横山博が音楽修辞学をドビュッシーにも適用しようという試みは、決して奇抜なアイデアなどではなく、むしろドビュッシーが用いた音楽言語への抜け道となるはずだ。
19世紀末からドイツにおいて、音楽に物語性を強く求める「楽劇」「交響詩」というジャンルが最盛期を迎えていた。ドビュッシーの作曲技法に関する興味は(当時の)現代ドイツ音楽への憧れから始まっている。しかし、「気狂いじみた熱狂を抱いて」さえいた楽劇《トリスタンとイゾルデ(1865)》の作曲家リヒャルト・ワーグナー[1813-1883]に対しても次第に批判的になり、「詩に追随する音」に疑問を抱くようになる。フランツ・リスト[1811-1886]が先導し、リヒャルト・シュトラウス[1864-1949]で頂点に達していた一連の交響詩に対しても、そのあまりに描写的な音楽に眉を潜めている。その疑問への一つ の答えが歌劇《ペレアスとメリザンド(1902)》であり、交響詩《海(1905)》である。一般に「印象主義」と言われることの多い ドビュッシーだが、モネ、ルノアールといった印象主義の画家よりも、むしろ詩人のマラルメ、ボードレールなどに代表される「象徴主義」に傾倒していた。象徴派詩人たちの、饒舌(じょうぜつ)であることを好まず、色彩とともにニュアンスと静謐(せいひつ)を重んじるスタイルから多大な影響を受けている。「象徴派」という言葉がクラシック音楽の世界で用いられることは少ないが、エリック・サティ [1866-1925]とドビュッシーだけがそこに通じていた。
ドビュッシーが起こした“愛”に纏(まつ)わる様々なスキャンダルをここに書く余裕は無いが、9年間(1893年から1902年)にも及んだ《ペレアスとメリサンド》作曲の時代を経て、駆け落ち同様に2番目の妻エマ・バルダックと1905年に結婚した。シュシュ(キャベツちゃんという意味の愛称)と呼んだ一人娘が生まれた頃からドビュッシーはすっかり大人しい人物になったようだ。そして、愛してやまない娘のために《子供の領分(1908)》というピアノ音楽史に輝く傑作まで書き上げた。《Children’s Corner※》というタイトルはドビュッシーが尊敬するロシア人作曲家モデスト・ムソルグスキー[1839-1881]の作った連作歌曲《子供部屋(1872)》に対する賛辞(オマージュ)であろう。
ムソルグスキーの「子供部屋」には、就寝前のちいさな女の子の祈りがある。そこでは、子供の仕草やその魂の微妙な動揺が、そして大人の前で幼女が見せるポーズの得もいわれぬ様子すら、ほかの音楽には見出せない一種の熱っぽい真実な語調で、音符にされている。
※ 表題・曲名がフランス語ではなく全て英語で書かれているのは、妻の英国趣味への“からかい”だと言われている。シュシュの部屋にはイギリスの版画が飾られ、家政婦はイギリス人だった。
幼い少女が嫌々練習する難しい練習曲からの現実逃避(グラドゥス・アド・パルナッスム博士)、恋する人形(人形のセレナード)に、深刻なトリスタンをクスクス笑いでからかう(ゴリウォーグのケークウォーク)。発売された初版楽譜の扉には英語ではなくフランス語で「父親の優しい言いわけをそえて,大事なかわいいシュシュへ (A ma chère petite Chouchou, avec les tendres excuses de son Père pour ce qui va suivre)」という献辞が添えられている。これは
不自然なほど大きなイタリック体で印刷されており、横山氏は、これはまるで広告用キャッチコピーのようだと語っている。
1901年以降、ドビュッシーは自らを反好事家八分音符氏(ムッシュー・クロッシュ・アンティディレッタント)と称して評論活動も行っていた。そこで彼は常に懐疑的であり、皮肉と逆説を用いて、人を煙に巻くような煩わしい物言いばかりをしている。しかしルネサンス、バロック音楽の大作曲家に対して彼は賛美を惜しまない。特に、バッハへの愛は少年のころから終生かわることはなかった。
バッハの音楽には、あの〈音楽のアラベスク〉、というよりむしろ芸術のあらゆる様態(モード)の根底である〈装飾〉のあの原理が、ほとんど無疵(むきず)なままで見出される。
室内楽や管弦楽曲において大いに個性的な曲を書き上げる中、意外にもドビュッシーはピアノ曲の発表には慎重だった。《2つのアラベスク(1890)》は、マスネ[1842-1912]風の甘味な旋律線と、クープラン風の曲線的装飾によって非常に精密に組み立てられている。機能和声へのちょっとした反抗は、ロマンティックなサロン文化からの脱却を望んでいるようにも見える。その反抗心は、《アラベスク》のたった2年後、オーケストラを使って《牧神の午後への前奏曲(1892)》という、より近代的な作品として結実することになる。フルートが提示する曲線的なアラベスク風の主題(アラベスクとはもともと、植物や動物の形を基にして反復して作られるイスラム美術様式の唐草模様など)の、その最初のC♯音で近代音楽の扉は開かれた。ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ前奏曲》で「崩壊」しはじめた機能和声から、《牧神の午後への前奏曲》は、《トリスタン》とは異なった手法で離れようとしている。あらゆる面で近代的(モデルヌ)な作品であるが、皮肉にもその影響は遥か昔の、遠いところからやってきた。1889年、1990年のパリ万国博覧会で見聞きした、東南アジアや日本を始め、世界各国の伝統芸術はドビュッシーに計り知れない影響を与えた。一方その頃、モーリス・ラヴェル[1875-1937]は、同じ古代ギリシャをテーマにしたバレエ音楽の大作《ダフニスとクロエ(1912全曲初演)》を準備していた。本日演奏されるラヴェル編曲の4手連弾版《牧神の午後への前奏曲(1910編曲)》が《ダフニスとクロエ(ピアノソロ及び2台ピアノ版)と並行して編曲されていたというのは偶然ではない。
24の...と聞くと我々は大バッハの《平均律クラヴィーア曲集》、それに対するショパンの美しくも大胆な回答である《24の前奏曲集作品28(1839)》を思い起こす。ドビュッシーの《前奏曲集第1集(1910)》は明らかにショパン作曲の《前奏曲集》の延長線上に位置するものである。しかし、ドビュッシーの《前奏曲集》を一層個性的で輝かしいものにしているのは、むしろフレンチバロックの巨匠、フランソワ・クープランやジャン=フィリップ・ラモーの残したクラヴサン(チェンバロ)曲集への敬意があってのことだ。様々な舞曲や、思わせぶりな「タイトル」を一見無造作に並べるクラヴサン曲集の伝統は後期フレンチバロックの誇る遺産であり、ドビュッシーがその作曲技法だけでなく精神(エスプリ)に発想を求めていた事は想像に難くない。ラヴェル作曲の傑作《クープランの墓(1919)》に9年も先んじてのことである。《前奏曲集第1集》では、古代ギリシャ神話や、様々な国の風景や伝説に発想を求め、それらを入念に調査しながらも、空想的で挿絵(さしえ)的な“前奏曲”の雰囲気に仕上げている。初期フレンチバロックにおいて、前奏曲を弾くということは、様々な舞曲で構成される組曲を弾き始める前に即興的に和音をならしてチェンバロやリュートの調律の具合を確かめつつ、奏者の趣味をさりげなく披露する役目もあったという。しかしドビュッシーの前奏曲のあとに続くべき肝心の組曲は誰も聞くことはできない。それとは逆に、なぜバッハが《6つのフランス組曲》に本来そこにあるべき前奏曲を書かなかったのかも謎のままである。古代の舞姫たちが輪になって踊るサラバンド(デルフィの舞姫)、凶悪なまでの西風が吹き抜けるトッカータ(西風の見たもの)、南の国にしか無い鮮烈な日差しが踊るタランテラ(アナカプリの丘)、海からゆっくり浮かび上がる伝説のイスの街(イゾルデが生まれた街だ!)の大聖堂と僧侶が歌うグレゴリオ聖歌(沈める寺)… これ以上本日のお客様の想像力を奪ってしまうのはやめておこう。これら12曲のタイトルが「標題(プログラム)」として曲の頭に付けられてはおらず、全て曲の最後の部分に括弧書きで、謎めいた「...」が書かれていることは意義深い。言葉(タイトル)の表すイメージに対して聴き手やピアニストが持つ想像力。ドビュッシーは、わたしたちの月並みな想像力(ファンタジー)に対する「注釈」を、前奏曲(プレリュード)という形で書いてくれたのかもしれない。
(4手共演: 羽賀 美歩 (Miho Haga) ,ピアノ piano)
クロード・ドビュッシー Claude Debussy[1862-1918]
《夢想》(1890)Rêverie
《2つのアラベスク》(1890)2 Arabesques
《子供の領分》(1908)
グラドゥス・アド・パルナッスム博士 Doctor Gradus ad Parnassum
象の子守歌 Jumbo's Lullaby
人形のセレナード Serenade of the Doll
雪は踊っている The Snow is Dancin
小さな羊飼い The Little Shepherd
ゴリウォーグのケークウォーク Golliwogg's Cakewalk
《牧神の午後への前奏曲》(1892)(モーリス・ラヴェルによる連弾版(1910)共演:羽賀美歩)Prélude à "L'après-midi d'un faune" (Transcription a 4 mains par Maurice Ravel)
《前奏曲集第1集》(1910)Préludes pour Piano I er Livre
…デルフィの舞姫 (... Danseuses de Delphes)
…ヴェール(帆)(... Voiles)
…野を渡る風 (... Le vent dans la plaine)
…"夕べの大気に漂う音と香り" (ボードレール) (... Les sons et les parfums tournent dans l'air du soir)(Ch. Bauderaile)
…アナカプリの丘 (... Les collines d'Anacapri)
…雪の上の足跡 (... Des pas sur la neige)
…西風の見たもの (... Ce qu'a vu le vent d'ouest)
…亜麻色の髪の乙女 (... La fille aux cheveux de lin)
…とだえたセレナード (... La sérénade interrompue)
…沈める寺 (... La cathédrale engloutie)
…パックの踊り (...La danse de Puck)
…ミンストレル (... Minstrels)
[栃木公演]
■ 2017年2月19日(日)15:30開場 16:00開演 18:00終演
会場:西方音楽館 木洩れ陽ホール
入場料:前売 3,000円 当日 3,500円(全席自由)
● 使用楽器:ニューヨーク・スタインウェイB(1978年製造)
Piano / New York Steinway B (1978)
■ アクセス
http://wmusic.jp/access.html
[東京公演]
■ 2017年2月28日(火)18:30開場 19:00開演 21:00終演
会場:sonorium
入場料:前売 3,000円 当日 3,500円(全席自由)
● 使用楽器:ハンブルグ・スタインウェイ・フルコンサート・グランドピアノD274 2007年製造
Piano / Full Concert Hamburg Steinway (2007)
■ アクセス
http://www.sonorium.jp/access/index.html
168-0063 東京都杉並区和泉3-53-16
TEL 03-6768-3000 FAX 03-6768-3083
【お問合せ】
西方音楽館 Tel 0282-92-2815 公式HP http://wmusic.jp/
322-0601 栃木県栃木市西方町金崎342-1
ドビュッシーは語る
川上哲朗(フルート奏者)
2005年の秋、私が初めて彼の部屋を訪ねた時、たしか横山氏は《ピアノのために》を弾いていた。12年の時を経て今や横山博は、誰もが認めるチェンバリスト/オルガニストになってしまった。ピアニスト時代の彼とは、シューベルト、リヒャルト・シュトラウス、ラヴェル、プーランクからデュティユーなど様々な曲を一緒に演奏したのだが、彼は常に音楽に対して通り一遍な美しさよりも、真実性(オーセンティシティ)、現実性(リアリティ)を強く求めていた。 彼は古楽の道へ、私はジャズの道へと違う道を歩み始め、暫く共演が途絶えた。彼のモーツァルトのピアノ・ソナタ全曲演奏が終わった後、ヴァイオリン・ソナタ集(パリ・マンハイムソナタ集全6曲)をフルートとピアノで演奏させてもらった。当時彼は、モーツァルト演奏における装飾やアーティキュレーション、即興演奏の歴史的正当性を熱心に調べていた。歴史的情報に基づく演奏を尊重する彼の態度が、それまでの感覚的なものから、もはや確信的なものに進化していたことに私は驚きを隠せなかった。横山博は曖昧表現を塗り重ねるレガート奏法とは早々と縁を切っていた。チェンバロやクラヴィコード、パイプオルガンなどの古楽奏法によって裏付けられた、喋るような音楽、物事を伝えるための明確な意味と情報を持つ、まさに「言語としての音楽」をそこに聞いたのである。
1913年、クロード・ドビュッシー[1862-1918]自作自演による、《夢想》《2つのアラベスク》《子供の領分》《前奏曲集第1集(抜粋)》がウェルテ・ミニョン社製のピアノロールへの収録が行われた。ピアノロールとは、リプロデューシングピアノと呼ばれる自動演奏専用の再生用ピアノのために開発された紙製のロール(巻き紙)にインクによって記録され、その印字された部分に専門の技師が穴を開け、オルゴールの様な仕掛けで再生される。リプロデューシングピアノが再現する演奏の「音量」「テンポ」「ペダリング」の再生能力については信頼できない部分があるものの、ドビュッシー自身が署名をして、発売を許可したそのロールには、ドビュッシーのピアノ奏法による「間合い(息継ぎ)」「ルバート(テンポコントロールのさじ加減)」「アルペジオ(楽譜には書かれていない和音のばらし具合)」がはっきりと刻印されている。今回、横山氏はそこに聞かれるドビュッシー独得の微妙な節まわしを手本として、可能な限りそのニュアンスを自身の演奏に反映したいと語っている。バロック期の作曲家フレスコバルディやフランソワ・クープラン等の記した「譜面に表しきれない細やかな表情は、演奏者の良い趣味に委ねるしかない」といった演奏者への助言(ある種の諦めの文句)に比べれば、ピアノロールに記録された作曲者自身の演奏には、極めて多くの情報が含まれているというわけだ。
ドビュッシーが、フレデリック・ショパン[1810-1849]の孫弟子にあたることも忘れてはならない。彼が若い頃にピアノの指導を受けたのは、ショパンの弟子であったモーテ・ド・フローヴィル夫人である。ドビュッシーは彼女のレッスンを通じて、「ショパンは練習の時にペダルは使わず、人前で演奏する際も最小限にペダルを用いること、ちょうど言葉を話すときの息継ぎとか、文法上の句読点のように扱うことを望んでいた」ことを学び、晩年にいたるまでショパンの残したピアノ演奏技法の伝統を高く評価していた。ダンパーペダル(延音ペダル)という機構を持たないチェンバロ(フランス語ではクラヴサン)という楽器を演奏する者にとって「ペダルでごまかす」という発想は存在しない。その代わりに、微細なアクセント(語調、強調)やアーティキュレーション(発音)の具合、固定された音価にとらわれない柔軟性をもったイントネーション(抑揚)など、語学の発想によって音楽を表現することが求められる。
本当のところ、ペダルの乱用は、技術の不足を隠すための手段にしかすぎないのだろう。だから、自分が細切れにしている音楽を、誰も聞くことができないように、たくさん騒音をださなければならないのだ。(クロード・ドビュッシー)
古楽演奏における重要な要素の一つに音楽修辞学(レトリック)というものがある。これは、古代ギリシャ・ローマにおける雄弁術や弁論術(それは身振り手振り、発声法の技術でもあった)に由来する、様々な具体的意味を持った音型(フィグール)によって音楽表現の効果を高めるための技法である。横山博が音楽修辞学をドビュッシーにも適用しようという試みは、決して奇抜なアイデアなどではなく、むしろドビュッシーが用いた音楽言語への抜け道となるはずだ。
19世紀末からドイツにおいて、音楽に物語性を強く求める「楽劇」「交響詩」というジャンルが最盛期を迎えていた。ドビュッシーの作曲技法に関する興味は(当時の)現代ドイツ音楽への憧れから始まっている。しかし、「気狂いじみた熱狂を抱いて」さえいた楽劇《トリスタンとイゾルデ(1865)》の作曲家リヒャルト・ワーグナー[1813-1883]に対しても次第に批判的になり、「詩に追随する音」に疑問を抱くようになる。フランツ・リスト[1811-1886]が先導し、リヒャルト・シュトラウス[1864-1949]で頂点に達していた一連の交響詩に対しても、そのあまりに描写的な音楽に眉を潜めている。その疑問への一つ の答えが歌劇《ペレアスとメリザンド(1902)》であり、交響詩《海(1905)》である。一般に「印象主義」と言われることの多い ドビュッシーだが、モネ、ルノアールといった印象主義の画家よりも、むしろ詩人のマラルメ、ボードレールなどに代表される「象徴主義」に傾倒していた。象徴派詩人たちの、饒舌(じょうぜつ)であることを好まず、色彩とともにニュアンスと静謐(せいひつ)を重んじるスタイルから多大な影響を受けている。「象徴派」という言葉がクラシック音楽の世界で用いられることは少ないが、エリック・サティ [1866-1925]とドビュッシーだけがそこに通じていた。
ドビュッシーが起こした“愛”に纏(まつ)わる様々なスキャンダルをここに書く余裕は無いが、9年間(1893年から1902年)にも及んだ《ペレアスとメリサンド》作曲の時代を経て、駆け落ち同様に2番目の妻エマ・バルダックと1905年に結婚した。シュシュ(キャベツちゃんという意味の愛称)と呼んだ一人娘が生まれた頃からドビュッシーはすっかり大人しい人物になったようだ。そして、愛してやまない娘のために《子供の領分(1908)》というピアノ音楽史に輝く傑作まで書き上げた。《Children’s Corner※》というタイトルはドビュッシーが尊敬するロシア人作曲家モデスト・ムソルグスキー[1839-1881]の作った連作歌曲《子供部屋(1872)》に対する賛辞(オマージュ)であろう。
ムソルグスキーの「子供部屋」には、就寝前のちいさな女の子の祈りがある。そこでは、子供の仕草やその魂の微妙な動揺が、そして大人の前で幼女が見せるポーズの得もいわれぬ様子すら、ほかの音楽には見出せない一種の熱っぽい真実な語調で、音符にされている。
※ 表題・曲名がフランス語ではなく全て英語で書かれているのは、妻の英国趣味への“からかい”だと言われている。シュシュの部屋にはイギリスの版画が飾られ、家政婦はイギリス人だった。
幼い少女が嫌々練習する難しい練習曲からの現実逃避(グラドゥス・アド・パルナッスム博士)、恋する人形(人形のセレナード)に、深刻なトリスタンをクスクス笑いでからかう(ゴリウォーグのケークウォーク)。発売された初版楽譜の扉には英語ではなくフランス語で「父親の優しい言いわけをそえて,大事なかわいいシュシュへ (A ma chère petite Chouchou, avec les tendres excuses de son Père pour ce qui va suivre)」という献辞が添えられている。これは
不自然なほど大きなイタリック体で印刷されており、横山氏は、これはまるで広告用キャッチコピーのようだと語っている。
1901年以降、ドビュッシーは自らを反好事家八分音符氏(ムッシュー・クロッシュ・アンティディレッタント)と称して評論活動も行っていた。そこで彼は常に懐疑的であり、皮肉と逆説を用いて、人を煙に巻くような煩わしい物言いばかりをしている。しかしルネサンス、バロック音楽の大作曲家に対して彼は賛美を惜しまない。特に、バッハへの愛は少年のころから終生かわることはなかった。
バッハの音楽には、あの〈音楽のアラベスク〉、というよりむしろ芸術のあらゆる様態(モード)の根底である〈装飾〉のあの原理が、ほとんど無疵(むきず)なままで見出される。
室内楽や管弦楽曲において大いに個性的な曲を書き上げる中、意外にもドビュッシーはピアノ曲の発表には慎重だった。《2つのアラベスク(1890)》は、マスネ[1842-1912]風の甘味な旋律線と、クープラン風の曲線的装飾によって非常に精密に組み立てられている。機能和声へのちょっとした反抗は、ロマンティックなサロン文化からの脱却を望んでいるようにも見える。その反抗心は、《アラベスク》のたった2年後、オーケストラを使って《牧神の午後への前奏曲(1892)》という、より近代的な作品として結実することになる。フルートが提示する曲線的なアラベスク風の主題(アラベスクとはもともと、植物や動物の形を基にして反復して作られるイスラム美術様式の唐草模様など)の、その最初のC♯音で近代音楽の扉は開かれた。ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ前奏曲》で「崩壊」しはじめた機能和声から、《牧神の午後への前奏曲》は、《トリスタン》とは異なった手法で離れようとしている。あらゆる面で近代的(モデルヌ)な作品であるが、皮肉にもその影響は遥か昔の、遠いところからやってきた。1889年、1990年のパリ万国博覧会で見聞きした、東南アジアや日本を始め、世界各国の伝統芸術はドビュッシーに計り知れない影響を与えた。一方その頃、モーリス・ラヴェル[1875-1937]は、同じ古代ギリシャをテーマにしたバレエ音楽の大作《ダフニスとクロエ(1912全曲初演)》を準備していた。本日演奏されるラヴェル編曲の4手連弾版《牧神の午後への前奏曲(1910編曲)》が《ダフニスとクロエ(ピアノソロ及び2台ピアノ版)と並行して編曲されていたというのは偶然ではない。
24の...と聞くと我々は大バッハの《平均律クラヴィーア曲集》、それに対するショパンの美しくも大胆な回答である《24の前奏曲集作品28(1839)》を思い起こす。ドビュッシーの《前奏曲集第1集(1910)》は明らかにショパン作曲の《前奏曲集》の延長線上に位置するものである。しかし、ドビュッシーの《前奏曲集》を一層個性的で輝かしいものにしているのは、むしろフレンチバロックの巨匠、フランソワ・クープランやジャン=フィリップ・ラモーの残したクラヴサン(チェンバロ)曲集への敬意があってのことだ。様々な舞曲や、思わせぶりな「タイトル」を一見無造作に並べるクラヴサン曲集の伝統は後期フレンチバロックの誇る遺産であり、ドビュッシーがその作曲技法だけでなく精神(エスプリ)に発想を求めていた事は想像に難くない。ラヴェル作曲の傑作《クープランの墓(1919)》に9年も先んじてのことである。《前奏曲集第1集》では、古代ギリシャ神話や、様々な国の風景や伝説に発想を求め、それらを入念に調査しながらも、空想的で挿絵(さしえ)的な“前奏曲”の雰囲気に仕上げている。初期フレンチバロックにおいて、前奏曲を弾くということは、様々な舞曲で構成される組曲を弾き始める前に即興的に和音をならしてチェンバロやリュートの調律の具合を確かめつつ、奏者の趣味をさりげなく披露する役目もあったという。しかしドビュッシーの前奏曲のあとに続くべき肝心の組曲は誰も聞くことはできない。それとは逆に、なぜバッハが《6つのフランス組曲》に本来そこにあるべき前奏曲を書かなかったのかも謎のままである。古代の舞姫たちが輪になって踊るサラバンド(デルフィの舞姫)、凶悪なまでの西風が吹き抜けるトッカータ(西風の見たもの)、南の国にしか無い鮮烈な日差しが踊るタランテラ(アナカプリの丘)、海からゆっくり浮かび上がる伝説のイスの街(イゾルデが生まれた街だ!)の大聖堂と僧侶が歌うグレゴリオ聖歌(沈める寺)… これ以上本日のお客様の想像力を奪ってしまうのはやめておこう。これら12曲のタイトルが「標題(プログラム)」として曲の頭に付けられてはおらず、全て曲の最後の部分に括弧書きで、謎めいた「...」が書かれていることは意義深い。言葉(タイトル)の表すイメージに対して聴き手やピアニストが持つ想像力。ドビュッシーは、わたしたちの月並みな想像力(ファンタジー)に対する「注釈」を、前奏曲(プレリュード)という形で書いてくれたのかもしれない。
ヨハン・パッヘルベル
Johann Pachelbel (1653-1706)
アポロンの六弦琴《全6曲》
Hexachordum Apollinis
カノン ニ長調
Canon D-dur
シャコンヌ ヘ短調
Ciacona f-moll
解説:尾山真弓(音楽学・洗足学園音楽大学講師)
9/11(日)
西方音楽館
昼の部 13:30から15:30
夜の部 17:30から19:30
(30分前に開場)
要予約
《全席自由 税込》一般¥3,000・要予約
【主催】NMS研究会
322-0601 栃木県栃木市西方町金崎342-1 Tel 0282-92-2815 Fax 0282-92-2915 E-mail: info@wmusic.jp
ポピュラーな名曲《パッヘルベルのカノン》の作曲家ヨハン・パッヘルベル(1653-1706)は、バロック中期のドイツ・オルガン音楽における重要な存在で、J. S. バッハにも大きな影響を及ぼした人です。彼は数多くのすぐれた鍵盤楽曲を残していますが、とくに変奏曲を得意とし、コラール変奏曲のほか、世俗的な旋律による変奏曲も作曲しています。《アポロンの六弦琴》は後者の例で、6曲のアリアと変奏からなる曲集です。6曲全部が演奏される機会はあまりありませんが、パッヘルベルの熟練した変奏技法を示す傑作で、隠れた名曲といえます。
パッヘルベルは南ドイツのニュルンベルクに生まれ、アイゼナハ、エルフルト、シュトゥットガルト、ゴータでオルガニストとして活躍した後、1695年からは故郷ニュルンベルクの聖ゼーバルト教会オルガニストを務めました。《アポロンの六弦琴》(1699年出版)が作曲された頃には、オルガニスト、作曲家、教師としてのパッヘルベルの名声は確固としたものになっており、この作品には、自分の自信作を世に示し、弟子たちの教育に役立てようというパッヘルベルの意図がうかがえます。またこの曲集には長い序文が付いており、彼と同時代の二人の作曲家に献呈されています。一人は南ドイツを代表するウィーンのフェルディナント・トービアス・リヒター(1651-1711)、もう一人は北ドイツを代表するリューベックのディートリヒ・ブクステフーデ(1637頃-1707)です。ブクステフーデはバッハにも大きな影響を与えた作曲家です。パッヘルベルはこの二人を高く評価し、南ドイツと北ドイツの様式の融合を目指しています。
パッヘルベルの音楽の伝統はバッハにも受け継がれています。アイゼナハ時代にパッヘルベルはバッハの父ヨハン・アンブロージウスと親交を結び、エルフルトではバッハの長兄ヨハン・クリストフがパッヘルベルに師事しています。10歳でバッハが両親を亡くした後、彼を引き取ったのがこの長兄であり、バッハは兄を通してパッヘルベルの音楽を幅広く知り、多くを学び取りました。バッハに至る音楽の流れを考えると、パッヘルベルの音楽には、まだまだ発見すべき魅力が隠されていることがわかります。
《アポロンの六弦琴》はチェンバロでも演奏できますが、今回は横山博氏のオルガンで、全6曲が演奏されます。変奏曲は、全体が一つの主題に基づく統一感の中で、多様な変化を楽しむことができます。音楽の神アポロンの竪琴から奏でられる素晴らしい音楽のように、親密な空間で奏でられるオルガンの美しい響きは、私たちを至福の世界に導いてくれることでしょう。
尾山真弓(音楽学・洗足学園音楽大学講師)
Johann Pachelbel (1653-1706)
アポロンの六弦琴《全6曲》
Hexachordum Apollinis
カノン ニ長調
Canon D-dur
シャコンヌ ヘ短調
Ciacona f-moll
解説:尾山真弓(音楽学・洗足学園音楽大学講師)
9/11(日)
西方音楽館
昼の部 13:30から15:30
夜の部 17:30から19:30
(30分前に開場)
要予約
《全席自由 税込》一般¥3,000・要予約
【主催】NMS研究会
322-0601 栃木県栃木市西方町金崎342-1 Tel 0282-92-2815 Fax 0282-92-2915 E-mail: info@wmusic.jp
ポピュラーな名曲《パッヘルベルのカノン》の作曲家ヨハン・パッヘルベル(1653-1706)は、バロック中期のドイツ・オルガン音楽における重要な存在で、J. S. バッハにも大きな影響を及ぼした人です。彼は数多くのすぐれた鍵盤楽曲を残していますが、とくに変奏曲を得意とし、コラール変奏曲のほか、世俗的な旋律による変奏曲も作曲しています。《アポロンの六弦琴》は後者の例で、6曲のアリアと変奏からなる曲集です。6曲全部が演奏される機会はあまりありませんが、パッヘルベルの熟練した変奏技法を示す傑作で、隠れた名曲といえます。
パッヘルベルは南ドイツのニュルンベルクに生まれ、アイゼナハ、エルフルト、シュトゥットガルト、ゴータでオルガニストとして活躍した後、1695年からは故郷ニュルンベルクの聖ゼーバルト教会オルガニストを務めました。《アポロンの六弦琴》(1699年出版)が作曲された頃には、オルガニスト、作曲家、教師としてのパッヘルベルの名声は確固としたものになっており、この作品には、自分の自信作を世に示し、弟子たちの教育に役立てようというパッヘルベルの意図がうかがえます。またこの曲集には長い序文が付いており、彼と同時代の二人の作曲家に献呈されています。一人は南ドイツを代表するウィーンのフェルディナント・トービアス・リヒター(1651-1711)、もう一人は北ドイツを代表するリューベックのディートリヒ・ブクステフーデ(1637頃-1707)です。ブクステフーデはバッハにも大きな影響を与えた作曲家です。パッヘルベルはこの二人を高く評価し、南ドイツと北ドイツの様式の融合を目指しています。
パッヘルベルの音楽の伝統はバッハにも受け継がれています。アイゼナハ時代にパッヘルベルはバッハの父ヨハン・アンブロージウスと親交を結び、エルフルトではバッハの長兄ヨハン・クリストフがパッヘルベルに師事しています。10歳でバッハが両親を亡くした後、彼を引き取ったのがこの長兄であり、バッハは兄を通してパッヘルベルの音楽を幅広く知り、多くを学び取りました。バッハに至る音楽の流れを考えると、パッヘルベルの音楽には、まだまだ発見すべき魅力が隠されていることがわかります。
《アポロンの六弦琴》はチェンバロでも演奏できますが、今回は横山博氏のオルガンで、全6曲が演奏されます。変奏曲は、全体が一つの主題に基づく統一感の中で、多様な変化を楽しむことができます。音楽の神アポロンの竪琴から奏でられる素晴らしい音楽のように、親密な空間で奏でられるオルガンの美しい響きは、私たちを至福の世界に導いてくれることでしょう。
尾山真弓(音楽学・洗足学園音楽大学講師)
2016年
第9回 2月14日(日)
第1巻より第17番、第18番/第2巻より第17番、第18番
第10回 3月26日(土)
第1巻より第19番、第20番/第2巻より第19番、第20番
第11回 5月3日(火・祝)
第1巻より第21番、第22番/第2巻より第21番、第22番
第12回 6月12日(日)
第1巻より第23番、第24番/第2巻より第23番、第24番
各回とも
昼の部14:30-16:30
夜の部18:30-20:30
クラヴィコードとチェンバロ/横山博
会場:西方音楽館
[全席自由]一般¥1,500学生¥1,200 [全4回通し券]一般¥5,000学生¥3,500
[お問い合わせ・チケットご予約]0282-92-2815(西方音楽館)
[プレイガイド]栃木県総合文化センター028-643-1013・宇都宮市文化会館028-634-6244
栃木市栃木文化会館0282-23-5678
西方音楽館〒322-0601栃木県栃木市西方町金崎342-1
◆東武日光線・東武金崎駅徒歩5分
◆北関東自動車道・都賀インターから車で5分駐車場有り
[関連企画]ワークショップ
《クラヴィコードとチェンバロを弾いてみよう!》
日時 : 2016年5月4日(水)14:30–16:30
会場 : 西方音楽館 定員 : 20名(事前予約制・先着順)
対象 : 小学生以上、大人も歓迎
参加費 : ¥1,000(見学可 /¥1,000)
持ってくるもの:お好きなバロック音楽、古典派音楽等の楽譜
J.S.バッハのチェンバロパルティータ、無伴奏ヴァイオリンパルティータ、ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタを組み合わせたコンサートです。
●日時
10月28日(水)18:30開演
東京オペラシティ 近江楽堂
●プログラム
J.S.バッハ
チェンバロのためのパルティータ第二番ハ短調BWV826
無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第二番ニ短調BWV1004
ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第二番イ長調BWV1015
ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第四番ハ短調BWV1017
⚫︎チケット
\3,000
●お申込
0282-92-2815
FAX 0282-92-2915
E-mail info@wmusic.jp
詳細はこちら
日時
2015年2月22日(日)
昼の部14:30-16:30
夜の部18:30-20:30
(30 分前に開場)
チケット
《全席自由 税込》
一般 ¥1,500 4回通し券 ¥5,000
学生 ¥1,200 4回通し券 ¥3,500
コーヒー付 要予約
◎ 終演後にチェンバロ・クラヴィコードの試奏をしていただけます
場所
西方音楽館 馬酔木の蔵
内容
J.S .バッハ|平均律クラヴィーア曲集
■第1巻より第1番、第2番 / 第2巻より第1 番、第2 番
チケット取り扱い
■西方音楽館
TEL:0282-92-2815/090-5535-9857
E-mail:info@wmusic.jp
■Office ZERO TEL:080-4372-4938
■宇都宮市文化会館 TEL:028-634-6244
■栃木市栃木文化会館 TEL:0282-23-5678
■栃木県総合文化センタープレイガイド
TEL:028-643-1013
主催
Office ZERO
後援
下野新聞社・とちぎ朝日・栃木よみうり・栃木南部よみうり・栃木市教育委員会
ワークショップ
クラヴィコードとチェンバロを弾いてみよう!
日時
2015年2月22日(日)
10:00-12:00
参加費
¥1,000 (見学可)
定員
10 名(事前予約制・先着順)
対象
小学生以上
場所
西方音楽館
内容
バロック音楽に取り組む際にいつも問題になるのは楽器のこと。古い鍵盤楽器について横山博さんに解説していただいた後、参加者にはクラヴィコードとチェンバロを実際に弾いてもらいます。古楽器の繊細な感触を肌で感じて、これからのピアノとの向き合い方を一緒に考えてみましょう。
お申込み
■西方音楽館
TEL:0282-92-2815/090-5535-9857
E-mail:info@wmusic.jp
持ってくるもの
お好きなバロック音楽やモーツァルト等の楽譜
1784年フーベルトモデル・クラヴィコード(山野辺暁彦:製作)
フレミッシュ・チェンバロ(G.Tomlinson:制作 1段鍵盤)
2014年2月1日(土)
18:30開場
19:00開演
全席自由\3000
開場:まつぼっくり
http://matubokr.com/hall/
音楽家という職業
ぼくのソナタ集がまだ印刷されず、つまり、まだ出版されず――少なくともぼくがまだ手にしていない原因は、ぼくの[パリからの]出発を急がせすぎた彼[メルキオール・グリム]の愚かしさにあると言わざるをえません。そして、もし出来上がっていたとしても、おそらく誤植だらけだったでしょう。あと三日だけパリに滞在していたら、自分で校正して、持ち帰ることもできたでしょうに!ぼくが自分で校正はできないので、誰かほかの人に依頼しなくてはならないことを告げると、彫版師は絶望していました。(1778年11月2日、ストラスブールにて)
もちろんドイツ語の一人称に「ぼく」は存在しない。
プロの作曲家として既に堂々たる自覚をもっていたモーツァルトだったが、この作品1のヴァイオリン・ソナタ集以後、楽譜の出版の際に自分では校正しないのが、彼のポリシーとなったようだ。それはポリシーという名の「諦め」だった。出来上がってきた印刷譜ではいつも記号の位置は大きくずれ、音符の長さも勘定が合わなかった。新しい音楽への理解など示すわけもない当時の出版業界に対して彼は生涯を通じて不信を抱きつづけ、作品を自分の意図に忠実な形で世に出すことは二の次となってしまい、もはやその出版契約というものは、手っ取り早く収入を得られるリソースでしかなくなった。
ぼくのソナタ集は近く印刷されます。きょうまで、誰もぼくの望むだけのものを払ってくれようという人はいませんでした。結局、譲歩して、15ルイ・ドールでそれらを委ねざるをえないでしょう。ここで名を知られるには、やはりこの方法がいちばんラクなのでしょう。(1778年7月28日、パリにて)
モーツァルトはその後、作品を自分で版刻して出版することも考えた。しかし、その場合にもやはり、写譜につきまとう問題(海賊版からどのように作品を守るか)を心配しなければならなかった。
お父さんに教えてほしいことがあります。自費で作品を印刷させたり、版刻させたりするとき、彫版師に不正をされないようにするにはどうしたらいいでしょうか。(……) まったく、自費で予約を募って印刷し、版刻したい気がしますよ。ほとんどの人はそうしているし、そのやり方で利益があがっているようですから。(1784年2月20日、ウィーンにて)
一般によく信じられているように、モーツァルトの音楽は彼の頭から自然にさらさらと湧き出したわけではない。即興の名人であったことに間違いはないが、それは作曲とは別の分野に属しており、作品はつねに彼の中で「構築compose」し尽くしてから生み出された。しかし、音符を「書く」という作業がどれほど面倒なものであるかは、一度でもその経験のある者なら察しがつくだろう。作曲という精神的、知的な仕事に比べて、書くという機械的な動作は退屈で時間もかかったようだ。ところが第三者から見ればその姿が、何の苦労もなく、あたかもお絵描きをして遊んでいるようだった、というわけだ。
たしかになぐり書きをするんだったら一日中だってできるでしょう。
でもこの種の作品は世間に公表されるのです。(1778年2月14日、マンハイムにて)
ご存じのとおり、ぼくはいわば音楽の中にのめり込んでいます。一日中音楽とつきあい、調べたり、熟慮したりしています。(1778年7月31日、パリ)
6つのヴァイオリン・ソナタ作品1、成立の背景
これらのソナタはマンハイムで着手され、マンハイムの様式を反映しているとされる。しかし、モーツァルトが受けた影響はそれだけではない。ミュンヘンを通過する際に、当時人気のあったヨーゼフ・シュースターのソナタ集について好意的に述べており、同じような曲集を書くことを考えていた。
姉さんのために、シュースターの6曲の「クラヴィチェンバロとヴァイオリンのための二重奏曲」を同封します。ぼくはこれらの作品をよくここで演奏しました。悪くはありません(……)この様式でやはり6曲書いてみたいと思います。(1777年10月6日、ミュンヘンにて)
当初、私たちはこのシュースターのソナタも本日のプログラムに含めようと考えて練習を開始したが、モーツァルトのものに比べそのソナタの出来栄えの格差は絶望的なまでで、シュースター氏が気の毒になるほどであった。しかし、その「伴奏」ヴァイオリンのテクスチュアは当時としてはかなり大胆なものであり、中にはオペラ風レチタティーヴォが挿入されるものまである。モーツァルトはシュースターの工夫のいくつかを採用している。特に第3番K.303ハ長調の第1楽章の風変わりな構造は彼から受け継いだものである。この曲では事実上、アダージョの序奏が第1主題を形成し、再現部で繰り返される。しかしモーツァルトの場合のそのキャラクターは、シュースターの軽はずみな(良く言えば変化に富む)それよりは、いわゆるマンハイム・ロケットとも形容される「マンハイム・ソナタ」に近く、各ソナタそれぞれが様々な局面で、「極端さ」を信条とするマンハイム的表現との関わりを示している。わかりやすい例としては第4番K.304ホ短調であり、各所で分断され切り取られてしまうコンテクストと、敢えて曖昧に語られる、ためらうようなテクスチュアが繊細な表現を生み出している。この哀愁漂う名曲は、旅先パリでの母の死と長らく関連付けられてきた。資料をあたる限りその根拠はどこにも見当たらず、少なくとも私には後の伝記作家の興味本位な「でっち上げ」であると思われる。もう一つは第6番K.306ニ長調、この曲集中唯一の3楽章のソナタで、華々しい、精力的な曲であるが、ピアノの書法の中にいくらかオーケストラ的な音響を発生するような工夫がみられる。ベートーヴェンにとってハ短調という調が特別な含意を持ったように、モーツァルトにとってニ長調という輝かしい調は、その後彼の「運命」の調となってゆくことになる。
マンハイムに滞在した数か月間に、モーツァルトはフルート協奏曲をはじめ、かなりの数のフルート作品を書いている。それは気の乗らない仕事であったとも言われており、父に対してもその煩わしさをつぶやいてはいたが、その書法は熟達しており、フルート独自の語法を知り尽くしているために、彼のフルート嫌いな部分が表面に現れることはない。第1番K.301ト長調はヴァイオリンでもフルートでも演奏できる旨を明記してあり、ヴァイオリン作品とフルート作品の相互作用が垣間見ることができるという点でも興味深い。
エピソード
1777年9月23日、モーツァルトは母とともに自家用馬車で旅立った。途中アウクスブルクでは最新式のシュタインのフォルテピアノにも出会いインスピレーションをもらい、彼のピアノの書法には劇的な変化がもたらされた。マンハイムでの就職はうまくいかず、ピアノと作曲の個人レッスンをしながら飢えをしのいだ。そんな中、16歳のソプラノ歌手で写譜師の娘アロイージアと恋に落ちたりもした。彼女をイタリアへつれていって大スターにしてみせるという無邪気なアイデアに胸を躍らせ、彼はその幸せを父に報告する。しかし父レオポルトは事あるごとに忠告の手紙を送っていたのだ。旅程について、見込みのあるパトロンについて、紹介状について、影響力のある人々に取り入る方法について、金銭のこと、その他数えきれないほどの注意事項。今や息子のとんでもない計画、またその優柔不断さ、金銭に対する無責任さを知って気も狂わんばかりとなった。ついにレオポルトは息子に前進の命令を下す。
「そこを出て、パリに向かいなさい! それも今すぐに! 偉大な人たちのそばに身を置いてみるのだ。カエサルにあらずは、人にあらずだ!」
(1778年2月11日、ザルツブルク)
しかし、再び旅に出るには外は寒すぎた。
ニューグローヴ世界音楽大辞典(講談社)
モーツァルト書簡全集(白水社)
モーツァルトは語る:ロバートL.マーシャル・高橋英郎、内田文子・共訳(春秋社)
Mozart Speaks – Views on Music, Musicians, and the World
Robert Lewis Marshall(Music Sales Ltd)
18:30開場
19:00開演
全席自由\3000
開場:まつぼっくり
http://matubokr.com/hall/
音楽家という職業
ぼくのソナタ集がまだ印刷されず、つまり、まだ出版されず――少なくともぼくがまだ手にしていない原因は、ぼくの[パリからの]出発を急がせすぎた彼[メルキオール・グリム]の愚かしさにあると言わざるをえません。そして、もし出来上がっていたとしても、おそらく誤植だらけだったでしょう。あと三日だけパリに滞在していたら、自分で校正して、持ち帰ることもできたでしょうに!ぼくが自分で校正はできないので、誰かほかの人に依頼しなくてはならないことを告げると、彫版師は絶望していました。(1778年11月2日、ストラスブールにて)
もちろんドイツ語の一人称に「ぼく」は存在しない。
プロの作曲家として既に堂々たる自覚をもっていたモーツァルトだったが、この作品1のヴァイオリン・ソナタ集以後、楽譜の出版の際に自分では校正しないのが、彼のポリシーとなったようだ。それはポリシーという名の「諦め」だった。出来上がってきた印刷譜ではいつも記号の位置は大きくずれ、音符の長さも勘定が合わなかった。新しい音楽への理解など示すわけもない当時の出版業界に対して彼は生涯を通じて不信を抱きつづけ、作品を自分の意図に忠実な形で世に出すことは二の次となってしまい、もはやその出版契約というものは、手っ取り早く収入を得られるリソースでしかなくなった。
ぼくのソナタ集は近く印刷されます。きょうまで、誰もぼくの望むだけのものを払ってくれようという人はいませんでした。結局、譲歩して、15ルイ・ドールでそれらを委ねざるをえないでしょう。ここで名を知られるには、やはりこの方法がいちばんラクなのでしょう。(1778年7月28日、パリにて)
モーツァルトはその後、作品を自分で版刻して出版することも考えた。しかし、その場合にもやはり、写譜につきまとう問題(海賊版からどのように作品を守るか)を心配しなければならなかった。
お父さんに教えてほしいことがあります。自費で作品を印刷させたり、版刻させたりするとき、彫版師に不正をされないようにするにはどうしたらいいでしょうか。(……) まったく、自費で予約を募って印刷し、版刻したい気がしますよ。ほとんどの人はそうしているし、そのやり方で利益があがっているようですから。(1784年2月20日、ウィーンにて)
一般によく信じられているように、モーツァルトの音楽は彼の頭から自然にさらさらと湧き出したわけではない。即興の名人であったことに間違いはないが、それは作曲とは別の分野に属しており、作品はつねに彼の中で「構築compose」し尽くしてから生み出された。しかし、音符を「書く」という作業がどれほど面倒なものであるかは、一度でもその経験のある者なら察しがつくだろう。作曲という精神的、知的な仕事に比べて、書くという機械的な動作は退屈で時間もかかったようだ。ところが第三者から見ればその姿が、何の苦労もなく、あたかもお絵描きをして遊んでいるようだった、というわけだ。
たしかになぐり書きをするんだったら一日中だってできるでしょう。
でもこの種の作品は世間に公表されるのです。(1778年2月14日、マンハイムにて)
ご存じのとおり、ぼくはいわば音楽の中にのめり込んでいます。一日中音楽とつきあい、調べたり、熟慮したりしています。(1778年7月31日、パリ)
6つのヴァイオリン・ソナタ作品1、成立の背景
これらのソナタはマンハイムで着手され、マンハイムの様式を反映しているとされる。しかし、モーツァルトが受けた影響はそれだけではない。ミュンヘンを通過する際に、当時人気のあったヨーゼフ・シュースターのソナタ集について好意的に述べており、同じような曲集を書くことを考えていた。
姉さんのために、シュースターの6曲の「クラヴィチェンバロとヴァイオリンのための二重奏曲」を同封します。ぼくはこれらの作品をよくここで演奏しました。悪くはありません(……)この様式でやはり6曲書いてみたいと思います。(1777年10月6日、ミュンヘンにて)
当初、私たちはこのシュースターのソナタも本日のプログラムに含めようと考えて練習を開始したが、モーツァルトのものに比べそのソナタの出来栄えの格差は絶望的なまでで、シュースター氏が気の毒になるほどであった。しかし、その「伴奏」ヴァイオリンのテクスチュアは当時としてはかなり大胆なものであり、中にはオペラ風レチタティーヴォが挿入されるものまである。モーツァルトはシュースターの工夫のいくつかを採用している。特に第3番K.303ハ長調の第1楽章の風変わりな構造は彼から受け継いだものである。この曲では事実上、アダージョの序奏が第1主題を形成し、再現部で繰り返される。しかしモーツァルトの場合のそのキャラクターは、シュースターの軽はずみな(良く言えば変化に富む)それよりは、いわゆるマンハイム・ロケットとも形容される「マンハイム・ソナタ」に近く、各ソナタそれぞれが様々な局面で、「極端さ」を信条とするマンハイム的表現との関わりを示している。わかりやすい例としては第4番K.304ホ短調であり、各所で分断され切り取られてしまうコンテクストと、敢えて曖昧に語られる、ためらうようなテクスチュアが繊細な表現を生み出している。この哀愁漂う名曲は、旅先パリでの母の死と長らく関連付けられてきた。資料をあたる限りその根拠はどこにも見当たらず、少なくとも私には後の伝記作家の興味本位な「でっち上げ」であると思われる。もう一つは第6番K.306ニ長調、この曲集中唯一の3楽章のソナタで、華々しい、精力的な曲であるが、ピアノの書法の中にいくらかオーケストラ的な音響を発生するような工夫がみられる。ベートーヴェンにとってハ短調という調が特別な含意を持ったように、モーツァルトにとってニ長調という輝かしい調は、その後彼の「運命」の調となってゆくことになる。
マンハイムに滞在した数か月間に、モーツァルトはフルート協奏曲をはじめ、かなりの数のフルート作品を書いている。それは気の乗らない仕事であったとも言われており、父に対してもその煩わしさをつぶやいてはいたが、その書法は熟達しており、フルート独自の語法を知り尽くしているために、彼のフルート嫌いな部分が表面に現れることはない。第1番K.301ト長調はヴァイオリンでもフルートでも演奏できる旨を明記してあり、ヴァイオリン作品とフルート作品の相互作用が垣間見ることができるという点でも興味深い。
エピソード
1777年9月23日、モーツァルトは母とともに自家用馬車で旅立った。途中アウクスブルクでは最新式のシュタインのフォルテピアノにも出会いインスピレーションをもらい、彼のピアノの書法には劇的な変化がもたらされた。マンハイムでの就職はうまくいかず、ピアノと作曲の個人レッスンをしながら飢えをしのいだ。そんな中、16歳のソプラノ歌手で写譜師の娘アロイージアと恋に落ちたりもした。彼女をイタリアへつれていって大スターにしてみせるという無邪気なアイデアに胸を躍らせ、彼はその幸せを父に報告する。しかし父レオポルトは事あるごとに忠告の手紙を送っていたのだ。旅程について、見込みのあるパトロンについて、紹介状について、影響力のある人々に取り入る方法について、金銭のこと、その他数えきれないほどの注意事項。今や息子のとんでもない計画、またその優柔不断さ、金銭に対する無責任さを知って気も狂わんばかりとなった。ついにレオポルトは息子に前進の命令を下す。
「そこを出て、パリに向かいなさい! それも今すぐに! 偉大な人たちのそばに身を置いてみるのだ。カエサルにあらずは、人にあらずだ!」
(1778年2月11日、ザルツブルク)
しかし、再び旅に出るには外は寒すぎた。
ニューグローヴ世界音楽大辞典(講談社)
モーツァルト書簡全集(白水社)
モーツァルトは語る:ロバートL.マーシャル・高橋英郎、内田文子・共訳(春秋社)
Mozart Speaks – Views on Music, Musicians, and the World
Robert Lewis Marshall(Music Sales Ltd)
モーツァルトであること 川上哲朗(フルート奏者)
モーツァルトの時代、宮廷作曲家としてのポストを射止めるための重要な資格は、才能ではなく“イタリア人であること”そして“世渡り上手であること”であった。(考えれば、今もそう変わらない)
1777年7月、21歳のモーツァルトは出身地、ザルツブルグの大司教、ヒエロニムス・コロレドの館での音楽家を辞職、母親と二人、ミュンヘン、アウグスブルク、マンハイム、パリへの旅に出かける。もちろん目的は、都会の宮廷への就職。しかし、どこへ行っても、散々演奏をさせられた挙句、ご褒美は金時計。 就職はおろか、演奏代さえ払ってもらえず、最後に一言「残念ながら君のポストはうちの宮廷には無い」でさようなら。(モーツァルトを恐れた老いた大家達が締め出しにかかっていたようでもある。)そして、悪いことは立て続けにやってくる。旅に出て10ヶ月、パリでモーツァルトは最愛の母を亡くすことになる。うまくいかない仕事、陽気な母の死。可哀そうなアマデウスはどんなに打ちのめされただろう。
K.309 - 311
有名なイ短調K.310のソナタは、“母の死による哀しみが表された”というのが決まり文句になっているが、母の死後に書かれたという証拠はどこにもなく、この悲愴的なソナタの作曲は母の死の前であったという説も濃厚である。こうなってくると、センチメンタルなモーツァルト像は“仕事人”モーツァルトに変わってくる。
これらのソナタの作曲年月、動機や経緯には不明な点が多く、おそらくは就職活動のお土産に使われたのだろう。
この頃の彼の手紙には、“当地の人間の趣味に合わせて作曲する”といった趣旨の文章が散見される。たとえば「気取ったマンハイムの様式で作曲する」「パリの聴衆に受けそうなフレーズを」といった様な、ある意味聴き手に媚びる姿勢があったのだ。それは、現代に蔓延る怠惰な“アーティスト気取り”などでは客の心は掴めないことを良く知っている天才の計算であったし、事実その読みは良く受けていたようである。人の求めるものを、より高い次元で結実させる。その経験が、彼の音楽語法をより豊かなものとして、ウィーン時代の傑作群に繋がっていく。(マンハイム楽派の豊かな強弱法やオーケストラ語法がその後の作品に結実しているのは明白である)
また非常に重要なことは、これら3曲が、今までとは違う楽器の為に作曲されている点にある。旅行中に立ち寄った、父・レオポルトの故郷アウクスブルクで出会ったシュタイン制作のクラヴィーアである。父への手紙で、彼はシュタインの楽器への熱烈な賛辞を綴っている。残念ながらモーツァルトはこの楽器を手に入れられなかったが、この嬉しい衝撃が彼のピアノ語法の発想に一役買ったのは確実だろう。シュタインのピアノを使って開かれたコンサートで、前作デュルニッツソナタk.284の他にハ長調のソナタを即興したと書かれている(おそらくk.309の原型と思われる) 我々は嬉しいことに、本日のコンサートで、このシュタインのモデルのピアノで演奏を聴くことが出来るのである。
使用楽器:ヨハン・アンドレアス・シュタイン1784年モデルのレプリカ
製作:堀榮蔵、栃木市文化会館蔵
(写真は横田誠三氏のウェブサイトからの転載)
K.330 - 332
かつては、前3作と同時期の作品と言われていたが、現在では自筆譜の研究によって「1783年ウィーンか、その年のザルツブルク訪問中」に作曲とされている。つまり前作から5年後、モーツァルトがウィーンでフリーの音楽家として活動し始めた頃の作品である。3曲とも作曲の明確な目的は分かっておらず、1784年にはモーツァルトの意思によってウィーンの出版社により「作品6」として出版されている。
これらの作品はもともと出版を目的に書かれたようにも見える。非常にチャーミングで技巧的にも内容的にも優しさを讃えたハ長調。型破りで、見ようによっては小品集でもあるイ長調。あらゆる点で立派さを感じさせるヘ長調。と、3つの全くスタイルの違う、ある意味あらゆるニーズに応えたソナタはモーツァルトの多様性、職人気質を充分に感じさせてくれる。最小の面も、その集合体も、どちらも美しく仕上げるのは並大抵のことでは無いのだが、彼は安々とやってのける。 音楽は貴族だけのもでは無いと、モーツァルトに強く実感させたウィーンの町は、もともと百科事典派、啓蒙思想的な彼の作品をもっと普遍的かつ高度なものへと変えさせた。トルコ行進曲の東洋趣味などは良い例だろう。音楽はもはや、あらゆる人々のものであり、美しくて、分かりやすく、それでいて多様な趣味を持ち合わせていなければ見向きもされなかった。フィガロ、ハイドンセット、ジュピター….ウィーン時代の数々の傑作は、もう目の前である。
ザルツブルグの大司教との完全な決別、ウィーン定住、コンスタンツェとの結婚と、転換期を迎えたモーツァルトの生活は、母の死や就職の失敗などを振り払うかのように派手で、怠惰なものに変貌し始める。
豪華な服を買い、パーティーに参加しては酒を飲む。金が足りなければ借金をする。“陽気で、恐ろしい生活!”とは、ラ・ボエームの原作者ミュルジェの言葉だが、ウィーン時代のモーツァルトは音楽家史上、恐らく初めてのボヘミアンであった。才能以外に自分を助けるものが無いという状況は、若き天才をかえって奮起させたことだろう。
天にも届く勢いで高まる美しい作品の質とは反比例する地位と健康。静かに伸びる双曲線の音に、アマデウスは気付いていただろうか?