純銀の夢 

占い師・純銀桜子のブログです。

アクエリアン・タロット

2006-12-18 14:59:33 | Weblog
私が愛用しているタロットカードは「アクエリアン・タロット」
デビッド・パラディニのデザインによる、78枚総絵札のものだ。
絵はウェイト版準拠とはいいがたい点もあるが、
ウェイト版をベースにしたものである。

これはもう、何代目のデッキ(カード)か分からないほど、数多く占ってきた。
(カードの取替え時は、毎日使えば四ヶ月位とも言われる)
しかし、その割りに、私はこのカードの絵柄が好きではない。
厳密に言うと「只、絵として観た場合の好みではない」だろうか。
それが不思議でもある。
只、絵として観た場合の好みを言うのなら、世のタロットカードには美しい芸術作品は沢山ある。
なのに何故「アクエリアン・タロット」なのか?

タロットカードは何を使うのが良いのかは、多く論じられているが
「使用者が気に入った絵柄であること」は、ほぼ定説だ。
どれほど伝統や権威があり、評判がよいデッキでも、
自分が使って「よい」と感じられなければ、その場合「よい」とは言えない。

私がこのカードを愛用しているわけは「使いやすい」「慣れている」からか。
過去、多種多様なカードを観てきて、買い、使いもしてきたが
今、アクエリアンに落ち着いている決定的な理由が明確でなく、
もどかしくも感じている。
「よいから、よい」としか言えないものでもある。

「使いやすく、慣れている」ならばそれでいいのかもしれないが、
もっとよい占いが出来るカードがある可能性を見過ごしたくない。

「使いやすく、慣れている」ことは、大きな欠点でもあるのだ。

余りにそれに馴染むと「それは、そういうもの」などと、
それ以上にそれについて言葉を紡ぎ出せなくもなってしまう。
「知ったつもり」にもなりがちだ。

多くの人にとって、タロットカードは特別なもので、変わったもので、
神秘的であろうし、怖いと感じたり、超常体験を語る人も居る。
それは、それを使う占い師(といっても人それぞれだが)にとっても
そうではある。
「そうではある」などという表現になってしまうのは、私が余りに
タロットカードを多く使ううちに慣れてしまい、
そのように特別と捉える感覚が薄れたからだ。
そのような麻痺を防ぐためにも大切にし、儀式も行うのだが・・。
研鑽が足りていないということでもある。

おかしな言い方だが、神秘的な力を否定し、それは思い込みなどによるもの、と
考えたとしても、占いをするからには神秘的な「思い込み」が必要なのだ。

「アクエリアン・タロット」の絵柄は、オカルティックな怖さが少なく
親しみやすい。色調も優しく、手に取りやすい。
それはそのまま、私が馴染んだ理由でもある。
そろそろ、替え時であろう。

逆に、不気味と感じたり、扱うのが難しいと感じる位の絵柄の方が
インスピレーションを湧かせるのによい、という説もあり、同感だ。
新たなものに取り組むことで「もう大丈夫」などと、うかつにも思い込んでいる
自分のメイン分野のマンネリ打破、活性化、新たな勉強にもなるだろう。

線の細い幻想的な絵が好きで、適度にゴージャスさも欲しい。
そしてウェイト系で・・いやマルセイユ版も考えるか・・などと、
思いを他のカードにはせている。

私は「アクエリアン・タロット」に慣れてはしまったが、
決して「アクエリアン・タロット」を知っているわけではない。
私に出来たことは「垣間見た」程度のことだろう。
せっかく、このカードに出会い、慣れてしまうほど占いながら、
絵柄を奥深く研究したり、とことん納得のいく閃きを体験できていない。

何度も会って接し、「知ったつもり」になってしまったが、
決してその人を本当に理解出来たわけではない、そんな大事な人のように・・。

馴れ合いではなく、研鑽でなければならない。
一度距離を置くことは、また「アクエリアン・タロット」に向かい、研鑽するのにもよいだろう。
「何故か」このように愛用できた、真の理由もわかるかも知れない。

一期一会の精神と、しばしの別れ。