立教ヌーヴェルヴァーグ

立教ヌーヴェルヴァーグについて・・・

森 達也 氏 インタビュー

2008-07-27 11:57:52 | Weblog
立教ヌーヴェルバーグの1人である、森達也監督へのインタビューを2007年6月12日に行ないました。
そのインタビューで分かった、森監督の7つのエピソードを今回ブログにアップしようと思います。

【エピソード①】
「とにかく映画はおもしろい!」の高校時代。
週末ともなれば、スクリーンへと通う映画三昧の日々。ただし、お金が無いのでロードショーは見られなかった。
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映画好きの仲間に、医者の息子がおり、彼が集めた8ミリの機材を使って映画を撮ることに。内容は「高校生版かぐや姫」。森さんも出演し、学園祭で上映することに。
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「自分たちが制作したものが映写され、スクリーン上で再現された見た時、それを見ながら観客が息をのんだり、笑ったり。不思議でしたね。映画ってすごいなって思った」(森さん)


【エピソード②】
立教大学へ進学。映研を探す。
当時、立教には映画サークルが3つほどあり、「映画鑑賞会」的なサークルと「映画制作」のサークルがあった。当然、森さんは映画制作のサークル「S.P.P(セント・ポール・プロダクション)」に入部。また、同時に劇団サークルにも籍を置き、サークル「しどろもどろ」(現在も存続)の門を叩く。演劇と映画と両方で活動を開始する。
その時、映研には7、8人が一緒に入部し、部員数は20数人。また当時の立教の映研は「16ミリ」で、まだ8ミリはなかった。フィルム代がむちゃくちゃ高かったため、お金を出し合って映画を撮れるのは「年に1本」が慣例。それゆえ、誰かが書いた脚本を皆で多数決で決めていた。
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しかし、ちょうど森さんらが入学した頃に、8ミリで録音も可能な「マグネコーティング」という技術が開発されて、「じゃあ8ミリだろう」との雰囲気に。最初の部会で、坊主頭で関西弁だった当時の黒沢清氏が「この8ミリ機材を使えば、もっともっと手軽に作れるので、年に1本と言わず、撮りたい人が撮りませんか」というアイデアを提案した。
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その提案は、多数決で認められ、「それじゃ、まず2本撮ろう」ということに。早速、「皆で脚本を書いてこよう」ということになったが、その時脚本を出したのは、森さん(主人公の大学生が朝起きると、突然戦争が始まっているという内容)と黒沢氏(名称「高校教師、白昼大殺戮」)の2人程度で、投票もした結果、この2本の票が「同数」。「それじゃ、2本撮ろう」との話になり、制作が始まった。
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黒沢組は、映画作りのメソッドに沿って、スタッフィングやキャスティングなどもしっかりとやったが、一方、森さんの方は「監督は森、脚本も森、撮影も森」という状態。当然、部員から「私物化している」と猛反発をくらった。
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それぞれ撮り終わり、黒沢組の作品は「ぴあフィルムフェスティバル」でも評判になった。


【エピソード③】
そんなこんなで作品を撮っていたが、大学の2、3年の頃に蓮實重彦氏の「映画表現論」の授業が始まり、黒沢氏らがその授業に出ていた。
当時のS.P.Pには派閥と言うか、「とてもストイックに映画を語る」グループ(黒沢氏を筆頭に万田邦敏氏や塩田明彦氏ら。おそらく映画制作集団「パロディアス・ユニティー」のこと)と、「麻雀&酒」派(映画は好きなメンバーだったが・・)とに分かれていた。(当時のS.P.Pは正規のサークルではなかったので、部室はなく、5号館下の食堂脇にある「コモンルーム」が、サークルのたまり場だった)
そして映画を撮ったり、俳優になって撮られたりしながら、4年間を過ごした。


【エピソード④】
森さんは大学4年次に、劇団の俳優養成所「青俳」へ通い始める(三田村邦彦氏らが所属。その2年後に潰れてしまうが・・)。なぜ就活のこの時期に劇団入りしたかと言えば、それは就職して社会に飲み込まれるのが恐かったから。正直、就職する勇気がなかった。しかも単位が足りず、留年に。当時の森さんは「中退する勇気もなかった」と自身の性格を振り返る。
大学に籍を置きつつ、劇団に通う。5年生で卒業するも就職はしなかった。しかし、「社会のレールから外れる」ことへの不安感と、「社会に組み込まれる」ことへの恐さの両面が、心の中に内在していた。森さんいわく、「これは自分の甘え。どこかでモラトリアムがくすぶり続けていた」。(森さんより上の世代は、学園闘争組で中退者もゴロゴロいたが、森さん世代ではほとんど皆無だったという)。そんな思いの中で芝居を続けていた。
「芝居は自転車に似ていて、ある一線を越えると結構出来るようになる」(森さん)。


【エピソード⑤】
29歳の時、林海象氏との共同生活。林氏が映画「夢みるように眠りたい」を制作することになり、主役を演じる予定だったが、足を怪我して、佐野史郎氏が代役に。役を断った時は「モノクロのサイレント映画のため、『評判にはならない』」と、正直未練などなかったが、完成後に評判となり、林氏は監督業の道へ、そして佐野氏はテレビドラマで「冬彦さん」を演じて有名になるという結果に。それを横目に「演技力がないというのは何となく自分でも気付いていたが、華もないし、運もないのか・・・」と落胆し、不動産会社へ就職した。
【エピソード⑥】
とは言え、やはり映画に未練があった。しかし既に家族も出来ており、そこで「テレビなら」と、テレビ番組制作会社「テレコムジャパン」へ転職。しかし、ここはドラマ系ではなく、ドキュメンタリー番組の制作会社だった。
はじめは疑問も感じていたが、九龍城などの撮影を通じて、ロケで感じた観光では見えない部分、「現場性の面白さ」というものに気付いた。「そこから僕のドキュメンタリー人生が始まった」(森さん)。

【エピソード⑦】 立教ヌーヴェルヴァーグ
立教ヌーヴェルヴァーグの背景
①当時は自主映画が盛んだった。大隈講堂で上映したように、早稲田と共同で上映会なども実施。8ミリの「録音」が可能になったのを受け、今で言う「デジタルビデオ」と同じような、技術革新が一気に来て、「僕らの手に届く所に来た」。これが一つ。
②あとは、日芸などにもいっぱい映画を撮る学生がいて、みんなで8ミリを撮っていた。つまり立教だけではなかった。立教ではある意味、黒沢氏が牽引した部分がある。蓮實重彦氏の授業にマメに通うなど・・・。
そういった所で当時の自主映画というと立教と言われるが、世代的にも多かったのも事実。あまり世代論を語りたくはないが、あの時代、さんざん上の世代から刺激をインプットされて、そのフラストレーションを発散したいという気持ちはどこかにあった。
時代的な背景は大きいが、確かに立教に多かったのも事実。

とにかく刺激をはげしく受けた。中学・高校の頃、安田講堂陥落の光景を見て、「自分も運動やるぞ」と思って入学したが、実際にはもう「焼け跡」の状態。特に立教は。自分たちにはもう一度、回りを動かすほどの知識や思想はなかった。ただ刺激はされていて「何かやりたい」という気持ちはあった。

ただ、当時の映画や音楽、演劇、本など、あらゆる表現は、ベトナム戦争を触媒にしていた。そこで、映画・演劇という選択がコースとしてあった。映画や演劇という表現の方に身を置いて、「未消化な政治的・社会的燃焼を果たしたい」という欲求があった。しかし、その欲求は果たせず、現在まで来てしまっているのが僕らだ、と先日も仲間と語り合ったという。

「ある飽和状態があったところに、何らかの触媒があったとしたら、立教に関して言えば、それは蓮實さんというより、むしろ黒沢ではないか。なぜなら卒業して、なお映画をやると言って続けていたのは黒沢だけ。黒沢はプロに行った。もちろん黒沢は蓮實さんのところへ通い、影響も受けたと思うので、影響は大きいとは思うが・・。黒沢はS.P.Pの中にも、サークル内サークルの『パロディアス・ユニティー』というのを作って、昼間から語っていた。それを黒沢が統率して、万田や塩田なども出た。ストイックな連中だった」(森さん)。
                                       以上

立教ヌーヴェルヴァーグについて・・・

2007-05-30 11:35:17 | Weblog
立教ヌーベルバーグについて」

1)立教ヌーベルバーグとは何か?(cf.ウィキペデア 他)
1980年前後に立教大学で活動した自主映画制作サークルの「パロディアス・ユニティー」のメンバーやその仲間、影響を受けた人々とその活動についていう。映画(テレビ)監督して、その後、日本映画に記憶を残す作品を発表する監督たちがその中にいる。

●立教ヌーベルバーグの監督たち
黒沢 清:「CURE」「カリスマ」「ドッペルゲンガー」他
万田邦敏:「宇宙貨物船レムナント」「UNLOVED」
森 達也:「A」「A2」
周防正行:「シコふんじゃった。」「ファンシーダンス」
      「Shall We ダンス?」
砂本 量:「恋と花火と観覧車」
・五十嵐匠:「ナンミンロード」「地雷を踏んだらサヨウナラ」
・冨樫 森:「ごめん」「星に願いを」
塩田明彦:「どこまでもいこう」「黄泉がえり」
小中和哉:「くまちゃん」「なぞの転校生」
・篠崎 誠:「忘れられぬ人々」「浅草キッドの『浅草キッド』」
青山真治:「チンピラ」「EUREKA(ユリイカ)」

●彼らは、元々、それぞれ個々人、大学入学前から映画少年だったりするのだが、共通するのは、彼らが当時立教大学の講師で、一般教養科目の「映画表現論」の講義を持っていた蓮實重彦の影響を受け、その講義を受講し、単なるサークル活動ではなく、一定の思想性、党派性を持った活動を行った。
日本大学芸術学部など映画製作者を育てるコースを持った大学ではなく、普通の大學である立教で、しかも、昭和30年代生まれという同時代にこれだけの監督たちが育つのは、注目に値する。
しかし、それぞれの監督としての作風は千差万別で、ウィキペデアなどによれば、「ゴダール風」(黒沢清)、「エリック・ロメール張り」(塩田明彦)、「小津安二郎への敬愛」(万田邦敏、周防正行)などあり、この運動が、作品の作風ではなく、相互に映画制作を助け合う(※監督に独立後も)などの同窓生として、友情ある活動で、本家ヌーヴェルヴァーグとの共通性があるといわれる。


2)蓮實 重彦(はすみ しげひこ)とは?(cf.ウィキペデア 他)

1936年4月29日で、東京都生まれの英語・フランス語のほかイタリア語も解するといわれる。一般的には「難解な映画評論をする人」「東大総長」という印象が強いが、フランス文学者・文芸評論家・小説家・編集者という顔も持つ。
父の蓮實重康は、京都大学教授などを務めた美術史家であり、兄弟(長男)の蓮実重臣は作曲家である。
(プロフィール)
1965年パリ大学大学院より博士号取得
1988より東京大学教養学部教授。
1997年より2001年まで東京大学総長。
1999年フランス政府「芸術文化勲章」を受賞。
(主な著書)
『反=日本語論』(筑摩書房、1977年、現在はちくま文庫)、
『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(朝日出版社、1978年、現在は河出文庫)、
『映画の神話学』(筑摩書房、1996年)、
『表層批評宣言』(筑摩書房、1979年、現在はちくま文庫)、
『映像の詩学』(筑摩書房、1979年、現在はちくま文庫)、
『映画 誘惑のエクリチュール』(筑摩書房、1990年、現在はちくま文庫)、
『監督 小津安二郎』(筑摩書房、1983年、現在はちくま文庫。※代表的著書
・・・・同書の仏訳はフランス映画批評家連盟文芸賞を受賞。他に韓国語訳あり)、
『映画はいかにして死ぬか』(フィルムアート社、1985年)、
『ハリウッド映画史講義』(筑摩書房、1993年)、
『映画狂人』シリーズ(河出書房新社、2000年~)、
『「知」的放蕩論序説』(河出書房新社、2002年)など多数。
また、編集誌に、『リュミエール』(筑摩書房、1985年~1988年)、
『ルプレザンタシオン』(筑摩書房、1991年~1993年)。

●蓮實が好意的な評論をしているのは、WEB上の情報だが、ジョン・フォード、ジャン・ルノワール、小津安二郎の三人を筆頭に、ハワード・ホークス、ラオール・ウォルシュ、山中貞雄、オーソン・ウェルズ、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、カール・テホ・ドライヤー、アッバス・キアロスタミ、クリント・イーストウッド、ジョン・カサヴェテス、マキノ雅弘、ジム・ジャームッシュ、エルンスト・ルビッチ、ダグラス・サーク、ロベルト・ロッセリーニ、ジャック・ベッケル、ロベール・ブレッソン、リチャード・フライシャー、トニー・スコット。
俳優は、意外なことにジョン・ウェイン、トム・クルーズ、山田五十鈴等といわれる。
アメリカ映画、特に1940年代までのハリウッド黄金時代に関し、「最高」と書いている。
中でも、「アメリカ50年代作家」(ニコラス・レイ、アンソニー・マン、ジョゼフ・ロージー、サミュエル・フラー等)と「73年の世代」テオ・アンゲロプロス、ヴィム・ヴェンダース、ダニエル・シュミット、ビクトル・エリセに関しては、『季刊リュミエール』誌で命名したほどである。

●映画批評では、映画史家としての功績が大きく、特に、映画の「歴史・記憶」に対する敬意を尊重し、独自な視点による映画史的な批評も重要な業績である。
以下、ウィキぺデアなどによれば、『ハリウッド映画史講義』における「50年代作家」の擁護、「B級映画」の成り立ちと意義、「ハリウッド撮影所システム崩壊」の経緯と位置付けや、『映画における男女の愛の表象について』(『映画狂人、神出鬼没』所収)におけるヘイズ・コードがハリウッド映画にもたらした表現方法の変化、あるいは『署名の変貌 - ソ連映画史再読のための一つの視角』(レンフィルム祭パンフレット所収)におけるサイレントからトーキーへの変貌の過程とその本質的な意味など、少なくとも日本において、初めて提示し明確化した映画史的な観点がある。
立教で行ったという講義は、このあたりのことを触れたものと思われる。

●東大総長としての蓮實は、「東京大学教養学部超域文化科学科表象文化論コース」の創設に奔走し、では映画批評・研究の領域における一大勢力に育っている。

3)「立教ヌーベルバーグ」の言葉の始まりは・・・。

調べた範囲では、「立教ヌーベルバーグ」と言う名称を公的に最初に使ったのは、産経新聞であり、「競う ライバル物語」という特集で「世界を翔ける日本映画の精鋭1~5」として、立教大学を卒業した若手の映画監督11人の監督を5日連続し掲載した。 その視点は、日本映画界が今、立教大学OBで目白押しなのは何故?(これは各監督たちを比較・検討したもので実に面白い。)
例えば、平成15年10月9日記事「世界を翔ける日本映画の精鋭④」に登場したのが、青山真治監督で、青山は1964年生まれで1984(昭和59)年に立教に入学。当時、立教大学には映画関係のサークルが4つあり、青山はそのうちの「映画研究会」に入部した。青山はそこで8mm映画を撮り、映画界に入った。

4)その他 エピソード

●不思議なことに、長年教えた東京大学では、教え子から映画監督は中田秀夫だけだが、映画批評・研究の領域においては四方田犬彦(明治学院大学教授・映画批評家)を筆頭に、松浦寿輝(東京大学教授・詩人)、野崎歓(東京大学教授・映画批評家)、堀潤之(関西大学専任講師・映画批評家)などを輩出している。
制作者ではなく、評論家を多く排出していることで、東大と私学・立教の違いを感じる。

●彼らが活動したサークルは、WEB上の記事を参考にすると、SPP(St Paul' Production=立教大学映画制作会)で、当時、立教には、4つの映画研究会があったが、そこは、映画を語り、研究・評論するクラブで、SPPは、立教の広告研究会に飽き足らないで退部した先輩たちで発足した映画制作同好会だった。

●蓮實重彦の授業は、一般教養の授業「映画表現論」で、専門科目でも、ゼミでもないことが注目に値する。
学生の中でも、黒沢清監督は5年間の在学中毎年とっていたというし、「チンピラ」の青山真治監督は「蓮實さんの授業があるから立教を受験した」といっていたらしく、当時から評判だったと推察される。