昨日のエントリで、試験の難易度と実務法曹としての資質について、企業法務戦士の雑感さんの
とのご意見を引用しました。しかし、この点は、本当はさらに発展して議論をすべきと思ったので、記しておきます。
「試験の難易度」と「実務法曹としての資質」の相関関係については、本来、2つの側面を分けて考えるべきだと思います。
1つ目は、「試験に合格したとしても、決して、その全員が実務法曹としては優秀なわけではない」という意味で相関関係を否定する場合です。もう1つは、「試験に不合格となる人たちは、実務法曹として必要な素養を欠いている」という意味で相関関係を肯定する場合です。この2つは相反するものではなく、同時に成り立ちうるものです。
前者の意味での相関関係の否定は、異論をみないと思われます。試験で測ることのできる素養は所詮、一部であって、試験で全てを測ろうとするのは無理があります。実務法曹に要求される素養は、試験で測ることのできる法的素養だけではなく、依頼者対応、事実の聴取、サービス精神その他様々です。試験を突破した人間が必ずしも実務家としては役に立たないということは当然、あり得るでしょう。医師でも教員でも会計士でも同じ問題を抱えていると思います。
これに対して、最高裁・法務省・司法試験管理委員会は、現行司法試験に関して、後者の意味での相関関係を肯定して、人数を絞ったものと思われます。ここでは、前者の意味の相関関係を否定しても、有意義な反論にはなりません。両立する話ですから、議論が全く噛み合いません。
したがって、企業法務戦士の雑感さんは、むしろ「試験に不合格となる人たちでも、実務法曹としては十分な能力を備えた者が多い」という意図で、後者の意味の相関関係も否定したのかもしれません。(ここは勝手な推測なので間違っているかもしれませんが。)仮にそうであれば、最高裁・法務省・司法試験管理委員会と企業法務戦士の雑感さんの間では、実務法曹としての必要な能力・素養について、見解の相違があるということになるでしょう。
この相違は、まず、実務法曹を眺める立場の違いによるのかもしれません。弁護士の法廷における能力と、依頼者に対応する能力は、同一のものではないからです。片方のみが得意で、もう片方が苦手な弁護士は多数います。しかし、依頼者側からみたといっても、法廷における能力が不十分であれば、それは訴訟に関する有資格者として十分とは言い難いですし、法廷における能力に関しては最高裁・法務省・司法試験管理委員会の判断の方が一日の長があると思います。
あるいは、最高裁・法務省・司法試験管理委員会と企業法務戦士の雑感さんでは、よって立つ弁護士観が異なるということでしょうか。企業法務戦士の雑感さんは、そもそも、法廷における能力にそれほど重きを置かないのかもしれません。法廷に立たない弁護士像を思い浮かべたときには、能力の有無に関して意見に不一致が生じたとしても不思議はありません。とりわけ、企業法務を取り扱う大手法律事務所では、一度も裁判所に行ったことのない弁護士も相当数います。ましてや、かつて語られていたような司法改革の理念を実現すべく、企業、地方自治体、官庁、NPOなどで活躍する将来の弁護士像を重視すれば、法廷に立たない弁護士を念頭に置いて制度を考えたとしても、決しておかしな話ではないはずです。
このように、資質あるものを選抜すべきと言った場合にも、なにをもって資質というべきかについては大きな食い違いがあるような気がします。最近の合格者数をめぐる論争には、こういった前提となる部分での議論が欠けているように感じます。
【「試験の難易度」と「実務法曹としての資質」との間に何らかの相関関係がある、というのはただの都市伝説に過ぎない】
とのご意見を引用しました。しかし、この点は、本当はさらに発展して議論をすべきと思ったので、記しておきます。
「試験の難易度」と「実務法曹としての資質」の相関関係については、本来、2つの側面を分けて考えるべきだと思います。
1つ目は、「試験に合格したとしても、決して、その全員が実務法曹としては優秀なわけではない」という意味で相関関係を否定する場合です。もう1つは、「試験に不合格となる人たちは、実務法曹として必要な素養を欠いている」という意味で相関関係を肯定する場合です。この2つは相反するものではなく、同時に成り立ちうるものです。
前者の意味での相関関係の否定は、異論をみないと思われます。試験で測ることのできる素養は所詮、一部であって、試験で全てを測ろうとするのは無理があります。実務法曹に要求される素養は、試験で測ることのできる法的素養だけではなく、依頼者対応、事実の聴取、サービス精神その他様々です。試験を突破した人間が必ずしも実務家としては役に立たないということは当然、あり得るでしょう。医師でも教員でも会計士でも同じ問題を抱えていると思います。
これに対して、最高裁・法務省・司法試験管理委員会は、現行司法試験に関して、後者の意味での相関関係を肯定して、人数を絞ったものと思われます。ここでは、前者の意味の相関関係を否定しても、有意義な反論にはなりません。両立する話ですから、議論が全く噛み合いません。
したがって、企業法務戦士の雑感さんは、むしろ「試験に不合格となる人たちでも、実務法曹としては十分な能力を備えた者が多い」という意図で、後者の意味の相関関係も否定したのかもしれません。(ここは勝手な推測なので間違っているかもしれませんが。)仮にそうであれば、最高裁・法務省・司法試験管理委員会と企業法務戦士の雑感さんの間では、実務法曹としての必要な能力・素養について、見解の相違があるということになるでしょう。
この相違は、まず、実務法曹を眺める立場の違いによるのかもしれません。弁護士の法廷における能力と、依頼者に対応する能力は、同一のものではないからです。片方のみが得意で、もう片方が苦手な弁護士は多数います。しかし、依頼者側からみたといっても、法廷における能力が不十分であれば、それは訴訟に関する有資格者として十分とは言い難いですし、法廷における能力に関しては最高裁・法務省・司法試験管理委員会の判断の方が一日の長があると思います。
あるいは、最高裁・法務省・司法試験管理委員会と企業法務戦士の雑感さんでは、よって立つ弁護士観が異なるということでしょうか。企業法務戦士の雑感さんは、そもそも、法廷における能力にそれほど重きを置かないのかもしれません。法廷に立たない弁護士像を思い浮かべたときには、能力の有無に関して意見に不一致が生じたとしても不思議はありません。とりわけ、企業法務を取り扱う大手法律事務所では、一度も裁判所に行ったことのない弁護士も相当数います。ましてや、かつて語られていたような司法改革の理念を実現すべく、企業、地方自治体、官庁、NPOなどで活躍する将来の弁護士像を重視すれば、法廷に立たない弁護士を念頭に置いて制度を考えたとしても、決しておかしな話ではないはずです。
このように、資質あるものを選抜すべきと言った場合にも、なにをもって資質というべきかについては大きな食い違いがあるような気がします。最近の合格者数をめぐる論争には、こういった前提となる部分での議論が欠けているように感じます。
私は、企業法務戦士の雑感さんの【「試験の難易度」と「実務法曹としての資質」との間に何らかの相関関係がある、というのはただの都市伝説に過ぎない】との主張に、諸手を挙げて賛成していました。確かに、分析するとご指摘のように考えられますね。
しかし、ブログ主さんの「2つ目の相関関係」に関して、私としてはほとんど直感的に、「試験に不合格となる人たちは、実務法曹として必要な素養を欠いている」という命題は間違いだと結論を出せるんですね。
学歴がほとんど無い多くの人が社会で有意義な仕事をしているという事実、司法試験よりはるかに簡単な試験で医者が生まれているという事実を考えると、法曹の場合だけ非常に難しい試験が必要だとは思えないのです。
かつて司法試験は科挙に喩えられました。「科挙による選別のドグマ」が常識だった中国で、「科挙に合格しても国家に役立つ人材とは必ずしもいえない。しかし、科挙に不合格となる人たちは、国家を支える人材として必要な素養を欠いているかには争いがある」と言えば、先進的な思想だったかもしれません。
しかし、今の常識から見れば、「なにを寝ぼけたことを! 科挙に受からなくても、優秀な政治家、官僚になれるに決まっているだろう」と言われそうです。
今から20年もたったころの「常識」からみれば、「難関司法試験に不合格となる人たちは、実務法曹として必要な素養を欠いている」などという主張自体、笑い話になっていそうな気がするのです。
長々と失礼しました。新規開店したお店に送る花輪のつもりで(なんのこっちゃ)コメントさせていただきました。
今後とも楽しみにしております。
コメント、ありがとうございました。非常に説得力のあるご意見だと思います。とすると、裁判所や法務省の意見を額面通り受け取ってはならない、ということかもしれませんね。この点については、次のエントリで少々発展させて検討しようと思います。
また、ご意見いただければ幸いです。
管理人