生死を分けたあのとき 4人の被災者が証言。東日本大震災
相川哲弥ブログ。 http://blog.goo.ne.jp/jp280 2012年3月11日
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≪静かな祈り≫東日本大震災で亡くなった友人をしのんで、仙台市若林区荒浜の慰霊碑を訪れた男女。それぞれ北海道と沖縄から来たという2人は雪が降りしきる中、静かに祈りをささげていた=10日、仙台市若林区(早坂洋祐撮影)(写真:産経新聞)
東日本大震災当日、被災地では多くの人々の生死が交錯した。防災無線で避難を呼び掛け続けた女性は津波の犠牲となり、家族や友人を助けるために現場に残って命を落とす人もいた。「生きるとはどういうことか」。4人の被災者に、1年前の命の記録を振り返ってもらった。
■電線たぐり がれきを登る 岩手県大槌町 臼沢良一さん(63)
「生かされた、と思っている。今は自分にできることをやるしかない」。岩手県大槌町の臼沢良一さん(63)の壮絶な体験は、人生観を大きく変えた。
津波が押し寄せる直前まで、妻の洋子さん(62)と地震でめちゃくちゃになった室内を片付けていた。自宅は海の近くだったが、「ここまで来るはずはない」。血相を変えた長男らが自宅に飛び込んできても、危機感はなかった。
異変に気づいたのは、長男にせかされるように妻が避難するのを見送った直後だった。2階建ての家々が倒れながらいっせいに押し寄せてくる。「津波だ!」。2階に駆け上がり、愛犬タロを抱えて逃げようとした瞬間、海水が玄関を突き破り、階段の下から噴き上がってきた。屋根に逃げると、海水が渦を巻いていた。
「助けて」という叫び声に見渡すと、津波で家屋が倒壊し、屋根に避難していた人が海に落ちていくところだった。何人もの人が波にのまれていた。風上でプロパンガスが爆発し、足元の屋根に火が付いた。
「火がつかないところに逃げよう」。愛犬を抱え、電線をたぐるようにしてがれきの山を登り、海水に漬かりながら近くの住宅2階に移った。消防士に誘導され、やっとの思いで陸上へたどり着いた。
「生きるってどういうことか」。震災後、臼沢さんの価値観は一変した。形あるものを一瞬で失った苦しみの中、励まし合う人々の姿に「『雨ニモマケズ』とうたった宮沢賢治の思いがようやくわかった気がする」とかみしめた。
洋子さんと長男、愛犬も無事だった臼沢さんは津波を忘れてはいけないとの思いで、パソコンに自宅周辺の航空写真や津波の高さを再現した画像を保存。機会があるたび当時の様子を説明している。
「みながともに生きられるまちにしたい。できることはわずかだが、その原点に立ち続けたい」(渡辺陽子)
■愛車、再び回転「息できた」 宮城県名取市 小泉隆さん(53)
車の前傾が奇跡を起こしたのかもしれない。津波は背後からきた。記憶は午後4時前後、仙台市と宮城県名取市を分ける名取川に架かる閖上(ゆりあげ)大橋の北約300メートル、内陸に向かう農道の入り口だった。下り坂にいた車の下に潜り込んだ津波は購入1年足らずの愛車を浮かせ、一気に運び去った。
「サーフィンしている感じ…」。名取市の会社員、小泉隆さん(53)は流されながらそう思った。目前にいた2台は視界から消えた。松林をなぎ倒した津波に押し潰された感覚だ。回転を続けた愛車は逆さまになり、窓が割れて浸水が始まった。絶望感が覆いかぶさってきた。
「天井と座席のヘッドレストに頭が挟まれて動けない。首ぐらいまで水がきて息を止めていた。死ぬと思いました」。しかし、何かの拍子に愛車が回転、呼吸が戻ると助手席の窓が割れた。目をこらすと農家の軒先に横付けに止まった。
農家に流れ着いたがれきに乗り上げていた。助手席から屋根に脱出。ポリタンクを浮きに50メートル先の岸を目指して泳いだが、低体温症の体はあと10メートルのところで限界に達した。足が動かず漂流しているところを消防団員に救出された。
地震後、「一刻も早く帰りたい」と警察官の内陸への誘導をかわし、ラジオのつけ忘れで津波警報発令を知らなかった。農道に入ったのも閖上大橋の渋滞にはまったためで、偶然が重なった。
「神様があんたはまだ生きなさいと車をひっくり返してくれた」
震災の翌日、名取川沿いを歩いて自宅に向かう表情は青白く暗かった。「妻の職場が沿岸近く…。連絡がつかない」。気遣っていた好枝さん(51)も屋上に避難して無事。多賀城市の勤務先も復旧、津波で失った同車種のハイブリッド車を購入してあの道を通勤している。「二重ローンは痛いけど…」と話す表情に明るさが戻っていた。(石田征広)
■段差50センチ 妻流された 仙台市 大友文男さん(77)
運命を分けたのは、わずか50センチの高低差だった。地震で壊れた自宅屋根の修繕を終え、1階居間の片付けに入ろうとした仙台市若林区沿岸の無職、大友文男さん(77)は地平線いっぱいに広がった黒い津波が100メートル先の市道を越えるのを見た。
妻のサチ子さん=当時(76)=は居間より50センチほど低い庭先で、落ちた白米をバケツに戻していた。「コメどころでないから、すぐ上がれ!」と叫ぶと、サチ子さんは「もう少しで終わっから」。「津波はコメなんか待ってくんねえど!」。返事はなかった。
間もなく、大友さんを津波が膝丈まで襲った。「ばんつぁん(ばあさん)!」。返事はない。台所に行った。いない。寝室。いない。津波は何度も押し寄せる。自分自身も首先まで浸った。
遺体が見つかったのは1週間ほど後だった。顔は水でふくれて判別できなかった。浸水したタンスからはへそくり200万円が見つかった。「白米拾う必要なかったんでねか」
連れ添って50年以上の同い年。1カ月遅れて生まれた大友さんは昨年11月の誕生日、初めてサチ子さんより1つ年上になった。いまは仮設住宅に1人住まい。車は流され、趣味の釣りに行くこともなくなった。
部屋に座って思い出すのは、昨年行くはずだったハワイへの最初で最後の海外旅行だ。「へそくり、ハワイで使うつもりだったんだか」。サチ子さんは仏壇でニッコリほほえむだけだった。(荒船清太)
■屋上 下半身まで津波迫る 宮城県南三陸町 菅原恵さん(46)
防潮堤のわずか数十メートルの先には志津川湾を望む、宮城県南三陸町の町営松原住宅。保育士の菅原恵さん(46)は4階建ての1階に、夫の昌孝さん(51)、長男の大(だい)君(4)と住んでいた。
あの時、親子3人はたまたま自宅にいた。激しく、長い揺れがおさまった後、手を伸ばせば届きそうな場所にある海の異常な引き波が、津波の襲来を予告した。「山や高台に逃げるのは間に合わないかも」。渋滞や道路の陥没、橋の崩落が頭をよぎる。大君を背負って、町指定の津波避難ビルでもある住宅の屋上に駆け込んだ。
避難した屋上には住民や近くの高校生ら40人以上がいた。屋上に上ってしばらくすると、海底がめくれ、「ドッドッド、という音とともに防潮堤から水があふれてきた」。車も流れている。身構えて海をみると、壁のような黒い波が自分たちの眼前に迫っていた。
屋上の柵を必死につかみ、足に力を込めた。背中からは大君の命の重みが伝わってきた。いまいましい波は、高さ15メートルの屋上に逃げた大人のお尻の高さで止まった。だが、それまで避難を訴えていた町の防災庁舎から流れる防災無線は、津波の襲来とともに「ブチッと切れた」。亡くなった町職員、遠藤未希さん=当時(24)=が最後までマイクを握っていた無線だ。
町は壊滅し、多くの友人を失った。車で高台へ逃げた入居者もいた。菅原さんは仮設住宅で生活を続けるが、大君はサイレンを聞くといまだに「怖い、怖い」と言ってくる。「あと1メートル波が高ければ、建物が倒壊したら、生きていない。屋上への避難も、ただ運が良かったという思い」。つらく、怖い思い出は二度と味わいたくない。だからこそ、この体験を伝えなければと思っている。(是永桂一)
9節。資料出典。
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産経新聞 「生死を分けたあのとき 4人の被災者が証言」 2012年3月11日
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相川哲弥ブログ。 http://blog.goo.ne.jp/jp280 2012年3月11日
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≪静かな祈り≫東日本大震災で亡くなった友人をしのんで、仙台市若林区荒浜の慰霊碑を訪れた男女。それぞれ北海道と沖縄から来たという2人は雪が降りしきる中、静かに祈りをささげていた=10日、仙台市若林区(早坂洋祐撮影)(写真:産経新聞)
東日本大震災当日、被災地では多くの人々の生死が交錯した。防災無線で避難を呼び掛け続けた女性は津波の犠牲となり、家族や友人を助けるために現場に残って命を落とす人もいた。「生きるとはどういうことか」。4人の被災者に、1年前の命の記録を振り返ってもらった。
■電線たぐり がれきを登る 岩手県大槌町 臼沢良一さん(63)
「生かされた、と思っている。今は自分にできることをやるしかない」。岩手県大槌町の臼沢良一さん(63)の壮絶な体験は、人生観を大きく変えた。
津波が押し寄せる直前まで、妻の洋子さん(62)と地震でめちゃくちゃになった室内を片付けていた。自宅は海の近くだったが、「ここまで来るはずはない」。血相を変えた長男らが自宅に飛び込んできても、危機感はなかった。
異変に気づいたのは、長男にせかされるように妻が避難するのを見送った直後だった。2階建ての家々が倒れながらいっせいに押し寄せてくる。「津波だ!」。2階に駆け上がり、愛犬タロを抱えて逃げようとした瞬間、海水が玄関を突き破り、階段の下から噴き上がってきた。屋根に逃げると、海水が渦を巻いていた。
「助けて」という叫び声に見渡すと、津波で家屋が倒壊し、屋根に避難していた人が海に落ちていくところだった。何人もの人が波にのまれていた。風上でプロパンガスが爆発し、足元の屋根に火が付いた。
「火がつかないところに逃げよう」。愛犬を抱え、電線をたぐるようにしてがれきの山を登り、海水に漬かりながら近くの住宅2階に移った。消防士に誘導され、やっとの思いで陸上へたどり着いた。
「生きるってどういうことか」。震災後、臼沢さんの価値観は一変した。形あるものを一瞬で失った苦しみの中、励まし合う人々の姿に「『雨ニモマケズ』とうたった宮沢賢治の思いがようやくわかった気がする」とかみしめた。
洋子さんと長男、愛犬も無事だった臼沢さんは津波を忘れてはいけないとの思いで、パソコンに自宅周辺の航空写真や津波の高さを再現した画像を保存。機会があるたび当時の様子を説明している。
「みながともに生きられるまちにしたい。できることはわずかだが、その原点に立ち続けたい」(渡辺陽子)
■愛車、再び回転「息できた」 宮城県名取市 小泉隆さん(53)
車の前傾が奇跡を起こしたのかもしれない。津波は背後からきた。記憶は午後4時前後、仙台市と宮城県名取市を分ける名取川に架かる閖上(ゆりあげ)大橋の北約300メートル、内陸に向かう農道の入り口だった。下り坂にいた車の下に潜り込んだ津波は購入1年足らずの愛車を浮かせ、一気に運び去った。
「サーフィンしている感じ…」。名取市の会社員、小泉隆さん(53)は流されながらそう思った。目前にいた2台は視界から消えた。松林をなぎ倒した津波に押し潰された感覚だ。回転を続けた愛車は逆さまになり、窓が割れて浸水が始まった。絶望感が覆いかぶさってきた。
「天井と座席のヘッドレストに頭が挟まれて動けない。首ぐらいまで水がきて息を止めていた。死ぬと思いました」。しかし、何かの拍子に愛車が回転、呼吸が戻ると助手席の窓が割れた。目をこらすと農家の軒先に横付けに止まった。
農家に流れ着いたがれきに乗り上げていた。助手席から屋根に脱出。ポリタンクを浮きに50メートル先の岸を目指して泳いだが、低体温症の体はあと10メートルのところで限界に達した。足が動かず漂流しているところを消防団員に救出された。
地震後、「一刻も早く帰りたい」と警察官の内陸への誘導をかわし、ラジオのつけ忘れで津波警報発令を知らなかった。農道に入ったのも閖上大橋の渋滞にはまったためで、偶然が重なった。
「神様があんたはまだ生きなさいと車をひっくり返してくれた」
震災の翌日、名取川沿いを歩いて自宅に向かう表情は青白く暗かった。「妻の職場が沿岸近く…。連絡がつかない」。気遣っていた好枝さん(51)も屋上に避難して無事。多賀城市の勤務先も復旧、津波で失った同車種のハイブリッド車を購入してあの道を通勤している。「二重ローンは痛いけど…」と話す表情に明るさが戻っていた。(石田征広)
■段差50センチ 妻流された 仙台市 大友文男さん(77)
運命を分けたのは、わずか50センチの高低差だった。地震で壊れた自宅屋根の修繕を終え、1階居間の片付けに入ろうとした仙台市若林区沿岸の無職、大友文男さん(77)は地平線いっぱいに広がった黒い津波が100メートル先の市道を越えるのを見た。
妻のサチ子さん=当時(76)=は居間より50センチほど低い庭先で、落ちた白米をバケツに戻していた。「コメどころでないから、すぐ上がれ!」と叫ぶと、サチ子さんは「もう少しで終わっから」。「津波はコメなんか待ってくんねえど!」。返事はなかった。
間もなく、大友さんを津波が膝丈まで襲った。「ばんつぁん(ばあさん)!」。返事はない。台所に行った。いない。寝室。いない。津波は何度も押し寄せる。自分自身も首先まで浸った。
遺体が見つかったのは1週間ほど後だった。顔は水でふくれて判別できなかった。浸水したタンスからはへそくり200万円が見つかった。「白米拾う必要なかったんでねか」
連れ添って50年以上の同い年。1カ月遅れて生まれた大友さんは昨年11月の誕生日、初めてサチ子さんより1つ年上になった。いまは仮設住宅に1人住まい。車は流され、趣味の釣りに行くこともなくなった。
部屋に座って思い出すのは、昨年行くはずだったハワイへの最初で最後の海外旅行だ。「へそくり、ハワイで使うつもりだったんだか」。サチ子さんは仏壇でニッコリほほえむだけだった。(荒船清太)
■屋上 下半身まで津波迫る 宮城県南三陸町 菅原恵さん(46)
防潮堤のわずか数十メートルの先には志津川湾を望む、宮城県南三陸町の町営松原住宅。保育士の菅原恵さん(46)は4階建ての1階に、夫の昌孝さん(51)、長男の大(だい)君(4)と住んでいた。
あの時、親子3人はたまたま自宅にいた。激しく、長い揺れがおさまった後、手を伸ばせば届きそうな場所にある海の異常な引き波が、津波の襲来を予告した。「山や高台に逃げるのは間に合わないかも」。渋滞や道路の陥没、橋の崩落が頭をよぎる。大君を背負って、町指定の津波避難ビルでもある住宅の屋上に駆け込んだ。
避難した屋上には住民や近くの高校生ら40人以上がいた。屋上に上ってしばらくすると、海底がめくれ、「ドッドッド、という音とともに防潮堤から水があふれてきた」。車も流れている。身構えて海をみると、壁のような黒い波が自分たちの眼前に迫っていた。
屋上の柵を必死につかみ、足に力を込めた。背中からは大君の命の重みが伝わってきた。いまいましい波は、高さ15メートルの屋上に逃げた大人のお尻の高さで止まった。だが、それまで避難を訴えていた町の防災庁舎から流れる防災無線は、津波の襲来とともに「ブチッと切れた」。亡くなった町職員、遠藤未希さん=当時(24)=が最後までマイクを握っていた無線だ。
町は壊滅し、多くの友人を失った。車で高台へ逃げた入居者もいた。菅原さんは仮設住宅で生活を続けるが、大君はサイレンを聞くといまだに「怖い、怖い」と言ってくる。「あと1メートル波が高ければ、建物が倒壊したら、生きていない。屋上への避難も、ただ運が良かったという思い」。つらく、怖い思い出は二度と味わいたくない。だからこそ、この体験を伝えなければと思っている。(是永桂一)
9節。資料出典。
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産経新聞 「生死を分けたあのとき 4人の被災者が証言」 2012年3月11日
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