後白河法皇 画像お借りしました
鳥獣戯画の話をしました。
そして、明恵上人のことを考えました。実は明恵上人は和歌山の武士の家に生まれました。
幼くして神護寺に入りました。そのときの神護寺は文覚が復興を行っていました。文覚ももとは武士の出です。
善妙寺という尼寺を作りましたが、その女性たちは武士の奥方たちでした。
つまり僧侶の文化のように見えますが、実体は武士の文化と言ってよいのではないかと思います。そういえば西行も西面の武士、つまり宮廷勤めの武士でした。
それはどこか源氏物語絵巻と鳥獣戯画の違いを示しているようにも思います。
宮廷人同士がわずかな心の行き交いをあらわそうとするのに対して、外の世界、いわば俗の要素が加わっていると思われます。
平安時代から鎌倉時代の移行はこうしたところにあらわれている気がしました。
もちろん武士というだけでなく、後白河法皇という朝廷内、いやその頂点の人物にも朝廷の外の文化を見る目があったとも言えます。
遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとやうまれけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそゆるがるれ「梁塵秘抄」
どうして後白河法皇はこのような歌を集めたのでしょう?
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